29年献榊祭

連理榊奉安殿に鎮座する連理の榊

毎年4月第2日曜日に斎行される献榊祭(縁結び祭)は縁結びの霊徳と豊作を祈り称えたお祭りです。

当社が鎮座する鎮守の森は、昔より「阿波手の杜(あわでのもり)」と呼ばれ歌枕として多くの詩歌が詠まれた所であります。

古伝によると名称の由緒は、

日本武尊(やまとたけるのみこと)が伊吹山で戦傷され、当地にたどり着いたが、尊の傷は重く再び立つ事ができなくなるのではと直感され、久米(くめ)の八腹(やばら)(食事の世話をする者)を妻である宮簀姫(みやづひめ)のものに遣わされ後事を託された。姫は話を聞き取るものもとりあえず当地に向かったが、尊は伊勢に向かった後だった。姫は人目も憚らず悲嘆され、その悲しみの姿から、だれ云うとなく、この森を「不遇(あわで)の森」と云う様になったと伝わります。

又、尊は伊勢に向かうにあたり比女に逢うことが叶わず非常に残念がり、後の世に生れ来る者に再びこの悲しみなき様にと祈願を込め雌雄二本の榊をお手植され、後にこの二本の榊は地上二メートル程の所で連理(れんり)となりました。これが当社のご神木「連理の榊」です。

平安時代の初め、五十七代陽成天皇はなかなかお后様をお迎えなされなかった為、朝廷では非常に心配され各国司に縁結びにまつわる珍品の献上方を布令し、尾張国よりこの連理の榊を献上(「三代実録」元慶(がんぎょう)元年(八七七)二月十四日)したとあります。ご神慮により、めでたく皇后をお迎えになられ、更に皇子様までお生まれになられました。以後、縁結びのご神木として広く崇敬を受けるようになったと伝わります。

この古事をしのび、献上する様を祭りとして今に伝えております。

このご神木は今は枯れて奉安殿にお祀りされています。

当時この榊の葉を借りて祈ると諸願は全て成就し特に良縁に結ばれたので、今もそのご霊徳が厚く信じられております。

連理の榊の御神木をたたえ、新たな雌雄の榊を献納致します。

この雌雄の榊は神社の厄年会により担がれ、町内の氏子をはじめとして木遣、子供神輿、十二支巫女、稚児達が盛大な行列をなして町内を廻り、神社へと献納されます。行列が本殿へ到着し、榊を献納して後、本殿にて大祭式を行い、縁結びの霊徳を称え、町内の平安と氏子の安寧を祈ります。

献榊祭の様子