※賛意を表してくださった昭和音楽大学教職員、学生、OBなど:5名(2015年9月18日午前3時現在)→11名(9月18日17時)→14名(9月8日24時)
われわれの音楽の起源は定かではないが、音楽の誕生にヒトの生体リズムが関わっていることは間違いない。個々に相違はあるにしても、よく似たリズムを共有するわれわれは、同じヒトである他者と同じ音楽を共有できる。われわれは、共に体を揺らし、足で地面を踏み鳴らし、手をたたき、尻を振り、声を挙げることで、すなわち音楽することで、他者と同じ時と場を経験することができるのだ。同じ時と場を共有することにより、わたしは他者を理解し、他者はわたしを理解する。これを経て、われわれは他者に対する寛容性を獲得する。他者に対して寛容であることは、共存の必要条件である。共に音楽することで互いに理解し、寛容になれる。これこそが音楽の力である。わたしは音楽大学の教員として、音楽の力を信じる。
そもそもヒトは地球上の自然界においては弱い動物である。ヒトは他のヒトと協力することで命脈を保った。他者と協働できることはヒト(およびその他の一部の動物)の特長であり、ヒトはその能力を最大限に活かし、ついには地球上でこんにちのように繁茂するに至った。人類史をこのように把握すれば、われわれが向かうべき方向と取り組むべき事柄は自ずと見えてくるだろう。すなわち、他者(ここに人類以外の生体を含めてよい)との共存と、それに向けた不断の努力である。これは自他間の紛争を武力によって解決しようとすることとは、正反対のことである。
武力の行使は、いったんは成功にするに見えたとしても、それは皮相的である。力の強い者が弱い者を抑えつけることは、あるいは武力を信じる者が武力を信じない者を抑えつけることは、抑圧/被抑圧の構造を築くだけである。この構造は内部にエネルギーを溜め込み、やがて爆発するだろう。そしてそこにはまたしても暴力が見出されるだろう。こうした理解が正しいことは、これまでに人類が起こした戦争ないし武力による紛争解決の試みの事例から間違いなく推測できる。例えば、米国がイスラム教原理主義者に対していくら攻撃を重ねても、攻撃された側は屈服することなく、却って反抗の力を強めている。明らかに、「武力は根本的な解決をもたらさない」と考えるべきなのである。
現在、国会で審議されている、集団的自衛権の行使を可能にするいわゆる「安保法制」は、日本国憲法の精神に明らかに反する。個別的自衛権およびそのための戦力の保持については様々なレベルで論じられており、簡単には合憲/違憲の結論を出せないことをここではいったん認めよう。しかしながら、集団的自衛権については、日本国憲法にそれを支持する規定はなく、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と謳う憲法の精神に真っ向から反するもので、いわゆる「安保法制」は違憲立法である。私はこれに断固反対する。
その他、本法制が憲法改正のために定められた手続きによらない解釈改憲であること、それはすなわち立憲主義の否定であること、集団的自衛権の行使を認める条件を明白にしえていないこと、そもそも提案者であるところの現政権がこうした重要な法案を論じる能力があるとは思えないことなど、指摘したい問題点は数多ある。そのいずれも提案されている法制を否決・廃案するのに十分なものである。しかし、ここでは先述の原理的なことに絞って反対意見を述べるに止める。
「安保法制」は有害無益であり、否決・廃案すべきである。
2015年9月16日 昭和音楽大学 教員 酒井健太郎