「純平くんはさ、あそこには何が【見える】?」
少年が聞いた。無邪気な顔で。
指をさすのは深い青に染まった夜空で、灯りのない廃墟から見上げるそれには、白く点々とした星が散らかっていた。
隣で座りながら、喉の奥をころころと鳴らすくらいにはしゃぐ彼の声を【見ていた】。
「…んー、いや、なんも【見えない】や。君の言うようなものは」
ウサギのように小さくて、鬼のように角があって、弱そうで強そうな、よくわからない動物の影が、楽しそうに彼の周りを踊りまわっていて、それはそれは明るい、あたたかな【オレンジ】が輝いていたけれど、それは彼が今問うているものではないので、【見えない】と答えた。
彼は、こんな夜、たびたび言うのだ。
「んーそっか。…純平くんにも見せてぇんだけどなぁ、【虹の網】」
信じるなら、夜空には七色の網がかけられているのだと言う。ボクの目は、人の声、歩く音、何かが壊れる音、風の通る音…とにかく、いろんな音を【見る】ことができた。そのことを知った彼は、じゃあこれも【見える】のだろうとボクに話してくれたのだ。「秘密なんだ」と念を押して。
しかし、【見えなかった】。彼が爛漫の笑顔で話す景色は、自分の目にはとらえられなかった。
「じゃあ、これも含めて、俺の【音】なんかなぁ」
「…そうかもね。まぁ、納得いくけどね。君から出る【音】は、なんかいつも漫画みたいな、ガラクタおもちゃみたいな感じだし」
「なんだそれ…けなしてたりする?」
怪訝そうな顔でボクを覗きこむ。ふわりとした黒髪が揺れると、次には笑顔がこちらを見ていた。ああ、また色が変わった。ボクの目には穏やかな【緑】が広がっていた。
「どうだろ。馬鹿に…してるかもしんない」
「否定しないんかい!ははっ、辛辣!」
【オレンジ】だ。
そう思いながら彼の顔を見ると、今度は冷静な【青】が言う。
「あんさ、純平くん。…信じなくてもいいんだ。一応、俺がそういうもんを【見てた】ってことだけ、たまに思い出してくんない?」
「あ、あぁ。わかった、けど。」
この色の彼は冗談を言わないから、ボクは少しだけ神妙に声をひねり出したんだ。
「なんかの間違いで、俺と純平くんが別れることがあってもさ、この【網】をたどればきっと会えるから。…見えなくてもいい。覚えていてくれれば、たどり着ける。…多分」
最後の一言に、【ピンク】が混じる。性にもないことを言ってしまったと、恥じているんだと思う。だけど、その誤魔化しにのってやることにして、ボクは頷いた。
【七色の網】とやらのことはよくわからないけど、君の言葉であれば、ボクにとって忘れる理由にならない。なにせ君は、
「ボクの親友の頼みだ。忘れないでおくよ、多分」
「なんで多分なんだよ!」
「君も言ったろ!多分って!確証ないんだろ!」
「そうだけど!」
【黄色い】。ちょっと怒ってる。まぁでも、すぐに【柔らかな橙】だ。からかったってわかってくれている。少し、脇腹を肘でつついてやったら、くすぐったそうに笑っていた。
「じゃ、純平くん。“また今度”」
「え?」
【血のような赤】を携えた君は、すっくと立ちあがり、振り向く。
座ったまま、ボクもつられて、同じ方向へ体をひねってみた。
「…んだよてめぇら」
彼が唸るような低い声で視線の先に言葉を投げた。
黒いスーツがずらりと並んでいる。【無色】。よくわからない法律のために動き続ける、政府の人形どもだ。なんの色もなんの音もない。【無色】。つまらない連中だ。
ボクも、彼も。いつもこいつらに追われている。
理由は知らない。
思い当たることは、ボクの目と、彼の目、そして、彼の【音】だ。
ただ、ボクも彼も、「面白そうじゃないから」と、彼らを退けてきた。頭の悪そうな君が、「きっと研究かなんかに使うんだろう。そしたら俺たちは楽しくないから」と話して、ボクの手を引いて逃げた。ボクは自然とその言葉を信じてこれたから、今回もうまく逃げようと思ったのだ。
「だんまりかよ、気色わりぃ!!!!!!!!!!!!!!」
彼の影が爆ぜて、小鬼のようなウサギがたくさん飛び出していく。その瞬間にはもう、とにかく転がり続けるギターのリフが【鳴っていた】。怒号にも似た男の歌声がギターを跳ねのけて進み、その轍に沿って、彼は走り出す。次々に出てくるスーツ人間たちをどかどかと蹴り上げながら、彼は走った。
ボクはその跡を追いながら、続いて走った。
息を切らすボクとは違って、彼の足はよどまず、ギターは鮮明に叫ぶ。
ボクもそれにゆだねて、ただただ走っていた。
遠くから【鈍く、黒い音が横切るのが見えた】。
そういう音が、前を行く彼の頭とぶつかって、爆ぜる瞬間を、【見た】。
初めて見るものだが、確証がある。弾丸だ。弾丸が、彼の頭にぶつかっている。
スローモーションみたいだ。
前を行く彼が、横へ横へと流れて、そのまま地面にバウンドする。
怒号にも似た【曲】はブツ切れになり、急な静寂で耳に痛みが走った。
ボクは勢いを殺そうとスライディングして、倒れる彼の傍に這いつくばった。
浅い呼吸が聞こえる。
意識を確かめようと彼の頬に触れると、ドロリとした液体が触感を支配した。
「…は、は…。わかってても、怖い、な。」
消え入るような彼の音が、確かにボクの鼓膜を揺らす。
いやだ、いやだいやだ。
傷口を探して塞ごうと思った。それで動かした指を彼は払って、その弱弱しい腕でボクの胸を叩く。
「言ったろ、“またね”って」
「なんだ…なんだよそれ!やめろ、連れてく!腕を貸せよ!おい!!」
目の端にスーツが見えた。だから、彼を抱えて逃げようと思ったのだ。
ボクには【音】がない。どうにかできる術はない。
でも、それでも。とにかくどうにかしたかったのだ。
ドロリとした液体が、血が、地面に落ちていく。
それが、【散らばる音符】のように【見えた】。
それが流れては消えていくのが、どうしてもいやだった。
【つなぎ合わせれば】
そう思った瞬間に、ボクの中で何かがはじける【音】がした。
ぐるりと世界が反転する。目の前に迫っていた黒いスーツの群れはない。広がる、靄がかった夜空と点々とした弱い光。そして、地面にへたり込むボクと彼の前に、ひとつの、古い古いピアノがあった。
【音】がする。
粗削りで、それでもガラスのように繊細な。ドラム、ベース、ギターがシンプルに鳴らしあい、あどけない声が物語を語る。そんな【音】だ。
気づけばピアノの周りをクジラが泳いでいる。ボクに弾けと言わんばかりだ。
「それで…【つなぎ合わせられるなら】…!」
その時、ボクの足元に、あるはずのボク自身の影が消えていることには気づいてなかった。
必死だった。
なんでもいい。これがなんの【音】でもいい。彼を戻せるなら。
黄ばんだ鍵盤に指を叩きつければ、いっそ強く【音】は歌い上げた。壊れ行く【音】のかけらを拾って、つなげていく声だ。
しかし、隣に寝かせた彼から、液体は流れ続ける。血は止まるわけはなかった。
今思えばそうだ。ボクの【音】は命をつなげるものではなかったから。無理だったのだ。
でも、どうしても、諦めるわけにはいかなかった。
ボクには彼しかいなかったから。
何度も何度も、鍵盤を叩く。
視界がにじんでよく見えなくなるまで、ボクは必死に叩き続けた。
クジラは溶けて影になり、ピアノは朽ちて灰になり、閉じていた箱庭が元居た廃墟に戻っても。ボクは叩いていた。
「もうやめなよ」
とっつあんと出会ったのはその時だった。
宙を叩き続けるボクの腕を止めたのは、とっつあんだった。
いつの間に、スーツの人間たちはいなくなっていて、すっかり元の廃墟の景色だったのだ。
逃げようとしていたことを忘れていたこともあって、脳がフリーズする。
何が起きていたか、よくわからなかった。
だが、今は、とにかく
「 くん…!!!!!!」
彼の名前を呼んだ。反応のない体にすがる。冷たい。流れ切った液体だったものが、指にざらりとくっついた。
「…もう、落ち着く場所に寝かせてやろう。疲れてんだよ、こいつは。」
当時、初対面であったはずのボクに、とっつあんは優しく言った。
そして、彼の顔を覗き込んで、喉から声を絞りだす。
「遅くなってすまん」
その時、【澄んだ水色】がとっつあんの前髪を伝ったから、ボクは信用したんだ。
彼との関係も、先ほどまでの状況をどうしたのかも、問い詰めることはしなかった。
ボクととっつあん、二人で君の寝顔を見る。
「“またね”」
ボクの声帯が、かろうじて言葉の音を発した。自信がない発音、足りない息。それでも絞り出したのは、君が言った言葉だ。
なぜか信じられた。再会への祈り。
それを聞けたのが満足だったのかもしれない。
彼の体は、ボクの言葉を聞き届けたあと、ウサギのように小さくて、鬼のように角があって、弱そうで強そうな、よくわからない動物になって霧散していく。
ボクも、とっつあんも、その現象に驚きながらも、ただ見守るだけだった。蜘蛛の子を散らすようにして飛び跳ね、駆けていく彼らをただただ見つめた。
「行こう。すまんが時間がないんだ。…自分の力も有限なもんでな。人払いできんのも長くないんだ」
「……わかった」
最後の一匹がひときわ大きく跳ねたのを見送って、ボクたちは歩きだしたのだった。
「【網】だ」
「あ?なんて?」
402番指定区。
少し狭い路地。ひしめく空のビルの合間に、ペンギンが漂っているのをボクは【見ていた】。
ただ、その隙間に、【青と赤の網】が見えたのが引っかかる。
とっつあんが連れてきた場所は、先日、政府の人間が出会った【異能者】が能力を使った場所だという。見事逃げおおせたという音の主は、この空虚な路地を水族館に変えていったようだ。心地よさそうに空を揺れるペンギンたちが、ボクの横をすり抜けていく。
海底にいるかのように錯覚する水面の影を月が照らしていて、ボクはその水面が揺らす影の中に【網】を見たのだ。
【虹の網】か。いや、今眼前にあるものは、“彼”の言っていたものではない。それではないんだ。
でも、きれいに等間隔を描く青と赤の線が見せる形が、奥に閉まった記憶を引きずり出してくる。
なんで今、思い出したのだろう。
そう首を傾げるボクを、とっつあんの分厚い眼鏡のレンズが覗いている。
「いやなにもない。ところで、とっつあん。多分、【影】はペンギンだ。…ただ、この人、2色あるっぽい」
「2色っつーと、お前みたいに【音】の使い分けができるって感じか。だいぶ進んでる能力者だな。」
「…その割に、【残響】の濃さがめちゃめちゃなんだ、出力に慣れてないかもしんない……この人、無自覚に力使ってるかもしんない。」
「はぁ?!でも2色あんの?どういうやっちゃ。お前も十分特殊なほうだと思ったが…」
「あのさぁ、とっつあん。この人、ボクが探しに行ってもいいかな。仲良くできそう」
「構わんが……いや、そっちのほうが都合がいいか。政府側の動きが激しくなれば、自由に動ける時間も減るからな。任せたわ」
「ん。そしたら、見つかった頃に、またあそこのバーで」
「はいはい。そうだ、おまえ。そん時は一杯おごれよ。おごりっぱなしは落ち着かねぇから」
「えー、なんだよそれ。」
苦笑いが空に吸い込まれ、とっつあんの姿もそのまま路地に消えた。
いつも、去り際だけなんか不吉なその男は、穏やかで柔らかい【オレンジ】を残していく。まぁ、機嫌は良さそうで安心した。
「さて」
ボクは、いまだにちらほらと舞う古い記憶をしまいたくて、いつもより早いテンポで足を動かす。ペンギンの羽が頬を掠めて、また溢れそうになっても。深く深くにしまうようにして、一度瞼を強く閉じたのだった。