一宗一派の代表役員である「管長」。曹洞宗では両大本山(永平寺・總持寺)の住職(貫首)が二年毎に交代しながらおつとめすることになっています(曹洞宗宗憲第20条)。その管長猊下(かんちょうげいか)が毎年4月に一年の布教方針や檀信徒の日常生活における信仰の実践を具体的に提示なさったものが「布教教化に関する告諭」です。
令和8年 「布教教化に関する告諭」
今、世界は多くの問題や課題を抱え、私たちは苦しみや悩みの多い社会を生きています。その中で人びとが宗教に求めるものは、心の安らぎと平和な世界です。
曹洞宗(そうとうしゅう)は、お釈迦さまと、そのみ教おしえを日本に伝え弘(ひろ)められた道元禅師(どうげんぜんじ)、瑩山禅師(けいざんぜんじ)を一仏両祖(いちぶつりょうそ)と仰ぎ、歴代のお祖師(そし)さまが脈々と伝えられてきた坐禅を中心とした正しい信仰にもとづく生き方を、日々の生活に実現していくことを目指しています。
その生き方とは、あらゆる存在が「縁」によって成り立っていることに心の底から気づき、そこで自ずと生まれる感謝の心を、行いと、言葉と、思いにして、すべての存在に回めぐらし向けていくことに他ほかなりません。
一杯のお茶が出されたならば、それを丁寧にいただく。而今(いま)なすべきことは、心を込めてつとめる。毎日が、かけがえのない「縁」と「いのち」の営みであることを自覚し、世界中の人びとが誰一人取り残されることのないよう、ともに願い、祈り、まずは自分自身から正しい信仰の生活を営んでまいりましょう。 合掌
南無釈迦牟尼仏(なむしゃかむにぶつ)
南無高祖承陽大師道元禅師(なむこうそじょうようだいしどうげんぜんじ)
南無太祖常済大師瑩山禅師(なむたいそじょうさいだいし)
「縁起(えんぎ)の法」に気づく
―全てが〝ご縁〟と受け止めて―
「〝縁起の法〟に気づく」
一佛両祖様(お釈迦様・道元禅師様・瑩山禅師様)が日々、坐禅を行ずる中でお気づきになられたのは、『あらゆる存在が「縁」によって成り立っていること』であったと管長猊下はお示しになっています。これはまさにお釈迦様が12月8日の明け方、菩提樹下においてお悟りになった「縁起の法」に他なりません。一佛両祖様と同じく人間として生かされている私たちも同じように坐禅に身を投ずる毎日を過ごす中で、必ずや「縁起の法」に気づくときが訪れます。
「坐禅の功徳(意義)」
私たちの周りには人やモノ、動植物に大自然といった目に見える存在、そして、時間や空気といった目に見えぬ存在、そうした自分とは異なる様々ないのちが存在しています。そんな周囲の様々ないのちとつながり、関わり合いながら、私たちは生かされているのです。「坐禅」は、そうした周囲のいのちとの関わりに気づかせてくれる行なのです。
「〝法難〟と向き合ってきた仏教祖師方の生き様」
毎日を過ごす中で、周囲の様々ないのちとの関わりによって、私たちには様々な出来事がもたらされます。いいこともあれば悪いこともある、喜ばしいこともあれば、悲しいこと、辛いこと、腹立たしく感じることも起こります。お釈迦様以降、2600年に及ぶ仏教の歴史の中でも、祖師方は仏道に否定的な者からの妨害行為や国家権力による弾圧などといった「法難(ほうなん)」と呼ばれる場面に幾度も出くわしてきました。しかし、祖師方はそうした法難も『かけがえのない「縁」と「いのち」の営みであることを自覚し』向き合い、乗り越えてこられました。そうすることによって、物事がさらに善き方向に進んでいくのです。たとえ時間がかかったとしても—。そうした事実があるから、能登半島地震や集中豪雨で大きな被害を受けた能登も、時間はかかれども、これまで以上に素晴らしい地に確実に復興していくと住職は信じ、願っているのです。
『ともに願い、祈り、まずは自分自身から正しい信仰の生活を営む』
住職の日常もいいこともあれば、悪いこともあります。悪いことが起こると悶々としますが、だからと言って、心乱れたまま行動すれば、状況が悪化していくのも確かです。まずは、曹洞宗の僧侶として、一佛両祖様とのご縁に生かされることに感謝し、自分自身が坐禅を中心とした正しい信仰生活を心がけ、自身の身心を調えながら、周囲のいのちに善きものを巡らせていけるような毎日を過ごしていきます。