「ろくな【音】がねぇ…かったりぃ」
人気のないビルの屋上に人影ひとつ。カラスの羽休めを思わせる影。地上の様子を伺いながら、目を擦って男は言った。
眼下には、黒いスーツを着た人々がせわしなく行き交っている。
ここはオフィス街でも居住区でもない。この世界に点在する指定廃墟区のうちのひとつ。その場所が、これほどにぎわっている。非常事態だからだ。
彼らはとある情報を基に、ここに集まっている。指名手配されている男を探しているのだ。悲しきかな、彼らが捜している人物は頭上であくびをしているのだが、気付く様子はなさそうだ。
上村善郎。
彼らが捜している男の名前。そして、今、とてもだるそうに伸びをした男の名前だ。
彼もまた、真っ黒な恰好だ。ただ、スーツをしっかり着た彼らとは対照的に、ゆるくカジュアルな恰好だ。履き潰したブーツには、くたびれた白が混ざっている。
善郎は少し長めに呼吸をした。
「そろそろはじめっか」
彼の言葉に反応して、どこからか、ハイハットが手短なカウントを鳴らす。
これが最後の枷だった。
放たれたギターの怒号が、善郎の身体から突き出す。
かったるそうにしていたはずの彼は、すっくと立ち上がり、そのまま、なんの柵もない廃ビルの屋上を飛び出す。翼のように腕を広げると、羽根であるといいたげに、無数の銃がどこからともなく現れた。
空から降りだした【音】に、地上をうろついていたスーツの人々が顔を上げる。驚く顔、好機と自信ありげに睨む顔、不安に揺れる顔。様々な表情が、吠えるように響くギター音を見上げていたが、視線を受ける善郎にとっては、皆一様に黒い塊でしかない。
ニヤリと口を歪ませ、殺伐とした機械の羽根と共に地上へと滑空していく。
「ベルが、鳴ったからな。」
49秒間の招待状。
のたうち回る旋律が、後退を知らぬ鼓動に撃ちだされていく。
視界すら眩む轟音を纏い、地上に降り立つ彼は、疾走する戦車と化していた。
「次の【曲】」
片手に取った銃を撃ち尽くした善郎が呟くと、尾を引くシンバルの残響もそこそこに、次のカウントが始まる。
高音と低音の絡み合うギターのデュエットは、楽しそうなのに。
どことなく、ほんのりと
殺伐とした味がする。
ただ掻き立てるのだ。
走れと。
夕景の赤が行くべき道を示している。
忘れてしまう前に。
戦車のキャタピラがぐるぐる回るリズムか。腕で身体を引きずる匍匐前進のリズムか。スネアが細かく刻む音に、ギターのミュート音も重なる。ベースが厚みを出せば、軍隊が迫る轟音に思えるが、残念ながら、迫っているのはたった一人の青年だ。
寝癖をそのままにしたようなぼさぼさな黒髪、黒い長袖シャツはだらだらに伸びている。だらしのない、覇気の感じられない姿の彼は、疾走していた。真っ直ぐ、ただ真っ直ぐ。弾丸を向けられようが、刃を向けられようが、構うことなく進む。
「なんで…なんで止まらねぇ…!」
引き金に手をかけたスーツの男が声を震わせた。命中するはずの弾丸は青年の背後にびっしりと並んだ銃に撃ち落とされていく。射手のいない銃は、空中に浮かんでいた。まるで青年の身体の一部のように背後をついてまわり、青年の身体から漏れている轟音に弾丸の射出音を混ぜ合わせている。
「止まれってんだよ…!」
スーツに似合わないウエストポーチの中から、手のひらに収まる大きさの丸い物体を取り出した。それに突き刺さっているピンを勢いよく引き抜き、轟音を纏って前進するたった一人の軍隊めがけて投げつける。命中するかまでは確認せず、スーツの男はその場を全力で離れた。身体を反転させ、破裂していく丸い物体から漏れ出す光を背に、全力で駆け出す。これでも恐怖が拭えないのは、青年の身体から漏れる轟音を、手放した手榴弾の爆発音でもってしてもかき消すことが出来ないからだ。
その恐怖は、真実だ。
爆風を食い破るようにして、無数の銃が突き出ていく。ハンドガン、ライフル、ショットガン、マシンガン…。サイズも種類も異なるそれらが、意思を持った群れとなって次々と煙を飛び出していく。
「おいおい…冗談だろ…」
全力で逃走するスーツの男は、振り返った景色を見て、絶望を呟いた。詩人の伸びやかな歌声が銃の群れと共に飛び出し、止る事を許さないと、刻み続けるライドシンバルが告げる。
善郎は、爆風を突っ切って走り続けていた。
黒髪が揺れて鋭く切れ長な目を晒す。見据えるのは前だけ。纏った黒の長袖シャツは埃をかぶって白を浮かべていたが、それ以外に目立った綻びはない。前進し続ける脚は、傷の無い健康な様子で動いている。
身体から漏れる旋律が、一瞬だけ、優しげにクリーンのギター音を鳴らしたが、脚を止める為のものではなかった。
前方に何があろうと関係はない。
善郎は、呟く。
「この【曲】は、前進するだけ」
いつか、この曲に願いを込めた気がしたが、もう忘れてしまっていた。
失ったもの。それに辿り着くために。
進み続けるしかないのだ。
また銃声が轟音と共に響けば、進路は確保された。
身体から曲が流れるあいだ、善郎はこうして前進し続ける。
時に翼のように、時に爪のように、縦横無尽についてくる銃の群れと共に。
そして今日も
辿り着くことは出来なかったのだった。
瓦礫の上に、黒を纏った人々が覆いかぶさっている。来た道を振り返った善郎の目には、赤に青い闇が混ざりだした空と、薄っすらと舞った砂塵と、朽ちていった建物、動かなくなった人影が映った。
景色に思う事はない。
だのに、耳に届く呻き声が、いちいち善郎に報告する。生命の残り火だとか、痛覚の高まりだとか。そういった情報を夜風に乗せて鼓膜を揺らす。それがどうしようもなくかったるい。
「灰色。つまらない色だ、お前らの【音】は」
ひとりごとを吸い込む空には、星が煌めきだしていた。