仲間の体験談
私は「仕事依存症」と診断された訳ではない。今の主治医が入力した PC の画面が見えてしまい「こだわり…親、仕事、体重。 ASD?」と書かれていた。ASD(自閉スペクトラム症)特徴のこだわりで「仕事」と診たてられているのか。又は、この医師は「仕事依存症」や依存症に詳しくなくて「こだわり」のレベルにしたのかもしれない。
診断が付くか?それよりも、私は自覚してしまった。「私は仕事に囚われていて、仕事量や活動量が多量になる事に、無力であり、思い通りに生きていけなくなった」のだ。
数年前…仕事・職場の人間関係と終わらない業務で詰んだ。うつ病と適応障害、ASD・発達障害との事。急性期を過ぎると、生活費に困ってきていた。が、当時の主治医の言う事を 聞かず、実家に戻る事にした。住む所・食事、仕事もツテで用意してくれると両親は迎える 条件。両親との相性は悪いが、機能不全家族の自助グループでも学んできたし、何とかなる と思っていた。主治医に地元の病院への紹介状を書いてもらい、お礼を伝え、街を出た。
仕事は上司にはうつ病を伝え、短時間パートで始めた。しかし家の居心地に耐えられず、 1 年 4 カ月で実家を出た。自助で学んできた年月以上に両親は頑なになっていて、両親はそ れぞれの態度で私の人権を脅かしてきた。両親は私を養生させるより蝕んだのだった。
念願の一人暮らしに戻った。仕事もある。順調だ。色々な意味で昭和にタイムスリップし たような職場で、やり甲斐に溢れていた。私は仕事に励み、ただの短時間パートなのに、頼まれもしないのに意見した。改善され喜ばれる一方で、別方面から疎まれてきた。何故か別の課の課長に怒鳴られた。※うちの課長が叱れと仕向けた事と、後に知るが
翌週月曜、体調不良で早退。火曜内科へ。胃腸炎 10 日間の診断書をもらい、会社へ電話し寝込んだ。次の週、今の主治医にかかった。「会社はしばらく休みましょう」と言われてしまった。半年の休職。自我の暴走は Dr.ストップで止まる。自宅療養というより自宅謹慎 となった感覚。完全に調子に乗っていた。主治医にはこうなると分かっていたのか。
以前通っていた WA を思い出した。運良くオンラインミーティングがあり参加し始めた。 はじめのうつ病の時も WA を離れていた。やらかした事を都度話していった。仲間の提案で WA のステップをはじめた。3 カ月で中断となった。スポンサーを権威者にしたし、問いの焦点がずれた(AC の内容へ等)分かち合いになっていたのだ。回復への本気の覚悟は何だったのか。何度も暴走は…このステップワークも暴走となり、止められてしまう。
ついに主治医にお願いした。「以前、初診の頃?働けなくなっても、障害者で行かれる所もあるし、とか先生が言っていたかと…私、障害者になった方がいいでしょうか」すんなり
事は運び、晴れて障がい者になれた。健常者でない自分になり、抑止力になると思った。会社に伝え、さらに休職期間の延長も伝えた。
年が変わって、母から電話が来た。「父さんがあそこの医者はヤブ医者や、医者を変えろ、 あいつはうちでみたる(養う)」との事。1 年以上経っても復職できない私に、医師へ怒りをぶちまけるクレーマー化した父、母も同調していた。実家に連れ戻されたら、二度と太陽も月もみられないと思った。恐怖しかなかった。カウンセラーとケースワーカー(CW)が対応 してくれて、私は守られた。この件で徐々に両親との距離を取る気になった。親離れ→手放 すに至るのに「諦め」の工程が必要だった。そのまま、会社規定の休職期間満了に合わせ、退職した。親の顔に泥をぬったが、親が自分で顔を洗えばいいと思った。
ハローワークの障害者窓口へ行った。障がい者枠と A 型作業所というのがあった。主治医に相談してB 型にした。CW から説明を受け、3 件見学して、4件目の施設に決めた。B 型作業所は福祉の管轄だ。最初はカウンセラーも同席し、市役所と福祉機関から担当者と施 設スタッフとでモニタリングをした。短期目標というのがあり「日常生活の家事が出来て、通所日に通所ができる」と立ててもらった。午後からの半日を週2 回。そこからはじめ、現在丸2 年になる。1 年経った頃位で「通所量を増やしたい」と希望したら「それはあなたが 決める事ではない」と主治医にピシャリと言われた…そうだ、私は普通の人のようには働けなくなっていたのだった。
私は入院歴無し、逮捕歴無し。他の物質依存や行動嗜癖の中間施設等に入った事も無い。 むしろ羨ましい。私は自宅療養しながら B 型に通い、ミーティングに参加し、今日一日を重ねている。寝食を共にする仲間はいないが、一人ではない。仲間がいるし、市・福祉と医療 に見守られているし、必要なら助けを求められる。暮らしは自由度が高く楽しい反面危険と 心得てWA 書籍を読む。このまま作業所を卒業できないかもしれない。または障害者枠等に就く機会が来るかもしれない。ワクワクする。でも本当は社会復帰したくはない。もう一生分働いてきたし、怖い。最初の一杯と思えるから。私にとって社会復帰は回復ではない。私は何者でもないし、何者かにならなければいけない訳でもない。回復途上で既に私である。
終わりに、WA を日本に伝えてくれた仲間、共に歩いてくれる仲間に感謝します。 私はこのイベントで WA に繋がった。歴代の実行委員会に感謝します。 (ワーカホリックス)アノニマス