シカは古くから人間にとって重要な資源動物であり、食料にとどまらず工芸品の材料など広い目的で利用されてきた歴史を持つ。その結果として現在のシカの集団遺伝構造は人為的な影響が著しいことが明らかになっている。しかしこれまでの遺伝的解析では近代以降の人為的な影響に着目しており、歴史的な数百年単位の人為的な影響についてはあまり調査されてこなかった。そこで、日本列島の中部に位置し、厳格な保護と狩猟が行われていた地域が混在している紀伊半島のニホンジカを対象にミトコンドリアDNAと核SSRマーカーを用いて集団遺伝構造について解析した。その結果、核SSRを用いた解析では、紀伊半島内で奈良公園、半島西部、半島東部と、3つの遺伝的に異なる集団が形成されていることが明らかとなった。mtDNAと核SSRの結果からは東部集団は高い多様性を維持していた。それらの生息地が維持されていたことと、相対的に人為的影響が少ない可能性がある。また、奈良公園の集団はDIYABCを用いた分岐年代推定から、紀伊半島の祖先集団から約2100年前に分岐していることが推測された。その時期は、気候変動による生息地の変化が推測される時期よりも明らかに最近であり、稲作の広がりにより当該地域において人口が増加した時代と重なっていた。これらのことから奈良公園の集団は人間活動の高まりにより、祖先集団と分断化した集団が、宗教的な保護によって維持されてきた非常に稀有な集団である可能性が考えられた。