おすすめの本

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最終更新 2016年2月23日

特に若い読者におすすめする本をご紹介します。書店や図書館で見かけたらぜひ手に取ってみてください。著者の姓のabc順に並んでいます。

青木保『異文化理解』、岩波新書(新赤版740)、2001年。

筆者は文化人類学者で元文化庁長官。タイでの僧修行経験をもとに、人間がおとなになるためには自分がいた時空から離れた世界で過ごす「境界の時間」が必要であると説きます。そして、異文化と接触しそれを理解していく過程も「境界の時間」に他ならないといいます。同じ著者の『多文化世界』(岩波新書新赤版840)もお勧めです。(2011年)

ロバート・キャパ『ちょっとピンぼけ』、文春文庫、1979年。

実際のところ、戦場では何が起きているのでしょうか。わたしたちにはなかなか見えない「戦場」の姿を、戦場カメラマンは写真にして我々に見せてくれます。本書は最も有名な戦場カメラマンによる最も有名な著作の一つ。小説として気軽に読めます。(2011年)

福岡伸一『生物と無生物のあいだ』、講談社現代新書(1891)、2007年。

「いきもの」と「いきものでないもの」の区別は一見したところ明確なのですが、実際のところ、細かく見ていけばことはそう簡単でないことがわかります(例えばウィルスをどちらに分類するかは、大変に難しい問題です)。本書は「動的平衡」の概念を用いてこの区別について論じます。「動的平衡」って難しそう・・・大丈夫です、この本は「動的平衡」のストーリーに絡めて、分子生物学の研究史が小説のように紡がれるから、それを読むだけでも楽しめるのです。(2011年)

橋爪大三郎『はじめての構造主義』、講談社現代新書(898)、1988年。

「構造主義」とは対象をそれらの差異の網の目のうちにおいて理解しようとする思考の方法です。20世紀のあらゆる思想の現場において良くも悪くも重大な役割を果しました。・・・と、そう言われてもよくわからない、捉えどころのない感じがする「構造主義」を、あまりに明快に説明してくれるのが本書です。内田樹『寝ながら学べる構造主義』(文春新書)もお勧めです。(2008年)

トリイ・ヘイデン/入江真佐子(訳)『シーラという子――虐待されたある少女の物語』、ハヤカワ文庫HB、2004年。

「問題」がある子供についてのノンフィクション。とある子供の「問題」が、虐待を受けた経験に由来することが徐々に明らかになり、読者に強い衝撃を与えます。同著者による作品は全部で10ほどあり、いずれもハヤカワ書房より出版されています。そのほかデイヴ・ペルザー『“It”(それ)と呼ばれた子』(ヴィレッジブックス)もお勧めです。(2008年)

平田オリザ『芸術立国論』、集英社新書(0112F)、2001年。

芸術と社会の関わりのあり方を、特に芸術が社会において果たす役割についての持論を軸にして論じた本です。少しでも「芸術」というものに関わって生きていこうとする人は、ぜひ読んでみてください。ただしいくらか論理的飛躍のような箇所がありますのでその点はご注意を。(2008年)

伊沢修二/山住正己(校注)『洋楽事始――音楽取調成績申報書』、東洋文庫(188)、平凡社。

明治時代、西洋化を急ぐ日本に西洋音楽を取り入れた、その中心人物となった伊沢修二による報告書をまとめたものです。明治時代には「音楽」がどのようなものであり、また何のためのものであると考えられたか読み取れて興味深いです。(2008年)

伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』、光文社新書、2015年。

筆者は、視覚障害者(1)との対話や共同作業を通じて、視覚が不自由であることと共にどのように生きているか活写し、彼らが世界をどのような方法で認識しているか想像する(読者ももちろんする)。当然すでに考えてみるべきことだったけど、しっかり考えてこなかったテーマ。盲点(というか思考停止)。こうした営為は、自分でない人(他者)が、障害の有無に拘わらず(2)、世界をどう捉えているか、他者がもつ世界像とはどのようなものか、想像することに繋がっている。現代アート鑑賞(あるいは受容か)に関するくだりでは、現代アートを鑑賞する際には、どこかに鑑賞(受容)の仕方の正解があるという先入観を捨て去る必要があると言われる(p.178)。そうすることを筆者は「武装解除」と称する。なるほど、先入観とは自分の世界(観)を守るための構え(武装)のことであったかと腑に落ちた。武装を解いて、ありのままを受け止める姿勢は現象学のエポケー(判断停止)に通じる。身構えていてはこちらに入ってこない姿があるということだ。武装解除して他者を想像する。いまこそその想像力を発揮すべき時ではないだろうか。(3)

(1)筆者は「しょうがい」の「がい」は「害」でよいと言う。(pp.209-213)(2)人はたいていなんらかの生きづらさと共に生きている(=障害がある)から、障害者/健常者とは便宜的な分類でしかない。(3)「教養」とは想像を可能にする基礎的な素養(知識と方法)だと思う。文科省が国立大学に求める文系学部の再編によって、この「教養」教育がおろそかにならないことを希望する。

(2015年7月23日Facebook)

加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』、朝日出版、2009年。

東大教授による高校生を相手にした講義の記録です。日本近代史が、戦争を軸にして、広く深い知識と思考により語られます。歴史上の事柄が時間の流れのうちに連続してあることがはっきり見えてくれば、それは「歴史」というものの感覚をつかんだ証拠。講義録のため読みづらい個所があるかもしれませんが、取り組む価値は大いにあります。(2011年)

河合隼雄『コンプレックス』、岩波新書青、1971年。

自分は何からできているのでしょうか。身体は水と有機化合物から。心は意識と無意識から。無意識は意識に対して影響力が強く、とりわけコンプレックス(もともとは「心的複合体」を意味する言葉、いわゆる「劣等感」ではない)の存在感が大きいことが説かれます。(2011年)

河合隼雄『未来への記憶――自伝の試み〈上・下〉』、岩波新書(新赤版707・708)、2001年。

誰しも人生について深く思い悩むときがあるでしょう。そのような時には、自伝を読むとよいと思います。自分と同じような悩みを、他の人が抱えて生きていることがわかり、元気をもらえるからです。本書は心理学者・元文化庁長官による自伝です。著者の人間全体に対する温かな眼差しが感じられます。ひとに優しくなれる気がします。(2008年)

倉沢愛子『「大東亜」戦争を知っていますか』、講談社現代新書(1617)、2002年。

第二次世界大戦には、さまざまな呼称があり、「大東亜戦争」はそのひとつです。本書は「大東亜戦争」の時代に、日本が「大東亜」でどのようなことをしたか、歴史学の手法で(=資料を元に)描きだします。戦争に関する議論は感情的になりがちですが、本書はそうならない点でも学ぶべきところが多い本です。(2008年)

丸山圭三郎『言葉・狂気・エロス――無意識の深みにうごめくもの』、講談社学術文庫、2007年。

「言語」活動とは世界を分節化し理解することにほかなりません。つまり、世界を細かなパーツに切り分けて、それぞれに標識(=「言葉」)をつけていくことによって人間は世界を理解するのです。筆者は、世界と言葉のあいだのズレにエロティシズムが潜み、世界と言葉の関係性に生じた狂いが狂気となると論じます。すごそうでしょ? 人間の精神と言語活動についてわかりやすく論じた、噛み応えある良書です。(2008年)

宮嶋茂樹『不肖・宮嶋ちょっと戦争ボケ〈上〉 1989~1996』、新潮文庫、2005年。

タイトルはキャパの『ちょっとピンぼけ』をもじったもの。著者が自分の力で現場に潜りこむ、その行動力と知恵は参考になります(が、著者の思想的な軽さ、ことに甚だしい外国人蔑視は大問題です)。「信じられるのは自分だけ」という状況に僕らは耐えられるでしょうか。下巻はあまり面白くないので上巻のみお勧めします。(2011年)

内藤高『明治の音――西洋人が聴いた近代日本』、中公新書(1791)、2005年。

明治時代に来日した西洋人たちは、日本のどのような音を聞き、それらについてどう感じたのでしょうか。彼らの記録をもとに綴られます。私たちにとって当たり前のことが、外国からきたひとたちに奇異に映ることを知るのは、大変に面白いことです。(2008年)

中村美亜『音楽をひらく−−アート・ケア・文化のトリロジー』、水声社、2013年。

「音楽のちから」と言われることがあるが、それは何か。そのようなものは本当にあるのか。筆者は音楽の把握の仕方を、そこにある「モノ」からそこで起こる「コト」へ変換することで、社会において音楽が果たしている役割を捉え直し、「音楽のちから」を理解しようとします。音楽を新たな地平において論じた一書です。(2015年5月)

西川長夫『国境の越え方――国民国家論序説』、平凡社ライブラリー、2001年。

筆者は「国民国家」「文明・文化」「オリエンタリズム」「進歩主義史観」「アイデンティティ」など、現代社会・文化を考えるにあたり必須の概念を、ある条件下で必要とされた政治的なイデオロギーとして徹底的に問い直します。その圧倒的な迫力に、現代でもこうしたイデオロギーを無自覚に前提していることを思い知り、根源的な思考の必要性を痛感させられます。いくぶん専門的で難解なところがありますが、そう感じる場合は「補論」を先に読んでみてください。(2015年)

新田次郎『富士山頂』、文春文庫、2012年。

科学技術者かつ山岳小説家の著者が、実際に関わった富士山頂の気象レーダー設置プロジェクトを描いたノンフィクションです。プロフェッショナルたちの仕事に対する誇りの高さは見習いたいところ。官僚機構のあり方の一面が垣間見えるのも興味深いです。新田次郎の山岳関係の作品は全体にお勧めです(個人的にファンなのです)。(2011年)

野矢茂樹『入門! 論理学』、中公新書(1862)、2006年。

論理的に思考し、論理的な文章を書くためには、その基礎たる論理学の素養(頭のトレーニング)が必要不可欠です。本書は簡単とは言えませんが、トライする価値は大いにあると思いお勧めします。(2011年)

大和田俊之『アメリカ音楽史――ミンストレル・ショウ、ブルースからヒップホップまで』、講談社選書メチエ、2011年。

単なる音楽史の本ではない。アメリカのポピュラー音楽史とは「偽装」(人種や性別など)の歴史であると喝破した本。クラシック音楽もきっとそうなんだろうなと思えてきてオソロシイ。筆者は音楽の歴史が社会との関わりで語られることで、零れ落ちる音楽があることを憂慮する。その意味で、従来の歴史叙述の批判の書でもある(のに、題目が「アメリカ音楽史」というのがまた面白い)。(2016年2月) 

大友良英『学校で教えてくれない音楽』、岩波新書、2014年。

学校で教えてくれる「音楽」は、音楽の全てではない。それどころか、それは特異的なあり方をした、音楽のある一形態でしかない。われわれは「音楽」に縛られている。そんなことを考えさせてくれる。若尾裕『親のための新しい音楽の教科書』(サボテン書房、2014年)吉澤弥生『芸術は社会を変えるか? 文化生産の社会学からの接近』(青弓社、2011年)と一緒に読むのが効果的。

奥中康人『国家と音楽――伊澤修二がめざした日本近代』、春秋社、2008年。

明治時代の日本が西洋音楽を取り入れた、そのスタート地点に何があったか、そこにおける国家と音楽の密接な関係を明快に論じた本です。私たちが楽しむ音楽の来歴を知るのもいいことだと思います。(2008年) 

酒井聡樹『100ページの文章術――わかりやすい文章の書き方のすべてがここに』、共立出版、2011年。

いくら素晴らしい思想であっても、それを適切に表現できなければ、他人に伝えることができません。個人的には、学生時代にもっと、論理的な思考と作文の訓練をする時間をとっておくべきだったと感じています。(2011年)

坂本義和『相対化の時代』、岩波新書(新赤版525)、1997年。

多様な価値観が並存するこの現代において、人間が地球上で平和的に共存するにはどうしたらよいか考える本です。まずは他者が置かれた状況とそこでの思考について思いを馳せる「想像力」を涵養し、それを元にして自分にとっての常識を「相対化」することが必要だと筆者は述べます。(2008年)

下川裕治『アジアの弟子』、幻冬舎文庫、1999年。

世界には日本人とは全く異なる方法で思考する人々が生きています。日本にいて日本のやり方に適応するのがつらくなったら、別の世界を見てみるのもよいかもしれません。(2011年)

竹田青嗣『自分を知るための哲学入門』、ちくま学芸文庫、1993年。

「哲学」とは、ある学問分野であるというよりも、思考の方法・姿勢であるといったほうが適切かもしれません。徹底的に考え抜くことにより「自分を知」ろうとした「哲学」者たちの実践を、噛めば噛むほど味が出るスルメのように味わってください。(2011年)

田中克彦『ことばと国家』、岩波新書(黄版175)、1981年。

国家は人間社会の枠組みの一つのありかたと考えることができます。それと、人間の言語活動が、どのような関係にあるか説くのが本書です。現代の日本人にとって「国語」といえば「日本語」だが、実はそのようになったのはつい最近のことです。私たちにとって当たり前のことを見直す機会を提供してくれる本です。(2008年)

若尾裕『親のための新しい音楽の教科書』、サボテン書房、2014年。

この本は、音楽は「楽しい」「むずかしい」とか、音楽が「へたくそ」では「はずかしい」など、無意識に前提している観念を疑い、目の前でひっくり返してみせてくれます。われわれがいかに多くのことを無批判に信じてしまっているか痛感させられます。音楽とは何であるか考える入口として最適です。(2015年) 

渡辺裕『日本文化 モダン・ラプソディ』、春秋社、2002年。

自分のことを「東洋人」と認識する日本人が、「西洋音楽」とどのように付き合おうとしたか論じた本です。日本人が西洋音楽を楽しむとはどういうことか、考えさせられます(考えてみてください!)。同じ著者の『聴衆の誕生――ポスト・モダン時代の音楽文化』(春秋社)もまたお勧め。もはや定番と言っていいこの本は、「クラシック音楽の聴き方」についての我々の固定観念を振り払うきっかけになるはずです。(2008年)