古墳時代とは古墳、特に前方後円墳の築造が卓越した時代を意味し、3世紀後半から7世紀末までの約400年間を指すことが多く、以下の区分に分けられます
古墳時代前期 3世紀後半から4世紀後半
弥生時代後期より築かれた全長数十メートル規模の「墳丘墓」は王墓・首長墓として後の巨大古墳となっていきました。
卑弥呼の墓といわれている箸墓古墳は日本で最初に築かれた前方後円墳ともいわれ、全長278mの大きさです。
奈良盆地には前方後円墳が分布しますが西日本では前方後方墳が主流となっていました。
初期ヤマト政権の中心であった奈良盆地と箸墓古墳付近の纒向遺跡は邪馬台国の所在地論争と絡んで話題の場所です。
歴史上の記述
「魏志倭人伝」に卑弥呼が朝貢し「銅鏡百枚」を与えたと記載せれてるのが景初3年(239年)で
同じく正始8年(247年)には「卑弥呼以死」の記載があります。また石上神宮所蔵の「七支刀」の銘文には
4世紀頃(372年?)百済が倭王に献上、日本書紀神功皇后摂政52年条に百済と倭国の同盟を記念して
神功皇后へ「七子鏡」一枚とともに「七枝刀」一振りが献上されたとの記述があります。
この時代の古墳
古墳時代中期 4世紀後半から5世紀後半
応神、仁徳から雄略天皇の頃で、ヤマト政権の勢力拡大でその象徴である前方後円墳が全国に広まりました。
またヤマト政権の王墓として築造場所も奈良盆地(大和)南東部から北部の佐紀に多く造られるようになり
佐紀盾列古墳群には200mを超す古墳があります。
5世紀になると古墳は河内平野に移りさらに巨大な古墳が造られた時代です。
歴史上の記述
413年から502年にかけて中国の歴史書に「倭の五王」に関する記載があります。
埼玉県の稲荷山古墳出土の鉄剣には471年(531年説あり)獲加多支鹵大王(雄略天皇)の銘文。
この時代の古墳
古墳時代後期 5世紀後半から6世紀後半
大王の権威は高まり、ヤマト政権の支配は全国に及んでいった時代です。
巨大な前方後円墳は次第に造られなくなり、古墳の規模は縮小化していきました。
有力豪族から地方の豪族も造営を行うようになり、各地に小規模な古墳が多く造られています。
歴史上の記述
越前からの大王オオド(継体天皇)の即位が507年(死去531年)でまた物部・蘇我氏の対立や
仏教伝来(538年)の時代です。(552年説もあり)
この時代の古墳
古墳時代終末期 6世紀後半から7世紀後半
前方後円墳が造られなくなり円墳や方墳が築かれ続けられました。
仏教の広がりや645年の大化の改新による「薄葬令」により造墓が禁じられましたが
皇族と一部官人の古墳は引き続き、造営されました。
八角墳は天皇(大王)だけが築造できる形式の古墳として造られました。
歴史上の記述
蘇我氏物部氏の崇仏論争(552年)、物部氏滅亡(587年)から厩戸皇子(聖徳太子)の摂政就任(593年)な
ど仏教の浸透がすすむ。
622年聖徳太子死去、628年推古天皇崩御。
この時代の古墳
また時期をおおよそ3期区分した場合、「前葉」「中葉」「後葉」の表記となります
例 前期前葉、前期中葉