本連盟は區民等の體位向上及び親睦を圖り依せてアマチュア相撲競技の健全なる發達普及を圖るを目的とする。
(昭和26年規約 第二章第二條、平成23年7月10日改訂修正)
以下、千代田区体育協会50周年寄稿文を沿革として記す。
本来 アマチュア相撲は、古くから相撲史の本流、近代には、梅常陸の職業相撲繁栄した1909年(明治42年)東京において、プロに対抗してアマ相撲を意識した文士押川春浪を中心に江見水陰によって結成された。 天狗倶楽部が最初で、関東、関西の文士・紳士相撲の対抗戦を開催したのは、画期的な事であった。
これに刺激され各地にアマ相撲が盛んになり、昭和入って大森山王の文士グループで、 鈴木彦次郎、尾崎士郎らによって文士相撲が行われていった。
1900年(明治33年)当時東京高師校長の加納治五郎が学校体育に相撲を加える事を提唱したのが学生相撲の始まりである。
この学生を指導し1909年(明治42年)学生相撲大会を開催したのが文士相撲の天狗倶楽部であった。
盛んになった学生の相撲熱は、1919年(大正8年)十一月大阪堺市大浜公園で第一回全国大会を開き 、 翌年には、関東・関西に学生連盟を結成。
このころから昭和初期にかけて職業相撲を圧倒するほど人気が高まり、 会場は常に満員の盛況であった。
海軍相撲の伝統は古く 1895(明治28年)元旦、日清戦争中の艦上で祝賀相撲を催した記録に始まる。その後、各艦隊では、狭い船中生活の心身鍛練のため、 甲板に防水マットを敷き釣床で囲んで土俵を作り、相撲を取ることを奨励した。
これが伝統となり、 各地海兵団では専門コーチを招き体育の専科にしたため、アマチュア相撲では、最強のチームとなって、対抗戦では、陸軍や学生相撲を上回っていた。
現在では、海上自衛隊に、その伝統が引き継がれ盛んになりつつある。
土俵開きには、田宮先生の親友で相撲の師匠でもある、北の洋関「(立浪部屋)現在NHK相撲解説者 緒方 昇氏)が駆けつけてくださり、相撲部員やOBに胸を貸して戴き大変感激したことが昨日のように思われます。
これ以降、当然学生生徒は、練習に励み東京都大会で2年間負けなしの団体優勝を飾った事 (当時まだ経済状態が厳しく中学生の全国大会は、文部省令で禁止されていました。)を記録しておきます。
1948年(昭和23年)第三回国民体育大会(福岡県)に、千代田区体育会としては、初めて、選手を派遣し(歴代国民体育大会派遣選手、田宮、高須、浅野、佐貫、糠田、三輪野、高力、小池、矢部、工藤、木村、戸島、石山) 東京都の優勝に大いに貢献。これを契機に、千代田区相撲連盟が結成された。初代会長に佐藤要二氏「岩本町」、理事長 阿久沢梅太郎氏「神保町」(後に二代目会長を歴任)を中心に発足し、三代目会長に遠山景光氏(区長)、四代目会長に佐貫棟造氏。五代目会長に村越正義氏(内神田)を迎え 現在に至り五十年を迎える。1949年(昭和24年)には、戦後荒廃した青少年の精神と体育の向上を願い、 千代田区相撲選手権大会(第1回優勝者中谷氏「外神田」第2回大会以降、佐貫氏「旭町」の六年連続優勝、 第8回高力氏「鎌倉町」、昭和32年第9回大会の三輪野氏「小川町」等先輩諸氏の良き青春時代の思い出)を開催し、他区に先駆け区内各地区に土俵を設け、夏の青少年リクリエーションの場として大いにその成果を上げ現在に至っている。
1950年(昭和25年)4月には、当時マッカーサー司令部より、使用を禁止されていた 靖国神社相撲場の開放を希望して、神社課長とともにG・H・Qに日参し、伝統ある相撲場の復活は、敗戦日本にとっては、画期的な出来事であった。
同時に、戦後途絶えていた大相撲奉納を、故時津風理解の下に復活し、現在の曙・貴乃花の両横綱の時代まで、またアマチュア相撲の会場としては、東日本の大学選手権等数々の大会が開催され、7月のみたままつりの開催にあわせ東京都総合相撲選手権も開催され区相撲連盟も毎年参加し、数々の好績を残し現在に至っている。
1972年(昭和47年)12月神竜小学校跡地にオープンした 千代田区立総合体育館は諸先輩方の数々の優秀な実績とアマチュア相撲にに対する情熱が認められ全国で初の総合体育館内に相撲場を作って戴き、 明治大学の相撲場や錬成道場など転々と稽古場を探しの苦労がなくなり、通年いつでも稽古の出来る東京都心のアマチュア相撲のメッカとして、広く知られ、数々のメディアに取り上げられ、紹介されている。
大相撲ファンも、自ら土俵に上がる人は少ないだろう。
素人には、出来ないスポーツという印象が強いかも知れない。
だが一般市民に広く門戸を開いている相撲場もある自分のレベルに合わせて技能を磨け、
雰囲気もなごやか。 プロの相撲部屋とは、ひと味違う「街の相撲場」に入門した。
<市民に広く開放和やか雰囲気魅力>
東京.神田の千代田区立スポーツセンター。この1階に相撲場がある。
練習日は原則週4日で、午後6時から約2時間半行われている。
<ベテランアマが指導>
広さは260平方㍍と相撲部屋並み。鉄砲柱、ウエートトレーニング器具、風呂場、和室、と必要なものは一通りそろっている。
指導員がいて、まわしも貸し出している。この日の指導員は、アマ相撲で30年以上のキャリアを持つ佐藤博之さんと早崎雄二さん。
シコ(四股)が始まるとさっそく佐藤さんが教えてくれた。
「軸足のヒザを伸ばして体重をかける」「着地はつま先から」「腰を落とすときに前かがみにになるな」。その通りやろうとしたら、足腰への負荷がぐっと増した。「まともにやったらシコはきついよ。体のバランスを取るという相撲の基本が詰まっているんだから」と佐藤さん。
延々と30分続け、終わるころには汗が噴き出している。
<けじめも教えます>
鉄砲、運び足と基本反復運動が一段落すると、いよいよけいこ。高校生の岡村輝彦さん(17)に胸を借りた。
思い切りぶつかったが、相手は、140kgビクともしない。押しても押しても、はね返される。いなされて土俵を割ること二番。
胸をもろ手で突かれあおむけにひっくり返ること二番。途中から受け身に徹してくれたせいか、ようやく一番ハズで押し出した。
五番もとると息が上がり、 ヒザは、ガクガク。合計一分もやっていないのに、百メートル走を何度か繰り返したようなきつさがある。
それでも、相手を土俵の外に出す瞬間は爽快だ。仕切から立ち会いまでの独特の緊張感も新鮮だった。
その後20人の参加者が次々と稽古したがキャリアによって力はまちまち。相撲らしい形になるまで2、3年はかかるそうだ。
見ていてわかったのは体重がすべてではないこと。スピードやうまさのある人は60kgぐらいでも、100kgを超える人と互角に戦っている。“草相撲“ならではのだいご味だろう。
ここでは、相撲特有のけじめも教えている。東から土俵にあがるのは、目上の人。
けいこが終わると、むねを借りた先輩に水をつける。
しかし相撲部屋のような極端な規律はない。
<健康増進目的多く>
参加者は、近隣住民、丸の内のサラリーマン、学生と様々。多くは、健康増進やストレス解消が目的という。
小学生以下も交ざり、和気あいあいと相撲を楽しんでいる。初心者でも溶け込みやすいのが魅力だ。
東京では、板橋区、大田区などに公営の相撲場があるが、それでも数はまだ少ない。
「千葉県や神奈川県からの参加者もいる。相撲を取りたいと思っているひとは、多いはず」と早崎さん。
身近に相撲場が増えれば、競技人口は、もっと拡大すると思うが・・・・・・・。
以上日本経済新聞の 平成8年7月11日夕刊Town Beat(運動部 岩本一典 記者)の記事から抜粋
このほかにも、
NHKテレビ、日本テレビ、 TBSラジオ、週刊誌、グラビア雑誌等多くの取材を うけその伝統と話題性においては、事欠かない。
千代田区内に本格的土俵が作られたのは、区立九段中学で昭和36年(1961年)。
区相撲連盟の理事長 田宮文夫氏の長年のご苦労と九段中御指導のお礼と感謝を込めて、 クラブ活動の施設としては初めて多くの方々の貴重な大金と努力により土俵が作られた。
当時の学校長近藤先生や八尋校長先生、相撲部々長水越先生(数学担任、学年主任)や大垣先生(国語担任、学年主任)OBの方々、 PTAの資金協力で屋根付きの立派な土俵が完成いたしました。
この50年間多くの方々に支えられ、また、設立当初、20歳代だった諸先輩も70歳代に、入り、戦後生まれの団塊の世代も(筆者も)50歳代になり、私たちの教え子も立派に社会人として活躍しています。多くの住民とともに歩んできた事を感謝するとともに、今後も区立総合体育館相撲場を中心とし、夏の納涼相撲(芳林公園)や少年相撲大会(わんぱく相撲千代田区場所、千代田区体育館)、東京都少年相撲大会(靖国神社)など、子供たちの夢と思い出作りに、社会人の健康管理に、住民に愛され親しまれるアマチュア相撲(千代田区相撲連盟)を、日本の国技として継承していきたく考えております。
参考文献: 講談社刊行 相撲百年の歴史/千代田区体育協会二十周年記念誌
協力:日本経済新聞社 運動部岩本一典氏
資料提供:前相撲連盟会長(名古屋在住) 佐貫棟造氏
写真提供:千代田区教育委員会 千代田区相撲連盟 加藤健二氏
編集文責:千代田区相撲連盟 早崎雄二