地面の下に眠っている遺跡たちは、建物や道路をつくるための工事によって壊されてしまうことがある。
そのような時、遺跡の記録を後の時代に伝えるために発掘調査が行われる。
多摩ニュータウンがつくられる際にも、たくさんの発掘調査が行われた。
4市にまたがる計画都市・多摩ニュータウンの範囲からは、最終的に964カ所の遺跡が見つかり、そのうちの770ヶ所ほどが発掘調査されている。
この地は近代的な開発の手が及んでおらず遺跡の残りがよかったことに加え、広大な範囲を、綿密に、1つの調査組織が発掘調査する機会に恵まれたため、新たな知見を数多くもたらした。
調査遺跡数の多い1980年代の後半から1990年代の前半には、多摩ニュータウン遺跡群の埋蔵文化財に関する新聞記事数も増加している。
当展示では、新聞記事に複数回取り上げられたことのある、当時としても注目度の高かった遺跡のほとんどを紹介するが、その多くはこの時期に記事にされたものだ。
多摩ニュータウン地域での調査遺跡数と埋蔵文化財記事数
(当センターデータベースより)
地域別埋蔵文化財記事数
多摩ニュータウン事業の展開と遺跡調査を行ったエリアの関係
冒頭で述べたように、多摩ニュータウン遺跡群は残りのよい遺跡が多かったことと、広域調査を行った点において考古学研究に新たな知見をもたらした。
前者については次ページ以降の解説に預け、ここでは後者の事例について紹介する。
No.245遺跡・No.248遺跡周辺地図
(昭和30年の地形図を加工。3桁の数字は多摩ニュータウン遺跡番号)町田市小山ヶ丘では、縄文時代の大規模な粘土採掘場(No.248遺跡)が見つかった。
その規模は調査された範囲だけでも2,405㎡。
少なくとも635トンもの粘土が千年以上にわたり発掘されていたと考えられている。
丘の斜面をすべて剝がすような広域調査のために、その広大さを確認することができた。
丘のふもとの集落跡(No.245遺跡)からは縄文土器の製作現場が見つかっており、ここで見つかった土器のかけらと半分に割れた石器は、なんと粘土採掘場で見つかったものの一部だった。
このことから2つの遺跡を当時の人びとが行き交っていたことは間違いなく、当時の土器づくりの実態を粘土採掘から製作現場まで追うことのできる貴重な事例となった。(参考:東京都埋蔵文化財センター 2000 『多摩ニュータウン遺跡 ―№247・248遺跡―』 東京都埋蔵文化財センター調査報告 第80集)
2つの遺跡間で接合した浅鉢と打製石斧
「多摩ニュータウンは狩猟場だった 縄文の陥し穴5400基」 毎日新聞 昭和62(1987)年5月13日付
※著作権の関係により、当該記事の紙面は掲載できません。さらに広域な遺跡間の関係を対象とした研究として、狩猟空間の研究がある。
多摩ニュータウン遺跡群からは、イノシシなどの獣を獲るためと考えられる縄文時代の陥し穴がたくさん発見されている。
広域調査を行ったために、陥し穴を掘る場所と地形の関係をも考察することができた。
陥し穴土坑は傾斜が緩やかで深い谷による開析が進んだ、川の南側斜面に多い。
特に河岸段丘面と、ふところの深い谷の谷頭近くに集中してつくられている。
どちらも穴の形態による分類や、穴を埋めていた土に差がないため、ほとんど同時期に使用されたものと考えられる。(参考:佐藤宏之 1988 「多摩ニュータウンの遺跡群調査―陥し穴土坑と狩猟空間―」『縄文人の生活領域をさぐる―広域調査の成果と課題―』 東京都埋蔵文化財センター)
斜面一帯に掘られた陥し穴(No.106遺跡 参考: 東京都埋蔵文化財センター 1996 『多摩ニュータウン遺跡』 東京都埋蔵文化財センター調査報告 第33集
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