イワンの庭。それは、極北の不毛な地にある庭園だった。
イワン・コロボフ。彼には、岩田えりこという妻がいた。イワンは、大砲の製造を担う工場で働いていた。それを妻に伝えることは到底できなかった。なぜならば、彼と妻の間には夫婦の関係と敵国同士の国民であるというジレンマがあった。
幸運なことに、イワンの周りの人には理解があった。その小さな村はイワンとえりこの関係に口出しをしなかった。二人の世界は常に深い積雪によって、守られていた。
しかし、雪が積もるのと比例して、えりこは徐々に言葉を失った。まるで、ふんわりとした雪に音が全て吸い込まれたかのように、彼女は口を閉ざした。イワンは常に耳を澄ました。彼女の発する言葉を取りこぼさぬように。だけれど、いつも聞こえるのは屋根に積もる雪が落ちる音と、暖炉の焚火が割れる音だった。
ある朝。珍しく雪が止んだ。イワンは妻と久しく外に出かけた。朝日は純白な雪に反射して、二人を照らす。白夜が多いこの地域では珍しい光景ではないが、突然、持ち上げられるような風が二人の背中を押した。
イワンは聞き逃さなかった。えりこは「桜が見たい」と言ったのだ。それから、イワンは工場に繫く通うようになった。
やがて、雪が止むころ、寒さと引き換えに疫病が流行り始めた。イワンは祈った。二人の世界に入り込まないでくれと。しかし、そんな願いを踏みにじるかのように、えりこの体調が急変した。もともと体が弱かったえりこは疫病に倒れ、家に籠り切りだった。
イワンは遠くの山を越えて、港町にいる医者を訪ねたが、戦時中にまともな治療は受けられなかった。
イワンは家にいる間にえりこの看病をして、彼女の容態が良くなると、外に出かけた。また、雪が降り積もった。えりこは自分がいま、来たる時を待っているだけだとわかっていた。
それは、雪の勢いが止んだ時だった。彼女は久しく自分の脚で立ち上がっていなかったが、家にいないイワンを探すために、玄関を開けた。
初めは幻覚かと思った。目の前に広がるのは、一面の花畑だった。蝶々が舞い、花びらが落ち、満開の桜が彼女を迎えた。
それは、すべて、イワンが作った銅像だった。
80年経った今でも、極北の花畑の真ん中に、日本人の女性が一人、安らかな顔で眠っているのだと言う。
作者に与えられたお題は「銅像の話」でした。
愛情という概念は、とても繊細で、存在があやふやなものだと思います。人はどうしてもその概念を身近に感じたくて、愛情を形にしようと必死になってしまうものです。それは、時にはバカげた行為として後世に残ってしまうこともあると思います。しかし、愛情は個人的なものです。良し悪しは置いといて、当人同士にしかないその引力を我々が少しでも感じられたら素敵だと思います。
(2026/03 初代会長記)