由緒

御祭神 鹿屋野比売神(かやぬひめのかみ)

尾張の国の古社で、尾張国神明帳に従三位萱津天神とあり。本国帳の貞治本には従一位萱津天神と記す。

古伝によれば、当社は昔草ノ社(かやのやしろ)または種の社(くさのやしろ)・阿波手の社(あわでのやしろ)ともいわれ、和歌で知られた阿波手の杜(あわでのもり)に神鎮まります社として祀られていた古社である。

萱津神社は、太古民族が沃野を求めて土地を開拓した頃、田畑を守る農耕の神鹿屋野比売神(かやぬひめのかみ)を御祭神とした神社で、我が国で唯一の漬物の祖神であり諸病免除の神・縁結びの神と御神慈深き神として御神徳あり。

日本武尊御東征の途参拝あり。代々の国司・国守の崇敬篤く室町時代初期には国守萱津左京大夫頼益公が神田(みとしろ)六十貫文を寄進し、また、元和年間には、時の藩主徳川義直公より香の物領として元高五石八斗余の地の寄進を受け明治初年まで続いた。

明治5年5月、村社に列格し大正四年には指定村社となる。昭和13年頃より社殿の造営神域の整備を行い終戦時には県社扱いの神社に認められた。

御祭神 鹿屋野比売神について産経新聞さんに取り上げていただきました。

産経ニュース 【現代に生きる神話 祭られる神々】 鹿屋野比売神へのリンクはこちらです。

http://www.sankei.com/life/news/140402/lif1404020010-n1.html

献榊祭の起源

毎年4月第2日曜日に斎行される献榊祭(縁結び祭)は縁結びの霊徳と豊作を祈り称えたお祭りです。

当社が鎮座する鎮守の森は、昔より「阿波手の杜(あわでのもり)」と呼ばれ歌枕として多くの詩歌が読まれた所であります。

名称の由緒は、古伝によると日本武尊(やまとたけるのみこと)が伊吹山で戦傷され当地にたどり着いたが、傷は重く再び立つ事ができなくなるのではと直感され、久米の八腹(くめのやばら:食事の世話をする者)を妻である宮簀姫(みやずひめ)のものに遣わし後事を託された。

姫は話を聞き、取るものもとりあえず当地に向かったが日本武尊は伊勢に向かった後だった。姫は人目も憚らず悲嘆され、その悲しみの姿から、だれ云うとなく、この森を「不遇(あわで)の森」という様になったという。

また、日本武尊は伊勢に向かうにあたり姫に逢うことが叶わず非常に残念がり、後の世に生まれ来る者に再びこの悲しみなき様にと祈願を込め雌雄二本の榊をお手植され、後にこの2本の榊は地上2メートル程の所で連理となりこれが当社のご神木「連理の榊(れんりのさかき)」であります。

平安時代の初め、57代陽成天皇はなかなかお后様をお迎えなされなかった為、朝廷では非常に心配され各国司に縁結びにまつわる珍品の献上方を布令し、尾張国よりこの連理の榊を献上(「三代実録」元慶(がんぎょう)元年(877)2月14日)したとあります。ご神慮により、めでたく皇后をお迎えになられ、更に皇子様までお生まれになられたと云う。以後、縁結びのご神木として広く崇敬を受けるようになったと云う。

この古事をしのび、献上する様を献榊祭(縁結び祭)として今に伝えております。

このご神木も今は枯れてしまったが当時はこの榊の葉を借りて祈ると諸願は全て成就し特に良縁に結ばれると信じられております。

香乃物祭の起源

毎年8月21日に斎行される香乃物祭(漬物祭)は漬物発祥の御神威を称え漬物文化の興隆を祈るお祭りです。

この土地は、尾張平野と言われる肥沃な土地であり、また、当時は海岸に面しており、土地の人々がこの神前にウリ・ナス・蓼(たで)等の初成りを供え、海から取れた藻塩もお供えし五穀豊穣をお祈りした。神前の多くの供物が腐敗するのを惜しんだ里人が社殿の傍らに甕(かめ)を置きその中に入れたところ、神の思召しか程よい塩漬けになり、当時の人々は雨露にあたっても変わらぬ不思議なその味を神からの賜りものとして万病を治すお守りにしたとあり、これが我が国の漬物の始まりであるといわれております。

さて、祭典神事は毎年8月21日に斎行(さいこう)されます。何故この日なのか定かではありませんが、漬込む野菜の収穫期や塩の生産と大きく係わりを持ち、自然の恵みに適合したこの時期に斎行されてきたと思われます。

香乃物の由来

景行天皇の御子の日本武尊(やまとたけるのみこと)が御東征の道すがら当社にお立ち寄りの際に、村人がこの漬物を献上して長途の旅情をお慰めするとともに、霊験あらたかなこと等をお話したところ、尊は非常に感慨深げに「藪ニ神物(やぶにこうのもの)」と仰られたと伝えられます。 この古事を尊び、尊が熱田の地に祀られた後に村人はその昔を偲び熱田神宮の祭典(歳旦・祈年・新嘗・例祭の四祭)に特殊神饌として香乃物を献進するようになりました。