〇横山家の祖は、平安末期から武蔵国に在った『武蔵七党』(むさししちとう)のひとつで、最大の勢力を誇った横山党である。平安時代初期の学者 小野篁(たかむら)の子孫、小野孝泰(おののたかやす)が武蔵守として八王子周辺を開き、その子義孝(よしたか)が権守となり、横山姓を名乗ったのが始まりとされる。
〇義孝の末裔で将監時隆の子、長隆(ながたか)が美濃国(現岐阜)に生まれ その第二子として生まれた長知(ながちか)は、1582年(天正十)十五歳で父に従い、当時越前府中(現武生)に在った前田利長(後の加賀藩第二代)に仕え、松任に移り二百石を拝領する。その後、長知は利長に従い1584年(天正十二)末森の役や、1587年 (天正十五)九州の役、1590年(天正十八)関東の役と出陣し功を成し、利長にとってなくてはならない存在になっていく。
〇1598年(慶長三)豊臣秀吉が没し、翌年、加賀藩初代藩主 前田利家が続いて没すると、二代藩主利長が徳川幕府に対して謀反を企んでいるとの嫌疑を被る。この時、徳川家康への前田家からの弁明の使者に選ばれたのが長知である。
〇出府して十日余りを経た後、ようやく家康に面会することを許された長知は、家康からの詰問に臆することなく答え、この結果 利長の母芳春院が江戸で前田家の人質となることと、利長の弟、 利常(後の三代藩主)の夫人に徳川二代将軍秀忠の娘珠姫を迎えることの誓約を交わし前田家の危機を救う。
〇1602年(慶長七)長知は、利長に母方の従兄弟である太田但馬守長知(ながとも)を金沢城内で討つことを命じられ、これを果たした長知はそれまでの知行に但馬の一万五千石が併さり、三万石を拝して大老となる。
〇1614年(慶長十九)二月に長知は突如剃髪、引退を申し出、比叡山に閑居するが、同年大坂冬の陣が起こり十月越前麻生津(えちぜんあそうづ)で利常に合い帰参が叶う。利常は長知に即時帰国して留守業務に就くように命じ、また、大津に待機していたその子康宏(やすはる) と長治(ながはる)を大阪へ連れ徳川家に参戦する。
〇長知が脱藩をした時、長知は比叡山までの経路を宮越(金石)、三国、敦賀と海路を利用した。当時の屈指の豪商の手助けを受けたのだが、後にそれらの豪商は海運業や蔵宿業務を行って藩との密接な関係を持つ御用商人となっていく。長知が帰参後、1616年(天和二)から1620年(天和六)にかけて加賀藩では、宿駅・港湾などの交通運輸機関の整備を執り行うが、これには長知が打ち込んでおいた布石、大津登米(おおつのぼせまい)の安全且つ有利なルートの開発に大きく影響したと伝わる。こうした面でも長知は先見の眼があった人物として、加賀藩にその名を残した。長知は、1645年(正保二)七十九歳で江戸にて没する。
〇横山家第三世康玄は高山右近(たかやまうこん)の娘を妻(後に離別)としていたこともあり、右近から茶道やその他の文化について深く通じた人物として有名であった。1631年(寛永八)金沢城下 法船寺門前の大火によって金沢城本丸(かなざわじょうほんまる)、辰巳櫓(たつみやぐら)が類焼に遭う。この対策として加賀藩が二の丸に新殿閣を構築したことや、職制の整備などを行ったことが原因で幕府から不穏の動きがあると嫌疑を受けるが、利常と共に出府した康玄(やすはる)の弁明により事なきを得た。これにより、長知と康玄(やすはる)二代に亘って前田家の危機を救ったことになる。
〇横山家が全国に『北陸の鉱山王』としてその名を轟かせたのは、永年受け継がれた家禄を基に新しい産業『尾小屋鉱山』(おごやこうざん)の成功によるところが大きい。明治に入った時点で廃山となっていた尾小屋鉱山が1880年(明治十三)より再び採掘され、資金難に陥った採掘者が横山隆平が代表を務め、隆平の叔父隆興が中心となる『 荷完社』(こうかんしゃ)に資金を求めた。1881年(明治十四)には鉱業権一切を譲り受け、横山家単独支配が約三十年間続き隆盛を極めた。
〇横山家が1702年(元禄十五)以降、上下屋敷を構えた地は、1869年 ( 明治二)横山町と称され、住宅地化されるが、今もなお城下町金沢にふさわしいたたずまいを残す。