402番指定区。指定廃墟区とされる場所。
何故、廃墟となったのか。理由はわからない。学区内であり、ここを取り囲む他の地区は普通の居住区であるにも関わらず、ぽっかりと穴が開いたように、この区域だけがらんどうだ。
だが、理由はわからない方が魅力だ。非日常、特別、異質。おとぎ話の主人公として、この廃墟を闊歩できる、胸踊る場所。私たち学生にとって、そういった娯楽施設、という認識だ。
いつから噂されたのか。それは知るよしもないが、‘’ドッペルゲンガーさん“が私たちに夢のある非日常を届けているのは確かだ。
私にとって、このドッペルゲンガーさんの噂が嘘かホントかなんてどうでもよかった。単純な好奇心。それだけでスキップできたのだ。いつもより身体が軽やかで、空気が隅々まで巡っている感覚。この廃墟を行く一歩一歩が、楽しくて仕方がない。
「この辺りのことなのかしら」
空には黒が混じり始めていた。雰囲気を堪能できるように、人気のない時間を選んだ。当然、車もない場所だから車道のど真ん中を堂々と行ける。これも夢心地にさせる要因のひとつだ。
道が前後左右に繋がる場所、その真ん中で立ち止まった。
繁華街の車道と同じくらい、広々ととられている道で、白い線が途切れ途切れ見える。かつては本当に繁華街で、車が忙しなく行き交ったのかもしれないと想像して、少しだけ興奮する。立ってはならないところに、今、自分は立っているのだと大袈裟な映像を浮かべて、笑ってしまった。
ここがこの廃墟の中心部としていいかはわからない。ただ、これまでの探索で記憶してきた限りでは、ここが一番大きな十字路だ。大きい、ならば中心的な場所だろうといった決めつけをして、肩にかけていたスクールバッグの口を開けた。
「住宅街までの近道だもん、通りかかっただけ、だけだよ~」
言い訳を空虚に漏らす。先生に叱られるだろうか。親に咎められてしまうだろうか。そんな考えが、一瞬よぎったからだ。そもそも、立ち入りは禁止されてない。自分だけの否ではないだろう。
「本当にいるなら…会ったら…どうしようかな…」
鞄の中身を手でぐるぐるかき混ぜながら、探し物を引き寄せる。正方形の、小さめなタッパー。それを掴んで取りだし、青い蓋をぺりっと剥がす。風がビルの隙間を通る音が収まるのを待った。これが本当の話ならば、【音】に耳を傾けなければならないのだから。
歪で、白くて、少しだけきらきらしている、ブドウ糖の塊を摘まむ。
心臓が少しうるさい。緊張と興奮が腹の中で煮えている。心なしか、呼吸も浅く早い。腕を真っ直ぐ伸ばし、ブドウ糖を自分から遠ざけた。
「それっ!」
その時はあっけなく終わった。引力の導きのまま、真っ直ぐに落下していった結晶は、アスファルトの上で粉々になった。きらきらとした砂が履いているローファーの上に少々降りかかっている。
辺りは面白いくらいの静寂だった。変化があったとすれば、太陽が完全に就寝したことくらいだ。街灯のない廃墟のおかげで星がよく見えた、それだけはよかったな、と思っていた。
「やっぱただの噂、か」
大きく、ため息をした。噂が本当かどうかなんてどうでもいいと、思い込ませていたことを白状する。本当は、目撃者になって一目置かれてみたかった。
成績も平々凡々。過ごす日常も平坦すぎて、どうにも生きがいがなかった。
ここでドッペルゲンガーさんの目撃者になれば。都市伝説の証人になれれば。同じ話題の繰り返し、同じ景色の繰り返し。そんな毎日と別れることが出来るかもしれない。しかし、そうはならなかった。
がっくりと肩を落とす。その『がっくり』という音が聞こえてくるようだ。自分でもよく分かるくらいに、全身で落胆していた。
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「え?」
振り返った。
誰かに呼ばれた気がしたのだ。知ってるような、知らないような声で。
肩を叩かれたような。その感覚に従って、反射のまま、顔を背後へ回す。
太陽の沈みきった、光の少ない闇がある。薄れた白い線の残るアスファルトと、人気の見えない建物の数々。
朽ちたもの、色の褪せたもの。
闇の中にそれらが息づいているのを感じて、思わず足がすくむ。
「気のせい、か」
人影はない。呼ばれるにしても声の主が居ない。
それが確認できれば、辿り着く答えは「気のせい」だ。恐ろしさを拭おうと、簡易な深呼吸をして、前方へ視線を戻す。
「え」
『【音】が聴こえてきて、それを聴くうちに、青をスクリーンいっぱいに映した映画館に閉じ込められる』
軽やかな、金属の音が三回。鼓膜を震わせた。
同時に、眼前にはどこまでも青が映るスクリーンが広がる。
波が寄せては返す、それに似たように、音が広がっていた。
初めて聴く音。知らない振動。
それに揺られているうちに、自分が今、どこにいたのか分からなくなっていく。
そうして、出会ってしまった。
見てしまった。
驚きで、持っていた鞄が肩からすり落ちた。
中身が散乱する。
「米田」と自分の名前が書かれた教科書が視界の端に見えた。
スクリーンの前に立つ人影。
逆光して見えないその顔を、目を細めて眺めれば、
同じ顔が、そこにあった。
「あと、ほんの少しだけ」
自分が言った。いや、“目の前の自分”がそう言っていた。迷子の子供のように、捨てられた子犬のように。擦れた自分の声が言っていた。自分が、自分を、引き止めていた。
声が出ない
否定も、拒絶もできず
立ち尽くす
「…なりたいんだ」
私は、歌は得意じゃない。というか、歌ったことがない。【楽曲作成規制】は、音楽の授業を廃止させた。そう、私はそもそも、上手い歌い方を知らない。そのはずなのに。
“目の前の自分”は歌っていた。どこからか聴こえてくる伸びやかで、柔らかな歌声に合わせて。先ほど口にした引き止めの言葉を繰り返す、切なげな曲を。きらきらとした音を背景にして、ドコドコと響く音を標にして、歌っていた。
来ないで
そう叫びたいのに
声が出ない
“目の前の自分”は、歌を続けながら、手を伸ばしてくる。私の瞼を閉じようとでも言うように、掌を顔に押し付けてくる。払いのけようにも、指一本動かせず、私の顔をした人物の伸ばす掌を眺める事しかできない。
鏡を覗くような景色は黒く潰されていく。
かえしてくれ
そんな言葉を浮かべた。何か大事なものを取られている感覚に焦りを覚える。なのに、身体は動かないのだ。完全に暗闇となった視界。私は、諦めずに、指先に力を集中させた。まずは、この掌をどかして、そしてこの人物の前から逃げるのだ。身体を反転させて、全力疾走。
そうすれば、私はきっとたすk
―
…
……
…
っ
少
「やっぱり、わかんない」
廃墟。
大きな交差点。
その中心で、倒れた女子学生を眺めながら、少女が呟いた。
青いチェックのワンピースが揺れる。
首を傾げながら、少女はもう一度呟く。
「あなたと、わたし。なんで、ちがうのかな」
あなたになれば、わかるとおもったのに