いい成績、いい学校、いい仕事

「いい成績」。

よく使う言葉ですね。

たしかによく理解していることは大切ですから、それでよいと思います。

できれば「いい成績」をとってほしいですよね。

ただ、日本の成績って「知識」や「技能」で評価されることが多々あります。

市販のテストを見ていると「数学的な考え方」とか「思考・判断」とは書いてありますが、一度解決した問題は知識ですよね。

たとえば、3年生のわり算のテスト。

テストの単元に「わり算」と書いてあって、文章題に大きな数と小さな数が書いてある。

ここに考える力が入っているか疑問です。

「いい成績」をえることも大切ですが、それ以上に学習の「過程」を大切にしてあげてほしいものです。

また「○○ちゃんは、いい高校へ行っているから…」などとよく耳にします。

「いい高校」って何でしょうか?

知識人たち、または、偏差値が高い学校へ進学して現在の地位を保っている人たちの中の何人かが、「偏差値が高いことがいいこと」としていないと自分の存在価値が無くなるがために作った「いい」ではないでしょうか。

本来の「いい」は、その子にとってメリットがある学校。

例えば、「通学に適度の距離である」「体が弱いから、体を鍛えたい」「校則に厳しい学校だから」「自分がやりたい教科に取り組んでいる学校だから」などなど、それぞれの価値があってよいのではないでしょうか。

「いい学校へ行って、いい仕事に就く」。

いい仕事って何でしょうか。

その人が本当にやりたいものに就ければそれが「いい仕事」なのではないでしょうか。

私は「いい学校に行って、いい仕事に就いた」という人たちが作った牙城に縛られているとお子さんが本当に目指している道を閉ざし、横道にそれるのではないでしょうか。

自分が生きてきた道を見返してみましょう。

今までによかったこともたくさんあったはずです。

苦しいことも悲しいこともあったと思います。

それでも、そのために出会えた幸せもあったのではないでしょうか。

そう考えると私たち親が子どもの道に「自分ができなかった夢」「自分が間違ったと思った選択」をのせてしまうことは、お子さんにとって悲しいことになるかもしれません。

「私が選んだ道じゃなかった」と将来子どもに言われるよりは、「私が進みたい道を応援してくれた」方が、子どもが生きてきたという気持ちになれるのではないでしょうか。

私たちが子どもにさせなくてはいけないこと。

それは「人に迷惑をかけない」などの根本的な道徳的なことではないかと思っています。