◆ 私が一番困っていることは病名が不明なことと、体が痛みを起こしている起因(原因) がわからないこと。
ゆえに治療すら受けられない。気が付けば、病院のたらい回しにあっている。
一見すると、ごく普通なので、怠けているだけと捉われてしまいます。
仕方のないことですが、やりきれません。身体的・精神的に八方塞りの状態です。
以上のことを市、国の医療関係の役所に相談しても病名がわからないことから、
取り扱ってもらうことはできませんでした。
最初に市の役所に電話。「こちらでは取り扱えないので府に電話してください。」
「府では扱えないので国に電話してください。」と役所でもたらい回しにされます。
また、私の「体中が激しく痛む症状」から一番近いとされる病気の「線維筋痛症」も、
難病指定されておらず、障害福祉サービスや、難病・障害者手帳を受給・取得することもできません。
病院では原因病名が特定できず治療もできない。役所では取り扱ってもらえない。
以上のことから、自分の病態を根本的に治すという意味で居場所がありません。
病名がわからないゆえ、当然、助成も受けられません。
体は問題なく動かせるのですが、普段は痛みで何も手に付かずベッドに横たわり、
ただただ激痛を我慢し、耐え忍んでいる日々を過ごしています。
大学も合格しましたが、あまりの痛みで通えなくなり中退せざるえませんでした。
13年間で日本各地の病院に通院し、ありとあらゆる精密検査を受けましたが
病名、原因が特定できませんでした。ある時には特定診断ではないものの
「この病気ではないか…」と診断を受けその病気の投薬、専門的外科治療を
数年かけて受け続けてきましたがまったく効果がなく、結果、どの病院の医者からも
「あなたの病名、原因は何なのでしょうね…」と告知され続けました。
治療どころか原因、病名すら特定できず、途方に暮れる日々を繰り返してきました。
今まで言い渡された病名は「手根幹症候群」 「後縦靱帯骨化症」
「筋痛性脳脊髄炎(慢性疲労症候群)」 「線維筋痛症」 「脳脊髄液減少症」
「精神的な病気」など・・・。しかしこれらではありませんでした。
・痛みは見えない。外見とのギャップで、痛みの表現のしようがない。周りの理解を得られず、孤立の一途をたどる・・・。
私の体の激痛を表現するときに、「無数のガラスの破片が背中の中に刺さっている。
傷口を火であぶられているような灼熱痛。筋肉を無理やりねじ曲げられてるような。
筋肉痛の何十、何百倍の痛み。」など、あらゆる表現をします。
しかし聞き手側も、想像域が超えていることや、そのような体験をしたことがないから、
想像しようがなく、過去に負った痛みと連想するしかありません。
こんな私でも他の慢性疼痛患者が、どんな痛みを患っているのかを聞いてもピンとこないのが
正直なところです。
痛みは目に見えなく、患者当人にしかわからない主観的なことなので、相手に理解を得るのは不可能に近いです。
扇風機の風が背中にあたるだけで、はがゆい粘っこい痛みが走るのですが・・・。
当事者の痛みを連想するのはすごく難しいことなのです。
そしてもうひとつ、聞き手としては「そんなとてつもない症状なら、病院で診察・検査すれば普通、
原因や病名がわかるんじゃないの。なにかしらの治療は絶対あるんじゃないの?
何もわからないから他の病院へ行ってくれなんて、そんなことありえるの?」
と率直に思われます。
そして、「痛いと言ってるわりには全然痛そうに見えない・・・。」
と思われます。
外見とのギャップ、そして私たちが経験してきた現実・置かれている現状と、一般人の痛み医療に対する常識が
あまりにもかけ離れているため、言っても信じてもらえないのがほとんどで、逆に白い目で見られることも
珍しくありません。白い目で見られるのがわかっているから患者は言いたくても言えない。
言ったとしても疎遠されてしまう・・・。変人扱いされる・・・。
患者と一般人の間に、外見とのギャップ、痛みや病院に対する多大な認識の差の壁があるため、言いようがありません・・・。
家族にしかわかってもらえない。または、家族にすらわかってもらえない。
当事者は、痛みで心身ともにとても厳しい状態にさらされ、勉学や仕事、人間関係に支障がうまれ、
周りから浮いてしまう。周りとの相互理解が得られず、人間関係が希薄になり、
社会で生きていく上で、多大な障壁になります。
病気の苦しみ、周りの無理解、痛みや病院への認識の違いなど、患者自身が心身ともに
何重もの苦しみを背負ってしまう・・・。周りに、耐えがたい痛みを持った慢性疼痛患者だと言える環境には程遠い。
患者はいやでも、周りから孤立させられます。孤立の一途をたどらざるえません。
これが私たち難治性の慢性疼痛患者の実状です。
( 0から10まで痛みの数値があるとし、5から生活に支障をきたすとします。
私の場合ですと、起床時や運動、リラックスしている時など、さほど痛くない時が0~2。
痛い時が一気に10まで跳ね上がります。痛いときはそれ以上も以下もない。
またどういった時に痛みが起こるかというと、勉学や仕事、私生活の中でも
一定の姿勢で何かに集中している時や、同じ体勢の時以外でも、
考えながら力作業している時に激しい痛みが起こります。
体を動かす中でも、好きで行っていることと、そうでないことで痛みが起こるか起こりにくいか分かれます。
・・・つまり痛くない時と痛い時の「中間」がないことと、特定の時に痛みが起きやすいことが、
日常の中で周りに痛みを表現しづらく、外見から更に想像しにくい要因となっています。)
・慢性疼痛患者がまとまるためには・・・
もう一つ困っていることは、慢性疼痛患者がまとまりにくいことです。
痛みが起こる原因が医学的根拠を基に裏付けられていればよいのですが、線維筋痛症をはじめ、
病態がほとんど解明されていません。患者は改善したい一心で、原因判明もされていない・治療法も確立されていない
曖昧な病気の診断を受けることしかできません。
不特定診断のもと、薬や外科治療を受けても、改善しない患者の方が圧倒的に多い現状・・・。
しかし患者はより良い薬、治療法、病院、医者はいないのかいう話に行きがちで、
症状に着眼できずにいます。より良い治療法を追い求めるのは当然のことなのですが、上記のとおり、
病気の原因が不明のため、それに対する治療法も確立されていないので、
病院のたらいまわしにあう患者が後を絶ちません。
病名が付いて通院していれば、病院やインターネットの中で同じ患者がいるという団体意識のもと、
その時は治らなくても、いつか治るかもしれないという実体のない漠然な安心感に浸れるからです。
はじめの内は何もわからないので、しょうがないことなのですが、時間が経つにつれて一向に改善しない
ことを感じ始め、徐々に医者や病名に不信感を抱くようになります。
また患者会や団体も、病名を掲げないと活動ができない。
私のように、原因・病名がわからないことを訴えても、病気の周知や保険適用、薬や治療法の確立など、
明確な訴えができないので、何らかの病名を用いざるえません。
周りの線維筋痛症の患者会の方たちも同じ意見です。
線維筋痛症らしき病気があることが間違いないのですが、
痛みの起因がほとんど解明されていない痛みの病態に関しての現時点での病名診断は、
ほとんど意味がありません。
解明されていない痛みの病気(不特定診断)に関しては、病名ではなく
この耐えがたい痛みの症状を訴える形で、「難治性の慢性疼痛患者」として
一つにまとまる必要があります。
そのためには、2項目目で書いた通り、私たち患者の現状と、世間が思う医療への一般常識の差から生まれる認識の壁、
そして痛みに対しての認識の差を埋めることです。
特に痛みの認識の差を埋めるには、患者の心情を聞くほかないと思っています。
病気を患ったことで、今までどんな苦しい経験をしてきたか、そしてどのような現状に立たされているかを
打ち明け、それを聞き入れてもらう場所と仲間が必要です。
当事者から体験談を聞くことで、どれほど苦しいものなのか、その時初めて察することができると思います。
医療制度などの問題もありますが、まずは患者自身の心情を察してもらう。
そしてこの先、私たちが生きるために何をすべきか、ひとつの目的を決めること。
その目的のためになにか行動することが、患者自身の生きがいに繋がるのでないかと思っています。
個人がいくら苦しさを訴えても振り向いてもらえません。しかし団体で訴えていけばそれが声となり、
世間にも認知してもらえると思います。
・講演会などで、まとまることができるチャンス
講演会では壇上の方と参加者の対面の構図でしかなく、患者は長時間、壇上の方の話を
聞く形となります。様々な情報を得られるのは良いことなのですが、
患者はずっと痛みを我慢して聞いているので、身体的に厳しいところがあります。
壇上の方に質問するにも、患者同士が知り合うにも、限られた時間しか持ちえません。
私の場合ですと過去15年間のことを、休憩時間や講演会終了後に、2~3分に要約して
一人一人に伝えるのは不可能です。他の患者も同じです。
・・・せっかく患者と医療従事者、学者、メディア、第三者の方が
一同に出席しているのに、患者の体験談や心情を共有できないのは非常にもったいない・・・
といつも思っています。
・患者は苦しみ(立場、心情)を伝えたい、吐き出したいと必ず思っている
ですので、その形式から例えば、壇上の方、参加者全員が一緒に円になって座り、
一人ずつ体験を告白して、みんなで苦しみを分かち合い、それに対しての問題提起をし、
これからどうしていけばよいか話し合う「座談会」が必要不可欠と思っています。
そして逆に、患者家族、医者、第三者が慢性疼痛患者と接する上での
悩み(痛みの苦しみをわかりたくてもわかってやれない・・・など) の話し合いも必要と思っています。
お互いの苦悩や認識の差を埋めることが、「研究対象」という真の目的設定に繋がるのではないでしょうか。
これから行われる講演会で行えないか検討中です。
患者は長い闘病生活の中で孤立してきました。間違った治療法や病院のたらい回し・・・。
そんな状況下で、当事者のみで希望を見つけたり、自立することは非常に困難です。
私たちの場合、まだ何も解決策がない状態なので、自発的に希望を持つことは、
心身的に負荷がかかりやすく、時として自己破たんに繋がりかねます。
希望は絶望を分かち合える場所と仲間があってこそ生まれます。
・運動療法について・・・
難治性の慢性疼痛に、運動療法は有効という提言には疑問を持っています。
私たちの痛み発症の起因(原因)がわかっておらず、
それに合わせた治療法ではないため、逆に心身的に悪化するという患者の声も聞いています。
一部の医療従事者とメディアは、「痛みには運動療法や思考転換を」と言っておりますが、
全ての疼痛患者に当てはまるわけではありません。
腰痛患者が運動療法をして改善する例がありますが、私たちのこの痛みは、腰痛患者のとは明らかに異なります。
逆に言えば、安静にしていなければならない怪我・病気以外のことすべてに運動療法が有効だと
言えることではないでしょうか。
慢性疼痛は、運動せずに安静にしなければならないと言っているのでは一切ありません。
しかし、慢性疼痛患者には運動療法有効と提言に沿って、改善したという患者の声を聞いたことがありません。
またそれに対して異常個所の改善を数値化・可視化したりなど、詳細な医学的根拠もありません。
運動をしている時は痛みをほとんど感じませんし、そのような時間を増やすことはとても大切です。
しかし、それ以外の時は最上値の痛みを感じます。結局、勉学や仕事の時には、心身共に
痛みに押し潰されます。日常生活の中で痛みを感じてしまう時の方が圧倒的に多い。
運動していて痛みを感じない時より、痛みを感じる時を基準にしなければなりません。
よって私たちの場合、これでは根本的に痛みを緩和していることにならないのです。
痛くても体を動かすことは大切なのですが、そういった治療とは一線を引かなければなりません。
治療を求めるのではなく、「なぜ痛みが起こっているのかという起因究明と、
その痛みに対する治療法確立への【国の研究対象】」を目的と掲げています。
・日本の痛み医療を改善・向上させるためには・・・
(作成途中・・・ ) 講演会などで医療従事者や教授だけで議論を推し進めないこと。
また患者は自身の不平不満だけを主張しないこと。
一方だけが主張されても、何の進展もありません。今の痛み医療全体について議論しないといけません。
大事なのは患者と医者、双方の苦しい立場を、患者と医者が対立して言い合うのでなく、
仲介役に第三者が入って互いの問題点をまとめ、それらの改善に向けた議論をしなければなりません。
<病院側>
痛みセンターに携わる医者の現状。30分から1時間以上の診察をしても診療代が安すぎる。まかないきれない。
今の日本医療は、「疼痛は病名ありきの症状」としか捉えていない。
周りの医療従事者からしてみたら、「なぜわざわざ儲かりもしない痛みセンター科に勤めるの?」という感覚。
同じ病院の中で、他の科との間に大きな壁ができている。
痛みセンター科が潰れたり、存続が危ぶまれる病院すらある・・・。
つまりは、疼痛という病態そのものに関しては、周りからの関心が極端に低いことの現れだと思います。
これでは世間も疼痛への関心を持つはずがない。よって、痛み自体の治療・研究がなかなか進まないのが現状。
<患者側>
慢性疼痛患者は、「痛みの度合い」と「生活支障レベル」に分けなければならない。
それぞれの患者に対して『今ある治療を受けるべきか?』、または、
『様々な薬・治療を受けたが効果がなかった。治療法未確立だから研究対象を・・・』などといった、
個々の患者が抱える痛みの現状や、実生活に沿った議論 目的設定が、今の痛み対策ではできない。
簡略的に痛みをまとめる風潮ができてしまうのは、それぞれの患者が抱える痛みの現状で振り分けられていないから。
だから医者と患者間、世間、そして患者同士でも痛みに対する認識の差が発生してしまう。
また、脊椎損傷後に起こる痛みだったり、私みたいにある日突然 発症したりなど、
患者によって発症原因は違うわけで、痛みの種類や立場は様々。
難治性の慢性疼痛患者としてまとまった上で、それぞれに対して何が深刻な問題なのかを振り分けて、
それに対する改善方法を話し合わなければならない。患者自身が発起して行われる議論会も必要だ。
そのためにはまず不特定診断に関しては、患者達自身の病名依存脱却から・・・など。
双方が抱える問題点を 患者、医者、第三者で指摘し全体で受け止めて、議論していかなければなりません。
互いの苦悩と現状を把握し、相互関係が成り立たなければ、解決の方向に向きません。
・「自分のせいじゃない。病気のせいで今の生活を強いられている。自分を責めないでほしい。」そんな言葉を自分と同じ境遇の疼痛患者にかけてあげたい。そのために自分が何かを通してサポートできたらいいな・・・
病気だからといって周りから特別扱いされるわけでは一切ありません。
勉強や仕事が満足にできないと書きましたが、患者は痛みを我慢して必死に
取り組んでいます。しかし、耐えがたい痛みでどうしても身体的、精神的に
極限状態にさらされる。何をやるにおいても大きな障壁になってしまう現実。
はっきりとした解決策や答えはないけれど、この見えない辛さを可視化できたら
どれだけ楽だろう。
私は15歳で発症し、青春を謳歌できませんでした。大学も病気で中退しました。
面接で病気のことを言うとそれだけで落とされました。仕事も転々としました。
私が子供の時に発症した経験が、今10代20代で発症し、行き場をなくしている若年の
疼痛患者の受け皿になれれば、自分が苦しんできたことが全く無駄ではなかったのかなと、
どこかで思える時がくればいいなと思っています。
直接痛みをとってあげることは不可能だけど、当事者として苦しみを聞き、共感してあげることで
その時だけでも気持ちが楽になってほしいと思います。
そして私が何らかのアクションを起こし、根本治療を目的とした国の研究対象へ
アプローチをしていきたいと考えています。