化粧品のほのかな甘さが休憩室にただよっていた。
コンビニサンドイッチの代り映えしない味を飲み込んだばかりの口元を思わず曲げる。への字。またこの時間か。
この休憩室は共有スペースである。社員たちが何をしようと咎めることはできない。だが、自身の我慢のなさ、許容範囲の狭さが、直ちにこの臭いの元凶を追い出してしまいたいという気持ちにさせていた。
ずっと、化粧の匂いが嫌いだった。幼い頃、僕を抱き寄せた母からしたそういう匂いとか、高校の時、憧れの女の子に急接近したときのそれとか。普段感じることのない、明らかな他人の感覚が自分を刺激し、侵略してくる。断りなく踏み込んでくる「臭い」が、本当に嫌いだった。
共有スペースにひろがる、女の甘い臭い。充満していくそれは、先ほどまで堪能していた平穏平凡なひとりランチの余韻を破壊していく気持ちがした。
化粧を直す人々は、ランチ後の歯磨きも兼ねてお手洗いへ集結するのがお決まりであった。しかし、この女はその賑わいを避けて、必ず休憩室でメイク道具を広げた。僕が昼飯を平らげた後に、必ず。手洗いの鏡でちょいちょいっとファンデーションを塗り直すだけの人々と違って、女は一度軽くメイクを落としてから直しにかかる。慣れた手つきで、懇切丁寧に下地から塗り込み始める。
ここの女性社員たちは、業務内容的に人前に出ることが少ない部署がほとんどで、おしゃれにお構いのない人が多い。中には明らかなすっぴんもいて驚くこともあった。よくあるビジネスカジュアルな服装が多く、地味な姿の人々がデスクに丸まっている職場だ。
女の、メイクへの徹底ぶりもそうだが、ファッションもなかなかに華やかで、こんな地味オフィスではかなり目立っていた。フリルのついたブラウスやリボンがあしらわれたロングスカート。羽織るカーディガンにも品がある。世間でOLと言われる人種は、この女のような人を言うのだと思う。
部屋中に臭いが広がれば、僕が食事をした空間は掻き消える。不快さが広がる部屋になり果てても、僕は席を譲るつもりはなかった。侵略者がしきりに鼻をつついても、備え付けの椅子にどっぷり背を預けて、スマホ画面に映るキャラクターたちの営みを指でつつく。ここは、僕が見つけた、唯一の安住の地だからだ。
この女の侵略が始まるまで、他に来訪者の居なかった休憩室は、この春から勤務しだした僕の一人部屋と化していた。活用されていない、一人になれる部屋を見つけた喜びは束の間。夏頃、突如として臭いの侵略は始まり、紅葉の写真がネットで見られるようになった今日まで攻防は続いていた。
あさましく、幼稚な心でひそかに叫ぶ。ここは僕の場所であり、あの女の場所ではないと。
僕が根をあげそうになる瞬間、女は部屋を出る。そうなのだ。化粧さえ整えば、彼女にとってこの部屋にいる理由はなくなる。僕の苦悶をよそに、すっきりした顔で部屋を出ていく。臭いも連れて行ってくれればいいのだが、この部屋にいたことを刻み付けるように、甘さが残り続けている。
僕がその臭いに顔をしかめていると、始業まで5分前であることを示すアラームが鳴り響いた。
コートを羽織る必要はなく、汗が頬を伝う煩わしさもない季節は、突然終わった。
今朝、大慌てで引っ張り出したダッフルコートの重みが、しきりに吹く北風の冷気を遮断している。カレンダーを見れば11月。今年の終わりを感じ始める。
寒いと感じると動きの鈍くなる習性があると、一人暮らしを始めてから思った。早いうちから布団に潜り、夢の世界に旅立つというのに、朝は夏の起床時間よりも遅い。気温が落ち込み始める時期に合わせて、体調に関係なく、勝手に睡眠時間が伸びていくのだ。朝が苦手とか、寝不足だとか、寒さを意識して布団からでないとか、そういうものではない。身体が「そう」と感じる頃には、自然と起きられない。故に、僕は冬に活動することを想定していない生き物として生まれていると、SNSで愚痴のようにこぼした。
そうやってずるずると電車に乗り遅れ、習慣にしている時間を大幅に遅れて、会社最寄りの駅に到着する羽目になっていた。重装備の隙間を器用に抜けて身体を冷やす風。いつもより遅い足取りで、いつにも増してだるい。歩道橋の階段に身体を押し上げることですら重労働と化していた。
どうしてもルーズに成り切れない僕は、少し余裕がでるように通勤時間を設定している。普段より遅れているとはいえ、遅刻せず職場に向かえていた。ゆっくり階段を上り切って、長く息を吐く。心身に感じるだるさが、ため息を指示していた。
橋の下に視線を落とすと、通勤に急ぐ鉄の箱が忙しなく走る十字路があった。それとは対照に、歩道橋は静かだ。
最近、都市開発が進み、駅を中心に広がっている地下街は駅前の建物へアクセスを伸ばしていた。そのおかげで、わざわざ階段と戦わずとも、自分の勤務地にたどり着けるようになっている。それでも、「一人になること」にこだわった僕は、通勤ラッシュで込み合う近道を避け、この橋の上をゆったりした歩調で進んでいた。
僕の歩くリズムが、少々老朽化の進んだ橋にちょっとした振動を与える。
僕の踏みしめる場所が、僕の重みで沈む。
加害者も被害者も自分だけの世界で、心が深呼吸した。
揺さぶられる脳はすっきりして、世間は全て足下。
音もお気に入りの曲で塞いでしまえば、ひとりだった。
十字路をまたいで四か所に足を下ろす橋を、酔いしれながら行く。空の青さを歌う曲に誘われて顔を上げて見れば、筆が擦れた白い絵具の様な雲と冷たい空気に一層凍る青があった。吸い込まれそうだ、とはこのこと。空を飛ぶ妄想でも、風になってみる妄想でも捗った。
先ほどまでの憂鬱が薄らいだ頃だった。
流れていた曲が別の曲へ移ろう、その瞬間だった。
僕が足を踏み込むタイミングとずれて、橋が振動した。予期せぬ揺れに足を止める。頼んでもないタイミングで胃が上下する感覚は、憂鬱を取り戻すには十分すぎるものだった。羽ばたこうとしていた視線を降ろし、ふと後ろに首を回してみる。
女だ。可愛らしいピンクのコートに身を包み、ヘアスタイルもメイクも完璧で、朝の陽ざしに負けじと輝こうという自信満々な顔。休憩室メイクの女だ。
あの臭いを思い出すと、吐き気が押し寄せる。見なかったことにしようと空へ視線を戻し、止った足を急発進させた。行く先は同じなら、せめて並走したくない。とにかく、近くに寄りたくない。動きの鈍いはずの冬の僕は、驚くほど機敏に動いていた。
「おはようございます。…あの、おはようございます」
どうしても気付きたくなかった。そこそこの音量で耳を塞ぐと、古いようで新しいメロディーをギターが刻む。
だが、その隙間を縫うように、それを突き破るように、女は挨拶をしていた。
僕の隣で歩き、顔を向け、僕に挨拶をしていた。
それなりに目立った色のイヤフォンで、耳を塞いでいることを強調し、話しかけるなと全身でアピールした。
それでも、二回も、挨拶したのだ。
衝撃と不快が一気に喉元へ駆けあがる。
それでも悪役に成り切れない僕は、「…ざいます」と訳の分からぬ挨拶を返した。
せめてもの抵抗、会話を続けたくない意思を、イヤフォンを外さないという行動でもって示したが、女は挨拶ができた事実があれば満足だったらしく、僕の返答を聞くと満足げに会釈し、僕を抜かし、下りの階段へ足早に進む。
女が足を地面につける度に橋は大きく揺れ、僕の胃を上下させる。臭いを思い出した。ランチの味をかき消す、あの甘い臭いだ。どんどん調子が悪くなる。さっきまで近かった空すら、一瞬にして遠ざかった。女の情報で頭が埋め尽くされると、僕は、いよいよ歩いていられなくなったのだ。
どうして独りになれぬのだ、どうして
まだ揺れているような気がして、完全に足を止めたが、女はとうに橋を降りていて、橋を揺らすものなど僕ひとりであった。
イヤフォンの曲はサビに入っていた。ギターは懐かしい様な古いメロディーを刻む。個性的なボーカルは、今の僕をあざ笑うように歌い上げた。
『あなたは二度と 孤独になれない』