――義人さんで17代なんですよね
菅野 えっとね、途中いろんなことがあって、代は引き継いだけれども、
北海道に行ってしまったとかいう人たちを除くと、わたしで15代。
実際に飯舘でまっとうした人はね。
やっぱりね、昔はいろんなことがあるんですよ、北海道の開拓民で行ったりとか。
――じゃあ、いま息子さんが北海道へ行っているというのも、その繋がりで・・・?
菅野 いや、息子はね、母校との関係だと思うんです。母校の友達との関係があったり
知り合いとの関係があったり。その点で向こうでの暮らしをある程度知ってると。
わたしらにはね、未知の世界ですが、若い人にとってみればいろいろと可能性が
あるというんでしょうかね。
明治38年頃開拓民で渡った、わたしの先祖になりますが、その末裔が実際
札幌の方とかにいるんです。でもその人たちは息子らとは面識はないですから。
札幌に行けということで住所を教えたりもしてるんですが、
ちょうど会うことができなくて、その繋がりはいまのところないですね。
これ(仮住まい)はわたしの高校の同級生の実家なんです。
おじいさんが亡くなって空いてるっていうことで。
わたしらこうやって避難しているうちに息子夫婦に赤ちゃんが生まれたということで、
こんなふうにばらばらにならざるを得なかったんですが、まあ無事子どももできて、
次男坊も結婚式を挙げたり末の娘も子どもができたりして。
こうやって、うちんとこに入ったらいいべや、なんて声をかけてくれる同級生も
いたりして、そういう点では避難してる中では非常に恵まれてるなあって、
つくづく思うときがあるんです。
隣近所の人たちも非常にいい人たちで、たまにわたしら仕事を手伝ったり
地区の共同活動を一緒にやったりソフトボールの大会に出たりしてね、
地区の人たちからは、ハあ、もうここサいろハと、そんなこと言われたりね。
仮設の中ではからだを動かすことがないとか、
アパートに入った人たちは分断されたとかいう意識があるといいますが、
わたしらは向こう(飯舘村)との暮らしとそんなに変わらないような感じで
暮らすことができますから、そういう点ではありがたいと思ってます。
子どもたちもそれぞれいろんな事情を抱えながらも少しずつ前に行ってるようですし。
息子らはね、ほんとは飯舘で一緒にやれれば、またそれはそれで違うものをね、
つくってきたんだべなあとは思いますが、なんせああいうふうに、
牛を飼ったり農業をやることにこだわりをね持ってますから、それはそれで
すぐこっちで再開ってわけにはいかないにしても、まあこれはね、
自分なりに考えながらやってもらうしかないわけだし。
ですから「一代とばし」って話はありますけどね、「とぶ」のもこれは致し方ないなと、
自分ではね思ってますけどね。
――こういった事態に陥ったときに、最初に思ったのがタイムカプセルとか、
SFの話だと例えば地球が戦争とか公害とかで住めなくなったときに、
じゃあ別な星に行こうと、それも何光年も離れているので1代じゃ行けない、
何代も世代を重ねて移っていって、そこで新しい人類として生活していく。
そこでまた長い時間が経って地球が元の状態に戻ったときに、
やっぱり自分たちのふるさとに帰りたいみたいな。
そのときはもう何世代も重ねているから、もともと地球がどんな星だったかなんて
知らないんだけど、やっぱり自分たちにとって地球がふるさとだという
意識があって、元に戻ってるようだから帰りたいとなったときに、また何世代も
重ねて戻ってくるっていう、そういうのもありじゃないかと思ったんですよ。
まあ、これは実際に被害に遭った人たちにとってみれば、とんでもないと思われる
話かもしれないけど、でもそれはもう避けようがない事態になっちゃってるんで。
そういうふうなことを思っているときにちょうど東京(ふくしま再生の会報告会)で
「一代とばし」ということばを聞いて、まさにこれだと。
菅野 そうですね。ご存じのように国の方では
もう終結を考えてますよね。終結する方法をね。
わたしらも村を通して国と議論をするときもあるんですが、
避難見込み年数を決めて、除染を1回やって、
賠償も避難見込み年数に合わせて設定をして、
そしてあとは戻って再開しなさい、できたものは検査をして異常なければ
売りなさい、もし検査で引っかかったものは東京電力に賠償してもらいなさい、
ってもうハあ、これは国が筋書きを書いているわけですよね。もう書いてるんです。
それは例えば向こう3年であったり、4年であったり5年であったり。
場合によっては高線量の所はもう少し延びるときには補償賠償を
1年ずつ追加するよ、みたいな話で。
だからわたしらにしてみると、例えば、じゃあ飯舘村を将来担っていく
若い人たちが、じゃあその3年や5年ていうスパンでものごとを
考えられるのかつったら、わたし、そうではないと思うんですよね。
場合によっては10年ていう年数かもしれないし、場合によっては
20年ていう年数、あるいはそれ以上になるかもしれない。だからその
長いスパンでのものごとの考え方が、責任を持つと言った国にない。
要するに除染計画も向こう2年のみで、そこから先はまた別だという話をね、
国はしてる。ですからもう、あと4~5年の間にハあ、この災害を終結しましょう、
というものの言い方をしてる。
そこに住んでる人間にとってみれば、そんなに、4~5年の間に解決できるような
ことではない、むしろそれでは解決できない問題がいっぱい出てきてると。
そのへんをね、わたしらの言う「一代とばし」っていうことまで考えて
対応してもらわないとダメだと、いうふうにわたしは考えてるんですけどもね。
それはそれで、わたしらは、とにかくなんとかして早く戻りながら、
環境の整備のためにね、力を尽くそうとは考えてますよ。
だけど若い人たちがそこに居住して子どもを育てて、生業を継いで
やっていくというわけにはいきませんから、そのへんの時間的なね、
なんて言うか視点というのは、いまのこの災害をなんとかしよう
復興しようという人には、いまそういう視点というのは行政的には持っていない。
それをほんとは発信していくのは、わたしたちそこに住んでた人間だし、
飯舘村なんだけども、ご存じのように、とにかく国はいろんな措置を決めて、
いろんな復興基金のようなお金を用意して、そしてレールに乗せようと
してますからね。その国のメニューに合わないものについては、
自前の資金でやらなくちゃいけない。
自前の資金ていうのは自治体にとってみれば、税金もなかなか上がんない、
それこそ持ってる浄財だってそんな多くない、
国からくるお金によってなんとか復興を成し遂げないと、
いろんな事業を起こせないという一種のジレンマがあるわけですよね。
浄財がもっと多いんであれば、国からくるお金に自分たちの財源を足して
計画も幅広くやろう、あるいは村民が要求していることを直接的に引き受けて
やろうということもできるんですが、残念なことにそれができない。
そうすると国の計画に乗らざるを得ない、わたしらから見ればそれは片手落ちだべと、
もっと別なことも必要だべというようなことを言わざるを得ない。
そのへんが、除染にしても復興計画にしても、非常に出てきてると。
ですから、わたしらなんていうことなく「一代とばし」っていう言葉を使って
しまったんですが、村としての「一代とばし」の発想を持ってかないと、
ほんとの復興はわたし、成し遂げられないと思うんですね。
現実的に、仮に国の復興のレールに乗ったとしたって、ご存じのように
福島県の中でも川内村は1年前に「帰村宣言」しました。
遠藤村長は、帰れる人から帰ろうっていうことで1年前に帰村宣言をしてね、
役場を戻してね、やりましたけども、実際に戻ってる人は非常に少ないでしょお。
それは、ある人の見方によれば、賠償もらってね働かなくても生活できるんだから
村に帰ってもういっかい自分の生活をしようと組み立てようという意欲が
ないんだっていうふうに批判する人もいますが、わたしはそれだけではなくて、
いままでの川内村での暮らし方ができないというふうに考えてる方々が
かなり多いと思うんですね。
わたしらも、じゃあ国が1回さらっと除染やったくらいで戻れるかというと、
山は除染の計画はないですし、それこそ自然の中でねえ、自然の水を利用して
生きてきた、そういう循環の中で生きてきた人間にとってみれば、
循環が断ち切られていますから、
だからなかなか戻っても、わたしたち戻ってどうやって生活するのっていう
質問が、いまでも住民懇談会では出てくる、それに対して、そりゃもう
いろいろ検討してますよ、バイオマスエネルギーをどうするだとか、
太陽光をやって売電してみんなで暮らそうとか、
そんなような計画はしてますけども、それはわたしたち住民にとってみれば、
確たるものにはまだ見えてないし、確たる計画でもないしね、
そのへんがわたし、やっぱり視点が欠け落ちてんでねえのかな・・・
わるくち言うようですが、国で計画立てる人たちは、やっぱり都会にいて、
都会の暮らしの中で、自分のささやかなマイホームを持って、基盤がそのエリアしか
考えられないんだろうと、地域の社会だったり自然だったりってまでね、
その考えを含めて農村の生活はあるんだっていう発想に立てないから、
だから住環境の除染だなんつったって、せいぜいうちの周りだけをやると、
じゃあ山はどうなの引き水はどうなの、ため池の水源池には底にはだいぶ
(放射能が)溜まってんでないの、用水堀の土の中にはセシウムがあるんでないの、
農地の除染しただけでは不十分でないのっていう意見が現場から出ている。
それに対しての対応は、まだ具体的にはない。
国は、飯舘村は今年(2012年)と来年の2年間で住環境と農地を除染します、
国は言ってきたわけだ。だから国の言うことを聞きなさいと。できるわけねえべ。
そしたら、双葉郡の方の自治体が、なかなか話が進まないんで、
向こうの人夫が余ってると。で飯舘村に毎日4200人の作業員を投入すると。
だからできるんだと。できるわけねえべってねえ。
雪が降ればまずできませんし、降った雪が完全に解けて乾いてくんのは、せいぜい
4月のねえ、わたしら農業やってると中旬から下旬がせいいっぱいですからねえ。
そっから始まってあの面積の住環境や農地だからねえ、あと1年でねえ。
2年というのは、今年と来年とっていう話ですから。だと(実質)あと1年しか残ってない。
除染の同意だってまだ十分に集めきれてない。という中で、できるわけない。
と、わたしら思うんですがね、国はやるって言ってますから。
来年の10月になって、できねえって分かったらば、
すぐ計画を撤回してくれよという話をしたんですが。
そんぐらいの話だから、高いところなんかを少しずつ下げながら
どうしようなんていうねえ、線量の高い所を下げるにはどうしよう
なんていう細かいことまでは考えてない、土木事業だと思ってる。
そんなんで、それこそ復興だなんて言えねえんでねえかと思ってますが。
なんせ村の方も、十分にそのことは分かっていんだけども、なんせさっき言ったように
国の政策に乗んないとお金がこないというようなこともあって、まあ非常にね、
板ばさみになりながらね、進めようとしてるんですが。
わたしはね、具体的にそういうのをしていかないと
理解いただけないと思ってるんですよ。
国は国として、環境省は環境省の中で価値判断、決め事の中で決めてくる。
だけどそれは現場に合わねえ部分がいっぱいある、なんで合わないのかを
一つひとつ事例を挙げてね、話をしていかないとダメなんだろうと。
去年(2011年)だったかね、モデル除染だってことで草野、むかしの飯舘村の
役場の近くのところをやった。それは結局、冬にやってしまった。
雪の降ってるところを一所懸命雪はきしながらやってたと。
その結果がどうだっつったらば、まさしく効果が上がってないんですね。
非常に労力はかかったけれども効果は上がってないと。
冬にはダメなんだということを言ってあんだけども、環境省がそういうのの
認識がない。だから工期を冬にかけた、だけどそれは非常に手間のかかる割には
あまり効果の上がる事業になんなかった。そこで初めて分かった。
そして冬季間は、12月から3月までは飯舘村では除染しないということを、
そのとき初めて分かって、自分たちの計画をそうしたと、いうことがあります。
その前に、冬になれば飯舘村は雪が降ったり凍ったりしますから除染は
できませんよということは、さんざん言ってんですよ。さんざん言ってんのにも
かかわらず、冬季間の除染を国はモデル除染として強行したんですからね。
そうやって効果が上がんない。わがたちがやって初めて分かった、だから
後からの計画に入れた、それは入れてもらわなくちゃいけねえけども、その前に
現場のわれわれが揃って口を酸っぱくして言っていたわけだから、なんでその時点で
それを取り込む力が国にはないの、っていうふうにわたしは思うんです。
うちの後ろの杉の木の汚染についても、うちの前はいまは下がってね、
うちがほだって3.6μSv/hくらいになってんだけども、うちの前はね。
一歩うちの氏神さま、農家って後ろに氏神さまを持ってますから、そこに入ると
10とか11とか、場合によっては16とか、そういう数値が出てくる。
これは「ふくしま再生の会」の協力をもらって、GPS付きの線量計をね、
わたしと元区長さんとふたりで、それぞれみんなのうちの後ろの林の中を
歩いて測った、そうすると、うちの前は3とか4とかっていう数値なんだけども、
一歩林の中に入ったらものすごい高い数値が出る。
これは分かんなかったんですね。みんな一律に下がってくもんだと思ってた。
当初、それこそ5とか6とかあった数値が自然減衰で下がっていって、
4とか3とかって数値になって、それは林の中もうちも全部そういうふうに
下がるもんだと思ってた。だけど山の、杉の木の下はそういう下がり方をしない。
それは、まあ、環境省がどういうふうに思ったか知りません、
だけど実際わたしが測って環境省とやり合うときにそういうデータを出したときに、
初めてそのイグネ(居久根)の木、後ろの屋敷林ですけどね、その木の対策が
初めてそこでクローズアップされたんですね。
わたしらも、ふくしま再生の会の線量計を貸してもらわなければ、
その測定ももしかするとできなかったかもしれないし、手元の線量計でも
うすうす分かってはいたんですが、それではデータが十分に取れなくて、
なかなか国も説得できなかったかも分からない。
それだって、やっぱりわたしらからの話で、イグネの木を
なんとかしなくちゃいけねえ、なんていう話になった。
当初はですね、イグネの木の除染をなんとかしてほしいなんて言うのは
飯舘村だけだって言われたんですよ。後ろの木の線量が高くてなんとかしてくれろ
なんて言ってんのは被災町村の中で飯舘村だけだ、ってわたしは最初
言われたんですよ、環境省の担当の人にね。なんでそんなこと問題にすんのって話。
だけどわたしらにとってみれば、ここでもそうですが、すぐうちの後ろが木が
あるでしょお、防風林でね。こうやって北風をしのいでうちを守るわけだから。
その杉の木の葉っぱに非常にセシウムが捕捉されてると、仮にうちの前とか
後ろだけきれいにしたって、杉の木からの放射線量っていうのが常時来ると。
だから飯舘なんかでもそうなんだけども、1階よりは2階の方が線量が高い。
一般的にそうなんですね。そういうことが出るわけだ。そういうのも、国の方で
ほんとうは測定してもらって、そういう傾向を示して対策を立ててもらわなくちゃ
なんねんだけども、その発想が(国には)なかった。
そういう点から言うとね、少しはわたしらも役に立ったのかなと思うんだけども、
ところがこっから先ね、じゃあそのイグネをどうやって除染すんの、となったときに、
枝打ちをして、落ちた葉っぱをかき取ってきれいにすればいいよ、
っていうことで国は示した。
その方法と同じ方法で元区長さんが自分のうちで今年(2012年)の夏に
試したんです。だけども、線量が下がんない。山の中で10μSv/hあったのが、
枝打ちをしてゴミを集めてね、きれいに取り除いてやったところ、
せいぜい8μSv/hくらいにしか下がらない。2階も相変わらず線量が高い。
これじゃ子どももなんも戻って来らんねえべっていうことで、そして始まったのが、
小さなミニバックホーで表面の土を全部剥いで、穴掘って埋めちゃった。
ずっと(土を)かいてくと下は粘土になりますからね。全部表土の土を剥いで埋めた。
そうしたらば、10μSv/hあったのが2μSv/hまで下がったと。
いうふうな実験を今年、ふくしま再生の会とうちらの元区長さんとでやったんですね。
じゃあ、こういう方法を提案して国がすぐ採用してくれるかっていったらば、
すぐには採用しませんからね。
わたしら何回も言ってるし、環境省のほうにもね、その旨を別なほうから
伝えてるんですが、まあ早い話、経費との問題があったり、剥いだあと雨が降って
土が流れると災害が起きるとかっていう話になったりね、
なかなか、そういうふうな方法を編み出したとしても国はすぐは採用してくれない。
このあいだの(村議会の)一般質問でもそういう話をさせてもらったんですが、
村としては国へは言っていきましょうと言うけれども、なかなかそれは
国に言ったからといってすぐに、分かりましたって対応がされるっていう話ではない。
ですから非常に、一つひとつ時間がかかるしたいへんだなと思うんですが、
でもそうやって階段を一歩一歩上るしかないでしょお。ですから、
いろんな一つひとつの問題を、時間がかかってもあきらめないでねえ、
国のほうへ言ってやって、やるしかないと思うんですがね。
でも、どこまでできっか・・・あとはわたしらの意志と粘りとね、あとはみんなから見ると、
村民から見ると、進まねえって、ね。いつまでそやって協議してんのって、
早くやってくれろってね、いうふうな要望があるでしょお。
ですから非常にこのハあ、まもなく2年近くになるわけだから、なかなかね、
苦労はするけれども、ま、牛の歩みみたいなね。
――自分がどうしても気になってしまうのが、そういった、村の行政としても苦しい
状況にあるわけですけれども、それがなかなか村民に伝わってきていないな、と。
菅野 伝わっていませんね。
――インターネットなんか見てると、ついこの間も村長さんから帰村は2014年秋だと、
それがダメなら2015年春だという発言が報道されると、それだけが一人歩きして、
村長がそれを決めたかのようなことになっちゃって。
自分なんかは直接こうしてお話を聞いて回ってるから、そうは言ってもできないんだ、
という状況もある程度見えてくるんですけども。
鴫原さん(長泥区長)なんかは頻繁に地区の懇親会のようなものを開いて
みんなと繋がりを持とうとしてるけれども、いまのようにみんながばらばらに
なった状況では意識してそういう機会をつくって、こういう状況だと、村としては
こういうふうに動いてる、国からはこう言われている、それでこういうふうに
なってて、こういうふうにやっていきたいんだということを、どうにかして
一人ひとりの手元に届けないと、ますます・・・
菅野 そうですね。ある意味では村も一所懸命やってはいるんですが、
それがきちんと伝わっていない、これねえ・・・。
長泥なんかは鴫原良友くんが区長さんをやってっけどね、長泥の集会には
去年の秋に呼ばれて、今年も11月に呼ばれて、村長がまずしゃべれと、
わたしにもしゃべれと、いうことで宿題もらってやるんです。
わたしが去年、特に強く言ったのは、村が決めて、予算つけて
やりましょう、ってわけにいまいかないんだと。
除染特別措置法(放射性物質汚染対処特措法)からすると国が措置を決めると。
市町村がそれに対して協力をする、という法律が決まってますわね。ですから、
どういうふうに除染をやるのかっていうことは、国が決める、市町村はそれに対して
協力するという、法律的解釈から言えばそういうふうになってると。
だから、いま村では国と協議をしながら、よりよい除染をしてもらうように
要求してんだと。だけども、それは村だけで決められる話ではない、
っていう話をわたしはしたんですよね。
そしたらばね、聞いてる方が「あ、ほなのか」って言うんですよね。
わたしらからすっと「あ、ほなのか」っていうのは、びっくりした。
こんなの携わってる人間からすると・・・携わってますからね、国といろいろ、
ああでもねえこうでもねえってやって、口論しながらやってる。そういうもんだと
いうのを村民のみなさんも理解してるもんだと思ったらば、長泥の人たちからすると
「あ、そうなのか」と。だからなかなか進まねえのかと、こう言われた。
ですからその認識を、わたしはむしろ村民にきちんと説明したほうが
いいんでねえの、っていうのは村長にそんとき言ったんですよね。
ただほれ、うーん、もしかするとね村長は、ほだこと言ったって責任を負うのは、
やっぱり村長としてのわたしだと、仮にこの、国がわりいだのなんだの言ったって、
できることもできねえことも含めて責任を負わなくちゃなんねえのは自分なんだ、
っていう意識でも持ってんのかなと。
で、それはそれでわたしはいいと思うんだけど、ただ最終的に
復興にしても帰村にしても、みんなの心が集まってこないとダメだろうと。
そういう点では川内の遠藤村長さんはリーダーシップを発揮して、戻れる人から
戻っぺっつって、役場を戻してねえ、帰村宣言を出してやったんだけども、
やっぱり一人ひとり、すべての村民に対してというのは無理だとわたしは思うんですが、
なんとかして戻んなくちゃいけない、なんとかして復興の手がかり足がかりを
つくんなくちゃいけないと考えてる人たちの気持ちは集めておかないと、
あと何かのとき、どんなことやるにしたってね、ほんじゃ村長だけ帰ったらいいべ、
職員だけ帰ったらいいべ、って言われたらば、それこそ何もできませんよね。
わたしも最近「負げねど飯舘!!」の人たちとね、コミュニケーションを持つように
したんですが、今回の村長選挙の中で結局、今回無競争になったのは
べつに承認したわけでねえと、村長が責任を取れと、いう意味での無競争なんだ、
とこうね、言われたんです。
ほんとはいろいろ、誰かを(候補に)出そうという動きはあったと、だけども今回はハあ
無競争にしたっていうのは、いまの村長がベストだと思ってるわけじゃねえんだと、
すべて村長が強引にやんだから、おらたちの言うこと聞かねでやんだから、
村長に責任取らせんだと。だから冷ややかな目で見てんだ、っていう話をするわけ。
かつての地域づくりのなかで、村長(候補)が一騎打ちになって、自分の
支持するものが村長にならなかったから冷ややかに見るということはありますよ。
だけど今回は、政治的な対立の中でどうこうじゃなくて、全村避難で
村をみんな離れてるわけでしょお。連帯して復興を考えるっていうのが、
やっぱりある意味「オール飯舘」で取り組むべきでしょお。
それは、立場がそれぞれ違ったとしてもね、考え方がそれぞれ違ったとしたって、
例えば、すぐには戻んねとしたって自分のふるさとはわたしはきれいにしてほしいし、
いつかは行けるようにしてほしいっていうのは望んでますから、
そういう意味でオール飯舘で臨める体制をつくんなくちゃいけない、
その中で、国からの政策を受けていくっていうことをせざるを得なくて、
そんな気持ちを集めていくことができないんだとするならば、それはやっぱり
行政としては、わたしは間違いだと、へたくそだと思ってます。
よく飯舘村の歴史の中で大災害は、特に大冷害なんていうのは
起こってるんですよね。コメが全然とれねえ、食うコメもねえ、もちろん種籾もねえ。
そんときにね、それぞれの時代の村長はやっぱり、これは原子力災害とは
違う話になりますが、みなさんに対してメッセージを発してるわけですよね。
収入がねえっていうんだったらば暮らし方を見直そうとかね、今年一年、少し我慢して
次の年に備えようとか。そんなことを言いながら再建を引っ張ってきたわけですよね。
今回はそういう点から言うと、ちょっと村長のメッセージの発し方が、ちょっとこう、
みんなの心を集めるような発し方にはなってないかなあ・・・
村としてはこういうふうにしてんだけども、なかなか国のほうで認めてもらえなくて
これが実現できないんだって、わたしは率直に言ったっていいと思う。
それを言わないっていうのは、村長の使命感の強いせい、
自分が責任を持ってやんなくちゃいけないっていうふうに思ってるのか、
ちょっとそのへんはわたしは分かりませんがね。
――住民にちゃんと説明することも責任だと思うんですけどね。
菅野 わたしら議会で言ってんのは、例えば広報ひとつとってみても、飯舘の広報は
分かりやすく作ってて、分かりやすいんだけども、これは国の広報だと。村として
こういう問題があって、この問題を解決するためには国にいまこういう働きかけを
してるっていうメッセージがあっていいべと。
それに対して村民が、ぜひこういうことを実現してほしいな、なんとか村に頑張って
ほしいな、っていう注文だって出てくんだろうと。それがやっぱり復興に役に立つだろう
っていうような話をしてんですが、いまのところ、わたしから見れば国の広報・・・
なんて言うかね、決まったことを載せてるだけで、ちょっとそのへんが足りないなと。
このあいだ一般質問でさせてもらったのが、いわゆる国からの復興基金を
活用するための復興計画は村で作ってます。それこそ学識経験者とかお願いしてね、
錚錚たるメンバーで作ってます。産学官という協同でやってます。
それに対して、村民レベルで、大所高所の復興計画だけでなくて、低所狭所、
要するに行政区単位でのプロジェクトチームを編成して、おれたちの地区は
復興のためには、あるいは帰村のためにはこういうことが必要なんだと、
これは自分たちの努力も含めてね、村でやってもらうことも国に訴えることも含めて、
こんなふうな整備が必要なんだと、あるいはこういうふうな事業がわれわれにとっては
必要なんだと、自分たちの地区として考えたときにはこうなんだというプロジェクトを
立ち上げてはどうか、という提案をさせてもらったんです。
行政のほうではゆくゆく農地の土地利用計画を作んなくちゃなんねえから、
それはやりますよっていう答弁はいただいたんです。
わたしは反論として、土地利用計画を作るための行政区単位の集まりではなくて、
わがたちが、わがたちのふるさとを取り戻すために、どうすればいいんだっていう
発想でやるべきだ、って話してきたんですが、村長からの答弁は、いま手一杯なんだと。
要するに、国からの復興計画を作るにしたって、間もなく計画を作って国に提出して、
国からハイ、ヨクデキマシタっていう判子を捺してもらって、そして復興基金がきて、
そして災害公営住宅を造って、そしてスマートグリッドのシンボル的な飯舘村を
いろいろな整備をして、をいまやんなくちゃいけねえ。だからいま職員は手一杯なんだと。
わたしは、もし行政ができねえっていうんだったらば、区長さんあたりに話して
わがたちで勝手にやっぺとハあ、自分たちで、飯舘村の復興でなくてわが家の復興だね、
わが地域の復興っていう視点でやってもいいんでねえのってハあ。
人が減ったときにどうやって地域社会を維持すっかという課題だってあるわけだわねえ、
いままで100人でやってた農道の草刈りが50人しか集まんねえってときに、
どうやってやんのかっていうことだって予想されるわけだしねえ。
そんなことも対策を考えなきゃいけねえし。あと、わがのうちを考えたときに
若い人たちが戻ってこねえと。そんときに、地区の中に若い人がいねえときに、
どうやってお互いにねえ、暮らし方をしていくのか。
万が一のときに、消防団もいなくなりますからねえ。消防団のいない地域で、どうやって
防災を対応すんのか。除雪をどうすんのか。そんなことも含めて・・・もちろん百姓で
生きてきた人たちがどうやって生きていけんのかも含めて、わがたちの視点でハあ、
お互いにディスカッションしながらね考え方をまとめていって、そういうものを
積み重ねていかないと、間に合わねえんでねえかっていう感じがすんのね。
国は一所懸命ゴールを決めようとしてるでしょお。
飯舘村、低いところはあと3年だ、4年だ、5年だ。あと3年だ4年だ5年だっていうのは、
一括賠償の基準年数になってくるわけだ。手切れ金ですからね。
手切れ金ってことは、それ以降の賠償補償ってのは在り方が変わってきて、
要するに同じことは続けないよっていうメッセージが入ってると思うんです、わたしは。
それ以降についてわれわれは、じゃあどうすんのと、もらったカネでほかに土地を買って
うちを造れるの。造れる人もいます。だけど実際に造れる人がすべてではないですから。
補償賠償っていうのは、それぞれの持ってる財産によって賠償が決まりますから、
福島で土地を買ってうちを造って住むなんてことができる人たちは
多いわけでないですから。むしろ少数派ですからね。
だから、村に帰んなくちゃいけない、ほんときに、じゃあどういうふうなことが必要なのか
っていうことは、いまからやっていかないと、戻る人も少なくなると思いますよ。
村のほうではおれたちのことを考えてはくれねえんだね、ほんじゃおらはこの
もらったカネと息子と相談して、戻ることはしないでなんとかしましょ、アパートで
暮らしましょってなったらば、復興の力が一つひとつ削がれるような気がするんですね。
それは一人ひとりの自由だからやむを得ないんだって言ったって、
絶対的な数が少なくなりますから、お互いに戻ったって、いままで100戸で
コミュニティーで生活してたのが30戸になりましたっつったらば、
みなさんだって戻る意識が削がれるでしょハあ。
あそこの地区に戻る人ほとんどいねえんだってねわがんとこに、ってなったらばハあ、
じゃあおらもどうすっかな、ってなってしまうから、いまからやっていかねえと、
みんなの力は集められねえんでねえかなと、わたしは心配してんですけどね。
もちろん大所高所から、これからの国の在りよう含めて、エネルギー政策含めて、
高齢化という日本人の構造も含めて、新しいまちづくり、新しい地域づくりという発想で
復興計画を立てて飯舘村を考えていくっていうのは、これはこれで大事。
だけども、いま最も大事なのはその大所高所じゃなくて、一人ひとりが住んでた
フィールドをどういうふうに回復すんのかっていう発想が、むしろいまは
こっちのほうが大事なんでねえかな、ってわたしは勝手に思ってます。
わたしは、地区のほうでは区長さんに言って、ぜひやりてえなって思ってます。
戻るためにはまず何が必要なのか、戻るためにはどんなことを国に訴えなきゃ
いけねえのか。
――例えばそういった話を、(菅野さんの地元の)比曽地区の人たちは共有できてるんですか。
菅野 これはね、このあいだ、11月23日にうちのほうの地区、
まあ集まってはいるんですが、村長とわたしが呼ばれていまの問題点等について
話をしてよって言われたときに、質疑応答の中で出た意見なんです。
いままで飯舘村は、こういう思想だった。いままで飯舘村は、地域づくりはね、
第3次総合計画も第4次総合計画も第5次総合計画も、必ず行政区というものを単位に
いろいろワークショップをやって、10年間の自分たちの地域づくりをどうすんのか、
ということをやってきたと。
なんで今回はそれをやんねんだ、ていう質問があったんです。で、わたしは、なんで
従来のようにもっとこう現場での組み立てができねえんだってずっと思ってたもんだから、
ああ、そりゃそうだと。いままでさんざんね、それこそ地域づくりのために各行政区単位で、
わがたちで計画を作れと、わがたちで、どういうことで自分たちの地域をよくすっかね、
やれっつってさんざんやってきたわけですよね。だからその下地はあるわけですよ。
だからそのベースでやれればいいと、いうふうに質問が出たもんですから、
わたしは思想についてはそういうふうな認識になってるんだろうと。
村長は答弁の中で、すべての地域がそれで対応できるかどうか分からないって
言うんですね。そういうところでちょっとクエスチョンマークをつけたもんですから、
20行政区全部がそれをできるかどうかはちょっとね・・・
――自分なんかが見てて思うのは、村長さんがすごく「平等」ということに
こだわってるというふうに思うんですね。ここは危ない、ここはまだ大丈夫という
くくりにするんじゃなくて、飯舘全村で動くんだと。
実際、そうしなかった被災地では賠償金からなにから、ひとつ自治体の中でも
違ってきてると。それで地域の中で、もらってる者ともらってない者との間で溝が
できちゃったと。
たぶん村長さんは、そういうことをしたくなかったんだろうと思うんですね。いままでの
村の中の行政のやり方を見ても、みんなが平等になるようにというところに、
非常に気を使ってやってるなとは思ってるんですね。
それが、若い人たちに言わせれば避難指示の遅れになってるし、いまになってみれば、
例えば長泥だけが区切られてしまったと。そのときでも村長さんは最後の最後まで、
賠償に差がないように、みんなが平等になるようにというところにこだわっていた。
それが、すべてがそれでうまくいくのならいいんだけど、今回の場合は汚染度の
高いところもあれば低いところもある。それぞれの状況がみんな違うじゃないですか。
そこへもってきて、形のうえでみんなが平等になるようにというところにこだわって
いることによって、うまく噛み合わない部分ができてきてるように思えるんですね。
例えばそれを、平等にやるというんであれば、こういうことでやるからと
一軒一軒回ってちゃんと説明して、ということが必要になると思うんですけど、
いままでそれでうまくいっちゃってたもんだから、平等にやるんだからそれで
文句ないだろう、的な考え方に基づいて対応しているように見えると。
小宮の仮置き場の説明会のときにある女性が言っていたのが非常に象徴的だなと
思うんですが、「一軒一軒回って、こういうことになったからと言ってくれれば、
じゃあしょうがないねえということにもなったと思うんです、今回はそれがない」と。
一方的に、こういうことにするからと言われても、それは飲めないと。
それがずっと、あらゆる問題についてそうなってきていると思うんですね。
菅野 そうですねえ・・・例えば、避難については確かにいろいろ経過があって、
例えば線量の実態がよく分からないといった中で、確か3月の・・・
いつだったべ、20日か。鹿沼市(栃木県)のほうに避難希望者は避難しなさい
という指示は出しているんですね。
そしてそのあと、線量の実態がだんだん分かってきて、例えば蕨平、ここは
一部が30km圏に入ったということもあって、それは村役場の・・・
役場からはちょっと離れているんですが、老人いこいの家っていうところに
避難しなさい、っていう措置もしてると。
あとはお母さんたちに対しては、飯坂の温泉旅館なんかをお願いして、
お母さんたち、お子さんたちを連れてそこに避難しなさい、という指示も出してる。
そういう点で全村避難の前の措置は、わたしは正直なところ当時の飯舘村としては
ベストの方策は出したと、避難指示が出ない前の対策としてね。
あの頃、わたしらの地区の中でも、鹿沼に避難すんだっていう人が3軒ほど
いたもんですから見送りに行ったんですが、正直なところ、あのときの気持ちはね、
こうやってバスまで使って避難したい人は避難しなさいっていうことって、やんなくちゃ
いけないんだろうか・・・当時はですよ、当時は線量の実態がまだよく分かんない
という中でね、そう思ったんですよ。ここまでやんなくちゃいけねえのかな、とね。
ひとつは、計画避難の判断をめぐっては、非常に混沌としてたっていうか、
二転三転したっていうかね、どうも最初はIAEAが飯舘村は避難するレベルだよ
っていう話がマスコミから伝わってね、わたしら説明を受けたわけじゃない、
村も説明を受けたわけじゃない、マスコミから伝わってね。なんだこれは、と。
村として、わたしらとして、放射能汚染の実態が全然分かんない中で、
どっか1カ所の(高濃度に汚染された)土が出たからっていって避難なんて
おかしいんじゃないのと。じゃあ村全体の測定なんかしたの、という疑問があってね。
非常に、まずそれで度肝を抜かれて、そして国のほうでそれは避難するに値しない、
という話が出てきて、そしてそのあとIAEAも、それは一部の土の判断だけだったから
村として避難に値しない、というメッセージが出てきたと。
そして4月11日になって、どうも国のほうは避難を考えているようだっていう噂が
入ってきて、わたしはまず・・・避難になれば牛はほとんどできない、工場もできない、
そしたらば村の機能はめためたになるというのは、これは誰もが考えますからね。
ほんとに国は計画的避難を考えてんの、それはどういう根拠なの、ということを
一所懸命調べたような気がします。そして最終的に4月21日だったか、
平野復興大臣と福山副官房長官かな、あのときそういう話になって、避難だと。
2カ月以内に(計画的避難だ)っていう話になった。
最初IAEAが村は避難だよって言った、そのときになんで判断できなかったのって
言われても、あのとき村の誰も判断・・・いまだからね、あのとき村はすぐ避難しましょ
って判断できたんでねえのって思う方がいるかもしれないけども、わたしは
あの時点では、村民の誰もが全村避難だ、あるいは避難しなくちゃいけねえとは、
考えなかったんでねえのかなって、わたしはね。ま、特殊な人で特殊なデータを
持ってた人はまた別ですが、一般の村民の中ではなかったろうと。
当時ある村民、酪農をやってたんですが、4月22日の、福山副官房長官と
平野復興大臣が一緒に飯舘村に来て、飯舘村は計画避難しなさいよってい
うメッセージを持ってきて、みんな集まったんですね。ほんときに、彼は
じゃあ牛はどうすんだと、ふざけんでねえ、っていう話をしたと思うんですよ。
だからその時点で、避難をしなくちゃいけない、っていう認識はその時点では
わたしは彼になかったと思うんですね。いま思うとね。
それはもしかすっと、とき過ぎて、結果として3月4月の高線量のね、ところに
われわれは置かれたと、いうことから逆算して思うことは、わたしらもありますよ。
せめてあのときに、原子力発電所、原発がボコンといって急に線量が上がったとき、
あの実態が分かってれば、じゃあみんなとにかく一回村から出ようと、牛がいる人は
朝夕だけ通ってあとは出ろと、いう指示だっていまから思うとあったんだべなと。
わたし若いお母さんから言われて、わたしは子どもを連れて避難したいと思うんだけども、
うちの家族は反対してると、どうしたらいいべ、っていう話が実際あったんです。
だって家族が反対してて嫁さんだけが子ども連れてどこか行ったなんてったら、
うちの中が割れることになりますから、だったらうちの中でなるべく静かにしてて、
あまり外に出ないほうがいいんでねえのって、わたし言ってしまったんです。
いま思うとね、ああほうかと、じゃあおれがじいちゃん旦那さんに言うから、
とにかく1週間離れろと、最低でも1週間離れろと、そして、荷物とかなんとか
取りに来るときには一回戻ってきてまた離れてたらいいべ、と言えたですよね。
それは、あとから分かって言えることであって、あの時点で避難を考えたり、
ほかに行ってなくちゃいけねえと思った人は、ほんとに一般的な情報でない情報を
持ってる方・・・地区の中にもいるんです、家族が自衛隊だっていう方は
情報が入ってました。だからすぐうちを閉めて避難したんです。
それとお友達の方も避難しました、そういう情報が入ったから。
だけどその情報はわたしたちには入ってないんですよね。で、うちの息子が、
あのときは津波からの避難者が、浪江町からの避難者が飯舘村に来ましたからね、
交通整理のために消防団で頼まれて飯樋小学校で交通整理してたんです。
ほんときに当時の飯樋小学校の校長先生が、うちの息子だと分かって声をかけたと。
いまは線量が高いんだから、外に出ているべきではないですよ、って言った。
うちの息子は、これは自分の意志でなくて消防団としてやってんだから、
自分の意志でじゃあおれやめた、とは言えねえんだって言ったって、
あとから校長先生から言われたんだけど、消防団の組織としてもその状況は
つかんでない。わたしらもつかんでない。
ですから、わたしらは4月22日の計画的避難まで、一刻も早く避難しなくちゃいけねえ
っていう情報を持ってた人は、村民の中では非常に特殊な人だけで、あとは大方の人は
「なんで?」っていう話だったと思うんですね。その当時を振り返ってみるとね。
いま思うと、いま思うと、あの方法でなくて、ちゃんと、朝夕はやむを得ないんだけど、
あとはほかさ出たらいいべって指示はもしかすっと出せたかもしれない、いま思うと。
だけどその時点ではね、わたしはその指示は、うーん、村長は・・・
わたしは議会も消防団長もうちの息子もほうだったんだと思うんだけどね、
判断はしてなかったんでねえかなあ。
うちの嫁さんの実家のお父さんが、多少原子力だの放射能だの詳しい立場の人で、
最初の情報は、どうも今回の事故は放射性ヨウ素がたくさん出たと、だからいっとき
線量が上がっけども、あとは減るはずだと。ぐーんとね。だから飯舘村が、
仮に線量が高いといっても、それは、確か半減期が8日ですか、減るんだと。
その話はわたし情報としてはもらってました。で、線量を測る道具がなかったもんだから、
その嫁さんのお父さんは、文科省にお願いして、「はかるくん」っていう教材用の
線量計があるんだそうです、それを使えるようにしてやっから、
それを申し込めと言われて「はかるくん」を申し込んだんですね。
それはね、話があったのは3月の末です。それまで線量計がないんですからね。実際に
入ってきたのはね、4月の中旬頃だったかな。教育委員会のほうに3台借りられっから
どうですかって言ったら、ぜひ借りてくれろっつって、申請を出したんです。
ほんとはね、そのうち1台はわたし自分で使いたかったんですが、
教育委員会ではとにかく台数は1台でも多いほうがいいと。
そうですよね、子どもたちの現場があるんですから。
ほんじゃハあ、3台とも使ってくれろといって学校で使ってもらえるようにしたんですが、
それが初めて線量計として入ったぐらいで、あとはなかなか線量計がないんですよね。
だから実態が分かんない。
そんなこと含めると、あの時点ではわたしは、もっと違う避難方法が
あったのっていうのは、あとから言える話であって、あの時点で鹿沼に
自主避難のバスを送っていった、飯坂の温泉の旅館を借りて若いお母さんたちを
そこへ避難させた、それ以上の方法は村としてはわたしは取れなかったんで
ねえかなって、わたしは思いますよ。
――自分もそう思うんですね。要するに、その時点でベストっていうのは、
たぶんあり得なかったんですよ。次善の策しかなくて、次善の策にいくつか
選択肢があったうち、飯舘村はこれを選んだと。
で、あとで振り返ってみて結果論として、あのときこうすればよかったなっていうのは、
たぶんこれからも出ると思うけども、そのときはそれしかなくて、あとは状況に応じて
少しずつ修正しながら、常に次善の策、次善の策とやっていくしかなかったんだと。
菅野 わたしのうちで見ても、茨城のお父さんのアドバイスがあったおかげか、
ちょっと安心してたんだな。もちろんそこで出てくんのは、福島県のアドバイザーの
山下先生の話だったりね、出てくるんですが、それはそれでね関連はしてくるんですが。
でもある時点から、茨城のお父さんの情報では、どうも今回は、
今回というかこの事故は、どうも出たものがまた違うようだと。
要するにセシウムの話になってきたんです、今度はね。
そうすると本来、簡単に減る話でないと。そしてやっぱりわたしらより専門知識を
持ってましたから、妊娠する可能性のある女性が許容できる放射線量、っていう話が
だんだん出てくるんですね。それから見ると飯舘はちょっと高いと。
ということになって、うちの中では、どうすべえと。いまこういうことのようだから、
牛はおれたちがやっから、若い人たちはやっぱり避難したほうがいいんでねえの、
っていう話になったのがいつ頃だったか・・・(息子夫婦は)4月1日に出ていったんだな。
ですからもし、嫁さんが、なんだお義父さん、なんでわたしらのこと早く出ていけって
言うの、って言われるとわたしらも(根拠が説明できなくて)非常に困るんだけども、
少なくともあの頃はなかなか判断できない。
息子らも消防団で一所懸命交通整理やってる。地震で被害を受けた瓦の修理は
消防団でやれとか言われて、ほかのうちさ行って屋根の上さ上がってねえ、
瓦を修理したりねえ雨漏りしないようにビニールシート張って、ほんなことやってた。
あのときに、いま言ったようにベストの判断ってあったんでねえのって言われても、
わたし個人としてはおそらくそれはできなかったし、ベストの判断できた人は、
自衛隊の関係者がいるっていう話・・・でもそれはおおやけの情報じゃなかったでしょお。
それは自衛隊の隊員を通して聞いた話をその家族の方が判断をして、
これは出たほうがいいつって早く出た。確かにその方はわたしらより
内部被曝は少ないです。わたしらの半分以下です。
それがベストだと言われても、じゃあそれ(公式でない不確かな情報に
基づいての避難)をみんなでできるのかっていったらば、
できなかったんでねえのかな、ってわたしは思うんですがね。
――IAEAから避難しろって出たのって、いつ頃の話でしたっけ。
菅野 IAEAはね、3月の末でねかったか。で、確かその前後に飯舘村の
あいの沢の土壌汚染が16万3000Bq/平方メートルの数値が出たんです。
最初に空間線量が出てね、文科省のモニタリングで空間線量が出て、
次に水が出たんですね。900Bq、だと思ったな。
そして、わたしはこれはへたすっとほかに何の数値が出っぺなと思ったら、
あとは農地なのかなあと思ったんだ、うすうす。
ほしたら、あいの沢の登り口のところが・・・どこだって言わないんです、
飯舘村で16万3000Bqの土壌汚染が発見されました、でいきなり。
朝役場に行って、どこなんだいと、場所は。場所どこだかすぐ調べてくれろって
職員にお願いして、ほしたら文科省では場所がどこだっていうデータは教えることは
できないっていう見解ですって言われたって。
なんでって言ったらば、文科省のモニタリングは、この場所がこうだっていう
モニタリングでねえんだって、測定してってこういうところがあるっていうのを、
その数字だけを発表するのがこのモニタリングの目的であって、
どこの地区がどうだってやんのはわたしらの仕事でないって。
じゃそれはどこの仕事だって、それはまだ分かりません、っていう話。
国っちゃこうなんだよお、ほんとに。びっくりすんだよお。
ほして、それと付随して、飯舘村のブロッコリーが・・・3月の末だよ、飯舘村の
ブロッコリーが採取して検査した結果、非常に高い放射能濃度が発表された。
なんで3月の末に飯舘にブロッコリーがあんだべと。みんなして不思議に思ったの。
こいつは調べなくちゃいけねえっつって。こんなとても分かんねえ話をね、
インターネットでも出てくるしニュースでも出てくるんだから。いまの時期
ブロッコリーなんか誰も植えてねえのに、なんでこんなことになんだって。
ほしたらなんかね、福島県かなんかで委託されて、耡(うな)え残しのブロッコリーを
測った結果とか言うんですよね。だから、まったくこのデータの発表の仕方が、
われわれにとってみれば非常に乱暴な、ねえ。
どこでほういうの出たのって聞かっちゃってどこだか分かんねえ、
どこだか分かんねえなんて言ってらんねべしたってみんなね、びっくりするわいね。
ほしてあとから、ずいぶん経ってからだ、あいの沢のね、登り口のところで
16万3000だった、こうだった、こうだったってあとから。
あの数字で当時、おそらくIAEAは農地の汚染が進んでるってことで
避難だという話だったんだけど、それはいっかい撤回したんだよね。
それは局地的なものだったという判断で撤回したと。
撤回したときに、わたしら本能的に、ほうらみろと。ほういうところはあっかも
しれないけども、全体的にはほうでねえんだべ、っていうふうに
思っちゃうわけなんですね。そこにいる人間にとってみればね、ほらみろとね。
ああ、ほんじゃこれで安心だと。国のほうも避難しろと言わねえ。だけども、どうも
伝わってくる情報は、とにかく農地が汚染されてるってことがどうも確実のようだから、
農水省に掛け合って、この汚染された農地をどうすればきれいになんのか、試験やって
もらうべ。そのために何か働きかけをしてくれろ、とわたしは言われたんですね。
だから当時の農水省あたりに掛け合って、飯舘村の農地がどうもねえ、
農地いっぱいありますから、このままでは非常に汚染されてるって言ってんで、
ぜひ農地除染の研究を飯舘村でやってくれろと、いう要請をして、
5月6日に上京してね、農水大臣にそれをお願いして。
あとは牛の餌なんかも使えねえもんだから、牧草を刈り取ってはダメだという指示も
あったもんだから、それはとりあえず、牛の餌を供給するようにね、そんなことも併せて
数点お願いをして、農地の除染プロジェクトが飯舘村では早く始まったわけですよね。
ところが、農水省は農地除染のプロジェクトを早く始めたとしたって、
計画的避難を決めんのは内閣官房ですからね。全然組織が違うんですね。
わたしらにとってみれば同じ国だっていったって、国の縦割りっちゃあ、まったく世界が
違うんですね。計画的避難を計画してんのは内閣官房、だから農水省は、
よし分かったと、よおしやっぺというふうに立ってはくれたんだけども、
計画的避難は内閣官房のほうから通達が出てきた。それを考えるとハあ・・・
じゃあほんとにみんな、あの事故の時点、あるいは計画的避難の時点にもういっかい
戻ってね、あとだから考えられることを除いて、戻ったときに、じゃあIAEAが飯舘村な、
避難勧告対象地域に入るよ、て最初言ったときに、ほんじゃみんな避難すっぺ、
ってまとまったかって、わたしは村はまとまんなかったと思う。
農家だけでなくて事業所の方々も、この計画的避難は困るという話はされてました
からね。それは、いま思うとね、非常におかしな話だって分かるんです、いま思うと。
実態を思うとね。だけどその時点・・・わたしは4月22日(計画的避難説明の日)に
さっき言った牛をやってる村民が来て、牛飼いどうすんだ、って言ったのはわたし
記憶があるんです。だからあの時点では彼は避難ていうのは考えてないと。
それとあと、わたしらと同じ議員やってた人だって、おら出ねえどと、出ねかったら
罰則くんのかと言ったんですね。避難しねかったら罰金取んのかと。
そのとき福山くん(副官房長官)が、いやそれはありません、って言ったら、
よし分かったと、おらぜってえ出ねえかんなと。言って席を立って戸を閉めて出ていった。
あのときの気持ちを思うと、みんなやっぱり避難したくねえ、その思いがみんな
強かった。だからほんとにねえ、あの、村は、村長はデータを意図的に隠して
避難を遅らせたのか、って思うと、わたしはみんなの気持ちから見るとね、
あのときの気持ちから見ると、そうではないんでねえのかな。
で、よく息子にも聞かれました。初めて飯舘村のセンター地区で44μSv/hの数値が
出たのはいつ分かったの、それは確かね、(3月)14日の夕方だったかな雪の降る前、
夕方になって44μSvという数値になった、
それはそのときは確か自動的に記録されるものでなくて、1時間おきに職員が
見にいってますからね、そのときはまだ自動化されてないんですね。だから、
その数値が44μSvに上がったっていうのは、数値としてはみなさん見てるんです。
わたしらもその2~3日後には聞いているんです。聞いてはいるんだけども、44μSvが
どういう意味を持つのか、っていうことについては、恥ずかしいことに分かんない。
だから・・・ある方に聞かれて、「まいくろしーべると」っていうのはどういう数値なのって、
これもいまから思うとね、顔から火が出るくらい恥ずかしい返事したん、
マイクロはミリの1000分の1っていう数字だから、うんと小さい単位なんだと、
だからたいしたことねえんでねえの、ってわたし言っちゃったん。
みんな分かんない。ミリになるとね、1メートルからするとその1000分の1なんだけど、
ミリとなると雨だって1ミリ2ミリっていう数値だから、まさか100ミリ200ミリになったら
すごい災害が起きるくらいの雨になりますから、われわれの感覚からするとね、
ミリの単位になったら確かにひどいんだべなと、
マイクロシーベルトだからそれの1000分の1だから、まあ40μSvっていっても
0.04ミリの世界だから、たいしたことねえんだべ、っていう話を最初わたしはしちゃった。
あのー、まったく知識がないっていうのはね、こんなもんで、いま思うと、
ほんとよくあんなこと言っちまったべなと思うけども、分かんない・・・
――あのときは日本中そうでしたよ。マスコミが発表する数値にしたって、
最初はその単位を間違えてることはよくありましたからね。
菅野 当時の、これなあ、何を信じるのかっつったらなあ、枝野官房長官は、ただちに
健康に被害はない、と。当時の地元紙は、福島でも確か20μSv/hがいっかい検出された
はずなんです、だけどもこれは健康に被害はない、と言ってた数値だったし。
44μSv/hがえらいことだと、その時点でそれだけの知識があったのかなあ。もうすでに、
これはたいへんだあ、っていう思いがあったのか・・・わたしらはそのときはなかった。
みんななかったと思うんですよ。
わたしは、まず44μSv/hという数値の意味が分かんないだろうし、もしですよ、
もしそれを非常なる危険だと考えた人は・・・その数値がどういう意味を持つか
分からないから(わけの分からないもので混乱を招かないように)出さないでくれろ、
っていう判断はもしかするとするかもしれない、だけども、その数値の意味をきちっと
分かってる人は、じゃあこれを伏せておこうっていうふうにならないだろうな・・・
わたしは、ほとんどの人は分かんないだろうし、このあと出た土壌のベクレル、
これも分かんねえ。単位が分からない、その意味が分からない、
わたしら議会議員も誰も分からない、村長は確かそのときの新聞記事に、
こうやって高いところを出してどうすればいいか分かんないような情報の出し方
しねえでくれろ、って新聞に言ってたような気がするんですよね。
ひょっとすっとそれをデータを隠そうとしてたと取られたのかもしれないけども、
だから村長も、そんなに放射能の知識があったとは、わたしは思えねえんだけど。
わたしがもし自分の立場を被害者ということで考えれば、やっぱりそういうふうに
言いたくなる。なんでもっと早くできなかった、なんで、それこそ国の責任を追及しろとね、
言いたくなると思うんですが。いま思うと、という話がかなりあんのかなあ、ってね。
最初『美しい村に放射能が降った』という本を出したときに、村民にとって、
どういうふうにこれが映るんだろうな、やっぱりこれ、いいわりいは別として村民はね、
自分にとって身近な存在というのをリーダーに置きたいというふうに考えてるし、
いわゆるこの、被災地の声として、メッセージを出してもらうのはいいんだけども、
自分たちからどんどんどんどん遠くなってしまうっていう姿に映んでねえのかな、
だからいまの時期に出すのは非常に早すぎんでないの、
まだ混乱が収束してないんだから。そんな思いがわたしありましたね。
ただそれは、わたし個人の考えであって、やっぱりなんてったって
メッセンジャーとしての村長の力を持ってるわけだし、あとは国と渡り合うためには、
普通の誰もはできない力を発揮してもらわなくちゃいけないんだし、
とにかく村民に対しては非常にね、献身的にやってんだから、その力を
使い果たしてもらうことに対してはみんなね、そうしてもらわなくちゃいけないと。
ただ一方ではね、やっぱり村民との距離をあまり取らないで、なるべく身近な立場で
同じ目線で働いてもらう、っていうのが村民は強く願ってんでないのかな、
そんなふうにわたしはね、思うんだけどね。
なかなかね、人にはそれぞれ能力があったり得意不得意がありますから、
どうしてもわれわれはね、ないものねだりをしてしまうきらいもあるし、
逆にですね、ほかの人材をね、市長さんや村長さんのように、
まったくわれわれと同じレベルでねえ、そういう人だったらもっと別なことを
期待したくなるだろうし、そういう点ではむずかしいですが。
――この烏賀陽さんのリポート(JBpress掲載記事)を見ると、今回の事故に関して
東電がどれだけ自分らの利権を守るために人を犠牲にしてきたかっていうのが
分かると思うんですけども。
参照:烏賀陽弘道氏の一連の原発事故リポート
http://jbpress.ismedia.jp/search/author/%E7%83%8F%E8%B3%80%E9%99%BD%20%E5%BC%98%E9%81%93
菅野 基本的に飯舘村は原子力災害、原発に何かあったときに
何をすんのかっていうのは、対象地区外だったんですよね。
そしてわたしら漠然とね、もし原発に何かあったときに飯舘村にできることはなんだべ、
っていったらば、114号線を避難してくる人たちに何かをすることだと、
自分は当事者ではなくて、要するに第三者だと思ってましたからねえ。
――これ(烏賀陽氏記事)にもあるんですけど、原子力災害対策特別措置法に
いざ事故が起こったときにどう避難するか、というのがあるんですけど、それは
10kmだけの範囲なんですよね。ほんとはもっと広げることはできるんだけども、
東電が10kmという範囲に限定した。そこから広がることに対しては
東電の責任において阻止しなけりゃいけない。
ということでやってるもんだから、10km範囲内に関しては避難の仕方が
いろいろ決められている、まあそれも非常にナンセンスな決まりごとなんですけど、
そこを越えちゃうともう何もないんですよね。
避難しなきゃいけないという発想もないし、そうなると当然どう避難するかということも
全然考えられていないんですよ。そういう中で例えば、飯舘村だけじゃないですけど、
広い範囲で被災して、そこで何ができるのって言われて、何もできないでしょって・・・
菅野 何もできないです。まったく・・・測定器ひとつないんですよね。
だから原発が何かあったときに飯舘まで被害が及ぶものという想定は、
まったくしてなくて、双葉郡は原発の立地ということもあって豊かな町村だけども、
何かあったときには、この貧乏な村が役に立てるはずだと。こんなことをね、
自分の中のひとつの誇りみてえなつもりでいたんですよ。
だから冗談半分にね、うちの女房が楢葉なんです、でねえ、もし第二原発がなんか
あったときには、飯舘村が役に立てるはずです、っていうひとつの誇りを持ってねえ、
ほんなことはあってはならないことだけども、なんかのときには役に立てるんだと。
こんな思いをわたしら持ってましたよね。
だけどもこんどは、助けるってことはないよねえ、自分たちが避難しなくちゃ
いけねえって、ほんで結局親戚がねえ、富岡町だ楢葉町にいる親戚がみんな離散して。
お互いにねえ、どこさいんだなんて確認が取れたのはねえ、もう半年も経ってから。
どこさいんだってねえ、訪ねてねえ、おじいさんおばあさんたちにねえ、
訪ねていったのはもう半年以上ねえ、1年近く経ってからねえ。
そういう点ではねえ、村もねえ困ったしわれわれも困ったし。
だからそういう点で被災者としてね、われわれも取材を受けてんだけども、
受けてるわれわれが、うーん、ましてや講演をして歩くといったときに、うーん、
村長に対しても言ったときあります。講演をして歩くのはいいよと、だけども、だけどもだ、
それをね、どこどこで講演しました、こういうことで飯舘村長としてやりました、
見てる村民にとってみれば、非常に思いが複雑になるんでないの、っていう話はね。
――やっぱり村が抱えている問題、それにどう対処していこうとしているのかと
いうことをもっと、しつこいくらいやってもしつこくなるってことはないんですよね。
常に言い続けなけりゃいけないと思うんです。
奥さん お父さんは諦めたように、国に言ってもなんにも聞いてくれない、
もうハあ、だけどやっぱり言わなくちゃなんない、と言うわけよね。
――国と交渉するだけじゃなくて、それを村に持ち帰って、こういうことでやってる
っていうのを、とにかく言い続けなきゃしょうがないと思うんですよ。それがないから、
村の人たちは自分たちが放ったらかしにされて村と国だけがやってて、結果だけを
押し付けられてるっていうふうに感じちゃってると思うんですよね。
菅野 やっぱりね、どういう課題を持ってどういう議論をしてるのかという
現在進行形を伝えていかなくちゃいけねえと思ってるんですね。
さっき言ったように広報はホレ、過去形なんです。こういうふうになりました。
だから、この間にどんな議論があったのか、みんなの課題の解決のために
どういうふうな動きがあったのか、ということはほとんど伝えない。
あとは、わたし計りかねてるのは、なるべく早く戻るっていうことにレールを乗せないと、
村民が戻らないんでないか、っていうふうに考えてるフシがどうも・・・
早く、早く戻らないと村民が戻ってこないんでないか、ほかで生活してて
戻らなくなるんでないか、っていうふうに考えてる。
それはやっぱり違うんだろうなって、戻れる状況をいかにつくるか、その視点で
村がどういうふうに闘ってるのか、それを村民に伝える、村民に知らせていけば、
ああ、村はわれわれのことを忘れてないな、っていうふうになるんだから、
とにかく戻りたいと考えてる人たちが、戻らなくちゃならないと考えてる人たちが
一人でも多く戻れるように、いま一所懸命やってんだよ、っていうメッセージをね、
発し方がなされればいいんでねえかなって、わたしは思ってはいるんだけども・・・
――自分もそう思うんですね。例えば自分なんかの経験、これはほんとに自分の
経験ですけど、田舎から東京に出てしばらく生活してると、帰りたいと思うんですよ。
自分が育ったあの風景の中に帰りたいという気持ちが強くなる。
だけど自分が育った風景というものは、もうないんですね。成長する過程で
田んぼが埋められたり山が削られたりしてどんどん失われていく過程を見ていて、
小さい頃に走り回った、自分が帰りたいと思う田んぼや山はもうないんだということは
知っている。帰りたいという思いは年々強くなるのに、その帰りたい場所はどこにもない。
それは人間として、非常にさびしいことだと思うんですね。いまはこういう状況なので
帰れない、帰りたくないと思ってる人も、ここから先のどこかで、みんながみんなとは
言いませんけど、「ああ、帰りたいなあ」という気持ちは起こってくると思うんですね。
そのときに、帰れる場所がある、ということが必要なんですよ。そのために村は
維持されなきゃいけないと思うんですよ。いま立て直すではなくて、そのときのために
村を残す、この場所に飯舘村がある、地図の上にちゃんと飯舘村が載ってるっていう
状況をつくって、そこに行けば自分がむかし生まれて育った風景があるんだっていう、
実際に帰らないとしても、それがあるとないとで全然違うと思うんですね。
菅野 誰だってね、それこそ自分の生まれ育ったふるさとがね、うちが壊れてハあ、
あたり一面ね、それこそ薄野原になってしまったと、それは期待しないと思いますよね。
やっぱり当然ながら、自分のふるさとを持ってんのはその人の生き方の中で
大切なことですから。
いわゆる、また国の話になりますが、いまの復興基金っていうのは
一応3年間、3年間で国からの復興基金を活用して復興をしなさい、
これも法律によって決められていて、その計画を作るためにいま村が、
ほとんどこれは総務課あたりが全精力を費やしてると。
そうしますとですね、先ほど言ったように村民一人ひとりに寄り添った細かな計画は、
やってる暇がない。わたしらの言うような時間のかかる計画は先行きが見えない、国のね。
だけど村としてその3年間の復興基金の活用で復興の手がかり足がかりを作るために
全精力を費やしているという。このへんの発想が、ある意味では村民との分断を
引き起こしていると。
で、村としては、いま3年間の復興基金に全精力をつぎ込むんでなくて、作戦を立てる
立場の人をつくって、いまはいまでこれをやってるよ、だけどこれもやんなくちゃ
いけないんでないの、っていうふうに立てられる人が、ほんとは村長だと。
で村長は、おそらくリーダーとしてはそういう資質は持ってんだろうと思うけど、
どちらかというと事務局タイプだから、こちらの目先の部分にも関心は行く、
ある意味では大局的なものはそれなりに価値観を持ってんだけども、
大局的な価値観の手前の身近な価値観に関してはいまのところ穴が開いてると。
じゃあそれを誰が、どういう形で、飯舘村の中でフォローできるのか・・・
――複数の人から、村議会は何やってんだという声は出てますが。
菅野 議会はですねえ。議会というのは12人が集まっての議会でしょお。
じゃあ12人の中で・・・12人が過半数の中でそれが示されない限り、
議会として意志を示していくってわけにはいかないような気がします。
――例えばそれを、村議員どうしで根回しして議会として村長と向き合う、
という構図にはなれないんですか。よく聞かれるのは、村長が一人で決めて
議会はそれに追随しているようにしか見えない、村長が暴走してるんなら、
それを止めるのが村議会だろう、というような言い方なんですね。
なんのために選挙で選ばれてるんだと。
菅野 わたしは、それこそ案作りに、要するに復興計画に対して、こういうふうに
すべきだよと、こんなふうにやるべきだよっていうふうに具体的な提案が
村議会議員のいのちだと思ってんです。批判もしますけども提案をしなきゃダメだと。
でも、一般質問を見てもらえば分かるんだけども、提案の部分って・・・みなさん
たいへんなんですね、提案をするってことは。だから、執行部の出した議案に対して、
ここまずいよ、あそこまずいよ、っていう指摘はみなさんする能力はあるんです。
だけどいまの復興計画に対して具体的にこうすべきだっていう提案、あるいは除染に
対してこうすべきだっていう提案ていうのは、ほとんど出ないんです。残念ながら。
自分でやってみると、具体的な提案ていうのは非常にたいへんです。
ほんとにそれでいいの、ていうこともありますし、国が出してきた除染の案に対して
具体的に対案を提案していくってことですから、答えを見つけながら提案するでしょお。
でも、答えを見つけることっていうのは一議員にとってみれば非常にたいへんな
ことであって、答えが分かんない中で批判するのが、いちばんラクです。
議会議員の本分は、わたしは自分では提案することだと思ってますが、
そこまで考えてやるのはむずかしいです、残念なことに。
それは問題意識だったりなんかするから、わたしは一概に批判する立場に
ありませんが・・・わたしはいま「負げねど飯舘!!」の人たちにいま言ってんですが、
それに堪えられる人を出すべきだと。
村長選挙には、村長に責任取らせっからと出さねかったけども、っていう話をすっときに、
議会議員選挙が来年(2013年)の9月にあります。だから「負げねど飯舘!!」の人たちも、
今度は責任を誰かに取らせっからっていう無関心でなくて、自分たちの中から
そのことに堪えられる人を出してくれと、いうことでお願いをしてんです。
そうでねえと、いままでの村の体制だったらば執行部が出してきたものに対して、
あれわりい、ここわりい、で済んだんです。今回のこの問題は、いわゆる
放射能災害ですからね、賠償の問題も含めて相手は国だったり東電だったり
するでしょ。単にあそこわりい、ここわりいだけで、変わってくわけないんです。
そうすっと、自分の中で、じゃあどういうふうな切り込み方をすれば変えられるか、
どういうふうな実験、測定をすれば変えられるのかという発想に立つ議員の人たちが
出てこないと、わたしは議会としては変わんないと思う。
議員としては、それは個人的には努力してますよ。だけど議会として変わってく
っていうのは、そういう人たちがある程度多くなんないと変わらない。
じゃあ、お互いに刺激し合って高めていくのも議員の務めでないかい、
そういうふうにも言う人がいるんですね。わたしは、それぞれ、ほかの議員にまでね、
影響できるようなことがお互いにできるかっていったらば、いまの体制の中では
なかなか、まあ情報のやりとりなんかはね、してますが、姿勢までは変わんないんで
ないかなって、わたしは思うから・・・
やっぱり人が代わっていかないと、こういう災害に積極的に対応していこうと、
自分で調査したり実験をしたりしながら具体的な提案をしていこうっていう人が
選ばれないと、ダメなんでねえかな、わたしはそんなふうに考えますけどね。
――(質問書を見ながら)確かに提案するっていうのは、むずかしいでしょうね。
菅野 むずかしいんです。なんとかしろ、っていうのはみんな言うんですが、
ほんじゃやっぱり政策に結びついていかねえべって、わたしはね、言うんですがね。
――個人的には、年寄りだけの村でもいいじゃないかと思うんですよ。
世間的には、姥捨て山にするのか、とか言われてるけど、
姥捨て山が何が問題かっていうと、年寄りばっかりだから問題なんじゃなくて、
社会との関係がなくなってるから問題なんであって、年寄りなら年寄りで、
例えば30代くらいで世代交代していたものが60代くらいで世代交代すれば、
それは世代交代の年齢が後ろにずれるだけであって、新陳代謝自体は
行われるだろうと。
菅野 例えば、年寄りだけが住んでいたとしても、それをまわりから、
飯舘の若い人たちがそれを意識しながら住んでれば、それでいいわけだ。
――子どもを育てる間だけはちょっと離れているけれども、子どもが手を離れて
40代50代になりましたといったときに、じゃあもう村に帰って、小さいけれども畑とか
田んぼとかやりながら、最後は村の墓に入りましょうというふうになればいいし、
例えば今回の事故で福島県全体に対して多分、健康管理っていうシステムが
できると思うんですよ。住民に対しては健康診断を無料でやりましょう、
何かあったときにはちゃんと治療しましょう、飯舘村にもできるでしょう、それは。
菅野 ようやく県のデータがいま村に来始まりましたね。
――それを産業にできないかと思うんですね。ホスピス産業に展開できないかなと
思うんですよ。そうなったときに農業を、商品作物を作るための農業ではなくて、
住環境としての農業、自分が生活してるそのまわりに農業がある、
これって精神的に癒やされるじゃないですか。
菅野 それを飯舘の人たちは結果としてやってたのな。結果としてな。
――そのときに、商品作物を作ってもこの状況では売れないっていうのは
はっきりしちゃってるので、ホスピス産業というものがあって、そういう環境の中で
過ごしたいという人たちが来たときに、その人たちに提供する環境として農業がある。
菅野 そっからの実りをアテにするんでなくて、景観とか自然環境をつくるための
産業だというふうにね。
――そうやって来た人たちが、じゃあ自分もちょっとやってみようかって農業体験を
していく、それで10年20年経てば、たぶんもう普通に売れるようになると思うんですよ。
菅野 そうでしょうね、時間が経ってね。
――要するにその売れるようになるまでの10年20年、あるいは30年かも
しれないけども、そのあいだをどうつないでいくか、を考えていけばいい。
それに対していま復興事業が3年と年限を区切られてるけども、そうじゃなくて
もうちょっと長いスパンで、ちゃんと収入を得られる産業を村の中につくれば、
そんな復興資金をアテにしなくてもやっていけるんじゃないかと思うんですよね。
菅野 前回の、9月の一般質問でやりました。結局、じゃあすぐ農業を再開してね、
農産物を作れというんではなくて、もう少し長く、理由としては土をつくったり
景観をつくったり荒れてるところを取り戻したりすると、そういうことで帰る人たちが
生活の足しにできるような仕組みをつくるべきだと、いう話をしたんですね。
いまの段階で国はそういうことは検討してないんで、国としてはいまは早く戻って
コメを作って、検査をして、検査に合格したものは売りなさいよ、合格しねえものは
東電に賠償してもらいなさいよ、ってもう国は言い始めてる。
だから、わたしはすぐにいままでどおりの農業を再開するんでなくて、農地の
維持管理保全、景観の確保みたいなやつで帰った人たちが生活するような方策を。
村としての考え方は、村の中に農地管理公社みたいなのをつくって、そこの中で、
まあ戻ってこない人もいっぺから、そういう人たちの住宅も含めてやってくような仕組みを
検討したい、と一応答弁はもらったんですね。ただほれ、担当からすると、村単独の
お金ではできないので、なんとか国からね、支援してもらうように要求していきたいと。
――それを産業化して村の収益を上げられるようにしちゃえばいいんですよ。
菅野 ただほれ、いままでにまったくない仕組みなもんだから、まったく村のお金だけで
立ち上げるわけにいかねえ、つう話が現場の人間つうか事務担当のほうから
聞こえてくるわけですよ。
――立ち上げだけは出してもらえばいいじゃないですか。
菅野 だからね、立ち上げればあとはなんとか回転できるんでないのと。
例えば仮にですよ、みんな仕事して5000万円分の仕事した、ほれを全部山分けしろって
言ってんでねえから、そのうち一部を会社のほうにね、還元すればいいんだから
できるんでねえのって話はするんだけど。おそらくそんなふうな道でも開ければ、
わたしは、ほんじゃあおら戻っぺと、いうふうになってくんでねえかな。
――不謹慎な言い方かもしれませんけど、「ホスピスの里 いいたて」で
いいじゃないかと。当然、線量はある程度高いので、ここに住んでれば癌になる確率が
今後30年でこれだけ上がりますよと言われても、いや、オレいま癌だから、って。
菅野 それよりは、かえって自然環境のいいところでね。
――もう癌なんだから、いまさら線量の高い低いを気にする必要なんかないだろう
ということでなくて、癌であるというストレスとか、痛みとか苦しみとかから解放されて
最期を迎えたいんだ、っていう人を受け入れて、そこでは当然健康管理は万全だし、
まわりはこんな(自然に恵まれた)環境だし。
あと最近「はっぱビジネス」というのがあるのをご存じですか。
菅野 上勝町(徳島県)の?
――そういうのが、ああ面白いなと思って。
ただそれを食べるとなると農作物と一緒ですぐにはできないけど、
別な用途で、例えば写真の小道具として枯葉とか売ってるんですよ。
菅野 上勝町はあったかいとこだから、紅葉が遅いのね。
最初わたしが考えたのは、飯舘は秋が早いから、もしかすると上勝町よりも
一歩先に秋を愛でることができんでないのって。
比曽、長泥っていうのは、むかしは一つの村だったんだよ。大字比曽っていうね。
比曽村だったの。それが高線量地区になっちゃった、みっつがね。で、おれとしてはね、
やっぱりこの大字比曽、特に長泥は(線量が)高いんだから、長泥の復興が村の復興だと、
おれはこう言うどって村長に言ったんだ、長泥の懇談会でこう言うよって。
ちょっとこう、時間のスパンを長くして考えれば、村の復興っちゃね、3年とか4年とかで
なくて、この長い期間の中で、長泥はちょっと遅れるかしらんがね、長泥が終わって、
はい復興は終わったよっていう計画を出せば、けっこうみんなは理解してくれんで
ねえかな、ちょっと時間はかかっけどもこういうふうに村は考えてんだ、とね。
今度、国のほうで帰還困難区域は除染やんねえって言い始まったから、
飯舘村の計画の中でやんねえって言い始まったから・・・
――2016年度までやらないっていう話が出てますね。
菅野 一応村のほうでは、モデル除染として継続していきたい、
っていう要望は出して、それでいくっていう返事はもらったみたいだな。
だが国はちょっとずるいよね。ここに来てね。
――除染にせよ復興計画にせよ、誰がその図案を描いて、
誰がそれにOKを出してるのかっていうのが全然分からないですよね。
菅野 分かんないですよ。分かんない。わたしらも分かんない。決められる人が
出てきてくれろって言うと、こういう会議に出てきて説明するのはわたしの役割ですと、
決める人は本庁です、いう感じなわけ。
だから、うんと議論が切迫して物別れが多くなってくっと、
担当を代えてくっからこんどは。別な人が来んの。
――そしたらまた一からやり直しですか。
菅野 一から。だからね、前田さんね、がっくりきてハあ、
いやもおハあおらやんだってこう、言うときもあるわけよ。
折角いままで積み重ねてきて、お互いに顔を覚えられてねえ、やってきたのが
こんど担当が代わって、もう一回一からやんなくちゃいけねえってなったとき、
非常にこの、虚しい気持ちになるよ。
――わざとやってんじゃないかと思いますよね、そりゃ。
菅野 20mSv/yでいいよって、20mSv/y以下になれば健康に被害ないよ、
って決めた人を、専門家っているわけよね、国でこう決めたんだからって。
飯舘村のねえ、わたしら強引に押したのは、とりあえずの除染目標は
1μSv/h以下にすること、要するに年積5mSv以下にすることだって言ったらば、
菅野さんの言うことには科学的根拠がありませんなんて言われっちから。
いやー頭にきたから、わたしら現場の人間は科学的根拠じゃなくて
村民的感情でものを決めんだって言ってハあ、強引に押しきったの。
ほしたらその反論した人はあと二度と村の会に来ないから。
それはね、(その人にとっては)それで済むからいいべけども、
村に戻る人にとってみれば切実なことなんだよね。環境省の除染も、
なにかっちゅうと20mSv/yつう数字を出してくるから、村の計画は5mSv/yだと。
――マスコミの報道にせよ官庁の対応にせよ、中に農村出身の人間て
いるでしょうと思うんですよ。なんでその人を連れてこないの、ってね。
見方が全然違うはずなんですよね。
菅野 でもね、そういう人が立場上そういう役割を担ってると、
そういう人に分かってもらうのがおれたちの務めなんだべえ。
だから国の、物事の考え方の基本みたいなやつを一所懸命調べて、その根拠が
どこにあるのか、こういう条件の場合はその根拠が崩れるのか崩れないのか、
ほんなことまで調べて議論を挑むわけよ。そうすっとさすがに、じゃあそれは
持ち帰って検討しますという話になんのな、そこまでいくとハあ。
――そこまでやんないとダメですか。
菅野 ダメだ。だから、にしゃこのなんだあ、なんて話だけでは国は絶対・・・
いや言うよ、みなさんにこういう思いをさせてまことにすみません、
これ以上できないほどの謝罪のことばは言うよ、だけども物事を動かすためには、
やっぱりこの、にしゃこのなんだの話だけでは動いてかないの。
ほうすっと、さっき言ったように国の理論っていうものを一所懸命調べて、その細部に
わたってまでできるだけ調べてね、その根拠の矛盾してるところ、飯舘村の実態と
合わねえところなんかを一所懸命見つけて、これで議論を挑んでるわけだ。
その場でほんとは決まってもいいのね、ああそうですね、そうしましょ、でこちらの意見が
通りそうなときには、じゃあ持ち帰って検討します、持ち帰って誰がどういう検討すんのか
分かんないんだけどね、ほうすっと、検討の結果ダメでした、っていう話。
あるいは検討した結果、じゃあこういうことはこうしましょうね、ほんかわり、
ほかのところはちょっと後退しますよっていう話が来んだよ、だいたい。
ギブアンドテイクじゃないんだけども、ちょっと聞いてやるよ、だからほかのところは
縮小するよ、みたいな話が来んだよ。
もう、正直なところね、責任者出てこい決めた人出てこいって言いたくなるの。
だけどね、だけどやっぱり、繰り返し繰り返しね、議論してくしかないんだっけ。
だから結局イグネの除染だってねえ、こっちがデータをちゃんと集めたから、
だから言うこと聞いてもらったと思ってんだ、自分ではね。
だってね、屋根までやれ、うちの後ろに山の木があんだからこいつが(線量が)
高いんだからやれ、にしゃこのやろおめら加害者だべって言ったって、
国はほんなんでは動かないもんな。
いやごめんなさい、はい分かりました、気持ちは十分にお察しします、って言うだけで、
ほんなんでは絶対動かすことはできないもん。
そうすっと、そういうデータを集めるのに、わがが汗流して(線量の)高いところ高いところ
って一所懸命探しながら行くんだからね山の中を測ってね、ああここよりはこっちが
高いようだ、こっちが高いようだってね。ほうやってデータを集めっから、
言うこと聞いて、っていうか、なんとか組み入れられたのかなあっていう感じ。
――再生の会のモニタリングに予算が下りるようになったとかって聞きましたけど。
ようやく。
(*ふくしま再生の会と村の有志が地道に実施していた村内の空間線量モニタリングが
事業として認められ、村が再生の会に依頼、見守り隊の村内見回りの際などに
計測機器を携行してもらうかたちで実施することにより事業費が村民に還元される)
菅野 あれもね、もっと早くからできんだろうけども、国の除染に関する予算の中で
一部ソフト事業に使ってもいいっていう予算があって、それでモニタリングをする
っていうね、仕事を見つけて再生の会にお願いして、っていう格好になってんだけども。
もっとほんとはね、地区の住民参加でモニタリングしたり除染の検証したりするような
仕組みを作ってくれろって要求をしてんのね。問題は財政なんだよ、国が言ってんのは。
それは分かると、それは是非って村は言ってんだけども、じゃあどうゆう予算でやんの、
っていう議論になってくるわけよ。
そうすると、国から差し向けられる予算を取れてくるようなソフト事業の中で
対応できんのかっつったら、国からはノーっていう返事が出たみたいなんだよね。
認めないってね。
ほうなったときに、こじつけなんだけども、リスクコミュニケーション事業に関しては
国はけっこう認めてんだよ。要するに、放射能に対する正しい教育とか
正しく怖がるとかね、あんなの。
住民参加での除染の検証事業も、ある意味ではリスクコミュニケーションだべと。
ねえ、そこに人が戻っていけんのか戻っていけねえのか、っていうことも含めて
モニタリングをしたり除染の成果を見るわけだから。
広く解釈してリスクコミュニケーションの事業だってことで国さ要求したらどうだ、っていう
要求まで話したの。そっから先は、検討しますってもらったんだけども、検討しますって
言われればね、そこでじゃあ是非検討してくれろっていう話になんだけども、
そんなふうに、村としてよ、国と向き合うときに、国の政策があっときには村としての
対策を考えながら、したたかに予算要求したり自分のやりたいことの実現要求のために
やってかねえとダメなのな。
そのへんがまあ、余計なことやりたくねえってことではねえんだべけども、あとで
国からいじめらっちくねって気分が職員の中にあんのかな、って感じがすんのね。
そのへんのね、覇気がないな。
そうすっと各行政区でね、何人か活動して、わがたちの地区を見て、
復興のときのいろいろな力になってもらっぺって。
おれはそう考えてんだがね、予算はどうすんのっていう話にね。
予算はどうすんのって言われたときに、一時金としてどういう予算があんのってまでは、
さすがにおれも調べるようになったから、そうすっとやっぱりね、
リスクコミュニケーションの事業として、飯舘村のリスクコミュニケーションは
こうやってやるんですよ、って国さ言って認めさせよう。
――国のほうも、担当者は誰も責任を取りたくないだけですからねえ。
だからこっちのほうからうまく、こういうふうにやれば責任を取らなくていいよ
っていう提案をしていかないと・・・
菅野 そうそう、提案しないと。ほして次の、先を見越して提案をしていかないと
国の方針が決まってからそれを変えるっていうのは、たいへんなことなのね。
だから国の方針が決まんないうちに、おらのほうではこう考えてんだと。
おらほではこんなふうに考えて次の一手を打ちたいんだ、っていうことを
率直に国にね、相談をしながら組み込んでもらうってかね。
ほら、指示待ちだから。国でこういう予算をつけたから村でどうしましょうか、この予算は
すぐ使えねから基金に入れましょうか、そういう話が非常に多いんだ、この災害はね。
指示待ち。いままでのように自分たちで自分たちの地域をつくろうっていうね、いうこと
言ってたのに、今度は指示待ちに飯舘村はなってる。指示待ちは、紐つきだから。
その紐のついてる先で、飯舘村でこう使いたいんだけどもっつったら、
ほれじゃダメだよって言われれば、紐つきのお金は非常に使いづらいお金なのな。
指示待ちになんねえほうがいいよ、っていう話はすんだけども・・・忙しくて
いっぱいなんだそうだな。めいっぱいやってて・・・めいっぱいって何やってんだって、
国のヨクデキマシタっていう計画を作んのにはたいへんなんだそうだ。
国のヨクデキマシタっていう計画は村民はヨクデキマシタって判子はつかねえよって。
最終的には村民からヨクデキマシタっていう判子をもらわなくては、復興になんねんで
ねえのっていうね話はすんだけどね・・・。
でも、少しずつこういう意見を出していくと聞いてくれる職員もいっから。
変わっていくと思うんだけどね。議会としてってさっき言われたけども、議会としては
一人ひとりの議員の認識がなんせ違うから、なかなか共通の立場に立って
ひとつの要求をしましょう、ってふうにはね、なかなかむずかしい。
けして飯舘村の行政組織だって議会だって、へんな意味でね、へんな意味で大きな
間違いをするような段階ではないとわたしは思うよ。その点は請けあってもいいと思う。
ただ、ほんじゃ国を相手にして自らやる、ベストでないにしても、よりいい計画を
作っていくだけの力が発揮できんのかっていったらば、クエスチョンマークなんだな。
大きな、例えばまったく村にとってあれはマイナスだったなあ、てふうなことには、
いまの段階ではならないと思う、それだけの良識は職員だって議員だって持ってると
思うけども、いまは状況が違うんだもん。
いままでのように地方交付税が来た中で村が判断して事業どうすっかっていうことで
ないんだもん。国との政策のかかわりなんだもん。国とどうやって渡り合うか。
相手は法律を根拠にしてくるでしょお。こっちは条例しか作れないんだよ。
法律を作れないんだよね。だから国会の作った法律をもとにしてほれ基本的にね
官僚はやってくるわけだから。それに対して、村の現場としてそれは合わないよ、
それは違うよ、ってことをやんなくちゃいけない。
ほうすっとむかしのように、地方交付税をもらって、じゃあ村の事業を
どうすんのかって決めることとは、わたし全然違うと思う。
行政の継続性だってね、ある意味これ、なくなってきてるわけだし、
まったくこれ異質な段階の中で、違う段階の中でやんなくちゃならない。
そうすっと議会としての、あるいは議員としての権限が拡大できっかっつったらば・・・
じゃあ飯舘村の村議会ね、法律変えられっかっつったら、それは認められないでしょ。
じゃあ何を機能拡大してったらいいのかって、やっぱり政策立案だと思う。政策立案と、
あと国に対する渡り合いだなあ。実際、政策を立案したってさっき言ったように
単独予算だけではできないから、国と渡り合っていかにわれわれがその事業が
必要なのかっていうことを説明していく。その能力だべな。
だからこれからは、これからはだ、こんな形で避難してんだから、この原子力災害に
立ち向かってくためには、そういうことをやれる議員の人たちを選んでくれよ、
ってわたしはやっぱり思うわけね。
だから、負げねど飯舘!!の人たちに対しても、村長選挙のときは背中を向けて、
おらあ関係ねえよと、村長わがひとり責任取ってやれ、って思ったよって言うわけだ。
だとすんならば、こんどは村議選は背中向けて済まねえよと。
わががそう思うんだったらば、わがらの代表を出せと。12人まで選ばれんだから。
そしてこんどは、村さいっときと違って、地縁血縁なんて関係ねえんだから。
もうみんなばらばらにね、避難してて、むしろどっちかっつうと次回は
新人に有利だと思ってる。
新人がそういうものを担ってやってくことになれば、いままではな、じゃあおらは
おんなじ部落だから投票したとかお祝いもらったから投票したとかって考えてる人たちが、
あーほやって若い人たちが出てきたってことになれば、必ず見てくれるはずだから、
負げねど飯舘!!の人たちも、ぜひ代表を出して、いまわれわれが議会として
足りねえ部分を補ってくような形にしてくれろ、ってわたしは言い始まってる、正直のところ。
わたしらが初めて議会議員に入ったのは40代半ば。
いまいちばん若い人だってハあ57~58歳だハあ。議会ん中でな、
この年代の人たちが、こう言っちゃなんだけども、いままでやってこなかった
放射能災害に対してどうやって勉強してどうやって国さ渡り合うんだ。
わたしだって長年やってこさせてもらって自分で精一杯努力はしてるつもりだけども、
やっぱり若い人たちの能力からすると、わたしたちだってもう劣ってるわけだから。
役に立たねえ議会だって批判もずいぶん聞いてるし、でも役に立たなくても
一所懸命役に立とうとしてる人も中にはいるんだよ、とわたしは言うんだけども、
村民にとってみればね、まったくその通り。自分で法律は決められないし。
だけどもその中で、できるだけのことはやろうと、それぞれはしてると思うんだ。
みなさんそれぞれ、一般質問なんかでそれぞれ努力はしてんだから。
ただ、果たしてこれからね、国と渡り合っていくときに、いままでの経験を生かして
なんて話ではないんだべなって、わたしは思うんだけどな。それもある意味では、
われわれの下の年代に任せていければなあっていうふうにね、思うんだけど。
なんぼ村長選挙にはおら関係ねえんだって言ったって、議員選挙にはまったく
背中向けるわけにはいかねえぞって、こないだ負げねどのメンバーにも言って。
やっぱりこれはなんとかしなくちゃいけねえべ、っていう話をね。
経験でね、議会活動をやるようになってくっと、ダメなの。いろんな物事の進め方がね
慣れてきて、むかしこうだった、こんなふうに処理してきたんだなんていうことを
やってるだけでは、これは道なんか開いてけねえな。
だから、むしろ議会活動に慣れない人たちがいっぱい入ってこねえと、
変わんねえと思う。ましてやこの災害だからね。
わたしはむしろ、そっちのほうに懸けたいなと思ってる。
――それが来年(2013年)の9月ですか。まだ先は長いですね・・・
菅野 だからあとは、やっぱりいまできるだけのことはね、わたしはさせてもらうし。
まあ、ね・・・むずかしいと思うけども・・・
――それも含めて長いスパンで見る視線っていうのが、なきゃいけないんだけどなあ・・・
菅野 前田さんね、60歳・・・わたしらだって自分がからだ動かなくなったときに、
年金でどうやって暮らしていかなきゃなんないんだっていうのは、意識し始まってます。
60代半ばになってくっと、みなさん年金もらい始まんです。
年金をもらうってことは、どういう仕事をやって暮らしをつないでいったら
いいのか、どういう村づくりをやっていったらいいのか、て考えるうえで、
わたしは価値観が一変すっと思う。
自分が例えば40代だったらば、これからどうやって子どもを一人前にしなくちゃ
いけねえのか、そのためには自分はどういうふうな仕事をしなくちゃいけねえのか、
そして村にはどういう地域であってほしいのか、ていうことを考えるわね。
自分が年金、まあこれはすべての人ではなくて人によってはなんだけども、
年金もらい始まれば、じゃあ自分はこの年金をベースとして村で暮らすためには
何が必要なのかったらば、子どものこととか子どもの学校のこととかという関心の前に、
自分がどういうふうに例えば医者にかかれんのかとか、
そういうことになってくんだ関心はね。
だから、じゃあこの飯舘村が放射能の被害を受けて復興すっときに、
ホスピスっていう話もあったし新しいエネルギーをどうすっかって話があって、
それはやっぱり考えるべき年代の人たちがいると思うのよ、
将来を長いスパンで考えるってことは。
60の人は10年スパンで考えると70になってしまうという意見をよく村民から言われる。
あと5年戻らにのか、おら80んなっちまうどって話なんだよ。われわれにとってみれば
(5年後は)65だからまだ、頑張れると思うけっども、いま75の人は80になったらば、
もう自分のそっから先を考えろというのはわたしは無理だと思う。
だからその人に10年先を考えろ20年先を考えろって言うのは、よっぽどその価値観が
歴史的視点を持ってる人だったらば理解できるべっけども、ほでない人は、
ほんだらおら死んじまってるから分かんね、っていう考え方になってくんのな。
だからこの、長いスパンで物事を考えてくってことだって、それに相応しい年代って
あんでねえのかなって思うのな。10年先15年先20年先を考えるっていうのは、
まあ年代を区切るわけにはいかねえけども、やっぱりいまの40代の人たちが
いちばん考える、自分のこととして考えられるべと。
わたしらの、自分の中でね、さっきのほれ「一代とばし」でねえ、先祖たちがいろんな
苦労をしてやってきて、200年前の天明の飢饉の記録なんかも残ってるとこ見っと、
普通の人よりは長いスパンで物事を考えられるようになってると思うけども、自分の中で
あと20年先っていうのは、そこまで生きていないってふうに自分では思うからね。
だから、わがことに考えればそっから先ってことはなかなかね、見えない。
そこはそれ議会議員だってね、バランスってものがあっからすべて若い人がいいとは
思わないけども、今回の震災に限ってみれば、やっぱりむしろ若い人たちの力を
どうやって引き出していくのか、ていうほうがおれは議会は手っ取り早いと思う。
ほんな感じがするんだな。
そこまであと9カ月あっからっていう話があっけども、それはそれとしてね、
まあ一所懸命それこそお互いに刺激できる人とは刺激し合ってやらしてもらうけども。
わたしはそこで脱皮していかねえと、役に立たねえと言われる議会が
本当に役に立たねえ議会になってしまうんでねえのかなってね・・・
――ただこんどは、若い人たちが中心になっちゃうと、
じゃあ村を出よう、ってなりかねないですよね。
菅野 だけど、それは、さっき言ったようにね、国の政策は飯舘村は帰村を前提とした
政策をやってるでしょ。予算措置が帰村のための予算になってるんだよ。
いまのバランスは、帰ることに対する予算はどんどん出てくると、だけども、
すぐには戻れない人たちのために何ができんのかっつったらば、何もできないんだ。
情報を流すとかね、ほかさ行った子どもたちも学校の行事に参加して、
沖縄に行ったりドイツに行ったりすることができるくらいなんだよ。だから、もしだよ、
若い人たち、おらは出ていきたいんだっていう人が仮に多くなったとしたって、
あとはこんどは国とのせめぎ合いになっから。
それはそれでわたしは非常にいいせめぎ合いになっと思う。で、そのうえでな、
そのうえで、じゃあ飯舘村の帰村をどう考えんの、あるいは帰んね人はどうすんの、
っていうことがね、ある程度案が出てくっと思うんだ。
いまは、おそらく多くの村民が不安に思ってんのは、国が帰れという政策を取っている、
で村長が最もその帰りたい人のトップを走ってる人だと。飯舘村の議会議長も帰りたい
っていう人だと。オール帰りたいだから政策が偏ってるっていう判断だと思うのね。
そこで、おら帰んねんだと、帰んねところで村のことをどうすんだというふうに
考えなくちゃいけねえから、ほんときにある意味バランスが取れっと思う。
じゃあ全部帰んねっていう人が当選すんのかっつったらば、それはちょっと
無理な話だからね。
――もし仮にそうなったとしても、たぶん・・・できないんでしょうね。
国がそれを認めないですよね。
菅野 できない。だからおそらくこんどは国とのせめぎ合いをね、やってもらって。
その中でベストではないけども、よりベターな道を見つけていくしかないでしょお。
国はこうやって認めねえよっていうときには、ほんじゃあ飯舘村にとって
帰りたくねえっていう人もいて、どういう政策がいいのかっていうことを
わがたちになって本気になって考えて、国に要求するものは要求していく、
それで要求が実現できねえものはできる範囲の自己財源の中で
それを補っていくとかって、そういう政策を立てるしかないでしょお。
けしてそれは理想的な政策ではないのかもしれないけども、そういうことで
よりベターな道を見つけていくしかない。議会の中にあってはね。
むしろそのほうが健全だし、もしかしたらいい道が見つかるかもしれない、
偏った道ではなくて。選択肢が増えてるもんな、いろんなね。
で、もしかすると長期のスパンていう考え方がそこに入ってくんでねえかと思うんだ。
国が5年だ3年だって言うときに、いやちょっと待てよと、若い人たちも含めれば
子どもたちを含めれば、10年15年20年ていう考え方だって必要だべしたと。
もちろん国は、国の予算は単年度で予算を組むから、来年の予算は来年の予算であって
分かんねって言い方をすっかもしれねえけども、原子力災害からの復興は長いスパンで
ものごとを考えていきましょ、っていうふうになっていけば、少なくともいまの政策よりは
もっと厚みのある、みんなに寄り添ったものになんでねえか、って感じがするのね。
いまの、おそらくいまの議会の状況では、20年先まで考えましょうって言ったらば、
おらあその頃死んでっぺした、て言われて終わりだもんな、いまの状況だとな。
ほんな感じがする。
それは若い人たちが入れば、そういうことだってあり得るよねえ。
だってねえ、40代の人が入れば、当然20年先っていうのは自分がまだ
生きているときの姿だかんねえ、具体的になってくるし、ある意味では
議会の中だって、じゃあ検討すっぺってなってくんでねえかな。
なにも国から復興基金をもらえる3年間だけの話でねえべって、当たり前なんだよね。
負げねど飯舘!!の人たちだってな、あの人たちだってほんとであれば、
こんな事故が起きねかったらば、村を支えてくれる大切な戦力なんだよ。
まあ、おらの後輩でもあるしよお、大切な人たちなんだよ、その人たちが
この村長選挙にあたってな、結局みんなでいろいろ相談したんだけど、
村長さ責任取らせっぺと言って背を向けたと。
こんなの、一部の政治的なものの中では当然あるわな、わがの支持者でねえ人が
村長になったからちょっと意地悪言ってとかなんとかあっかもしらんけども、こんなしてね、
みんなして避難してっときに、あの貴重な人たちがこういうふうになってる、
おれはそういうのはやっぱり許しておかんねえの、基本的に。
それは個人の考えだからどうでもいいって人もいんだけど、
ほんなことしていいほど飯舘村は人材が多いところではないです、
限られた人材の中でやんなくちゃいけねえんです。
限られた人材の中でやるってことは、一人ひとりを大事にしなくちゃいけねえ。
その一人ひとりがばらばらになってるような状況はおれは許しておかんねえの。
それを考えっとね、だから村長にもっと若い人たちの意見を反映できるように
してくれろ、と言ってはいんだけども、なんせ忙しいんだそうだ。さっき言ったように
国から二重丸の判子をもらうためには、いま職員は一所懸命だと。
だから、それは、わたしらがもしな、この(村議員という)立場から離れたときには
なんかの形ではその架け橋にはなりたいとは思ってる、わたし的にね。
だけども、なんせこれはね、村ちゅうのは僅かこれくらいの人数しか
いねえんだから、おら違げよーおら違げよーってみんな背を向けてたらば、
村なんてのは成り立たねえ組織なのね。
それから言うと、もう少しみんながね、こう振り返ってよお、まあ意見は違ったけど
一緒にやっぺなと、いうふうなことにできねかなあ、とおれは思ってんだ。
お互い背を向けるようなことでねえように、なんとかね、できねえかなあって
おれは思うんだけどね。
うーん、できっと思うんだ。みんな、もしかすっとな、興奮から目え覚めてよ、
ふと頭にな描くんでねえかなあって、おれは思う。
だからね、大したことはできねえけども、なんとかしなくちゃいけねえなって
感じはしてるし。村長にだってな、分かってもらわなくちゃいけねえし。
片っぽではね、国とは一所懸命やらせてもらうから、いろいろとね。
だから前田さんもな、いろんな見方はあっと思うけども、なんとかね、
こんなことをみなさんがね、考えられるような記事にしてもらって、
ふるさとはね、帰られるようなね・・・
――最初はそもそも写真を撮らせてくださいっていう、それだけだったんですよ。
で村長さんに電話して、写真を撮らせてくださいって言ったら、何に使うんだって
言われて。ただ写真を撮りたいっていうことがちょっと伝わらなかったんで、
じゃあ記事にしますっていうことになったんですけど。メディアに対してかなり
不信感はあったようですね。
それでまあ、とりあえず3回書きましたけど、それはまだほとんど人の話も
聞かない中で自分が見て回って印象だけで書いてるんで、まだまだ村の実態を
伝えるというところまで届いてないんですけど。
そのあといろいろ話を聞いてるとね、これはうかつに書けないなっていうこと
ばっかりになっちゃったんですよ。あまり軽々しく、ここはこうすべきじゃないかって
書ける問題じゃないですよね。考え方もみんな違うし、答えがないんですよ。
菅野 ないし、根が深いんだ、やっぱり。
――だから自分ができることっていうのはたぶん、解決策を探すことじゃなくて、
その根の深さを知ってもらうことかな、と。
菅野 そうなんだ、そうなの。単にこれが原因でうまくいかねっつような話でなくて、
みんなそれぞれいままで生きてきたのが、うんとこの根っこ張って、
地域的にも根っこ張って時間的にも根っこ張ってこうやって生きてきて、
そしてまあ、町の人から見っとどろどろっていうところを含めて村としてね、
やってきたわけだ。それが一回ね、ご破算になって、いろんな人たちが入ってきて
地域ばらばらになって、ある意味飯舘村の人たちは一回ばらばらになって芋洗いみたく
みんなこう、がらーっとね、シャワーを浴びたわけだ。
それで飯舘村の村民でなくなったあと、じゃあどうやって飯舘村さ戻っかっちゅう話に
なってっから、おら戻りたくねえっていう人から早く戻っぺっていう人もいるよと。
こうやって見てみっとね、非常に根っこの深い重層的な問題がいっぱいあるっていうかね。
――それって日本の農業が抱えている問題とも、かなりリンクする、
同じだなと思うんですよ。例えば農業やるっていったら、最低でも1年っていう
スパンが必要じゃないですか。
手を入れて作物が作れました、これはどうもうまくいかなかったからこんどは
こうやってみようって変えたら、その結果が出るのってまた1年後ですもんね。
もうちょっと時間をかけなきゃ結果が出ないってこともある。
そういうサイクルの時間軸でものごとを考えるということが、やっぱり都会の人間には
できてない。いま自分がこういう生活をしてる、それだけなんですよ。
何か問題があっても、仕事さえあれば別にどこに住んだっていいわけで。
場合によっては会社ごとどこかに移っちゃえばいいんだってことにもなる。
土地に根ざして生きていく、その中でどうものごとを考えていくっていうところが、
単純な地縁血縁じゃなくて、その自然の営みの中に人間がいる、っていうところから
必然的に出てくるものの考え方なんですよね。
それがまるきり、いまの日本人の都市生活者にとってみれば、生活自体が
変わっちゃってますから。だから今回のような問題が起こったときも、
土地に対して資産価値が下がるという言い方がされると。
農家にとっては資産っていったって、それは親から受け継いだものであるし
子どもが引き継ぐものであるから、その土地そのものを金額に換算するっていう
発想がないじゃないですか。
菅野 ないない、売ってしまうってものじゃないからね。引き継いでいくものだから。
――そこから何らかの農作物を収穫して初めてお金になっていく。
これはお金を生んでくれるものなんですよ、それ自体がお金になるものじゃなくて。
そういう発想がないところでものごとを考えてるから、違ってくると思うんですよ。
菅野 わたしらはね、自分のうちを自分では買ってないんだわね。
だから自分のもんだっていう意識はない。代々引き継ぐもんだっていう意識なんだね。
――しかも土葬とかになると、要するに自分の親のからだが土になってるわけじゃ
ないですか、この土地になってるっていう。それはやっぱり、そういう人の身に
なってみないと分かんないと思うんですよね。
自分なんかは親は火葬、親父が早くに亡くなったんで、火葬してお骨になってて、
お骨があれば別にどこに行ったっていいわけですよ、極端な話。
お寺さんとの関係とかはありますけど。
菅野 ああ、そうだな。遺骨は運べんだな。
――田舎にうちの墓はあって、その墓は自分の親父が最初に入ったんですけど、
そこにお骨は納めてあって。そういうのが考え方の根っこにあると、
たぶん相容れないものはあるし。
だからそういう相容れないものがあるんだよと、そのうえでこの人たちは
こういうふうに考えてるんだよというようなことを理解できないと、
軽々しくあそこはもう人間の住むところじゃないからとっとと出ていけ、
出ていったほうがいいということを普通に言えちゃうわけですよね。
菅野 わたしら村を離れてね、最初にここ(仮住まい)に去年の7月6日にね、
すべての牛の処分を終わって、うちのまわりを片付けて、7月6日にここに来たときに、
ほんとにこの、後ろ髪を引かれるっていうかね・・・
ほういう言葉は知ってっけども、自分でそういう感じになったときはなかった、
いままでね。60になって初めて後ろ髪を引かれたなっていう。
誰もいなくなるってことは許されないんでねえのっていう思いがね、あって。
だってむかしっから正月でも大晦日でも、みんなで家族が出かけたりしたって、
誰かは一人残るっていううちだったからね。もちろん正月とかね、お盆なんつうのはなあ、
どこさも行かないでお墓参りをしたり神さんを拝んだりなんだして。
で(平成)23年7月6日にね、わたしらここに来たことによって
わたしのうちには誰もいなくなった。ある意味ではこれは(飯舘の土地での
菅野家の歴史)400年間で、初めてのこと。
なんでそういう意識になんだというと、やっぱり自分だけでなくて自分の親父とか
ばあちゃんとかね、ほういうのが代々いろんなことをねえ、やってるのをずっと見てるから、
こんな山ん中でけして豊かな暮らしではないけども、そうやって繋いできたっていう意識が
あるでしょ。だからそういう感覚になんだとも思うのね。
だからある意味では息子らもそういう思いはね、やっぱり引きずってんだろうと。
そんな気がするのよ。
――この間会って話を聞いたときも、菅野という家系の中に自分はいるけれども、
飯舘村の歴史の中で、自分が飯舘村の中の菅野として存在できないということを、
すごく寂しいと思ってるみたいですね。
菅野 それはやっぱり、いろんなことが積み重なってきてここにいま至ってる、
っていうとこにね、生まれ育ってきてるから、おれらからすっとね、若い人たちが
そういうふうにね思っちゃうっていうのは、ある意味ではたいへんなことだし、
かえって苦労しちまうんでねえかなあと思うんだけども、しょうがねえわな、
そういうふうにわがが感じんだから。
だから、それがやっぱり地域を考えるというねえ、地域を考えたり
同じ地域に住む友達を考えたり、そしてそれが広がっていって
村を考えたりっていうことなんだべと思うのな。
だから簡単にな、じゃあ飯舘から出たらいいべと、長野県に土地あっから
行ったらいいべ、とやっちぇ、じゃあ新天地をそこに求めましょ、いうふうになんねえのが
そういう代々積み重ねてきたものがある。
じゃあそれは、価値のあるものなの? 東電の賠償にとっては
価値のあるものではないんだけども、そこに生きてきた人間にとってみれば、
要するにお金の価値はないんだけどもやっぱり大切な価値なんだよ。
自分の親父がこの木を植えたとか、じさまがこの木を植えたとか、この池は誰が
掘ったんだとか、確かにお金にしてみっとほんな価値のあるもんではねえんだけども、
そこに住んでる人にとってみれば非常に価値がある。
で、ある意味ではこれからの日本は、話が広がるけども、そういう
お金の価値でないものの価値を大事にするような国になってかないと、
成熟した社会になんねんでねえのかなって、おらは思ってるわけね自分でね。
だからそういう点では、いままで飯舘村は日本の道標になんでねえかなって
自負心はあったんだよ。こうやって頑張ってけば、ああ飯舘村のここに学べとね、
この地区でやってるこいつを参考にしながら地域づくりやっぺとかってふうに
なってくんでねえかなって思っていたんだけども、
今回こうね、ご破算で願いましてはとなったもんだから、まだこっから復興に向けては
このことを確認しながらできればいいなあってね、思ってんだけども。
――うーん、でもまあ、非常に楽観的な見方かもしれないけども、これでちゃんと
復興できるのであれば、こんどはその復興の過程の中でそういった価値観が
大切なんだってことが明らかになったうえで、新しく村づくりをやるわけですよね。
ということは、いままで飯舘村がやってきたことの一段階上に上がったところからの
スタートなんですよ。
菅野 そうそう、だと思ってんだ。当然ね、これが成し遂げられれば、
いろんなものが見えてくるだろうと思ってるのね。
いままでの飯舘村の中では混沌としながらもうすうす感じていたものが
もっとはっきり見えたり、いろんなものが明らかになってくんだべな。
そしたらば、次の新生飯舘村の中ではいままでの単なる延長ではなくて、
バージョンアップを図れるんでねえのかなって。だからここまでやれれば、
変な意味だけども、この災害もある意味では役に立ったなあって、
いつかは言えるようになれればいいなって、自分ではそこがゴールだなって
思ってんだね。そのへんあたりがゴールだべな。
――それはどんだけ時間がかかるか分かんないけども・・・
菅野 そうなんだよね。そのへんを、まあまだ先は分かんねんだけど、
このへんを目指してくべなって合意くれえはできねえかなって思ってんのよ。
村の復興はそのへんを、時間的な問題とか方法とかはさておいて、そのへんを
ゴールにするためにいくべなっとね。それができればなあっていう感じだ。
じゃあおめはあとなんぼ生きたいんだってハあ言われっかもだけど、合意ぐれえは・・・
その合意をするためにいまやんなきゃいけねえことは、やっぱりひとつの方向を向くこと。
まあいろいろ価値観が違うからねえばらばらになるって、それが放射能被害の
特徴だって村長は言うんだけども、放射能被害は受けた、だけども、まあみなさん
いろいろ考え方は違ったとしても、方向はあっちの方を向きながら考えるべな、
っていうなんとか次の段階にね、していければそういう方向がねえ、
結びついてくんでねえかなと。
いまほの、方向がとにかくみんなばらばら。でご存じのようにね、議会も村も
多くの村民の気持ちを集められるようなことができていない、
帰ることしか考えねえ村と役に立たねえ議会、という話が出てくる。
そして若い人たちは、村はおらたちの将来を考えてくんねえっていう不満が
寄せられる。そういう中でやっぱりねえ、何か、ひとつの方向を向いていくための努力、
これは復興基金を使うとかなんとかとは関係なくやんねえと。
――若い世代でも対話を重ねながら考えていこうという動きもあるようですけど。
菅野 ほんとならね、われわれのときは例えば青年会があったり、
農協青年部があったり、商工会というもんがあったりして数もいっぱいいたからね、
わらわらって組織があって、ほの中でお互いこんなことやっぺあんなことやっぺなんて
村の予算を無駄遣いしながらよお、ある意味ではずいぶん失敗もした、
ほかの人に迷惑もかけたりしながら、こうやってお互いにぶつかってきたべした。
息子らの年代はこんなことになっちゃって、そのぶつかり合いが
直接的に少ねえんだわなあ。
――ばらばらに散らばってそれぞれの生活をしながらだと、
そうしょっちゅう顔を合わせるなんてできないですもんねえ。
菅野 もちろんインターネットの力とかね、そういう力はむかしよりは
数段上なんだけども、やっぱり直接ぶつかったり直接なんか一緒に
やったりしないと、分かんない部分てあるでしょ、やっぱりね。
メールでお互いに確認するだけじゃなくてお互いに直接会って喋るとかっていうことで
分かることもあるし。そういうことができない中で若い人たち、すべてとは言えない、
グループでもなんでもやってくってのはたいへんなことだなあって、おれは思うのね。
――たぶんそれはいままで村という小さなコミュニティーの中で自然にできてきたこと
なんでしょうね。そこらへんを歩いていれば顔を合わせるから、挨拶するなり、
あれはどうなったこうなったみたいな話もできるだろうし。
菅野 だからほれ、おめ消防団に入んねえかって言いながら交流をやるようになる。
だけどそれが離れていてねえ。
――よっぽど意識してやらないと、そこへ向かわないですよね。
菅野 うん、向かわない。だから村民の中にも、もっと村が・・・村が、って言うのは
行政目線になってしまうからおれはあんまり好きではないんだけど、もう少し村もほれ、
若い人たちに対してアプローチをするような方法取ってくれろ、っていう話したんだけど。
なんでもいいから考えてることをなあ、寄せてくれろっつってねえ、
ゼロ予算だってできっと思うんだ。その意見の集まった中で、じゃあねえ、
そいつをまた見て意見を交換すっとかねえ、ほなことができるわけだから。
いまのところまったく若い人たちに対するアプローチを村はしてないからね。
どっちかっつうと、避けていた、とわたしは感じるほどだったから。
まあ息子らもねえ、息子だってなんかはやると思うし、
おれもいろいろパイプを太くしながら同じ目線になれればいいなあと、
そういう努力はしなくちゃいけないし、あと受け皿としてね村がね、
そうやってやって、なんか意を汲み取れるような体制を作ってもらうとかねえ。
わたしらが若い頃は、やっぱりなんだかんだいって活動する舞台は
与えてもらってたからねえ。全部自分たちで自主的にやってるようなんだけども、
いろんな舞台は村は惜しげもなく与えてくれたから、ほしてそれを大切だと
言ってもらえてたからねえ。
こうやって若い人たちがやることが非常に大切なんだとね、ぜひ頑張ってくれろ
って当時の村長あたりから直接言われるわけだからねえ。
だから、ほうゆう村だったから、もう少しやっぱりねちょっと、
悶々としてる若い人たちに対して、何かもっとね、できないのかなって感じがね、
してんだけど。
村がやるっていうことになってくっとね、やたら行政目線になっからなあ。
そいつは避けなくちゃいけねえなあなんてね、思ったりしてんだけど。
負げねど飯舘!!をやってる人から手紙もらったりしてっから、
そのへんきちっとボタンをかけてやりたいなという思いはあるんです、わたしは。
――話として聞いたのは、負げねどの人たちが役場の人とすれ違っても
無視されるとか、役場に言ってもヘンな視線で見られるとか。
菅野 「役場」っていうのが具体的に誰の目線なのか、ちょっとわたしにも
分かんねんだけども、なんかちょっとね、無視されてるっていうのが実際あったというね。
そういう(若い人の意見を)ね、生かせないのかなあとね。
ほうすっと若い人にとってみれば、自分はほかに影響を与える力はないんだと、
ほんなふうに思っちまうんだべ。おれはその気持ち、ほんと分かる。
誰も何も反応しねえっていうのはねえ、耐えられないと思う。
わたしらの年になればねえ、(あいつらには)ほんだけの力がねえんだと
思うかもしらねえけども、若い人たちにとってみればハあ、無視されてるか
自分に力がねえんだって考えたくなんだべ。
むかしの村はほんなんでねかった。たとえ大したことなくたって、
んだな、おめの言うとおりだな、頑張れな、っていうこともあったし、
あれはにしゃなんだ、こんなものまだまだだ、もっといいもの作ってこい
ってあたま叩かれっか、そういうことあったんだよ。無反応はなかったんだよ。
この災害に遭ってから無反応ってのが出てきたんだな。おれはほんな気がすんの。
要するにお互いに考えが違うんだから折り合うことができないんだっていう、
なんかそんなんが出てきたんでねえのかなあ。放射能の被害の特徴の1つとしてね。
例えば10ミリで非常に気にする人もいれば50ミリでも気にしねえ人がいる、
そういうのが当たり前なんだみたいな話になってきて、あの人は放射能に対して
敏感なんだから非常に神経質に考えてんだと。おらはあんまり神経質でねえから、
お互いに考え方が違うんだっていうのが当たり前になってきたんだと思うんです。
――前提が違うんだから意見を交わしても無駄だと。
菅野 そういうふうになってきてると思うのね。それぞれ考え方の違いがあったって、
じゃあお互いに分かり合えないんだっていう前提でものごとを見たらば、
村づくりなんかできねえんだよな。お互いに分かり合えねえのが当たり前なんだ
っていうところから始まっていかないとできねえんだけども・・・
――それをどうすり合わせていくかってことですからね。
菅野 そうそう、どっちみち目指すべきゴールは一緒だとするならば、
こっちの道へ行くかあっちの道へ行くかみたいなところまでいければ
いいんだけど、いまのとこはまったく背中を向き合わせてっから。
そのへんをどうやって埋めていけるのか。
――例えばそこで喧嘩するなり意見をぶつけ合えればいいんだけど、
結局そこで言っても分かんないからってなってる・・・
菅野 そうそうそう。
――息子さんは、最後は親父と喧嘩になる、って言ってましたけどね(笑)
菅野 おれはね、お前はそう言うけども、おれは牛を少なくとも何十年やってきて
ほかの人に迷惑かけないで子どもたちを育ててきたんだと、ほういう実績があるんだと、
お前にはその実績はまだなんだとね、そういう前提で言うんだけども、
でも考え方が違うのは当たり前、だって世代が違うんだもん。
わたしらだって自分の父親に対して世代の違いは感じたし、それは違うのが当たり前。
ただ、どうせ分かんねえんだでは済まさねえんだ。
分かんねかったらば、おらが分かるまでちゃんと説明をしてみろと、おらも息子には
ちゃんと説明はすんだよ。分かった分かったって席立つのはそっちだからな、
そっちの負けだと。先に席を立ったほうが負けだから(笑)。
ほんとき十分わかんなくたってな、あとで分かるぶんもあんだべとな。
――特に牛をやってるとお互いに好きなことやってたら
牛はちゃんと育ってくれないだろうし。
菅野 んだ、自然のもの相手にするってのは
自分の考えたとおりになんていかないんだよ。
天気だってそうでしょお。ほんとはね、絶対もうハあ雨の降んないときが1週間とかね、
毎年春夏秋に必ずあってそのときに草刈ってねハあ、順番どおりに進められれば
非常にわれわれはラクだ。
だけど天気予報は当たんない、晴れるって言ってたのに雨が降ってきたりする、
そういう中でよりいい仕事しようと思って頑張ってるわけだ。
牛だってね、人間の都合だけで事故も何もなく育ってくれるもんでもない。
人間がちょっと油断すると何かの、思わぬ原因で牛が病気になったり、
あるいはケガしたりっていうのが出てくる。
だから、そんなにこういう仕事、農業をやってっと自分の都合だけでは通んないと、
会社の中で上司が部下に命令するようにすべての命令ができるというもんでないから、
ほうすっとやっぱりそこん中で、人間の世界だけでなくて自然との関わりの中で
生きていくってものが自ずと身についてくる。
場合によっては、今回の災害で東北地方の人たち、福島県の人たちが比較的
おとなしいって言われてんのは、ある意味ではそういうこともあんのかもしれんな。
もしかすっと自分の力だけではどうしようもないものに対して、もしかすっとわれわれは
じっと耐え忍ぶっていうクセもあんだよな。
冷害でコメ取れねえと、コメ取れねえからカネねえと、食うコメがねえ、
ほんじゃあ食うコメよこせってデモすればいいのかっつったらば、
それよりは自分の中で、なんとか収入の道を見つけたりカネを工面して
なんとか耐え忍ぼうよってやってきてるから、
そういう点でねえ、福島県の人たち、みちのくの人たちはおとなしいってねえ
言われんだども、そういうのと関連があんのかなと思うときがあんだけども。
それだけに根っこを張ってる部分があるから、そういう点では復興の仕方も自ずと、
町の人が考える復興の仕方とは違うはずなのね。それはやっぱり自分たちで
やってかなくちゃいけねえ部分があると。
じゃあどういうふうに違うんだと、それを説明しろって言われっとねえ、
またこれが頭が痛くなんだけども、それは確かに違うんだよ。
それはやっぱりあれだべな、そのあたりをほんとは
村長が上手に発信できれば非常にいいんだべな。
(地震。ガラスの嵌った窓や戸が振動で大きな音をたてる)
――飯舘は下がしっかりした岩盤だから地震の被害も大きくなかったって聞きましたけど。
菅野 岩盤がしっかりしてるったってね、あの揺れは凄かったな。でもな、
津波っていうことはわれわれ経験することはなかったからな。放射能は予想外だったな。
奥さん 放射能で汚染されたとこはいちばん最後にテレビに出るんだなと思ったら、
やっぱりそうだわね。みんな放送は津波ばっかりでね。飯舘村は国のほうで
「計画的避難」て勝手な言葉つけてね。よく作りましたね、あの計画的って言葉。
意味分かんないでしょ、何の計画なのって。
菅野 計画のない計画的なんだよ。(計画的避難が指示されたと言うと)
あ、ほうなのかって言うんだよ、でどういう計画なのって聞かれんだよね。
国としては計画を持ってない、だけども1カ月間でやれってことだから計画的避難
って言葉をつけたんだっていうね。ああいう言葉を考える人たちがいるんだべねえ。
「計画的避難」とかね、それこそ今回の「居住制限区域」とかね。
奥さん 誰がああいう言葉を作るんだか、国がそういうことを決めるんだよね。
そのうち社会のテストにでも出てくんでないかなと思いましたよ。
菅野 東電だって「包括賠償」とかね「不耕作休業補償」とかね、
これだけで大した試験になるね。やっぱり、こういう目に遭ってみっと
津波の人たちはたいへんだべけども、結局いちばん時間がかかんのはおれらだべな。
奥さん ほんと、こんなになるとは考えてもみなかった。
4月初め頃ね、津波の状況はどうなのか、自分のこの目で見たいと思ってね、
原町のほうまで行って見てきましたもの、あの惨状をね。
そうしたら飯舘村が最悪になるって、考えてもみませんでしたよ、あの頃。
菅野 津波ってなあ、これはたいへんなことだって。
奥さん 全部失われて。あたしら行ったときはもう暖かいときだったから、
においがすごかったの。行ってみませんでした、浜のほう?
――5月の健康診断のときに初めて飯舘村に来て、その帰りに相馬市に行きました。
奥さん あの健診のときの東大の先生のアドバイスもなんだか・・・。
わたし毎日歩いてたの。そしたら、ここ離れたところまで車で行って
そこで歩いてみてはどうですか、なんてそんなアドバイスで終わりなんだもの。
菅野 しょうがないんだよ、あなたの日常生活が分かっててアドバイスできんじゃ
ないんだもの。それを聞いたうえで、あとは自分がどういうふうにそのアドバイスを
考えんのか・・・
奥さん こうなってみるとわたしは、落ち着ける方法を求めたもんねえ。
こんなふうになってみて。
菅野 いつかね、避難する前にうちの中で喋ったの。おれは区長さんと約束したとね。
地区の中でぽつぽつ櫛の歯が抜けるようになって不安だっていう人が増えてきたんで、
区長とわたしはいちばん最後に避難するってみんなに言うべって、ほしたらみんな
少しは安心するべってね。そういうふうに約束してきたから、いちばん最後になっどっと、
覚悟しろよって言ったの。「分かりました」って答えたの。
奥さん 「分かりました」なんて言ってないわよ(笑)
菅野 だんだんだんだん村に住んでる人が減ってくっと、不安がってるのが
見て取れるんだ。あそこのうちも電気消えたと、こっちも電気消えたと、ね。
うちではいったい、いつんなったら避難できんだと。
奥さん ほんとのこと言うと、わたしここ(避難先)に来て、息を吸うことが何よりも
嬉しかったですよ、息を吸うことが。あそこ(村の自宅)にいるとなんか息詰まったの。
そしてここへ来て、窓を開け放してね、布団を干して洗濯物を外に干した、
あの開放感つのはね、いままでなかったことだった、わたしは。
だって「窓閉めろ」だよ、そういうこと言われてたんだよ、ずっと。
だからあの気持ちほんと忘れられない。布団も干せない・・・
菅野 だから「覚悟決めろよ」っておれ言ったんだよ(笑)
おんなの覚悟っちゃこういうことだ(笑)
奥さん だって、こんな60年生きてきてねえ、誰も味わったことない、
でも(被災者は)みんなこうやって味わってるわけだ、わたしばっかりじゃなくてね。
そう思う、わたしばっかりじゃないんだっていうのを自分に言い聞かせて、そして心を
鎮めるためにそういう本をね、寂聴さん飯舘村に来たけれども、そんな本を読んだり、
からだを少し動かすために外に出てね、何かしないとダメだと思いましたもんねえ。
片付けしてるときに出てくるこういうもの(汚染マップ)を見ると思うの。低いところは
数値の幅が細かく、なんで高いところの幅は広く取ってあるのってわたしは不思議に思う。
この根拠はなんなのって言いたい。だって「0~1」のところは(最小単位が)「1」だよ。
(1~10、10~100とつづくように)高くなるに従って幅が広がるっつのは、
なんかわたしには理解できないんだよ。
菅野 これね、航空機モニタリングなんだよ。航空機モニタリングで測って・・・
国にお願いしたときあんの。この一つひとつ色別のドットで表されてるデータの数値を
出してください地図に落としてくださいって言ったの。国は出さねかったよ。
航空機モニタリングでね、飛行機だかヘリコプターだか分かんねんだがね、
地上1メートルのやつ(線量)を測って、どんなふうにして測んだか分かんねえけど、
いっぱいデータが出てくっと思うんだけどね、おそらくこの黄色いところ
(黄色のドットだけが集中している地域)にだって赤い(黄色で示されるよりも線量の高い)
ところはあるはずなんだよな。なのになんで全部黄色で埋めちまうんだっていったら、
少しくれえの赤は黄色にしろってやってんだべなと。
で、これによってこんどは地域の振り分けが出てくるわけよ、居住制限とか
帰還困難とかねえ、避難指示解除準備区域とかって出てくるわけだから。
だから、こんな航空機モニタリングでは信用なんねえから細かいデータ出してくれろ、
って言ったらば検討しますなんてったけど、ついぞ出さねかった。
こいつがあったから、じゃあおらはわがたちで線量測っぺと言って、
山をGPS付きの線量計を持って測って、ほいつを国とかに出したわけだ。
実際、比曽は黄色だって言うけども赤いとこあっぺ、ほれいっぺえって。
だからほれ森林除染ってなったわけね。
だから意図があんでねえかなって、これは正確に何ミリ何ミリって示すのではなくて、
線引きする前の基準として20以上のとこは居住制限にすっとか、
50以上のとこは帰還困難にすっとか、そういうことの意図があって
これをやってる仕事なんでねえのかな、って思う。
奥さん なんか不信感を持ってくんの、わたしらは。だってねえ、
健康に被害はありません、それだけをわたしら信じてずっときたのにねえ。
菅野 いま国がやってんのは、特定避難勧奨地点で積算20ミリ以下になったから
解除しますっていうこと言ってるでしょ。まあ、除染したとこもしてねえとこも
あんだけども。除染と自然減衰の結果、下がったから解除しますと。
解除する線量の目安が年間積算20ミリ、要するに3.8μSv/h以下になれば解除します。
これは避難した人間にとってみればおかしな話で、確か避難すっときは20mSv以上
だから避難しろって言われて、こんどは20以下になったから健康に被害はねえよ
戻っていいよって話になってくっと、なんのために避難したったのっていう話。
あとそんなねえ、(年間)20mSvってのは(毎時)3.8μSvだから、そこで果たして
子どもたちを連れて生活できんのっていったらば、これはできねえって話だから。
だからみんなから出てくんのは、そういうこと言うんだったらば、おらのうち貸すから
おめ住んでみろ、子ども連れて住んでみろ、ってなっちゃうわけだ。
そのへんが国がいま変えようとしないってか、あくまでも20ミリは20ミリだってね
言ってっから。なんとかこの国が出した、専門家の検討の結果20ミリだって言ってんのをさ、
どうやって村としてあるいはわたしら個人としてね、引き込んでいったらいいのか。
こないだの、去年の除染の会議では科学的根拠が20だからって言われたから、
わたしは科学的根拠じゃなくて村民的感情だって敢えて突き通したんだけども・・・
何かいいヒントないかい、この20ミリってことに対して。
それはね、健康に被害がなくたって、戻って人に住めって言う線量ではないべ。
もともと0.01とか0.02ぐらいの数値でいたところをさ、20ミリだから3.8だ、
もとの何百倍っていう数字で健康に被害がないから戻っていいんだよって、
はいそうですか、って絶対聞けねえ数値なのね。
だけど国は、ほれこそもうどんどんね出してくっから・・・
何か歯止めになる方法はないのかいって。
責任者出てこいっつったって出てこねえべし決めた人出てこいっつっても出てこねえべし。
科学的根拠でねえって言われればねえ村民的感情だあって、去年までは頑張った、
でもこれからねえ、何を根拠にしてねえ。
おれ考えたのはね、じゃあ国がほう言うんでは、その20mSvのところに住宅を
造っておくから、環境省の若い方々が子どもを連れてきて、そこで3年間くらい
モニタリングをやってくれろと。その村で。そうやって率先して安全だということを
示してくれろと。ただ仕事もなにもなくてはいられねえから、飯舘村の中の
いろんな地点のモニタリング作業をやって、それを環境省に報告すると、
ほういう仕事をやってくれろと。
おれの思いつくのはこのくれえしかないんだ。ほうすっと、ああモニタリングってのは
大事だなって環境省も分かっぺし、子どもを連れて率先して村民に対して
生活してさすけねえんだってことを指導してもらうとかって。
それができるとなれば村民だって、ああ、ほうなんだなってことになるかもしれないけど、
どっかで人がね、これでいいから戻れ・・・比曽なんかね、わたしらの集落なんか
特に高いから、恐らく1回除染やったくらいではなかなか下がんねえべから、
多少は下がっけどね、ほんだって仕方ねえよねって、もう20ミリ以下は国が
健康に被害はねえっつんだから戻らっせよ、補償も打ち切るかんねい、
で比曽でもコメ作って出してみたらいいんでねえのって、(汚染度が)高ければ
東電さ補償してもらえんだからって、ほんな言葉かけられんのかなあってね。
何かいい知恵がないですか、根拠というか。
――いくら補償されるっていっても、捨てるためにコメを作るって、つらいですよね。
奥さん 当たり前だわよ、ほんなの。ほんなのはやりたくないでしょうよ。
なんのために・・・
菅野 いままで、飯舘村なんか標高が高いから天気なんかわるいときは、
例えばクズ米が多いとかね、普通だったら1等米2等米で通るコメが3等米とかね
規外とかってあるわけよ。そういうのにものすごい苦労してきたわけな。
それは、自分の作ったコメだから規外と言われればこれはしょうがない、
カネが安いということ以外に、自分のプライドをつぶされんだ。おらこの1年間
なにやってきたんだべってね。規外のコメを作るためにおれは1年間頑張ってきたのかと
思うようなときもある、ただ天候がほうだからな、それはしょうがねえんだけども・・・
こっちは、わが作ったコメが1俵でもセシウムが多いなんて出たらば、
わがだけで済まない、地域も含め飯舘村全体にねえ、ストップかけてしまう。
ほんなことをハラハラしながら百姓なんかできねえもんな。
国がいま進めようとしてるものにストップかけなくちゃいけねえし、
それはさっき言ったように土地の維持管理だとか肥培管理とか、
緑肥を作って地力をつけるとかってことで、そういう案の中でできんのかなってことで・・・
ただ、20ミリ以下は大丈夫だっていう、戻らせようっていうものに対して、
この科学的根拠がある中で決めたって話に対して、
どうやって現場がね対抗してったらいいのか。
おれは5ミリだってことで、除染目標が5ミリだってことだから最低そこまでしないと
帰村宣言もなにもできないべし、すべきでねえって村長は言ってっけども・・・
国はこういうふうにして勧奨地点の線量が下がったから戻れ戻れってね言い始まった。
次は飯舘だって1回除染やって、まあ村の目標線量には達しなかったけども
年間積算線量20ミリである3.8μSv/h以下になったんだから比曽も蕨平も戻らせようと。
長泥だってそのうちね、自然減衰で下がればハあ戻らせようって話になってくる。
ほんでねえ、われわれが胸張って戻られんのかってったらば戻らんねし
若い人たちだってくるわけねえべしたね。そこをなんとかね、ブレーキかけたいなと
思ってんだけども。
奥さん そして孫たちが、おじいさんおばあさんと共にね、帰ってこれないということが
わたしいちばん寂しいことだと思う。ほんとに悲しいわ。
孫たちが「じいちゃん、ばあちゃん」ってね、普通なら帰ってこなくちゃならないのに、
会うのもここから県外に呼ばんのよ、やっぱり。
そんなふうになってんですよ、いま。現状は。
悲しいことだわ、まったく。お産ももちろんこっちではできなかったしね。
東京へわたしお産手伝いに行ってきましたけども、そんな現状なんだものねえ。
菅野 だから、20ミリ健康無害説に対してどうやって素人が
立ち向かっていったらいいか、ちょっと知恵を言ってよ(笑)
――自分たちで下げるしかないんじゃないですか。国は20ミリまで下げましたと、
あとは自分たちで5ミリまで下げるしかないですよねえ。
菅野 その覚悟はできてるんだよ。うちの裏山なんてね、10(μSv/h)も11も12も
あんだから、国が枝打ちをしてゴミを浚ったぐらいでは下がんないから、
それは国でそれ以上できねえときには、わがで小さなミニバックホーでも持ってって
表面の土を集めて、下の粘土層まで掘ってハあ埋めてとかやって、
ほうすっと下がるからわがでやるしかないなあと思うんだけども、
つまんないのは、20ミリ、3.8μSv/h以下になれば人の健康には影響ねえんだから
戻ったっていいよ、営農も再開していいよ、っていう方針を国がまさしくいま打ち出そうと
してるわけ。それに対して、そこに実際に住まなくちゃいけない人たちが、ほんなの
ダメだって言う理屈が通んねえことなのよ。国のほうで、科学的根拠でねえって話なのよ。
やっぱり、さすけねえって言ったって、少なくしてきれいにしてほしいって思いは
あっぺした。3.8μSv/hっていったらば年間20mSvだね、高いんだよ線量が。
――3.8っていったら普通の人だとびびって来ないですよね。
菅野 来ないでしょお、それを国は健康には影響ねえって、
3.8以下、3.7になったから帰りなさいって国は言わないにしたって
基準はそこにあるってことなのよ。
そうなってくっと、それに対して抗すべきコミットなり方法ってのが見出せないでいるわけ、
こっちのほうは。村は村として1ミリだってことは認めさせているんだけど。
奥さん 自分でするったって、なんで自分でしなくちゃなんないのって
わたしは思うよ。ねえ、そうでしょお。
――自分で汚したわけじゃないですからね。
菅野 いまのとこ、それがわたしのいちばんの悩み。
奥さん みんなこの災害では心労してね。国のトップに立つ人も、陳謝する姿も
見受けられない。日本のこの姿はわたしなんだろうと思ってしまうわ。
被害者だから強く感じるのかね。だって日本人のこの、悪いことをしたときは
ごめんなさいとか、そういう姿がわたしらには見えてこないんだよ。
――まあ、東電とか国とかはひとこと謝っちゃうと
カネを出さなきゃならなくなっちゃうから。
菅野 でもあれだど、どうでもいいことは謝ってんだど。
東京電力なんかね、賠償の問題なんかでたまに来たりすっと、
こういう謝罪の方法もあるんだとか逆に感心すっくらい・・・
奥さん それは村役場とか、そういうところに対してでしょ。
一般住民に対してだってやっぱりねえ。わたしらはそういうのは、
人として生きていく限りはその言葉はほしいですよ。
菅野 当時の枝野官房長官がきちんと謝罪しねえから。
――いちばん確実なのは、健康被害が出たぞっていう事実を突きつけること
なんでしょうけど、それは一歩間違えれば健康被害を待ち望むみたいな
考え方になっちゃうんで・・・
菅野 仮にね、健康被害が出ちゃったとしても、国がそれをきちんと認定するまでは
時間のかかる話でしょお。じゃあ国際的な文献を見てどうなのかっていうと、
そのへんの見解は微妙に分かれてると。少なくとも国はそういったものを踏まえて、
20ミリ以下は健康には影響ねえって結論を出したってことなんだと思うんだ。
――その健康に被害がないというのは事実だとしても、さきほどから言われるように
村民的感情が許さない。だからそこのところを・・・認めないでしょうねえ。
菅野 IAEAの、代表の天野さんの下で働く人の意見を聞く機会があって、いま国は
20ミリを境として区分けをしたと、居住制限区域とか帰還困難区域とかね区分けをしたと、
こういう線量の使い方、数値の使い方についてどう思うのかって聞いたらば、
本来はIAEAは、20だとか50だとかって線量で区分けをしたりするためにこの基準を
作ったわけではないんだ、って話をするわけよ。リスクコミュニケーションっていうのは、
線量が高いにしても低いにしてもそれぞれストレスを感じてるんだから、そういったものに
きちんと対話型で向き合わなくちゃいけねえってことをIAEAは言ってると。
日本の政府では、ほういうふうにして使う数値でないものを基準として使ってんだと。
そういうのはIAEAの本来の考え方とは違うんだっていう話を聞いたときあんのよ。
でもねえ、わたしらみたいな一介の村民が国に向かってその話をしたところで、
担当者は専門家の決めたことですって言うだけの話になってしまうんだ。
何か、別な価値観で・・・やっぱり「村民的感情」しかねえのかな。
――放射能汚染のことでいろいろ言われている意見を見ても、安全か危険かっていう
線引きにすごくこだわるじゃないですか。それがそもそも間違いだと思うんですね。
安全か危険かというはっきりとしたボーダーがあるわけじゃなくて、それぞれの段階に
応じてリスクがあるんだと、そのリスクに対して生活者としてどう対処していくのかと
いうところを考えなきゃいけないのに、ここから上は危険だからダメ、
それより下は安全だから大丈夫というところにすり替えてるというか・・・
菅野 まさしく、この数値を見る限り、じゃあ年積算19ミリは安全だ、
という話になってしまう可能性があんでしょお、。
――で、それに対してそんなの安全じゃないと言う人もいるし。
じゃあどこまでが安全なのっていう話になっちゃうんですよ。
そうすると5ミリだ1ミリだっていう話になっちゃう。
菅野 その話もねえ、一回やったときがあって、そこで担当の、
おらほの村役場に来る環境省の担当の人は、実際の線量と
からだに浴びる被曝線量と違うんだって言い始まったの。
年間、例えば3.8μSv/hの空間にいたときに、実際にからだに受けるのは
積算線量計を見るとせいぜい3分の1だと。1μSv/hくらいだと。
だから、20mSv/yだって実際の被曝量に換算するうえで
20mSv/yっていう数字そのままではねえんだって言い方しやがったの。
――しやがった(笑)
菅野 しやがったんだよ、ほれは。ふざけてる話なんだよな。
結局、国がこうやって線引きをして、20ミリ50ミリっていう数値で線引きをして、
この線引きの仕方はおかしいんでねえのって言ってんのに
実際の外部被曝線量はそれより少ないですなんて話を持ち出してくんのは、
一般的に説明してきた価値判断の基準とは、また違う数値を持ってきて、
実際はもっと低いですよみたいな話をする、ほんなのはおれからすっと詭弁なの。
だから、その議論ではもう動かせないと思ったから、そんなこと延々と
繰り返したってねハあ。最終的に・・・文科省だったと思ったなあ、学校施設を
除染すっときに確か1mSv/yっていう数値を出したんだよね。グラウンドとか学校施設のね。
子どもたちがいるから、そこまで下げなくちゃいけねえんだと。
だからそれが、最終的に飯舘村だって子どもたちが戻ってくるためにはそういう環境が
必要だべと。それを実現するために通過しなくちゃいけねえのが、年積算5ミリ、
1μSv/hの世界だべってふうな理屈でいくかなあって考えてんだけども。村民的感情とね。
あと将来に向かって線量を下げてくためには、そこを通過して、そこを第一段階として
達成して、そしてもっとさらに低い線量に向かってくと、いう理屈なのかなあって
思ってんだけど。いまんとこは、この20ミリが出てくるよ、どんどん。
で、おそらく、20ミリって言ったらば飯舘村では
二枚橋なんかはとっくに20ミリ切ってるからね。
この頃、高い線量のところは下がんねえから追加除染をすることなんかを
いろいろ国に要求してかなきゃなんねえんでねえかなんて言ってんだけども。
おそらく追加除染だって国は20ミリを基準として、20ミリ以上のとこはやりますけども
それ以下のとこは健康に被害はないからやりませんよって話になってくんでねえかな、
って思ってんのね。
そこに何かこうね、対応していく理屈を考えていかねえと。「村民的感情」
「子どもたち」・・・うーん。もう少し強力なインパクトはねえのかなーなんてね。
これが情けないことに、さっきも議会の話をしたけども、議員だって20ミリ・・・
村の除染目標の5ミリっていう数字に対してだっていまの議員全員が
そんでいいよって認識をしてるわけではないからね。
5ミリなんてのはわがが勝手に決めた話だべと、なんの根拠があってんなこと決めんだ
って言う議員だっているわけね。村が要求すんなら1ミリ以下だべって言ったり。
1ミリ以下を実現するためには、まず5ミリ以下だってことを決めたわけだから
それは理解してくれろなって話はしたんだけども、議会だって一枚岩でないんだ。
だけどもな、だけどもやっぱりなあ・・・飯舘村の将来を考えれば、今回の除染の目標を
そこに据えて、そしてさらに余計にきれいにしてくっていう方法を取ってかないと、
20ミリ以下は大丈夫だから比曽、長泥、蕨平、あそこらへんの人がいんだどってやっち、
こんどは逆にな、じゃあ比曽、長泥、蕨平で作ったものは絶対食わねべななんてね、
村の中で言われるようになっちまうんでねえのかななんてね心配してんだけどね、
特に(線量が)高いからな。
なんかいい方法ねえかなあなんてね、考えてんだいろいろ。国の人たちが
「持ち帰って検討します」くらいまでは、せめて言えるようなものはないかななんて。
専門家が決めたんですって言うだけでなくてさ、あーそうですかと、
持ち帰って検討すっぺね、とね。飯舘の人たちはこういうこと考えてんだから、
ちょっとみんなで集まって検討すっぺなってね、いうような何かできねえかなと
思ってんだけど。
――なんかもう・・・あっちの人たちの人間性の問題のような気もしてきますね。
おれたちがちゃんと決めないとあそこの人たちが困るからと思ってくれれば、
そりゃあ必死に動くだろうと思うんだけど、結局自分が責任を負いたくないってだけでしょ。
菅野 国としてはだからもう終結を考えてんだよ。ここらで手を打ちたいってね。
――ていうか、始まったときからそうだと思いますよ。
菅野 そうそう、おらはそう考えてんだ。このへんで、こういうかたちで手を打ちたいってね。
今回の避難地区だってね、なんで除染もする前からこんな避難地区の
見直しなんかしねきゃだめなんだって言ったらば・・・ほれが最初分かんなくって、
なんでこんな除染もする前にね避難地区の見直しなんて・・・ほしたら賠償の問題が
かぶさってくるわけだ。
要するに、財物賠償、包括賠償をさせるのに、避難地区の見直しをしたあとで
賠償の支払いをしますと。カネなのよ、結局。うーん、普通は考えらんねえわな。
道義的に考えれば国だってね、原子力政策を進めてきたんだから、その責任に鑑み
措置を決めるわけでしょお、特別措置法からすっと。責任があっから国が措置をする
わけだ。その責任のある国が、除染もなにもしないうちに避難地区の見直しをして、
これに応じねえと賠償を支払わねどって話だから。賠償請求の受け付けはしねえよ
って話だから。
だからほんとは村も最初は避難地区の見直しに対して反対を表明したんだ。
こんなの除染しないで決めらんねって。ほしたらその次に出てきたのが、
それに応じなければ一括賠償、財物賠償の受け付けは応じないって話なんだ。
これは村民からまた、いろいろ出てくるわね。ほんなの、と。
わは早よカネもらいてんだって言う人とか出てくる。ほうすっと村だって
検討をせざるを得ねえってなっちゃったわけだ、最初の意志とは別にね。
ほかの双葉郡だって結局そうでしょ。最初はやっぱりね、除染だとかね、
この町をどうすんだとかってね言ってたけども、結局ここにきて見直しを
受け入れて早く賠償につなげなくちゃダメだっていうことになってきた。
普通、良識ある国だったらば、こんなことしねえよ、東電も。
除染もなにもしねえ、住民に対して何の説明もない中で、航空機モニタリングで測って
その線量に応じて避難地区見直しをする、そこで避難見通しを決めるわけだ。
はい低いとこはあと2年、真ん中はあと3年、高いとこは5年なっていうふうに切るわけだ。
それに応じて賠償を決めてったでしょお。何もやんないうち・・・
何もやんないって言うとへんなんだけど除染もなにもしないうちに。
ほんなこと良識のある国家が普通やっと思うぅ?
まずは除染やって、そしてどうしても高いところは、じゃあここはこんなんだから
生活再建のためにこうしましょうねっていうのが普通はスジだと思う。
それをやる前からもうね、お金で(計画策定を)やってきたっていう話。
双葉郡の町村はねえ、これは人伝に聞いた話だけど、こっから先は。
いまなんで慌ててね、それこそ避難地区見直しに応じてんだったら、
それはその賠償のこともあるし、それにもうひとつ話があるんだっていうの。
避難地区見直しが遅れると、自然減衰で下がった線量に応じて見直しをしちゃうから
受け取る賠償額が非常に少なくなると、いうのがいま双葉郡に言われてるんだ
っていうんだ。それはおれは確認はできないけども、もしそうだとすんだらば・・・
――国がそんなやり方をしてるってことですか。
菅野 どうもそんな様子だっていうのよ。結局、いまのうちにやんないと、
再度放射線量を測って低い状態、自然減衰で下がったらば下がった線量で
区分けをしちゃうと。そうだからいま双葉郡は急速に避難地区見直しに対して
応じてんだっていう言い方をすんのよ。
――なんか、住民を人質に取って値切ろうとしてるようにしか聞こえないですよねえ。
菅野 だから本来進むべき、国家として本来踏んでやってく手順とは
違う進め方っていうかね、価値判断の仕方が実際働いてるんだっていう感じがするんだ。
だから賠償金でこれを釣ったり、あとは一括賠償、一括賠償で身の振り方を
考えなさいっていうんだけども、まあこれ財物価値の少ない飯舘の人たちは
一括賠償を受けたところで、じゃあ福島に土地を買って住みましょうってわけにはこれ、
いくほどの価値にはなってないから、身の振り方を考えましょうっていうわけには
いかないのね、固定資産税も非常に安いし。それを基準としての賠償だから。
――だから戻らざるを得ないですねえ。
菅野 戻らざるを得ないね。戻らざるを得ない人たちのことを
考えてるんでなくて国は、収束を考えてのすべての進め方。
一つひとつこう考えてくと、ならず者がやる問題解決の手段なんだ。
一つひとつ考えてみっとね。ほら、こんだけカネあんだと、ほしかったら
言うこと聞けよ首たてに振れよっていう話だから。
――店に行って暴れて、暴れてほしくなかったらカネを出せっていう。
そもそもお前らが暴れてるのが悪いんだろ、っていうやり方ですよね。
菅野 そうそう、そういう方法なんだよ。だから、こんな国家なのかい、ってね、
(国との協議を)やってみっとね。
だからほの20ミリなんかも、おそらく平気で言ってきて。
1回ね、うちのほうで5ミリというのを出したので1回へこんだんだけども、
また20ミリというのを出してきて避難勧奨地点を見直しますよ、って出してきた。
これが広がっていけば、こんどは飯舘村だって、1回除染やったんだから、
まあ20ミリ以下なんだから戻って来らんせよって、いう話になってくんのかな
って感じがね、してくんだけどね。
――あと政治的なところで、この事故は大したことなかったんだよ、
ってことにしたいのかなと思うんですね。
菅野 もちろんもちろん。それはそうだよ。
――これだけの期間ちょっとごたごたしちゃったけども、住民はちゃんと
戻ってきましたと、除染もしましたと。で、日本は原子力をちゃんと
コントロールできてますよということを、世界に向けてアピールしたいんだと。
菅野 もちろん。それがいちばん。
――だから日本は原子力を持つ資格があるんだ、ということにしたいんだと思うんですよ。
菅野 きちんと復興しましたよってね。こういうことがいろいろあったけどね。
――日本なんかは安全保障の議論の中では潜在的核保有国なんですって。
実際に核兵器を持ってるのはアメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国の5カ国と
あといくつかあるんですけど、日本は潜在的核保有国として核兵器を造って
使用するだけの技術を持ってるってことなんですって。
日本はロケット技術を持ってる、ウラン濃縮技術を持ってる、核をコントロールできる、
原発を持ってるってことがそれを示すことでもあったんですね。それが今回こんなことに
なっちゃって、じゃあ日本に原子力を持たせるのは危ないじゃないかという国際的な
輿論ができちゃうと、日本は核兵器ということに関しては丸裸になっちゃうわけですよ。
だからこれ(原発事故)は日本国内だけの問題じゃなくて、
世界の中で日本がどう立ち回るのかっていうところにかかわってくるんで、
国としてはたぶん譲れない線なんだろうなと思うんですね。
日本は核をコントロールできるってことにしなきゃいけない。まずそれありきで、
それに従ってやっていくと、住民を戻すためにはこういうかたちで収めなきゃいけない。
で住民が戻れば、ほら安全でしょってことにできるわけですよね。
菅野 だから、いわゆる国家の意志と住民の意志は当然違くなってくるんだろうし、
そこで板ばさみになる村の意志も村民の意志とは違くなってくるんだろうし。
だから自治体とか専門家とかの立場を離れた、住民の感情としての意志っていうのかな、
それをどういう方法で国家なりおおやけに認めさせていけるのかと。
そのへんがね、まあ、重大な局面になってくるのかな・・・っていう感じ。
だから村長は、そんなこと言ったってこういうのは国が決めんだどと、そんなこと言って
心情的には分かっけどもどう頑張ったって、国ははいはい言うかも分からんけども
必ず違う方法で、わがの考えとは違う方法でやってくっどってのが分かってて
敢えて口にしねえのかなって勘繰ったりもすんだけどね。自分で喋んねとこ見っとね。
そんなこともあって除染計画の中に、村の除染の目標線量は尊重しますっていう
文言は入れたんだ。だけど実際にはその線量に達しないから追加除染をやるとか、
戻れないってことは国は考えてないからね。「尊重します」で終わり、いまんとこはね。
だからどっかでね、対抗措置をね考えたいなと思ってんだけども、なかなか
いい知恵ってのが浮かばなくてね。さきほどの、子どもたちにとっての線量、
それからやっぱり村民感情としての線量・・・
――問題の立ち方としては公害問題よりはむしろ沖縄の問題に近いと思いますね。
公害問題であれば企業と住民の間の問題で、これは地域的な問題になるけども、
沖縄になると日本全体の安全保障の問題でそこに基地を置かなきゃいけない、
って完全に捨石になっちゃってるわけですよ。
今回は、原子力というものをめぐっての捨石にさせられちゃってる感じですよね。
菅野 どうせ捨石になるんならば、その原子力政策のための捨石でなくて
もっと別な捨石になんだったらばなんぼでも捨石になる意義があるんだけども。
――日本の農業をこれからどうするのってところで、飯舘村がひとつのモデルになって
どう農業をつくっていくのかってやるのであれば、まだ百姓としてやりがいがあると
思うんですね。
菅野 試行錯誤しながら道を拓いていったっていうんならね、
なんぼ捨石になったっていいんだけど、だけどね・・・。
またいつか環境省の人が来てやり合う、「やり合う」って言ったらなんだけども、
話をさせていただく機会があんでねかなと思いながら、じっくりとねそのへんを考えて、
やっぱり願わくばなあ、ハあほういう現場の声が上がってくんのももっともだなって
考える職員の人たちが一人でも二人でもね多くなってくれっと、
もしかすっとまた変わるかもしれねえけども。
奥さん ほういう職員の人たちはどういうことを目標に仕事してんのかなって
考えてしまうのよ、わたしら。国民のことを考えてくれてんのかしらって。
――うーん、役人というのは決まったことを粛々と遂行するのが仕事であって、
それ以外のことはやっちゃいけないんですよ。
菅野 やっちゃいけないんだよな、基本的にはな。
――職分を超えてやっちゃうと、それは処罰されることになっちゃうから。
菅野 そうなんだよ、そういう役割なんだからね。
――それはしょうがない。個人的に話を聞けばいろいろ出てくるんだと
思いますけどね。ただ役場の中でその仕事をしなきゃいけないとその席に
着いちゃったら、それはその仕事をこなしていくしかないんですよね。
奥さん 2~3日前に村から広報があって、それはお正月に帰るための
事務処理なわけよ。ハンコが必要だったり電話が必要だったり、
なんてバカなことやってんのかなってわたしは思うよ。なんだかなと思った。
自宅(うち)に帰んのに許可が必要なんだっつんだよ。
お正月に自宅(うち)に泊まるのに。なんでそんな事務処理のために・・・
菅野 許可証を出すから申請してくださいって、帰ったあと報告書を出してくださいって(笑)
奥さん ほんなことやってんだよ。
菅野 だってしょうがない。国におうかがいを立てて、こうしろって言われてほのとおりに
やってんだ、しょうがねえんだ。正月に自宅(うち)に帰って泊まりたいって人のためには、
国におうかがいを立てて、こういう書類を準備してくださいって指導を受けて、
ほして事前の許可証と帰ってからの報告書を出してくださいっていう。
奥さん 災害に遭うってことは、こういうこともみんなに心労を与えるわけでしょお。
菅野 ほれは、あなたにとっては心労だろうけども人によってはねえ、
正月に自宅(うち)に帰って泊まれるどと、堂々とねえ。
奥さん わたしにしてみれば、ほんなバカなことを・・・
菅野 おれもそう思う。だけどもいまの段階では国の許可を取って、
飯舘には泊まっちゃダメだっち言われてんだから、それを泊まるようにするためには、
それを出してくれろっていうふうに言われれば、やっぱり職員としては、
さっき言ったように仕事をするためにはそういう書類を・・・
わがうちになあ泊まんのになんでこんな書類や報告書を出さねといけねんだって
おらは思うよ。
奥さん あんなのは分かってたら暗黙の了解で・・・
そんなのなんで必要なのってわたしは思うのよ。
菅野 「暗黙の了解」でやると「なし崩し」ってこともあっから。
バカだとは思うけども、やっぱり。
奥さん 考えられないことが次々と起こってきてんのよ、わたしからすると、ほんとに。
――だけど正月に自宅(うち)に帰って泊まれるっていうのは、
村にとってみればやっぱり一つの成果ですよね。要するにそれは
国と交渉して許可してもらわないと泊まれないんですもん。
菅野 おれらにとってみて、ほんとに必要なことにやってくれろっていうのは、
これは村民の願いだし大切な願いなんだ。だけども、いま村は自分のやれることを、
すべて自分の意志だけでやれるわけでないんだな。国から受け取った仕事も
やんなくちゃいけねえわけだ。
で、あの外泊許可証という仕事は国から受け取った仕事だというふうに考えて、
許していただけないでしょうか(笑)。
率直な話なあ、いやー外泊できるようになった、となったときにね、
一所懸命国に言ったんだべなと思うけども、でもあの書類見っとな、
なんで自分のうちに泊まんのにこんだ書類ねえ書かなきゃいけねえんだべって
思う人もいれば、ああこんでな、正月は泊まれると思った人もいっから、
まあ一概には言えねえなと。
だけどやっぱり国からほういう書類を出せと言われっちるわけだから。
だから職員の人たちにな、にしらなんだ、こんだことやってねで
もっと別なことやれって言いたくなっかもしらんけども、それはやっぱり
職員としてはその書類は作んなきゃいけねえんだべ。
ほういうことがこれからいっぱい出てくっど、おそらく。そういうことと
いろいろぶつかりながら道を進んでいくしかねえんだべ、おそらく。
奥さん 自宅(うち)ではもうお風呂のシャワーも壊れ、
水道の蛇口も壊れて泊まることはできないのよ。
菅野 いっかい水出すようにすっと、冬は寒いから凍っちゃうから、正月は泊まんないで。
どっちみち息子らだってね、子ども連れてくるんだもん、(村には)子ども連れては
行かれないんだ。ここ(仮住まい)でハあ正月迎えて。
人が住まねえと傷んでくっから、時間のあるときにできるだけ行って換気をしてな、
またあの家(うち)にお世話になるしかないんだから。築100年の家(うち)さ
またお世話になって。何年まで使えっか分かんねけどね。ならばな、息子らが
戻ってこられるくれえまでな、あの家(うち)があればいいなと思ってっけども。
奥さん あとは手入れ次第だね。
菅野 あとは手入れ次第だ、ほんとに。ほんだらちょっとカビはえたとか、
蛇口こわっち水噴き出したからってハあ行かねえでいたら、よけいダメになっから。
直すとこは直して。
――そのうち猿が住み着いちゃうかもしれないですもんね。猿がすごい数いますもんね。
菅野 イノシシも。
――田んぼを掘り返して、耕運機以上の働きをしてますよね。
菅野 ほんでやっぱり山との境あたりをたまにきちんと刈り払ったりなんかしちくんねえと、
入ってくる道があんだよな。そこを荒らしちゃうとどんどん入ってくるような感じがする。
だから・・・まあこれなあ、たいへんなんだけども、やっぱりねえ周りできるだけこう
草を刈ってきれいにしておくしかねえんだっけ。
――今年(2012年)の3月に小宮のクリアセンターで仮置き場の説明会があったときに、
知り合いの人に車に乗せてもらって村役場から関沢に入ったときに、周りの田んぼの
一枚一枚に猿が5~6匹ずついるんですよ、全部の田んぼに。
何匹いるんだこれと思って、ちょっと怖かったですよね。車に乗せてくれた人は
猿だ猿だって車を降りて携帯で写真を撮ってたんだけど、怖くて降りられなかったですね。
襲われたらどうしようと思って。
菅野 猿はそうだね、相手を見て襲うからね。自分より弱いと思ったらね。
だから、人が住んでないとそういうふうになってくるし。
――あそこらへんて山ん中じゃないじゃないですか。
菅野 山ん中ではないんだ、でもねあのへんは、もともと飯舘は原町とか大倉との境に
猿の群れがあって、長泥とか比曽あたりには猿はもともとあんまり来ないんだけども、
向こうは猿の拠点に近いとこなんだな。だから人がいなくなれば、
あのへんに出てくんのは、ま予想されるってかね。
当然これ、長引けばそういったものが増えて、まあねえ動物が悪いわけでは
ねえんだけど害獣となってしまうってかなあ。いままでは人間がいたことによって
ある程度バランスがねえ、まあ人間にとって都合のいいバランスだかもしらねえけどね、
バランスが保ててたのがねえ、いまかなり崩れてきてるってのがあるな。
そういうのもね、そこに住んでないとなかなか分かんないことだからな。
奥さん いままでいろんな災害が起きると募金とかね、ああいうことを
やってきましたよね、わたしらは。こういうことしたときは、こういうことすんだなって。
それをしてもらうつうのは、なんか、好きでないっていうかイヤだなと感ずるもんねえ。
募金をしてもらって生活しなくちゃなんないっていう、この、いろいろいただいて、
なんかいままで経験したことないことなんだもの、だって。
いままでは寄付とか、こういうことをずっとやり続けてきましたけども・・・
――でも、それはなんて言うの、畑で採れた作物を隣近所へ持ってくってことは
これまでだってあったじゃないですか。それとおなじだと思いますよ。
それがただ単にお金という形になってるだけであって、困ったときはお互いさまとか、
うちはたくさんあるからお裾分けとか。それと気持ちとしては変わんないと
思うんですけどね。だからそれは「ありがとう」でいいと思うんですよ。
菅野 いままではやっぱりほれね、苦労しながらも自活してたっていうのがあるでしょ。
奥さん 自活って、そこなんだよね、やっぱり。なくても少しの
自分のできる範囲内のことつうの、そういうことも・・・なんか、しょぼんとする。
菅野 農業を生業としてやってる人のいちばんの利点ていうのは、
へんな話なんだけども、使われてない身分で、自分でいろんなことをやりながら
生活できてるっていうのは、やっぱり誇りなんだよ。
たいした利益は出していなくてもね。ほんで家族を養って子どもを教育してってのが
自分の誇りなのな。それがやっぱりね、農業やってていちばんのね。
(福島駅までの車中にて)
――報道なんかでいろいろ出てくるのも、これは自分が現地で聞いたのと
違うぞっていうのが、けっこうあるんですよ。
菅野 ほんとにね、上っ面だけを取り上げる話もあるし。
――メディアによってはスキャンダラスな扱いをするところもあるし。
菅野 いろんな言われ方をしてね、賠償もらってるから働く意欲がなくなったんだなんてね。
――中にはそういう人もいますよっていうだけのことであって。
菅野 そうなんだよな。やっぱりね、真剣に考えて悩んでる人もね、いますしね。
見通しを持てないっていうのがね、ものすごく苦痛ですよね。
じゃあ3年なら3年経てば帰れるようになんだから、
そのための準備をしましょうなんてね、あるいはまたね・・・そうではないんだな。
――Iターンの人もいればもともといた人もいる、もともといた人でも世代によって
考え方が違ったりするし、農家の人もいればそうじゃない人もいるし、
農家だって跡取りがあるかないかでまた違うじゃないですか。
それをひとくくりにして、ちょっと話を聞いただけでこれはこうなんだってやっちゃうと、
それはへんな方向に向かっちゃうし。
菅野 いろんな切り口がないと。
――そう思ってると、なかなか書き出せないんですよね。
見たこと聞いたことをあれもこれも、ってやってると。
菅野 わたしら毎月コミュニティ新聞に記事を投稿するんだけども、やっぱり、
テーマが重くなるっていうかね、みんなにしてみっとこれはどうなんだろうかとかね、
自分の中でこれはちゃんと整理できてんのかなとかね、非常に筆が重くなって。
いっかい書いてみっと、自分で整理できてないものが文章に出てみたりね、
そう思うと書き直してみたりね。
――でもそれは非常に重要なことだと思いますね。
さっきも言ったように、村、行政と住民をつなぐものがないと・・・
菅野 そうなんです。だからよくね、わたしらあまり面識のない人からも、
どうなんだべって電話もらって、うちらのほうではこんなことを書いて出したんです
ってことを送るとね、分かりやすくていいとかね、ああほういうことだったのかと
言われてね、できるだけやってかないとダメだなと思ってね、やってますけどね。
――コミュニティ新聞はいつ頃から始まってるんですか。
菅野 あれは13号ですから約1年、1年は経過したんです。
最初はまあね、避難してる方々の近況なんかを載せたりするくらいだったんですが、
わたしお願いしてね、せっかくこういうのが毎月出てるんだから、わたし記事書いて
投稿すっから、最新情報としてね、ページ数増やしてもらっていいかなんてね、
ああ構わねえ構わねえ大歓迎だなんて言われてねえ、そして載せるようにしたんです。
今月こんな討議をしたとか、こんなふうな問題が出たとかね書きますから、
そうすっとけっこうみんなね、読んでもらって。そういう点では、そういうのを
見ているのと見てないのとでは、かなり理解度が違いますね。
あと新聞の記事ってのは端的に結論だけ書くでしょ。こんなふうに決まりました。
避難見通しもね、村はこういうふうに決めました。その陰でどういう議論があったのか、
どういうことが課題として浮かび上がってきたのかってことまで書くようにしてますから、
そうすっと、ああこういうことだったらば分かる、とかね言われんです。
やっぱりそういう新聞が伝えないことまで知ってもらわないとダメだから、
それをできるだけ書くようにしてんですが。そうすっと、課題がありながらも
こういうふうに決まったと。こないだも除染が始まろうとしたときに、こんなことに
気をつけてくれろとか、こういうことを準備してくれろとか自分なりに整理してね。
あとはやっぱりね、包括賠償なんかでこれから向こう何年間って賠償になる、
いままでは過去3カ月ずつ請求してたでしょ賠償ってのは。
こんどは将来にわたってのお金を請求するんです。
そうすっと、まとまって手に入って中にはほれ、お金の感覚が狂う方も出てきますから。
それはこれから3年とか2年とかにわたっての請求で、そのカネを手にする、
それは自分の再建に向けて使ってもらわなくちゃいけねえから、場合によっては、
へんな話なんだけども賭け事に興じたりお酒で飲んじゃったって人も出てくる。
場合によっては犯罪に巻き込まれる人も出てくるんでねえかって話もね。
世の中にはいろんな人がいますから。当然これ、そういうこと(賠償金をもらって
まとまった現金が手元にある)で目をつけてる人たちも世の中にはいますから。
こういうことに気をつけてくれろと。
――土地に関してもへんな連中が出入りしてたって聞きましたけど。
菅野 いやーこれ、世の中で、へんな話なんですがね、
賠償でお金を手にするってことが分かってっから。
――彼らにとってみれば田舎もんを騙すのは簡単ですからね。
小宮に産廃の最終処分場を造ったときに、別な場所に造るという話もあって
それはポシャっちゃったんだけど、その計画書と計画を進めるにあたって
住民の承諾の判子を捺した台帳が残ってたらしいんですね。
それが巡り巡って詐欺師の手元に渡って、その名簿を元に飯舘の土地を売る
という詐欺話をでっち上げて、何億っていうカネを集めたっていうのが静岡あたりの
警察から問い合わせがあったって。しばらくしたら静岡から警察が来て住民の人に
話を聞いて、こういうことだったんだっていう話らしいんですけど。
そのときも最初は静岡から電話で問い合わせてきたんですって。
その名簿に載ってる人の家に電話がかかってきたんだけど、
(訛りがきつくて)何言ってるか分かんないと(笑)。それで直接来て、
Iターンの人に“通訳”してもらって、ようやく分かりましたって。
クリアセンターも真ん中になん丁歩だか空き地があるらしいですね。それも結局
土地ころがしでべらぼうに値段を吊り上げて売るに売れない買うに買えない
ってことで空き地で残ってるとか。
で、仮置き場の話が出たときも、仮置き場に売るのにカネになるぞっていうような話を
詐欺ででっち上げて土地を売れば乗ってくる人間もいるだろうと、そういう可能性が
あるんじゃないかという話が出てましたね。
菅野 いままでは飯舘なんて鍵かけなくたって、車さ鍵つけたまま置いてたって
持ってかれたなんつ話はないし、犯罪も比較的少ない村だったんだけども、
なんだかんだあって。確かに村の住民の滞納は(手元に現金があるから)
減ってんだそうです。
飯舘なんかはほとんどの、大半のひとはぎりぎりで生活してて、
ぎりぎりで生活をしている中で、じゃあね、どうやってお互いに助け合う、
みたいなのがね、お金以外の部分がね、そういう気持ちがあったんだけども。
ばらばらになって、お金が入ってきてね、助かったべなんて気持ちになることもね、
確かです。でも、この段階が過ぎたあとでもう一回改めてね、といったときに期待すること
として、ああやっぱり人がお互い支え合って生きんのは大切なことなんだあ、ていうことに
みんないつかは気がついてもらいたいなってね、そのときにね、また再生すっときに
それがバージョンアップにつながんでねえかなって期待はしてるんです。
そこはなかなか、一人ひとりがばらばらだし。コミュニティー新聞みたいのだって、
ほかでも出すのかなって思ってたらあんまり広がってないですね。
もう少し広がんのかな、と思ってたけども。最初うちらの区長がね、ぜひやるべきだ
なんつってね始まったんですが。ほかの行政区にはあんまり広がってない。
――やっぱりリーダーがいるといないとで全然違うなというのが、
(長泥区長の)鴫原さんなんか見てると、ほんとそう思いますね。
鴫原さんは、口もあんな感じで雑駁な人で、気取りもないしけっこうきついことも
言ったりするんだけど、リーダーだからって進んでやってるし、
自分がいまここで頑張ってやれば村全体の底上げにもなるからって。
菅野 その意識は持ってんだな。区長さんもなんだけども、誰だって
自信を持ってやれる人なんていないですよね普通はね。しかたねえなあと、
しかたねえけどもまあ、なったからには一所懸命やんなくちゃいけねえなあ、
って言ってもらえっと、その地区だってまとまってくんですよね。
――ところが結局、長泥だけなんですよね。
菅野 そうなんだ。まとまってんのはね。まあその意識はあるようだし、
まあみなさんね、それぞれその意識は一人ひとりの中にあっぺし。
だからね、なんでおらほ(長泥)だけ除染の計画を国はやんねなんて言ってんだ
っていう声にもちゃんと村が応えていかないと。
今回の2年間の計画の中には乗せらんねかったけども、あとどうなんだと、
そこに住んでる人たちは不安になってんだどと、いうことをね、国に問いかけて
いかねえと。国はね、とりあえず2年間ってったら2年間のことしか考えてねえし。
わたしは議員の立場なんだけども、村長が合併のときに(合併のための協議会を)
離脱して、あのときは村議会も、あのとき議員は18人いたのか、合併しねえほうが
いいんだと、村独自でやってくほうがいいんだと言ってたのは少数派で、議会の同意を
得られなくて、それで合併を離脱して再度村長選挙でやってね、そんときも・・・
確かに苦労しなくちゃいけねえ立場なんです。ある意味では。もちろん頑張って
もらわなくちゃいけねえんだけども、頑張りすぎちゃうと誰もあとについて・・・
――だからもうちょっと、村の人に甘えていいと思うんですよ。
菅野 甘えてもいいんだ。昔の、菅野村長のふたつ前の山田っていう村長なんて、
うちの親父が議会にいたんだけども、ちょっと違うこと言われっと、
そんなこと言ったってじゃあなじょすればいいんだって議員に言ったつうんだな(笑)
ほんなこと言ったってできねんだもの、なじょすればいいんだ言ってみろ、
なんて言ったっつんだな。ほんなこと言うなんてな、たいしたもんだと思うよ。
まあいまだったらな、ふざけんでねえそれ考えるのが村長だべって批判されっかも
しれねえけども、ほやってねえ、議員との意思疎通を図ってやってくわけだ。
場合によってはなあ、そういうこともあっていいんでねえかなあと思う。
まあそのへんは、性格つうのもあるから。
――今回のことに関してはいろいろ批判はあるけど、批判しながらも
歴代の村長の中で最高の村長だって言ってる村の人もいますしね。
菅野 それはね、そういう点での能力はあるんだけども。
――その能力を今回こそ発揮してほしいと見てて・・・部外者だから
無責任な発言になっちゃいますけど、ちょっと歯がゆい感じがするんですよね。
かといって自分なんかが口を挟めることじゃないし。
菅野 ま、わたしらだって朝早くから夜遅くまでよくできんなって思うけども、
んー・・・もう少しね、村民とか部下のことを信じて、問題を投げかけて、
仮にですよ自分の結論と違っても、よーしほいじゃほれでやっぺと、
責任を取るからほれでやってみろと、そういうことがあってもいいのかなと。
そうすっとやっぱり人はね、力を発揮するし。考えが違ったってね、
この点で確認できたんだから頑張っぺなんてね、そういう気持ちになってくっからね。
――手一杯なのは分かるけど、人手なんていっぱいあるわけだから、
特に負げねどの人たちなんて、こういうことをやりたいんだけど手が足りないから
手伝ってくれって言えば、喜んでやってくれると思うんですよ。
それは当然、中から村長に対して批判なんかも出てくるだろうし、
反対する意見も出るだろうけど、それも含めて引き受けなきゃ。
それが首長ってもんでしょって思うんですけどね。
最初のメディア規制もそういう感じがするんですよね。確かにメディアのほうにも
責任はあるし、不信感を持たれてるってのはメディアの側が100%悪いと思いますけど、
それも含めてメディアをうまく利用して村としてのアピールを世間に出していくように
しないと、へんに規制をかけちゃうと伝わるものも伝わらないですからね。
菅野 ほんとは伝わってかなくちゃならない話までも伝わってかないっていうかね。
――そこらへんは鴫原さんは半分無意識なのかもしれないけど、うまくやろうと
してるのかなと思いますね。月2回、長泥をメディアに公開してるっていうのもそうだし。
村からは、それはお前のとこが勝手にやってることだから村は知らんぞと
言われてるらしいですけど、でもやる、と。
菅野 わたしは良友くんのその気持ちは分かるんです。やっぱり村でたった一つの
帰還困難区域になったでしょお。ほれはやっぱり、そこの住民とすればそのことを
忘れないでほしいっていう思いは当然あるし。またそういうふうに訴えていかないと
自分が取り残されるんじゃないかというね、現実に今回のことで言うと長泥は
取り残されてるわけですから。ほれはやっぱりねえ・・・。
――で実際、事故以来飯舘村は「世界のイイタテムラ」になっちゃったって
いうけれども、このあいだ鴫原さんにラジオに出てもらって話を聞いても、
鴫原さんに質問を投げかけて、そこからどういう状況でどう考えているのか
っていうのを引き出していかなきゃならないんだけど、そこで突っ込んだ質問が
できないんですよね。要するに知らないから、状況を。それが現実なんだっていう。
「イイタテ、イイタテ」って言われてるけど、結局まだほとんど知られていない。
名前だけは一人歩きしてるけど。
菅野 要するに「汚染された村」ということでね。
――それを伝えていくというとメディアが出していくしかないから、
もっとそれを利用してどんどん発信してっていうふうに。
菅野 議会議員ていう立場からすれば、じゃあ議会の中でどんな議論が起きて
どういうのが、例えば附帯決議されたとかね、あるいはこういうものに対して
否決されたとか修正されたとか、っていうことまではメディアは伝えませんから。
ただこの議案は通った、したがってこれはこういうふうになるであろうというね、
非常に短絡的なことしか伝わってないから。
まあそれはそれで議会便りなんかで伝えようとしてはいるんだけども、
まあ字数があったりなんだして、あれこいつなんだっけ、っていうような話になってしまう。
そういう点で言えばマスメディアはやっぱり、かなりの情報量を持ってるね、
情報量っていうかひとつの情報としては少ないんだべけども、伝達量が大きいからね。
もしかして村長は、正しく伝わっていないということで規制したりなんかしたのが
あったかもしれないけども。あとはそうですね、家長主義の中では責任はすべて
わたしが負わなくちゃいけない、やっぱりすべて自分で抱え込んでしまうと
いうことがあって、どうしたらいいべっていう話があんまりほかに、ほかの人にしない。
――そこで責任の取り方が、ちょっと違うんじゃないのと思うんですよね。
責任を負わなきゃいけないのはそりゃそうだと。だけどほんとに責任を取らなきゃ
いけないのは、村民に対して責任を取らなきゃいけないでしょうと。
自分の立場に対する責任じゃないですよと。
ほんとうはこれこれこうしたい、それに対して村民からこういう声が上がってきました、
じゃあそれでやってみよう、やってみた、失敗しました、そのときの失敗の責任は
自分が負うっていう。それをやらないで自分が責任を取らなきゃいけないから
自分の思い通りにやってしまおうというふうに、たぶん住民には見えてるんですよね。
背景には当然国からの締め付けがあって二進も三進もいかない状態になってる
っていうのはあるんでしょうけど、ほんとはもっと、そういう状態なんだっていうのを
出してほしい。そうすれば村民の中から、じゃあこうしたらどうだっていう声が
出てくるかもしれない。
菅野 そうだね、だったらば俺も力を貸すぞとかね。そうなればしめたもんだね。
――そうやっているうちに、だんだんひとつにまとまってくるんじゃないかなと
思うんだけど・・・
菅野 うーん・・・そうですね、わたしらから見るとそんなふうに自分の責任だと。
今回の村長の立候補の挨拶なんか聞いても、自分が避難させたんだからこの問題を
終結させるのはわたしの責任なんだ、ってふうな言い方をやっぱりしてるし。
議長なんかもそんな言い方をして、村長の責任でこの問題を解決する
みたいな話で言われる、その責任がじゃあ自分が一人でなんでもかんでも
やればいいのかっていう話ではないですよね。そのためにね・・・
――だからまあ、自治体の首長というよりも家長なんですよね。
それも古いタイプのですよね。おまえら扶養家族なんだから黙って言うこと
聞いてろみたいに受け取られやすいやり方ですよね。ほんとにちゃんと
考えているんだと思うんですよ、村をどうしようっていうことは。
菅野 それはある意味だれよりも考えてることは確かなんです。
もちろんね、いろいろ情報を持ってる立場ですから、いろんな角度からね。
――ただ、いかんせんそれが村の人に伝わってこない。不信感だけが
醸成されていってる。メディアはそれをおもしろおかしく取り上げて、
反村長派がどうのこうのっていうような扱いになっちゃったりとか。
菅野 村長が広報いいたてに書く「こころのポケット」というのがあるんです。
そういう苦悩とか悩みとかを書けと。
村長の書く文章というのは非常にきれいなんですよ。学校の先生なんかが
子どもたちを評価するときなんかにね、書くような文章になってしまって、
それがある意味村民にとって不評な部分もあんだけども。
もっと本音を書けと。そして、この問題をどう解決したいと思うのか、
そういうことがあってもいいのかもしれんな。
――そう考えてくると、もっと訛りを出していいと思うんですよ。説明会を聞いてても
使い分けてるじゃないですか。訛って言うときと標準語に近い言い方をするときと。
菅野 わたしらなんか議会でも一般質問の最初なんかは標準語でいくんだけども、
2度目3度目の質問になってくっと喋り言葉で喋っちまうんですね(笑)
――それでいいと思うんですよね。
菅野 それでいいんですよね、おらはこう考えてんだ、という話でね。
そのへんがね、気持ちが伝わってくんであってね、そして聞いてる人が
うなずくようになれば、これはなんとか聞いてもらってんなってね。
――村長さんなんかだと、メディアに登場しなきゃならんというのもあるから
標準語に近い喋り方というのはどうしても使わざるを得ないんでしょうけど、
せめて村の中ではね。
菅野 村民に向かってはな。打ち解けた雰囲気の中では村長もけっこう
そういうふうに言うんだっけ。
――小宮のときなんかは非常に緊張感の中でやってるから言葉がすごく
硬いんだけど、そのあとでやられた草野の説明会なんか見てると訛りまくって
おばあちゃんに話しかけたり、すごくリラックスしてんですよ、見てても。
そういう人間味をもうちょっとちゃんと伝わるようにしたほうがいいんじゃないかなと
思いますけどね。
なんかこう、凄く鎧ってるような、自分をその中に押し込めてここから先に出ない、
ここから先は受け付けないみたいな、そういう感じを受けちゃうんで。そうすると
住民の人たちも取り付く島がないというか、凄く拒絶されてるような感じも受けるし。
菅野 一所懸命やろうとすんのが、かえって余所行きになってくんだべな。
なんかね、そんな・・・だから例えば国なんかと一緒に説明会やっとすっと、
国の役人の言う言葉よりははるかに分かりやすい言葉を使うんだけどね、
だけどこれが村民向けになったときには、やっぱり身近な言葉で話をしてもらうと
村民はね、安心できるというかね。
身近でない、まったく標準語できちっと自分の考え方を言うってことも村長は
できるもんだから、だからそういうふうなことになってしまう。われわれぐらいになると、
一所懸命になると逆に普通の喋り言葉になってしまうんですね。
ほんなことでいいのか、っていう話になってしまう。だからそれがむしろ、
ああこいつはいま本気になって言ってんだなって地元の人は受け止める。
村長は一所懸命になると余所行きの言葉になってるっていうのは、あるんかなあとね。
――第三者が必要なのかもしれないですけどね。いろんな意見に対して等距離で
ものごとを見てちゃんと交通整理のできる人、クルマに乗って運転してるのは村の人、
当事者なんで、それをうまく事故が起きないように。
ただまあ見てても、第三者が入ることに対して凄く不信感がありますからね。
いろんな人が来ていろんなことを言うっていう。
菅野 最初の放射能の測定のときに、わたしらも思ったもんな、
測ってくのはいいんだけども、じゃあどうしたらいいんだか答えまで書いてくれとかね。
――安全だって言う人もいればすぐ逃げろって言う人もいるし。どうすりゃいいんだって。
菅野 それとやっぱりね、かなり振り回されてるなあっていう感じがね。
――ほんとはそこで、安全とか危険とかじゃなくて、こういう数値が出たと、
この数値はこういうことを意味してるんだということをちゃんと示してほしいと
思うんですよね。それをしないでいて安全か危険かっていうのが、なんかもう
学者同士のけんかになっちゃってるっていうのがね。じゃあ住民はなんなのかっていう。
菅野 学者がね、あなたとわたし同じ考えですよ同じ結論ですよってするのは、
学者の立場がないんだそうです。あなたとわたしは違いますよと言い合うのが、
学者とか専門家の立場なんだってね。あなたの考えと違うんだよって
お互いに強調し合ってね、じゃあ住民はどこを聞いていいか分かんない。
そんでもやっぱりね、こういう災害、災害時でなくて平常時の議論だったらば
それはいいんだけども、災害時の議論としては、それこそ拠り所がわれわれとしては
なくなってしまう。ましてや低線量被曝については、時間が経ってから出てくんでねえか
っていう話がね、このごろ言われてきましたから。
そうなったらばハあもうね、これはハあ、ほんとに不安で不安でねえ、
しかたないっていうね。
――そういうところに20mSv以下は安全だから帰りなさいって、
帰れないですよね、そりゃ。
菅野 帰れないですねえ。不信感がよけい強くなるってことになりますから。
――朝、駅前から支所(仮村役場)に行くまでに乗ったタクシーの運転手さんは、
福島市内のアパートに住んでるんだけど、低いところで0.2くらい、高いところで10を
超えるらしいですよ。11とか12とか。それで除染が来年のいつ・・・と言ってたかなあ。
馴染みのバイク屋のおやじさんも福島市内ですけど、庭の一角が5マイクロあるって
言ってて。ほんとにそれぞれを丁寧に測ってやるとしたら・・・
菅野 結局、汚染度が均一でないからね。ここはこうだよっていうあれだって、
違うとこはいっぱいあるよっていう話になってしまってますね。
――それだと飯舘村の大倉のほうがよっぽど低いじゃないかっていう。
菅野 低いですよね。そういうふうになってしまいますね。そういう意味ではIAEAの
リスクコミュニケーションっていうのは、線量が高いとか低いってことを問題にしては
信頼は図れないと。高かろうが低かろうが被災者の不安ときちっと向き合わねえと
ダメだと、信頼関係を構築しねえとダメだという考え方をわたしは正解だと思うんです。
だけど国のほうは基準でものを言ってきますからね。そこがどうも不安をね、引き起こしてる。