「そういえば、隣のクラスの米田さん、入院になったって?」
本日は快晴。
心地よい風と日差しが程よいここは、校舎の屋上だ。
昼休み。昼食を終えて一息ついた女子学生たちが噂話に花を咲かせている。どこにでもある風景。どこにでもあるささやかな日常シーン。それを彩る話し声に、耳を傾ける男子生徒がひとり。貯水タンクの上という奇妙な場所で寝そべりながら、下方から聞こえる話に集中している。
「そうらしいね。3日くらい家出して、そっから帰ってきたらしんだけど、なんかおかしな様子だったみたい。すぐに病院に行ったらしいよ」
「マジか…やっぱ本物なんだ、【ドッペルゲンガーさん】」
男子は勢いよく身体を起こした。女子生徒が二人、貯水タンクのふもとで腰かけて会話しているのを見下ろす。
【ドッペルゲンガーさん】
この学校で流行っている都市伝説の類で、なかなかにロングランな話題だ。
夕方、一人で402番指定区へ行き、中心部にある十字路の真ん中、そこでブドウ糖をひと欠片投げると【出る】らしい。
402番指定区は指定廃墟区と呼ばれている場所だ。人が住まなくなり、建物も壊れかけていて、少々危険な場所になっている。それにも関わらず、学区内に位置しているおかげで、学生の恰好のたまり場になってしまっているのが現状だ。
そもそも、こんな場所をろくに管理せず放置している政府が悪いのだが、学校の先生も親も、子どもたちに「長く滞在するな」と𠮟りつけているだけ。これが、逆に思春期の学生の好奇心を刺激するらしい。言いつけを破るとか、冒険をするとか、そういうことに心が揺れるというのは、よくわかる気持ちだ。
そんな魅力的な場所に【出る】というドッペルゲンガーさんとやらは、男子が目下捜索中の重要参考人だ。彼は、ドッペルゲンガーさんに会って聞かなければならないことがあるのだから。
「ドッペルゲンガーさんに会うのって、ブドウ糖を投げるだけだっけ?『自分とそっくりな姿でゆらりと現れる』って話だよね?」
「だったはず。現れる瞬間に【音】がするんでしょ?」
さらに耳を澄ませて、和やかに交わされる会話に神経を集中させる。
『【音】が聴こえてきて、それを聴くうちに、青をスクリーンいっぱいに映した映画館に閉じ込められる』
ここまでは、男子がこれまでに集めた情報と同じだ。
彼がドッペルゲンガーさんに聞きたい事と言うのは、その【音】についてだ。
この世界には、【身体から音楽を発する人間がいる】。
この話に出てくる【音】とは、その類のものではないか、と言うのが男子の推測だった。
音楽を発する異能に目覚めた人間が存在することがわかってから、政府が【楽曲作成規制】という法を施行したとか、異様な変化がぽつぽつ起こるようになっていた。異能をもった人間に遭遇する機会は、普通に生活する中ではそうそうない。むしろ、規制のおかげで、人々は音楽を聴く機会をどんどん失っているというのが、実感できる変化のひとつだ。音楽が関連する娯楽が廃れたこともあって、ドッペルゲンガーさんのような都市伝説は、子どもたちにとっての少ない楽しみでもあるようだった。
男子は知りたいのだ。なぜ、音楽が規制されるのか。【身体から音が鳴る異能】とは何なのか。
それは、自分を知るためのヒントになるからだ。
「米田さんのお見舞いってできるのかな?…聞いてみたくない?」
「わかる。実際、どうなんのか知りたいよね。あたし、委員会一緒だし、行ってみようかな」
もう少し詳しい情報が欲しい。怪異に遭遇した本人からの証言が欲しい。
脳裏に閃けば、身体も軽やかに翻る。男子は、瞬時に腰を持ち上げ、ぐっと曲げた膝をバネに青広がる空へ飛び出す。羽織るだけの学ランが羽のように広がった。
彼女たちの目線に背を向ける形で、両足をどしりと地面に叩きつけた。やんわり屈伸をして衝撃を逃がしてやりながら、その勢いに任せて身体を反転させる。着ているパーカーの真っ赤なフードがなびいた。
キョトンとした顔で、開きかけの口をそのままに、少女ふたりは固まっていた。無理もない。二人だけの内緒話だと信じていたのだから、目の前の闖入者は平穏の裏切りだ。もっと言えば、空から人が降ってくるなんてことは、そうそう体験出来ないおとぎ話でもあった。
「盗み聞くつもりはなかったけど、俺も気になってっからさ、ドッペルゲンガーさんのこと。…そのお見舞い、ついてっちゃだめかな?」
座ったままの少女たちに目線を合わせるため、片膝をついてしゃがむ。開きかけの口が2つと丸く大きく見開く目が4つ、男子を凝視したまま固まっていた。だが、彼はそれを気にしない。脳内はドッペルゲンガーさんのことでいっぱいなのだから。
「ナンパ…?」
「誰?つかキモい…」
一度目の瞬きの間に沈黙があったが、二度目の瞬きの頃には不快感を露にした顔が男子に集中していた。軽蔑の言葉が漏れたのに気付いた時には遅く、少女たちは素早く立ち上がり、そそくさと校内へ走り去っていく。
ひゅうと強く風が吹いたおかげで我に返ると、腕を空に放り投げ、大きく伸びをした。
「あちゃ~。やっぱだめか…」
後頭部に手を当てて深くため息をついた。どうにも、聞き込みは苦手だ。自分ではかなり控えめに声をかけているつもりなのだが、誰も彼も、取り合うことなく去っていく。笑顔が足りない?声が小さい?脳内でぐるぐると反省会をしている間、風が優しく前髪を撫でる。赤のメッシュがちらちらと視界で遊んでいた。
「そういえば……あの子達、何年何組の子だ?何委員会って言ってたっけ?」
気まぐれで立ち寄った図書館で、適当に手に取った本の内容を思い出す。
『初対面の相手とは、お互いを知ることから始めよう。自己紹介は会話の入り口』
ついつい忘れてしまう。勢い任せに言葉は出ていくし、閃くままに身体は動き出していく。先程の、電光石火の如く過ぎていった異質な初対面シーンを思い出して、もうひとつため息を空に混ぜた。
「やっぱ、地道に聞き耳をたてるしかないかなぁ?」
さっきから、同じ道を何度も何度も歩いていた。
校内で今一番の話題であるドッペルゲンガーさんのことは、新聞部としても記事にしたいらしく、部員総出で取材の毎日だ。入部したてで、記事を作った経験もない僕にも、取材の命令があった。「部活動の一環だ」と言い訳しながら、この廃墟を歩き回れるのは役得かもしれない。数時間前、そう思った自分を殴りたい。目ぼしい話題もなく、帰路につこうとしたのだが、どうにも帰り道が思い出せない。
一度来た道を戻って記憶をたどりなおすか。そう考えて道を引き返したが、同じような道、同じような景色が続く。行けば行くほど、同じところをぐるぐる回っているようだ。そんな自分を置き去りにして、太陽はゆっくり西へと進んでいく。
「…まじかよ」
空が赤に染まっていく。こんなに歩いても、時間を費やしても、迷宮の出口を見つけられずにいることに焦りを覚え始める。とにかくいつもの通学路へ、とにかくとにかく。とにかく足を動かしていく。みぎ、ひだり、みぎ、ひだり、み…
「おわっ」
突然、目の前が真っ暗になった。
正面衝突は少々柔らかで、体温を感じる。ここに来るまで一切人気を感じなかったはずだが、人がいるのか。驚きの中、道案内をしてもらえるかもしれないという期待を思った。とにかくまず謝ることから。そうして道を聞こう。そうと決まれば、すぐさま顔を上げ、声を絞りだした。
「す、すいません!失礼、しまッ…!?」
次の瞬間、胸倉をつかまれ、壁に叩きつけられていた。真っ黒なスーツを着た男だ。ぴっちりと着られているそれと、廃墟の風景はどうにも似合わないな、と他人事な感想を浮かべる。
ただ、ぶつかっただけなのに?
突然の展開に思考が停止する。痛みも相まって、倒れこんだまま動けなくなってしまった。そんな僕の様子を観察するかの様に、スーツの男は覗き込んできた。
「謝るくらいなら~なんて言葉があった気がするな」
「あぁ。小学生の時、流行った気がするわ」
男が薄っすら笑いながら言えば、後方から別の男の声が答えてくる。『謝るくらいなら警察はいらない』という言葉だったか。停止する思考の中で、ぽっかりとそんなことが浮かんだ。
「さて、おじさんも残業は嫌なんだ。君も、“永遠に路地裏をぐるぐる回る”なんて疲れるだろう?」
疲れた顔をした中年の男は、僕をもう一度強く壁に叩きつけて言った。背骨を伝った痛みで咳が出る。若干宙に浮いている感じが気持ち悪い。
「なぁ坊主?ここは侵入禁止区域だよぉ?うろうろしてちゃだめじゃないか~?」
「え?禁止、区域?」
ここは、指定廃墟区だが、侵入禁止ではなかったはずだ。学校までのショートカットにもなるため、僕だけでなく、他にも生徒は出入りしているはず。それが、禁止区域だって?
困惑していると、男はますます笑顔で詰め寄ってくる。
「ああ、そうだ。侵入、禁止。言葉の意味わかるよね?」
「そ、そんなの聞いてない!ですけど…!それに、他にも出入りしてる人は…」
「え~?告知は5分前にあったはずだけど?聞いてない?」
鈍い打撃音がした。
また、背中に痛みが走る。今度は本格的な嘔吐感。それを咳に留められてるんだから僕はえらい、などと変な自惚れを思った。身体にうまく力が入ってこず、男に持ち上げられるがままになる。
「大人しく真っ直ぐ帰ってりゃよかったんだよ~。悪いけど、役所まで来てもら…ブッ!」
精一杯にできる抵抗として、目線だけ相手の顔に向ける。が、その反撃が通じたかどうかを確かめる間もなく、睨みつけた場所から男の顔が消えた。少々引っ張られた感覚がした後、首元の圧迫感は消え、声だけしか存在を確認できなかった別のスーツ男たちと初対面する。他に二人ほど。チームで行動するにはいい人数だ、とまた他人事のような感想を思う。
どさっというような、派手な転倒音が響く。スーツ男たちが呆気にとられたような表情で音のする方角を眺めている。僕もその方向へ顔を向ければ、目に入ったのは赤いフードだった。スーツの男は、その傍らで伸びてしまっていた。
目が覚めるような、赤。
その赤はしゃがんだ格好で地面に着地していた。上下黒の学ラン。白いストライプ模様のスニーカー。それがもぞりと動き、スローモーションのような、少しゆっくりとした間が流れた。ゆっくり、ゆっくりと赤は立ち上がる。
「あ!おっす!だいじょぶ?カツアゲ?何円渡した?」
快活な笑顔が、僕に振り向いた。赤いメッシュの混じった黒い前髪が揺れる。赤いフードの下からは、ちらっと、僕のものと同じ校章のついた詰襟が覗く。パーカーの上に学ランなんて目を惹きそうなファッションだが、校内で見かけた覚えが無かった。おそらく初対面であろうその少年は、仲の良いクラスメイトとでも言いたげな調子で、こちらに声をかけている。僕はとりあえず首を振って、カツアゲではないと否定してみると、彼は何故か残念そうな顔を見せた。
「なんだー…ってもしかして、単純にお話中だった?オレ、邪魔しちゃった!?」
「邪魔もなにも…公務執行妨害だ!このクソガキ!!」
低い低い声が響く。伸びていた男は勢いよく身体を起こしながら、腕をフルスイングしていた。赤パーカーの男子がひょいと跳ねながら避け、スーツの男はよろけつつも態勢を整え直す。男の左頬に、真っ赤な靴跡が付いている。
「こーむ…しっこう…?」
「とぼけてんのか、クソ」
男は冷静さを失っているようだった。先ほどまでの余裕ぶったような口調は消え去っていて、短く汚い単語だけ口から洩れている。無理もない。漫画の様に、顔面に飛び蹴りを受けるなんて貴重なイベント、そうそうないだろう。
パーカーの男子はそのままひょいひょいとバックステップ。スーツの男と距離をとる。ちなみに、言葉の意味は本当にわかってないらしく、真剣に悩んだ顔をして唸った挙句、僕に視線を向け、「なんだっけ」と小さく問いかけていた。
「ま、なんでもいいか!おじさんの顔には悪いことしたとは思うけど、やっぱダメだと思うよ、カツアゲは!」
「どうでもいい!とにかく役所まで連れていくぞ!」
男の指示を聞いて、同伴者二人が僕たちににじり寄っていた。
詰んでいる。
僕の背には、壁だ。逃げるための道は反対側で、男たちの向こう側。必死に頭を巡らせても、ここを立ち去る選択はできそうにない。しかし、納得できない理由で連行されるのは嫌だ。
5分前に進入禁止となったと言われても、自分は数時間前からここにいるわけだし、何か放送があったわけでも、誰か告知しに来た様子もなかったのだ。知る由もない。それなのに、急に連れていかれるなんて、理不尽だ。
やはり、男たちに連れていかれたくはない。
「活路をご所望?」
はきはきとした声が聞こえてくる。引っ張られるような心地がして、思わず声の方向へ身体を向けた。明るく、でも今度は少し挑発的な、少年の笑顔が視界に入り込む。
僕は、頷いた。
「おっけー!じゃ、行こうか!」
彼は、軽く振り返るような素振りで、持ち上げた脚を回す。踵が目指すのは斜め後ろ、黒いスーツの脇腹。めり込む瞬間を見てぼーっとしかけたが、今度こそ、どうでもいい感想を浮かべる暇はない。他の男たちがこちらに向けてくる腕の気配を振りほどいて走り出す。履き潰したローファーの固いような、そうでないような感覚がつま先に伝わってくる。
名も知らぬ同級生の手助けにより、典型的な窮地を描き出した路地裏からの脱出口へ一目散。と、言いたかった。
「っ…!二度も三度もガキに吹っ飛ばされる様じゃ役所のお仕事できないんだよなァ!」
「げ!」
走り出した僕の眼前。赤パーカーの少年が飛び込んできた。彼の脚を掴んだスーツ男が、ハンマー投げのような要領で、少年を投げ飛ばしたようだ。
少年との衝突を避けようと急ブレーキをかければ、ローファーが土煙をあげて滑る。うまく重心を整えられないまま、僕は尻もちをつき、投げ出された赤パーカーは、頭から地面に突っ込んでいく。脱出口は、名も知らぬ同級生に塞がれてしまった。
「ついてきてくれれば、それで済むんだけどねぇ?」
背中に二人、正面に一人。完全に包囲されていた。尻もちをついたまま、諦めたくない一心で、何か助けがないかと周辺を見回す。つま先の近くには赤いフードが見える。派手に突っ込んだあの光景を思い出すと、自分にも痛さが伝わるようだった。ピクリとも動かない様子を見れば、傷の具合を聞くまでもない。
「…まぁいい。こっちとしては首根っこ掴んで運べばいいだけだからな。そこのバカも一緒にな」
正面のスーツズボン。くたびれたそれが動き出す瞬間を見る。とにかく走り去ろうと脚に力を入れてみたが、上手く立ち上がれない。痛みと恐れ。それが身体を軋ませている。
男の脚は、膝を曲げながら大きく持ち上がった。狙いは僕の顔面だ。道中でガムを踏んだらしい。ゴムがこびりついているのが目に入って、不快感が喉にせりあがる。もうこれ以上、痛いことも気持ち悪いことも考えたくない。瞼を降ろした。
何かが動いたのを伝えるように、顔に風を感じる。痛みはすぐそこだ。布の擦れる音が近い。緊張で身体が固まっていく。もったいぶるように、そんな暗闇の時間が長く続いた。楽しまれているのだろうか。悪趣味だ。もう一思いにやってくれ。脳裏で叫び続ける。
「なに…?お前…」
来ない痛みの代わりに、男の驚いた声が届いた。驚きたいのはこっちだと、薄っすら目を開ける。
目の覚めるような、赤だ。
目の前には、ガムのついた靴裏でも、蹴り飛ばされた後に見るはずの地面でもなく、赤いフードが見える。
「なに…笑ってやがる、お前」
あり得ない、と言いたげな表情が声に宿っている。
気絶したように、指ひとつ動かさなかった脱落者が、黒い革靴の進行方向を阻む。腕の影からにやっとした顔が覗いている。
赤の混ざる黒い前髪の向こう側。彼は笑っていた。
足に力を入れて踏ん張る。そうしてためた力を腕に伝えて、ぎりぎりと押し付けられた靴裏をはね除けた。予期せぬ障害物に片足のコントロールを奪われ、スーツ男はよろける。一番初めに見たときと同じように、一瞬が長く感じる。ゆらりと立ち上がる赤いフード。土汚れで白が混ざる学ラン、その背中が、頭上に見えた。
赤の混ざる黒い前髪の向こう側。ぎらりと瞳が光った。
「なにって…これから始まるからだよ!」
だらりと血が額を伝っていても、浮かべた笑顔はそのまま。
声は衰えを知らず、はっきりと言葉を発した。
この咆哮に答えるように。
この叫びに続くように。
突然、この路地裏に、這うようにして迫る【音】。
「なっ!こいつ!…うわっ!?」
スーツの男が驚きをあげながら男子から距離をとる。数歩後ずさってから、もう一度驚きの息を漏らした。
僕も、驚いていた。夕焼けの紅が薄っすら見えていたはずの路地裏に、透明な青が侵食し始めている。波の影が映り、まるで水の中に放り込まれたような景色が目に映り始める。見上げると、空の青に重なるように、水面の揺らぎがあった。透明の青が重なって、深い色に見える。紅がそれを通過して、木漏れ日に似た光の筋を投げ込んでいる。
「…海の中みたいだ」
僕は思った。思わず感想が口から漏れ出す。背後にいる黒ずくめたちも、様変わりした風景を見回して混乱していた。理解が追いつけない人々をよそに、風景はもう一つ驚きを連れてきた。
鳥の影が舞っている。
細めの翼にまるっとした体のシルエットが、悠々と、群れをなして水面を飛んでいるのだ。控えめな翼がゆらゆらと羽ばたく。
「ペンギン…?」
背中からつぶやきが聞こえた。水中から見上げる鳥は、空を飛ぶはずのない鳥、その姿だ。
これは本当の水中ではないし、行き交うペンギン達は夢幻だ。それなのに、あたかもそこにあるように、あたかも始めからここが水中であったとでも言うかのように、現実の感触と映像が五感に届いていた。
そんな異様な風景の中、這うような【音】が続いている。
僕はこの音を知っている。今は規制されてしまったが、幼い頃に一度だけ聴いたことがある。くしゃりと揺らぎを帯びた、エレキギターの音だ。くすぐるようなシンバルの音が、高揚感を煽っていた。
「…【異能力者】か。おい、見かけたら【抹消】だったよな?」
「あ、ああ、そのはずだ」
痣になって顔に残ってしまった靴裏の跡をスーツの袖で拭いながら男は言う。驚いたままの同伴者二人に、ぴしゃりと冷水をかけるがごとく。僕はその声にぞっとした。明確な殺意が籠った息のように感じられたからだ。
殺気だつ男たちをよそに、ギターは鳴り続けている。スピーカーもなく、楽器もない。ただただ廃ビルが立ち並ぶこの空間に、【音】が響いている。泳ぎ続けるペンギンの景色もおかしいが、物語の幕開けを待つように這うギター音が耳に届くこともおかしい。
おかしいこと、恐ろしいこと。いろいろなことが起こりすぎて、僕は思考を放棄し始めていた。
ギターの音に、歪んだエレキベースの音が合流したあと、一瞬だけ静かになる。
「さあ!開場だぜ!!!!!」
赤が吠えると、音は、爆発した。
それは攻撃的だった。
音を辿っていくと、そこには挑発的に笑んだまま吠えだした赤パーカーの男子がいた。
今まで這うように鳴っていた音は、抱えたものを我慢していた揺らぎと知る。掛け声とともに男子が走り出せば、シンバルの爆発音とともにバンドサウンドも走り出す。特徴的なギターの旋律と音に厚みを持たせるベースの低音、その中で洒落たピアノも重なっていた。
思わず聴き入ってしまった。こんな音は初めてだ。何故その音が男子の身体から聴こえるのか。そんな疑問は置いておく。考えていたら、走る音においていかれる。必死に耳を澄ませば、少年のような、物語の主人公のような、そんな歌声が言葉を音にし始める。
誰が歌っているわけではない。やっぱり、歌は男子の身体から流れ出していた。
「さあ、謳おうぜ!おっさん!」
「耳障りな…!」
少年は真っ直ぐに突っ込んでいく。
くたびれた顔に大きな変化は見られないものの、吐き出した悪態には嫌悪が漏れ出している、そんなスーツの男を、赤の混じった前髪越しに見据えて走る。このまま前のめりに突っ込めば、みぞおちに頭突きできるかもしれない。そんな姿勢を急に崩し、スライディングをかましていた。変則的な動き。異常な身のこなし。先ほど受け止めた回し蹴りのそれとは全く違った男子の動きは、先ほどまでと明らかに違う様子だ。黒ずくめの男は、その赤い瞬きを完全に見失っていた。
スライディングのおかげで舞った砂ぼこりに気付いた時には、男が宙に投げ飛ばされていた。ストライプのスニーカーが、男の足へ突っ込んで、身体の支えを奪ったのだ。後頭部から地面に落ちていく。がつんという痛々しい音が、ハイスピードを保ったまま流れ続ける歌声の弾丸に混ざった。
「さあ!お前も動いた動いた!」
跳ねるように立ち上がった赤いパーカーは、瞬時に他の黒ずくめに詰め寄っていきながら、僕に声をかける。風景に見入り、曲に聴き入り、完全に夢を見ていた僕は、ようやく思考を取り戻した。そうだ、逃げなければ。
夢から覚めたのは僕だけでなく、取り残された二人のスーツ男たちもであった。だが、構うことはない。背後からの気配に気付きながらも、僕はとにかく目についた路地へ走り出していた。
「じゃあ、また後でな~!」
送り出す声を最後まで聞く前に、意識を飛ばして動かなくなったスーツの男をまたいで、開かれた脱出口へ一目散に走った。冷たい水の感覚が頬を撫でるような、ペンギンたちがすぐ隣を飛んでいるような、そんな気がしたが、確かめる余裕もない。
音がどんどん身体を駆け巡っていた。心臓に次々に刺さる言葉は炎のように赤々と煌めく声でできている。そこから燃え移るのは走るギターとキーボードの音だ。掻き立てられるように、ひたすら前に押し出すように、ドラムとベースの低音が背中を叩く。
まるで自分の身体じゃなくなったかのようだ。だって運動は得意じゃない、徒競走ではビリから数えた方が早いってぐらいの脚力なのに。自転車に乗っているときよりも速いと感じるスピードで駆けている。自分の意識より先に障害物をよけ、曲がり角を曲がっていっていく。すぐそばで、羽ばたきの音が聞こえていた。
轟音が一転して、ひとつの音色がリズムを繋いでいた。海の青を強調するような、静けさのある音と共に、学ランの少年は立ち上がった。背後には人ひとり分の細い道が、がらんどうのビルの間を突き抜けている。
眼前にはスーツの男が二人。双子なのかと思うくらいに判別がつきづらい顔というのが印象だ。
「なるほどな」
瓜二つのうちひとりが呟いた。少年はその声を、口許から流れてしまった血を拭いながら聞く。学ランの黒をさらに黒くした染みが裾に残る。キーボードが叩く電子音に重なるハイハットの軽い音が、呼吸を整えろと足踏みする中で、ギターが咆哮をあげている。
「ガキと見て侮っていたが、【曲】を使いこなしている異能者か。そうなれば、言い訳はいくらでもある…全治どのくらいがいい?クソガキ?」
「ん~痛いのは嫌かな!」
一度足踏みしていた轟音が、再び走れと叫び出す。少年はその号令に耳を傾けながら、静かに膝を沈める。ひと呼吸。そののちに、高く高く飛翔した。
一方の瓜二つの黒ずくめたちには、もはや驚く素振りはなく、冷静に、一糸乱れぬ同一の動作で、スーツの内ポケットから小型の拳銃を取り出している。
「あいつら、脳みそが【再生ボタン】になってるらしいよな?」
少年の身体から止めどなく咆哮が鳴る。それを、不穏な銃口が追いかけていた。銀の銃身は水面をすり抜ける光を受けて怪しく輝くが、少年は意に介していない顔だ。
当たらなきゃいいのだから。
発砲音。
しかしそれは、まくしたてる歌声に消える。
宙を舞う身体に、寄り添うようにペンギンたちが舞う。
一斉に集まりだした鳥たちは、たちまち少年の足場になった。駆け続ける音と同じように、とにかく速く、少年は黒く羽ばたく螺旋階段を駆け上がった。
弾丸の行方は分からなくなっていく。また1発、もう2発と、男たちが引き金を引くが、轟音と羽ばたきがかき消していく。
赤い羽ばたきが高く高く舞い、そのまま彼方へ飛んでいく。
「流石に拳銃はおっかないんで、今日は負けで!!じゃあな、おっさんたち~!」
少年は、眼下の男たちへ別れを告げ、そのまま羽ばたいていく。
轟音は風と共に空を舞っていき、男たちはそれを眺めるしか、聴き入るしか、なくなってしまったのだった。
「はぁ…はぁっ」
突然押し寄せた息苦しさに足を止め、顔を上げると、見慣れた景色があった。毎朝、そして毎夕見る景色。自身の登下校ルート、その大通りだ。空は夕焼けに滲む赤が浮かび、車道には車、歩道には下校途中であろうランドセルの子供たちがちらほらと見える。一軒家の屋根が整って並び、営みの気配を感じる。
「ここ…は…」
暴れた息を整わせようと深呼吸をする。自分がどうやってここまで来たのか、全く記憶に残っていない。それでも、脳内でガンガンと熱が響いていた。背中を押し続けたのは、確かにその音だ。
来た方角を確認しようと振り返った。あの廃墟を抜けて、また更に走り抜けたらしい。さっきまで何度も何度も見続けた景色は、もう住宅街に埋もれ、遠くの背景になっている。
「あいつ…だ、大丈夫…かな…」
「おう!心配に及ばず!だ!」
「のわ!?」
ないはずの返答が耳に届き、反射的に顔を反転させた。元の進行方向へ視線を戻すと、快活な笑顔が飛び込む。額から血を流し、学ランは所々破けている。それでも彼は、何事もなかったかのように笑っていた。はきはきとした声は響いて、反対側の歩道を歩く小学生を振り向かせた。
「あ!そういえば!」
男子は大声をあげる。困った顔で頭を抱えると、真っ直ぐ僕を見据えて一言。
「お金、取り戻してない!…何円カツアゲされたんだっけ?」
「…だから、カツアゲじゃないって!」
「え?そうなの?」
「違うってば…」
心配損とはこういうことかもしれない。破けた学ラン、額の傷、土汚れた手を見ると、申し訳なさが浮かんだが、その気持ちも長続きしなかった。
心配の言葉をかけようとすれば、訳の分からない台詞が飛んでくる。傷の具合を確認しようにも、本人はぴょんぴょん跳ねるような動作を交えながらあさっての返答をするので、もう会話にもならない、と諦めてしまった。
「あ!そうだ!制服一緒だよな?同じ学校だよな?」
「…そう、みたいだね。」
「オレは、鷹崎翔な!よろしく!そんでさ、聞きたいことがあるんだけど、お礼と思って答えてくんない?」
赤が印象的な男子、翔は、僕の肩をばしっと叩きながら、どんどんと話しを進めていく。肩に走る軽い痛みを感じながら、脳裏に水面の風景を過らせる。羽ばたいた鳥は鷹ではない気がしたが、彼に似合った名前だな、となんとなく感想を浮かべていた。
そういえば、あの不可思議な現象はなんだったのだろう。
「わかった。でも、僕も聞きたいことがあるよ。…君は一体、なんなんだ?」
「え、あ~…そっか、自己紹介のうちに入るのか。よし!わかった、答える!」
手を腰にあて、大きく胸を張る。そして、大きく息を吸い込むと、翔は吠えた。
オレはオレだ!!!!!!!
「いや、そうじゃなく…」
「え…これ以上に答えようがないんだけどな」