令和7年11月15日 今週の和讃(№33)
報恩講を一週間後に控えて、今週の和讃(№33)
(一二)
光明てらしてたえざれば
不断光仏となづけたり
聞光力のゆゑなれば
心不断にて往生す
浄土和讃 讃弥陀偈讃
阿弥陀仏の光は絶えることなく照らし続けるので、
不断光仏と申しあげる。
その光のはたらきを聞く信心もまた絶えることなく、
往生することができる。
三帖和讃 現代語版 (本願寺出版社)
真実信心の人に育て上げる
絶え間なく照らし続ける光の如来さま、
その絶え間なく聞かすはたらきが身に付き
憶念となりお浄土に生まれさせていただく
南无阿彌陀佛、なもあみだぶつ、なんまんだぶつ!
令和7年11月8日 今週の和讃(№32)
(四〇)
弥陀智願の広海に
凡夫善悪の心水も
帰入しぬればすなはちに
大悲心とぞ転ずなる
正像末和讃 三時讃
阿弥陀仏の本願の大海に、
凡夫のさまざまな心の水が流れ込んだなら、
その善悪にかかわらずただちに
大いなる慈悲の心に転じられる
三帖和讃 現代語訳(本願寺出版社)
大悲心とぞ転ずなる とは?
大いなる慈悲の心に転じられる とは?
煩悩具足は臨終の一念まで変わらないが
本願のはたらきによって
ひとすじにまかせた心(無礙の一心)が恵まれる
結果、臨終の一念に大般涅槃を証して還相へと
不可思議、不可思議、なもあみだぶつ!
臨終の一念の連続の常に今、転じ続けられてある、
なもあみだぶつ、なんまんだぶつ、なまんだぶ!
令和7年10月18日 今週の和讃(№31)
(七三)
煩悩具足と信知して
本願力に乗ずれば
すなはち穢身すてはてて
法性常楽證せしむ
高僧和讃 善導讃
煩悩を身にそなえたものであると知らされて、
本願のはたらきにおまかせする身となったなら
命を終える時、煩悩にまみれたこの身を捨て去って、
浄土で変わることのない真実のさとりを開かせていただくのである。
三帖和讃 現代語訳(本願寺出版社)
煩悩具足とは何処で信知?何処で頷くのか?
本願力に乗じた“救いの中で”
それは本願を疑う心が取り去られた“まかせた状態”
その“救いの中”で煩悩具足が救いの障りにならない!という現実が!!
本願力に乗ずるとは?まかせた、疑いの闇が晴れたこと!
煩悩具足とは?信知するとは?
その闇が晴れた中で
私は真っ黒でした!ということ
真っ暗と真っ黒は違う!
命を終える時とは何時?その内?何時か?
それは常に今!私はそうは思わないけど・・・常に今 です。
厳密には常に今の次の一瞬・・・と言っている間に今になっている・・・
常に今の次の一瞬、煩悩具足が
この上ない覚りに・・・その可能性と言うか確実性を秘めた常に今をお念仏の日暮らしとして・・・なまんだぶ、なまんだぶ、・・・
不思議だなあ 南无阿彌陀佛、なもあみだぶつ、なんまんだぶつ!
令和7年10月11日 今週の和讃(№30)
(三二)
本願円頓一乗は
逆悪摂すと信知して
煩悩・菩提体無二と
すみやかにとくさとらしむ
高僧和讃 曇鸞讃
すべてのものを速やかに完全なさとりに至らせる唯一最上の本願は、
五逆や十悪のものも摂め取ってくださると信じるところに、
煩悩とさとりは別のものではないと
速やかにさとらせてくださる
三帖和讃 現代語訳(本願寺出版社)
煩悩の私を種として“助ける如来さま”と“助かる私”が
南无阿彌陀佛の中で“一体に仕上がった”不可思議な本願力
煩悩・菩提体無二とは
“地獄行きのままお浄土参り”の我が身の現実が明らかになり
その一瞬一瞬の“転じる”はたらきが
称え聞こえるお念仏によって頷かされるということ!
南无阿彌陀佛、なもあみだぶつ、なんまんだぶつ!
令和7年10月4日 今週の和讃(№29)
(七)
生死の苦界ほとりなし
ひさしくしづめるわれらをば
弥陀弘誓のふねのみぞ
のせてかならずわたしける
高僧和讃 龍樹讃
苦しみに満ちた迷いの海はどこまでも果てしなく続いている。
その海に長い間沈んでいるわたしたちを、
阿弥陀仏の本願の船だけが、
必ず乗せて浄土に渡してくださる。
三帖和讃 現代語訳(本願寺出版社)
本願の船に乗せられるとは、具体的にどういうこと?
必ず乗せて渡してくださる、それは何時?何処?で確認できる?
勿論 今ここ
素朴な疑問・・・
・・・既に救いの中!と聞きながらも、中々まかせられない、・・・
この様な状態は、・・・
“・・・救いの中にありながらも・・・”とあるから、本願の船に乗せられてある?
“・・・ひとすじにお任せできない”とは?船上で拒んでいる?船外で眺めている?
“必ず救う、われにまかせよ” “はい、まかせます” は まかせた ことになる?
“必ず救う、われにまかせよ”の南无阿彌陀佛が“さわりなく” “聞こえ続ける”
さすれば“まかせる”も“まかせられない”も無い!!なもあみだぶつ!
ただただ“まかせよ”の南无阿彌陀佛が
“称えるお念仏”として“聞こえ続ける”ばかり!
これ本願の船に乗せられた状態!なもあみだぶつ、なもあみだぶつ、なまんだぶつ、なまんだぶ、なまんだぶ、なまんだぶ、なまん・・・・・・・ ・・・・・・ ・・・・・・ ・・・
令和7年9月20日 今週の和讃(№28)
(三八)
神力本願及満足
明了堅固究竟願
慈悲方便不思議なり
真無量を帰命せよ
浄土和讃 讃弥陀偈讃
浄土のすぐれたはたらきは本願に誓われた通りであり、
その願いは、すべてのものを救い取る願いであり、
間違いのない明らかな願いであり、
決して壊れることのない願いであり、
必ずとげられる願いである。
慈しみのこころからさとりを開かせるはたらきは、
思いはかることができない。
限りない真実のはたらきをそなえた真無量に帰命するがよい。
三帖和讃現代語訳(本願寺出版社)
慈悲方便不思議なり 満足願、明了願、堅固願、究竟願
それが称え易い 南无阿彌陀佛のお念仏となって
称えるままが信(まか)せたことになる不思議、
南无阿彌陀佛ヲ トナフルハ スナハチ 安楽浄土ニ
往生セムト オモフニ ナル也
その様に思おうが思うまいが
安楽浄土に往生しようと思うことになる とは!
不思議 不思議 他力不思議!なもあみだぶつ!
令和7年9月13日 今週の和讃(№27)
(八〇)
自力の心をむねとして
不思議の仏智をたのまねば
胎宮に生まれて五百歳
三宝の慈悲にはなれたり
正像末和讃 誡疑讃
自力の心をよりどころとし、
思いはかることのできない阿弥陀仏の智慧を信じないのなら、
方便の浄土に生まれ、五百年の間、
阿弥陀仏にもその教えにも菩薩がたにも会うことができない
三帖和讃 現代語訳 (本願寺出版社)
阿弥陀如来さまの仏智におまかせする
他力の信心を身につけなければ
真実のお浄土には参れない
従って五百年間、三宝のお慈悲から漏れ続ける
それは何故か?今、ここでお浄土の三宝に出遇っていないから
そのことを誡め、そして仏智に信(まか)せることの
お勧めです。
では、今ここでお浄土の三宝に出遇うということは?
仏 如来さまの喚び声、南无阿彌陀佛が聞こえ続けること
法 それがそのまま念仏一つで救われる教えを受け入れたことに
僧 さすればお念仏を勧める菩薩がたに囲まれていることが頷け
ます
(ただ私の眼は濁っているので、私にとって都合の好いいの
ち、都合の悪いいのち、どうでもよいいのちとしか映りませ
ん、その様な私に応じた姿形をとりながらお念仏を勧めてく
ださってあるとは!)なまんだぶ!
令和7年9月6日 今週の和讃(№26)
(二一)
度衆生心といふことは
弥陀智願の回向なり
回向の信楽うるひとは
大般涅槃をさとるなり
正像末和讃 三時讃
あらゆるものを救おうとする心すなわち度衆生心とは、
阿弥陀仏の本願により回向された心である。
この回向された真実の信心を得る人は、
大いなる涅槃のさとりを開くことができるのである。
三帖和讃 現代語訳 (本願寺出版社)
私はただ自らの苦悩の解決を求めていたのに
ただ救われたかったのに・・・
知らずに度衆生心たる阿弥陀如来さまの
一切の衆生をお浄土に迎え取り仏に成らしめんという
大菩提心を“なまんだぶつ なまんだぶつ”と
受け入れてしまった!とは・・・
それが大般涅槃、弥陀同体のさとりを開くことに
つながるとは・・・
ただ救われたかった・・・
ただの救いとはこういう事だったとは
驚き!不可思議!ただただ南无阿彌陀佛!なもあみだぶつ!なんまんだぶつ!
2025/08/30 今週の和讃(№25)
(一〇九)
真の知識にあふことは
かたきなかになほかたし
流転輪廻のきはなきは
疑情のさはりにしくぞなき
高僧和讃 源空讃
真実の善知識に出会うのは
難しいことの中でも特に難しい。
迷いの世界をはてしなく生まれ変わり死に変わりし続けるのは、
まさしく本願を疑うというさまたげによるのである。
三帖和讃現代語訳(本願寺出版社)
ああ、私は今まで流転輪廻が終わらないのは
煩悩を断じることができないからと・・・
それが私の現実でした
しかし、遇い難きよき師の言葉が聞こえてみれば
知らず知らずに煩悩を抱えたままの救いが我が身の現実に・・・
そして、本願を撥ねつけて来たのが流転輪廻の原因だったとは・・・
南无阿彌陀佛、なもあみだぶつ、なんまんだぶつ!
転じられる不思議な救い・・・
今ここでの救いの中にあるならば
お慈悲一筋にお任せできない心は廃るはず
これが“浄土真宗の救いのよろこび”
その救いのよろこびの中で煩悩の深さが愈々明らかに・・・
なもあみだぶつ、なんまんだぶつ!
2025/08/23 今週の和讃(№24)
(七四)
釈迦・弥陀は慈悲の父母
種々に善巧方便し
われらが無上の信心を
発起せしめたまひけり
高僧和讃 善導讃
無上の信心 阿弥陀仏の無上の智慧をたまわった信心。他力の信心のこと
発起 「むかしよりありしことをおこすを発といふ。いまはじめておこすを起といふ」(異本左訓)
釈尊と阿弥陀仏は慈悲深い父母である。
巧みな手だてをさまざまに施し、
わたしたちにこの上ない真実の信心を
おこさせてくださった。
三帖和讃 現代語訳(本願寺出版社)
お釈迦如来さま、阿弥陀如来さまは“まことの親”である
私たちは“この上ない信心”といわれても解らないから
あらゆる手立てを駆使し私たちを追い込み
昔より開かれてあったこの一筋の道を今はじめて歩むようになる
なもあみだぶつ、なんまんだぶつ、なまんだぶ!
2025/08/16 お盆について
お 盆
亡くなられた先人たちのご恩に対し、あらためて思いを寄せるのがお盆である。
親鸞聖人は仰せになる。
願土にいたればすみやかに
無上涅槃を証してぞ
すなはち大悲をおこすなり
これを回向となづけたり
浄土へと往生した人は、如来の願力によってすみやかにさとりをひらき、大いなる慈悲の心をおこす。迷いのこの世に還り来たり、私たちを真実の道へ導こうと常にはたらかれるのである。
仏の国に往き生まれていった懐かしい人たち。仏のはたらきとなって、いつも私とともにあり、私をみまもっていてくださる。
このお盆を縁として、すでに仏となられた方々のご恩をよろこび念仏申すばかりである。
拝読 浄土真宗のみ教え 折々のことば より
一年前の事を思い起こしながら、来たる一周忌へ向けての準備をしつつ新盆を過ごす。南无阿彌陀佛、なもあみだぶつ、なんまんだぶつ!
2025/08/09 今週の和讃 №23
今週の和讃(№23)
(九〇)
大聖易往とときたまふ
浄土をうたがふ衆生をば
無眼人とぞなづけたる
無耳人とぞのべたまふ
浄土和讃 諸経讃
釈尊は、浄土には往生しやすいと説き示された。
その教えを疑うものは
真実を見ることのできない人であり、
真実を聞くことのできない人であるといわれている。
浄土和讃 現代語訳(本願寺出版社)
お釈迦さま、阿弥陀如来さまのお浄土は往き易いと説かれた
この往き易さを疑う人は
智慧の眼、
智慧の耳が無いからである。
浄土を疑うのは至極当然である。では、どうするか?
お浄土は・・・お浄土をいただいて頷いていく世界
お浄土のさとり・智慧をいただいて頷いていく世界
それが南无阿彌陀佛、なもあみだぶつである、なまんだぶ!
南无阿彌陀佛の中に智慧の眼と智慧の耳がおさまってある!
南无阿彌陀佛をいただいて頷くばかり!なまんだぶつ!
2025/07/26 今週の和讃 №22
今週の和讃より(№22)
(二六)
若不生者のちかひゆゑ
信楽まことにときいたり
一念慶喜するひとは
往生かならずさだまりぬ
浄土和讃 讃弥陀偈讃
「もし生まれることができないようなら、さとりを開かない」と
本願に誓われているので、
真実信心を得たまさにそのとき、
本願を信じ喜ぶ人は、
浄土に往生することが間違いなく定まるのである。
三帖和讃 現代語訳(本願寺出版社)
若不生者・・・不取正覚、
もしあなたを我が浄土に生まれさすことができないようなら、
さとりをひらかない・・・
あれっ!浄土真宗は無条件の救いと言うけど・・・
条件があるではないか・・・
それも絶対条件が・・・
あなた(私たち一人ひとり)を救い取らなければ私は阿弥陀如来
とは成らない・・・
という条件のもと・・・
阿弥陀如来に成られた、どうして?どうやって?不思議だなあ
因果を超えた超因果
あなた(私たち一人ひとり)を必ず救いとる南无阿彌陀佛に
成られた・・・
で・・・どの様に?
南无阿彌陀佛と届いて私たち一人ひとりの真実信心となって
信(まか)せた安心の中、喜びの中
お浄土参りは今、ここで確かに・・・
南无阿彌陀佛、なもあみだぶつ、なんまんだぶつ!
2025/07/19 今週の和讃
今週の和讃より
(七二)
七宝の宮殿にうまれては
五百歳のとしをへて
三宝を見聞せざるゆゑ
有情利益はさらになし
正像末和讃 誡疑讃
七つの宝でできた宮殿に生まれると、
五百年の間、
阿弥陀仏にもその教えにも菩薩方にも会うことができないので、
あらゆるものを救うことなどあり得ない。
三帖和讃現代語訳(本願寺出版社)
不思議の願力をたのむことが出来ず、結果、
真実報土ではなく疑城の牢獄に生まれ、
従って五百年間
阿弥陀如来さまを目の当たりにできず
自らも救われず、まして他のいのちを救うこともできない、
・・・それは何故か?
今、ここで阿弥陀如来さまに出遇っていないから・・・
今、ここで南无阿彌陀佛のよび声が聞こえていないから・・・
今、ここで阿弥陀如来さまに出遇うとは?
聞くことを通して出遇う!
なまんだぶと称え,“まかせよ、救う”と聞こえ続ける南无阿彌陀佛!・・・が親鸞聖人さまのお勧め
南无阿彌陀佛!なもあみだぶつ!なんまんだぶつ!
2025/07/05 今週の和讃
今週の和讃より、なもあみだぶつ!
(一〇一)
曠劫多生のあひだにも
出離の強縁しらざりき
本師源空いまさずは
このたびむなしくすぎなまし
高僧和讃 源空讃
はてしなく長い間、生まれ変わり死に変わり
し続けてきたものは、
迷いの世界を離れさせる本願のすぐれたはたらきを
知らなかった。
もし源空聖人がおられなければ
このたびの生涯もむなしくすごしたことであろう。
三帖和讃 現代語訳(本願寺出版社)
“・・・善知識に遇ひ、法を聞きよく行ずること
これまた難しとす。”
善き人に出遇い、真実の救いを聞き、
それを身に付けることは難きことです。
“〈一切の梵行の因は善知識なり。一切の梵行の因
無量なりといへども、
善知識を説けば、すなはちすでに摂尽しぬ〉”
その真実に救われていく、その因は数限りなく、
しかし、 それは善き人との出遇い、
そこに全ておさまる!遇い難き善知識との出遇い、
これが全てなのだ!
南无阿彌陀佛、なもあみだぶつ、なんまんだぶつ!
2025/06/28 今週の和讃より、味わい、なもあみだぶつ!
今週の和讃より、その味わい、なもあみだぶつ!
(六一)
縦令一生造悪の
衆生引接のためにとて
称我名字と願じつつ
若不生者とちかひたり
高僧和讃 道綽讃
阿弥陀仏は、生涯悪をつくり続けるものであっても
必ず摂(おさ)め取ろうと、
本願に「わが名を称えて、
もし生まれることができないようなら、さとりを開かない」と
お誓いになっている。
三帖和讃 現代語訳(本願寺出版社)
何故「わが名を称えよ」が救いなのか?
それは南无阿彌陀佛を称えるそのままが
「わが名を称えよ」が聞こえている相・すがた、
それがそのまま
「われにまかせよ」の南无阿彌陀佛のよび声、その救いが
私の中から聞こえている相・すがただから!
それはどういうことか?
既にまかせたすがた!不可思議!
若不生者の誓いはその様に仕上がった、
他力・本願力とはそういうこと!
南无阿彌陀佛!なもあみだぶつ!
2025/06/20 今週の和讃より、なまんだぶつ!
今週の和讃より、なもあみだぶつ!
(一八)
願作仏の心はこれ
度衆生のこころなり
度衆生心はこれ
利他真実の信心なり
高僧和讃 天親讃
仏になろうと願う心すなわち願作仏心は、
そのままあらゆる者を救おうとする度衆生心である。
この度衆生心は、
阿弥陀仏のはたらきによる真実の信心である。
三帖和讃現代語訳(本願寺出版社)
仏になろうと願う心を
お浄土へ参る往相というかたちで与えられ
それがそのまま
あらゆるいのちを救うはたらきまで
還相のかたちで含んだ
この私を救うという如来の大悲のお心
その大悲を真実信心として恵まれる、
驚き、驚き、・・・南无阿彌陀佛、なもあみだぶつ、なんまんだぶつ!
2025/06/14 今週の和讃より、味わい、なもあみだぶつ!
2025/05/31 今週の和讃より、味わい、なもあみだぶつ!なんまんだぶつ!
今週の和讃より、南无阿彌陀佛、なもあみだぶつ、なんまんだぶ!
(七一)
念仏成仏これ真宗
万行諸善これ仮門
権実真仮をわかずして
自然の浄土をえぞしらぬ
浄土和讃 大経讃
“念仏一つ”で救われてお浄土で仏の覚りを開く、これこそが
“真実の救い・浄土真宗”!
“善い行い”、“仏さまの真似事”をお浄土参りの”足しにする”、
これは方便つまり“仮の救い・浄土仮宗”である!
真実と方便/真と仮の違いがわからなければ
真実のお浄土を感得することは出来ない!
なもあみだぶつ!なまんだぶつ!
今週の和讃より、味わい、なもあみだぶつ、なまんだぶつ!
(八七)
他力の信をえんひとは
仏恩報ぜんためにとて
如来二種の回向を
十方にひとしくひろむべし
正像末和讃 聖徳奉讃
本願のはたらきによって南无阿彌陀佛が身に付いた!
この広大なる仏恩に報いるにはどうすれば?
ただねてもおきても南无阿彌陀佛、なもあみだぶつ と
この南无阿彌陀佛と称えるままが
お浄土へ往く相、辿り着けば自ずと還る相も恵まれる
それを十方にひとしくひろめるとは?
行住坐臥時処諸縁をきらはず、
仏恩報尽のためにただ称名念仏すべきものなり、
分け隔てをせず、何時でも何処でもどの様な状況でも
(特に何ともない時)ただなもあみだぶつ、なもあみだぶつ、なんまんだぶつ
ひとしくひろまっていくとはこういうことか! なまんだぶ!
2025/05/24 今週の和讃、その味わい、なもあみだぶつ!
今週の和讃より、その味わい、なもあみだぶつ、なんまんだぶつ!
(五二)
往相回向の大慈より
還相回向の大悲をう
如来の回向なかりせば
浄土の菩提はいかがせん
正像末和讃 三時讃
お浄土に生まれさせていただくとは
即この娑婆に還ることだったとは
如来さまのこの大慈悲心とは・・・
お浄土での覚りとはこういう事だったのか・・・
救われるとはこういう事だったのか!
なもあみだぶつ!なまんだぶつ!なまんだぶつ!
2025/05/17 今週の和讃、なまんだぶつ、なまんだぶつ!
今週の和讃より、その味わい・・・
憶念弥陀仏本願、これぞ本物のマインドフルネス、
なもあみだぶつ、なんまんだぶつ、なまんだぶつ!
(二四)
如来二種の回向を
ふかく信ずるひとはみな
等正覚にいたるゆゑ
憶念の心はたえぬなり
正像末和讃 三時讃
如来さまよりお浄土へ往く相(すがた)、
お浄土から還る相(すがた)を
正しく受け入れた方々はみな
仏の覚りの一歩手前の位に至るので
本願が心の奥底にはっきりと刻まれて忘れず、
縁に触れてはその想いがなもあみだぶつ、なまんだぶつ、
なんまんだぶ、と絶えることがない。
2025/05/10 今週の和讃、なもあみだぶつ!
今週の和讃より、その味わい、なまんだぶ!
(九六)
弥陀の報土をねがふひと
外儀のすがたはことなりと
本願名号信受して
寤寐にわするることなかれ
高僧和讃 源信讃
真実の浄土に生まれさすとの如来さまの願いを受け入れた人は
その姿・形、生活様式はそれぞれであっても
正しく身に付いた本願の名号・南无阿彌陀佛に
寝ている時も起きている時も休むことなく
喚び覚まされ続ける・・・
南无阿彌陀佛、なもあみだぶつ、なんまんだぶつ、なまんだぶ、な・・・
2025/05/03 今週の和讃より、その味わい、なもあみだぶつ!
今週の和讃より、味わい、凡夫が仏になる不可思議さ!なもあみだぶつ!
(三三)
いつつの不思議をとくなかに
仏法不思議にしくぞなき
仏法不思議といふことは
弥陀の弘誓になづけたり
「高僧和讃(曇鸞和讃)」
“不思議”とは
不可思議の略語形 心に思ったり、言葉で表したりできないこと。Ⓢacintyaの漢訳語。原語は「思いはかることができない」の意。「不思議」は略語形。本来は、仏・菩薩の覚りの境地、智慧、功徳などが、凡夫の思慮のおよばないものであることを表す言葉
五種の不思議(衆生多少不可思議・業力不可思議・竜力不可思議・禅定不可思議・仏法力不可思議)の中で最も不思議は仏法力不可思議です。
仏法不思議、仏力不思議とは阿弥陀如来さまの本願力不思議のこと!
阿弥陀如来さまの弘誓、弘願、本願・南无阿彌陀佛の救いのはたらきのことです。それを受け入れてしまったのですから、・・・不思議を不思議の通り受け入れた不思議、なもあみだぶつ、なまんだぶつ、驚きだなあ、なまんだぶつ!
「不断煩悩得涅槃」煩悩を断ぜずして涅槃を得る」、「煩悩(なやみ)を断(た)たで涅槃(すくい)あり」この不可思議を受け入れてしまった現実!これを不思議と言わずして・・・・・南无阿彌陀佛!なもあみだぶつ!なまんだぶつ!なまんだぶつ、なまんだぶつ、な・・・・・
2025/04/26 今週の和讃より、その味わいを・・・なもあみだぶつ
109
何ものにもさまたげられない光の如来さま
その光の中には数限りない阿弥陀さまの分身がおられ
みなそれぞれがこの私に応じたすがたを取りながら
いただいた真実信心をまもってくださる
110
南无阿彌陀佛を称えることが身に染み付けば
数限りない諸々の仏がたが
幾重にも幾重にも囲みめぐって
真実信心をいただいたことを喜んで護ってくださる
南无阿彌陀佛、なもあみだぶつ、なんまんだぶつ!
2025/04/05 今週の和讃より、その味わい、なもあみだぶつ
今週の和讃より、その味わい
南无阿彌陀佛、なもあみだぶつ、なんまんだぶつ!
(二六)
若不生者のちかひゆゑ
信楽まことにときいたり
一念慶喜するひとは
往生かならずさだまりぬ
阿弥陀如来さまの覚りは私のお浄土参りと一体に仕上がった
その様に定まったまことのお心が私に至る
その一心を素直にいただき慶ぶその時に
私のお浄土参りが間違いなく定まってしまう
なもあみだぶつ、なまんだぶ!
2025/03/29 今週の和讃から、その味わい・・・なもあみだぶつ!
五一
南无阿彌陀佛によってふり向けられる功徳の
何と深く広大、不可思議であるか
お浄土に往き生まれるのは
迷いの世界に還り来てあらゆるいのちを救うためとは
五二
如来大悲のお心によって救われ、お浄土に生まれ往けば
その同じ大悲が身に付き、還り来て救うためにはたらくとは
この様な如来さまの功徳が与えられるとは
お浄土のさとりを開くとはこういう事だったとは!
南无阿彌陀佛、なもあみだぶつ、なまんだぶつ!
2025/03/15 今週のご和讃 二首 真宗念仏ききえつつ・本願相応せざるゆゑ
今週の和讃から, なもあみだぶつ!
(八〇)
真宗念仏ききえつつ
一念無疑なるをこそ
稀有最勝人とほめ
正念をうとはさだめたれ
一念無疑 阿弥陀如来の本願を疑いなく信じること
正念をう 「往生の信心あるを正念を得とはいふ」
他力念仏のいわれが聞こえて
素直に身に付けている人こそ
たぐいまれな最も勝れた人とほめ
それこそが憶念・正しい念(おも)いを得たすがたであると
と(善導大師さま)は定めてくださった、なもあみだぶつ!
(八一)
本願相応せざるゆゑ
雑縁きたりみだるなり
信心乱失するをこそ
正念うすとはのべたまへ
本願にかなっていないと
さまざまな雑多な縁に迫られて心乱れ
信心も揺れ動き消失する
この様な心には正しい念いの真実信心は宿らない
と(善導大師さま)は述べられる、なんまんだぶつ!
2025/03/08 今週のご和讃 二首 無碍光の利益より安楽・安楽仏国にいたるには
今週の和讃から二首
(三九)
無碍光の利益より
威徳広大の信をえて
かならず煩悩のこほりとけ
すはなち菩提のみづとなる
阿弥陀如来さまの何ものにもさえぎられない光が
広大ですぐれた功徳の信心となって
一瞬一瞬私の煩悩の氷を溶かして
そのままさとりの水へと転じ続けてくださる
(四五)
安楽仏国にいたるには
無上宝珠の名号と
真実信心ひとつにて
無別道故とときたまふ
「如意宝珠のたまなり。この宝珠は濁れる水に入るれば、水はすめども身さびゐず。水晶は濁り水に入るれば、身さびゐる。かるがゆゑに水晶をば万行万善にたとへ、宝珠をば名号にたとふ。(異本左訓)
お浄土に辿り着くには
この上ない宝の玉とたとえられる南无阿彌陀佛と
その通りに現れる真実信心は一つで
私に離れず共に歩んでくださると説かれている
それは如意宝珠の様な南无阿彌陀佛のお陰である。この濁れる心を濁れるまま、お念仏へと転じ続けてくださる、一瞬一瞬、その様な浄化作用がずっとお浄土まで続く、なもあみだぶつ!対して自力の万行万善は水晶の様である。浄化作用があるようで、・・・なんまんだぶつ!なんまんだぶつ!
2025/03/01 今週のご和讃 願度にいたればすみやかに
今週のご和讃から一首
願土(※)にいたればすみやかに
无上涅槃を証してぞ
すなはち大悲をおこすなり
これを回向となづける
※願土は弥陀の本誓悲願の土なり
大悲回向の心をいただいて、阿弥陀如来さまのお浄土に辿り着くと速やかにこの上ない涅槃の覚りが開かれ、阿弥陀如来さまと同等の大慈悲心がおきるのです。これも阿弥陀如来さまのはたらきによって恵まれる還相(この迷いの世界に残したいのちを救い続けるために還ってくるすがた)なのです。驚きです。不可思議! 小慈小悲もなき身にて有情利益はおもうまじ身なのに、・・・南无阿彌陀佛、なもあみだぶつ、なんまんだぶ!その様な私が大悲の中で愈々顕かになる,南无阿彌陀佛、なんまんだぶ!
2025/02/22 仏婦総会 お念仏のお裾分け、なまんだぶ!
先日は西方寺仏教婦人会の総会、その後、法話・茶話会でした。
お念仏のお裾分けとして、私からは“愚老のつぶやき22号”と八朔のジュースで作ったロクム(タッキッシュデライト)。このロクムもお念仏のお裾分けです。なもあみだぶつ、なまんだぶつ!
“つぶやき22号”より抜粋
“われにまかせよ、わが名を称えよ、浄土に生まれさせて仏にならしめん”
の阿弥陀如来さまと
“阿弥陀如来さまにおまかせして、南无阿彌陀佛を称えて、お浄土生まれ往く”
私が 一つに仕上がった南无阿彌陀佛・お念仏 に成られたのです。
仏法は若いうちに心がけて聞きなさい。年を取ると歩いて法座に行くことも思い通りにならず、法話を聞いていても眠くなってしまうものである。だから、若いうちに心がけて聞きなさい。
(現代語版蓮如上人御一代記聞書63条)
眠れない、死ぬのが怖い、死んで何処へ?この様な想い・・・、これ実は阿弥陀如来さまが私たちの五感を通して、“お聴聞しなさい”と私のいのちを揺さぶっているすがた!!なもあみだぶつ!
2025/02/15 仏の本質はさとりである。念仏者の本質は南无阿彌陀佛!!
仏の本質はさとりである。
念仏者の本質は南无阿彌陀佛!!
五、弟子たちよ、今はわたしの最期の時である。しかし、この死は肉体の死であることを忘れてはならない。肉体は父母より生まれ、食によって保たれるものであるから、病み、傷つき、こわれることはやむを得ない。
仏の本質は肉体ではない。さとりである。肉体はここに滅びても、さとりは永遠に法と道とに生きている。だから、わたしの肉体を見る者がわたしを見るのではなく、わたしの教えを知る者こそわたしを見る。
わたしの亡き後は、わたしの説き遺した法がおまえたちの師である。この法を保ち続けてわたしに仕えるようにするがよい。 BDK 仏教聖典 “最後の教え”より
像末五濁の世となりて
釋迦の遺教かくれしむ
彌陀の悲願ひろまりて
念佛往生さかりなり(とげやすし)
正像末和讃 三時讃
仏の本質は“さとり”である。 私たちの本質は?
念仏者の本質は南无阿彌陀佛である。この不可思議な南无阿彌陀佛は我が身に充ち満ちている煩悩と隔てが無く、転じながら覚りに至る種であり、お浄土に生まれてさとりの智慧をいただけば生死に還り来て有縁のいのちを目覚めさすはたらきが恵まれる、この様な仏道があるとは!南无阿彌陀佛
2025/02/08 弥陀成仏のこのかたは
弥陀成仏のこのかたは
彌陀成佛のこのかたは
いまに十劫をへたまへり
法身の光輪きはもなく
世の盲冥をてらすなり
十劫の古より阿弥陀如来さまは何を?
十劫の古より私は何を?
届いて、待って、迎えとる阿弥陀さまに成られて
既に十劫という永い間
その智慧の光は際限なく
愚かな私、その暗闇の世を照らしつつ
南无阿彌陀佛、なもあみだぶつ、なまんだぶつ!
2025/02/01 二十五菩薩について
二十五菩薩について
西方寺本堂の欄間は二十五菩薩です。親鸞聖人さま、行巻(二八)で二十五菩薩について引用されておられます。これをどの様に味わえば?いや、それより阿弥陀如来さまは何処に?私の本願を疑う心が臨終を迎えた時から常来迎です。お念仏となってお出ましになります。その時から二十五菩薩方も常に真実信心を護ってくれます。では、二十五菩薩方は何処に?私の周りに、・・・煩悩の私に応じて、私にとって都合の好いいのち、或いは都合の悪いいのち、もしくはどうでもよいいのち、というかたちを取りながらお念仏を称え聞くことを勧めてくださってあるのです。・・・このことによって、その様な私が阿弥陀如来さまの救いの目当てであることが愈々知らされます。南无阿彌陀佛!なもあみだぶつ!なんまんだぶ!
2025/01/26 無上甚深章について
今朝(26日)の御文章“無上甚深章”より
このゆゑに、 南無阿弥陀仏の六字のすがたは、 われらが極楽に往生すべきすがたをあらはせるなりと、 いよいよしられたるものなり。 されば安心といふも、 信心といふも、 この名号の六字のこころをよくよく“こころうる”ものを、 他力の大信心を“えたる”ひととはなづけたり。
南无阿彌陀佛のすがた=われらが極楽に往生すべきすがた どういうこと?
南无阿彌陀佛の中に お浄土に生まれる私が仕上がってある
どの様に仕上がってある? “まかせよ”の阿弥陀如来さまと一つに仕上がった“まかせた私”
その“まかせた私”を身に付ける!身に付ける!なもあみだぶつ!なまんだぶ!
“こころうる”も“えたる”も“まかせた私”が身に付いた状態の事!なまんだぶ!
2025/01/17 浄土真宗における“見佛と授記”について
浄土真宗における授記
【一〇二】律宗の用欽師のいはく、「至れること、華厳の極唱、法華の妙談にしかんや。かつはいまだ普授あることを見ず。衆生一生にみな阿耨多羅三藐三菩提をの記を得ることは、まことにいふところの不可思議功徳の利なり」と 注釈版 p二六四
普授 授は授記の事。未来において最高のさとりを得るであろうことを仏が予言することをいう。普授とは一切衆生に授記することをいう。
【一〇二】律宗の用欽師が言っている。
教えの深いことは、『華厳経』の説く至極の法、『法華経』の説く至妙の法に及ぶものはない。しかしながら、すべての衆生が将来さとりを得ることを約束されているのではない。すべての衆生がこの世の命を(終えて後に)終えると同時に、みなこの上ないさとりを得ることを約束されるのは、まことに阿弥陀仏の不可思議な功徳による利益である。 教行信証現代語訳 p256~7
ではその約束は何処に説かれてある?
大経・仏説無量寿経に“令諸衆生功徳成就” “もろもろの衆生をして功徳を成就せしむ”
注釈版p27
これはどういう意味なのでしょうか?
法蔵菩薩さまは私たち一人ひとりを抱きかかえて、この私が覚りに至るに必要な功徳善根を完成し、阿弥陀如来さまと成られたのです。つまり、“救う阿弥陀如来さま”と“救われる私”が“一つに仕上がった”姿が“南无阿彌陀佛”なのです。なもあみだぶつ!なまんだぶつ!
浄土真宗は大乗のなかの至極なり。 親鸞聖人御消息 p737
浄土真宗における見仏と授記
涅槃経によれば、見るには二種ある、眼見と聞見だそうです。その中で仏性を眼見がかなうのは仏がただそうで、たとえ50位の菩薩でも完全は眼見はかなわないそうです。と言うことは、私たち凡夫が如来・佛をこの眼で見佛するのは不可能と言うことです。残されたのは聞見、聞くことは通して出遇うことです。
“・・・如来の声を聞くと、この上なくすぐれており、衆生の声と異なっている。そこでこれが如来であると知る。これを聞見という。・・・如来を観察すると、如来が多心通により衆生のありさまを知られて教えを説かれている。それは如来ご自身のためなのか、衆生のためなのかというと、衆生のためであってご自身のためではない。そこでこれが如来であるとしる。これを聞見という。”
教行信証 現代語版419~420
大経の教説を聞き、“あっ、これは私一人のためでした”、お念仏称えながら、“あっ、如来さまの直説だ”と聞こえていればそれは見佛なのです。これほど確かなことはありません!なもあみだぶつ!
稱名號疾得不退 信心淸淨卽見佛
名號ヲ 稱シテ 疾(トク) 不退ヲ 得(ウ)
信心清浄ナレバ 即チ 佛ヲ 見タテマツル
(念仏正信偈)
信心清浄とは真実信心・仏心であり、その通りに受け取ったらそのままが即ち見佛!南无阿彌陀佛
授記については明日!なもあみだぶつ
授記とは
授記とは、梵語の「vyākaraṇa」の訳語で、仏道修行者が師仏から将来成仏する、つまりさとりに至る確約を授かること。
“燃灯仏授記”とはお釈迦さまがその前世にバラモン青年スメーダとして、燃灯仏に青蓮華で散華供養し、その後、自らの長い髪をふりほどき、燃灯仏の足元にあったぬかるみに垂らし、その上を渡らせて仏さまの足を汚さないようにしたのです。恭敬の想い、菩提心の萌しから出た行動です。その行いを見た燃灯仏はスメーダに対して「あなたは将来、仏となるだろう」という予言(授記)をしたのです。
仏道を歩み始め、そして完成、さとりに至るのに見仏と授記は大変大事なのです。凡そ仏教の行と言うのは“仏を見たてまつる”、そして“さとりの完成、その確約”をいただいて、漸く菩薩としての歩みが始まるのです。
では、浄土の真宗ではこの見仏と授記はどの様に成り立つのでしょうか。南无阿彌陀佛!なもあみだぶつ!なんまんだぶつ! 続く・・・
2025/01/13 散華、その起源
散華 その起源
現在、日本では「華葩(けは)」という紙製の花弁を散じますが、他の国(チベットなど)では実際の花弁を撒くようです。
散華の由来、仏説無量寿経に、「散華・華を散じ」とありますので、古代インドでは実際の華を散じていたようです。また、お釈迦さまがその過去世において、バラモンの青年スメーダとして燃灯仏という仏さまを迎えるのに際して青蓮華を散華供養するお姿がガンダーラのレリーフ「燃灯仏授記」としても伝わっています。
続く・・・南无阿彌陀佛、なもあみだぶつ、なんまんだぶつ!
2025/01/10 三奉請 散華供養
三奉請 散華供養
Sambujō Ofrenda(esparciendo)de flores
奉 請 弥 陀 如来 入 道 場 散華楽
Bujō Mida-Nyorai nyudoujou sange-raku
奉 請 釈 迦 如 来 入道場 散華楽
Bujō Shaka-Nyorai nyudoujou sange-raku
奉 請 十 方 如 来 入道場 散華楽
Bujō Jippō-Nyorai nyudoujou sange-raku
何時もいらっしゃってくださる阿弥陀如来さま、お釈迦如来さま、十方の無量の諸仏さま、今般あらためて、慶びの中、散華供養をもってお迎えさせていただきます。
南无阿彌陀佛!なもあみだぶつ!なんまんだぶつ!
2025/01/05 転じられるはたらき
渋柿の 渋そのままの 甘さかな
今朝のご和讃の一首
罪障功徳の体となる こほりとみづのごとくにて
こほりおほきにみづおほし さはりおほきに徳おほし
(『高僧和讃』曇鸞讃 『註釈版聖典』585頁)
渋柿の渋みが無くなるのではなく、日光、夜露、寒風のはたらきで
甘みに転じられる。
煩悩、悪業が無くなるのではなく、摂取不捨の光明、南无阿彌陀佛のはたらきでお浄土への生き様と転じられて行く、その慶びがお念仏となって
なんまんだぶ、なまんだぶ!
2025/01/01 (2) 修正会にて一堂で唱和の”総序のご文”
顕浄土真実教行証文類 総序
竊(ひそか)に以(おも)んみれば、難思(※なんじ)の弘誓(ぐぜい)は難度海(なんどかい)を度(ど)する大船(だいせん)、无㝵(むげ)の光明(こうみょう)は无明(むみょう)の闇(あん)を破(は)する惠日(えにち)なり。然(しか)れば則(すなわ)ち淨邦(じょうほう)縁熟(えんじゅく)して、調達(ぢょうだつ)、闍世(じゃせ)をして逆害(ぎゃくがい)を興(こう)ぜしむ。淨業(じょうごう)機(き)彰(あらわ)れて 釋迦(しゃか)、葦提(いだい)をして安養(あんにょう)を選(えら)ばしめたまへり。斯(こ)れ乃(すなわ)ち権化(ごんけ)の仁(にん)、 齊(ひと)しく苦悩(くのう)の群萌(ぐんもう)を救濟(くさい)し、世雄(せおう)の悲(ひ)、 正(まさ)しく逆謗闡提(ぎゃくほうせんだい)を惠(めぐ)まんと欲(おぼ)す。故(かるがゆえ)に知(し)んぬ、圓融(えんにゅう)至徳(しとく)の嘉號(かごう)は悪(あく)を轉(てん)じて徳(とく)を成(な)す正智(しょうち)、難信(なんしん)金剛(こんごう)の信楽(しんぎょう)は疑(うたがい)を除(のぞ)き証(さとり)を獲(え)しむる真理(しんり)なりと。
尓(しか)れば凡小(ぼんしょう)修(しゅ)し易(やす)き真教(しんきょう)、愚鈍(ぐどん)往(ゆ)き易(やす)き捷径(せつけい)なり。大聖(だいしょう)一代(いちだい)の教(きょう)、この徳海(とくかい)に如(し)く無(な)し。穢(え)を捨(す)て浄(じょう)を忻(ねが)ひ、行(ぎょう)に迷(まど)ひ信(しん)に惑(まど)ひ、心(こころ)昏(くら)く識(さとり)寡(すくな)く、悪(あく)重(おも)く鄣(さわり)多(おお)きもの、特(こと)に如来(にょらい)の發遣(はつけん)を仰(あお)ぎ、 必(かなら)ず最勝(さいしょう)の直道(じきどう)に皈(き)して、專(もっぱ)ら斯(こ)の行(ぎょう)に奉(つか)へ、唯(ただ)斯(こ)の信(しん)を崇(あが)めよ。噫(ああ)、弘誓(ぐぜい)の強縁(ごうえん)、多生(たしょう)にも値(もうあい)叵(がた)く、真実(しんじつ)の淨信(じょうしん)、億劫(おくこう)にも獲(え)叵(がた)し。遇(たまたま)行信(ぎょうしん)を獲(え)ば、遠(とお)く宿縁(しゅくえん)を慶(よろこ)べ。若(も)し也(また)此(こ)の廻(たび)疑網(ぎもう)に覆蔽(ふへい)せられば、更(かえ)って復(また)曠劫(こうごう)を逕歴(きょうりゃく)せん。誠(まこと)なる哉(かな)、攝取(せっしゅ)不捨(ふしゃ)の真言(しんごん)、超世(ちょうせ)希有(けう)の正法(しょうぼう)、聞思(もんし)して遅慮(ちりょ)すること莫(な)かれ。
爰(ここ)に(愚禿(黙読)釈の親鸞)、慶(よろこ)ばしい哉(かな)、西蕃(せいばん)・月支(げつし)の聖典(しょうてん)、東夏(とうか)・日域(じちいき)の師釈(ししゃく)に、遇(あ)ひ難(がた)くして今(いま)遇(あ)ふことを得(え)たり、聞(き)き難(がた)くして已(すで)に聞(き)くことを得(え)たり。真宗(しんしゅう)の教(きょう)行(ぎょう)證(しょう)を敬信(きょうしん)して、特(こと)に如来(にょらい)の恩徳(おんどく)深(ふか)きことを知(し)りぬ。斯(ここ)を以(もっ)て聞(き)く所(ところ)を慶(よろこ)び、獲(う)る所(ところ)を嘆(たん)ずるなりと。
※難思の弘誓(信じ難い、あらゆるいのちを念仏一つで救おうと誓われた阿弥陀如来の根本の願のこと)
顕浄土真実教行証文類 総序
わたしなりに考えてみると、思いはかることのできない阿弥陀仏の本願は、渡ることのできない迷いの海を渡してくださる大きな船であり、何ものにもさまたげられないその光明は、煩悩の闇を破ってくださる智慧の輝きである。
ここに、浄土の教えを説き明かす機縁が熟し、提婆達多(だいばだった)が阿闍世(あじゃせ)をそそのかして頻婆娑羅王(びんばしゃらおう)を害させたのである。そして、浄土往生の行・お念仏を修める正機(救われるべきもの)が明らかになり、釈尊が葦提希(いだいけ)をお導きになって阿弥陀仏の浄土を願わせたのである。これは、菩薩がたが仮のすがたをとって、苦しみ悩むすべての人々を救おうとされたのであり、また如来が慈悲の心から、五逆の罪を犯すものや仏の教えを謗るものや一闡提(いっせんだい)のものを救おうとお思いになったのである。
よって、あらゆる功徳をそなえた名号・南无阿彌陀佛は、悪を転じて徳に変える正しい智慧のはたらきであり、得がたい金剛の信心は、疑いを除いてさとりを得させてくださるまことの道であるとしることができる。
このようなわけで、浄土の教えは凡夫にも修めやすいまことの教えなのであり、愚かなものにも往きやすい近道なのである。釈尊が説かれたすべての教えの中で、この浄土の教えに及ぶものはない。
煩悩に汚れた世界を捨てて清らかなさとりの世界を願いながら、行に迷い信に惑い、心が暗く知るところが少なく、罪が重くさわりが多いものは、とりわけ釈尊のお勧めを仰ぎ、必ずこのもっともすぐれたまことの道に帰して、ひとえにこの行につかえ、ただこの信を尊ぶがよい。
ああ、この大いなる本願は、いくたび生を重ねてもあえるものではなく、まことの信心はどれだけ時を経ても得ることはできない。思いがけずこの真実の行と真実の信を得たなら、遠く過去からの因縁をよろこべ。もしまた、このたび疑いの網におおわれたなら、もとのように果てしなく長い間迷い続けなければならないであろう。如来の本願の何とまことであることか。摂(おさ)め取ってお捨てにならないという真実の仰せである。世に超えてたぐいまれな正しい法である。この本願のいわれを聞いて、疑いためらってはならない。
ここに愚禿(ぐとく)釈の親鸞は、よろこばしいことに、インド・西域の聖典、中国・日本の祖師方の解釈に、遇いがたいのに今遇うことができ、聞きがたいのにすでに聞くことができた。そしてこの真実の教・行・証の法を心から信じ、如来の恩徳の深いことを明らかに知った。そこで、聞かせていただいたところをよろこび、得させていただいたところをたたえるのである。
(顕浄土真実教行証文類現代語版より)
値(あ)いがたい、獲(え)がたい、遇(あ)いがたい、聞きがたい、この“かたし”には一般的に“難”という漢字が当てられます。難しい、困難の「難」です。しかし、親鸞聖人さまは「叵」も使っておられます。見慣れない漢字ですが、「可」を反対にした漢字です。つまり、「叵」は不可、不可能を意味します。
噫 弘誓の強縁 多生にも 値(もうあい)叵(がた)く。 真実の淨信 億劫にも 獲(え)叵(がた)し
ああ、この大いなる本願は、いくたび生を重ねてもあえるものではなく、まことの信心はどれだけ時を経ても 得ることはできない
つまり、出遇って、聞こえてみれば私の側からは絶対に出会えない、聴けないことだった❕
ああ、私の側から絶対に出遇えない、聞こえない、不可、不可能「値叵く」「獲叵し」でした。しかし、阿弥陀如来さま・本願の側からは、「必ず」「絶対に届く」と既に届いていたのに、今まで知らずに拒んでいた、それがこの度、誠の教えと聞こえて、私の口を通して「お念仏」の行となって、その様に受けとめた状態が「信」であると聞かされて、そのままが「証」さとりに直結する不可思議さ・・・ 煩悩苦足のまま・・・ なんまんだぶつ!
2025/01/01 拝読 浄土真宗のみ教え/折々のことば ”お正月”
お 正 月
新たな年を迎える節目にあたり、いま一度みずからを見つめなおし、確かな足どりで人生を歩みたいものである。
蓮如上人は年の始めに、勧修寺村の道徳(どうとく)に次のように仰せになった。
道徳はいくつになるぞ
道徳 念仏申さるべし
一つ年を重ねるにあたり、あらためて念仏を勧められたのである。
一年また一年と、年を重ねることは、決してあたり前のことではない。私自身にも、やがてこの世の縁が尽きる時が来る。阿弥陀如来は、はかなき私たちを哀れみ慈しんで、念仏せよとはたらきかけておられる。
いま私たちは、真実の教えに出あい、念仏申す身となって、大いなる安心のなかに人生をあゆんでいる。
新たな年の始まりを、念仏とともに迎えることは、何よりも大きなよろこびである。
2024/12/28 今朝の和讃 染香のその身には よりの味わいです。南无阿彌陀佛、なんまんだぶ!
今朝の和讃の中から
染香人ノソノ身ニハ
香氣アルガゴトクナリ
コレヲスナハチナヅケテゾ
香光荘嚴トマウスナル
※香光荘嚴「念仏は智慧なり」(異本左訓)
AI による概要
「染香人のその身には 香気あるがごとくなり これをすなはちなづけてぞ 香光荘厳とまうすなる」は、親鸞聖人の『浄土和讃』の言葉です。
「染香人」とは、お念仏の教えを喜ぶ人のことを指し、香りに染められたものは香気を放つように、念仏者の人生も如来の智慧のはたらきによって美しく飾られていることを意味しています。
この言葉は、芳しい香りによってさまざまなものへ香りが染みこんでいくように、阿弥陀さまのはたらきも「南無阿弥陀仏」のよび声となって、あらゆる衆生のもとへと届き、仏法を聞くことも、お念仏を称えることもなかった者を、お念仏の衆生へと育んでくださることを表しています。
・・・と答えてくれますが、・・・
AIの答えは完璧、百点満点です。しかし、そこには香気、香りはありません。
30年間、毎朝・・・破れた小本和讃がお荘厳の一側面です。
光の香が染みた小本和讃、南无阿彌陀佛、なもあみだぶつ、なんまんだぶつ!
2024/12/05 拝読 浄土真宗のみ教え 親鸞聖人のことば 今回は”自在の救い”です。南无阿彌陀佛!なもあみだぶつ!なんまんだぶつ!
自在の救い
念仏申し浄土へと先立っていかれた方々は、この世界にかえり来て、私たちを念仏の教えに導いてくださっている。親鸞聖人は仰せになる。
安楽浄土にいたるひと
五濁悪世にかへ(え)りては
釈迦牟尼仏のごとくにて
利益衆生はきは(わ)もなし
浄土で仏となった方は、大いなる慈悲の心をおこして、迷いの中で苦しむすべてのものを救いたいとはたらき続ける。さまざまな縁を通して私たちを仏前に誘い、仏法聴聞を勧めてくださっている。そのはたらきは、釈尊が巧みに人々を教化れたように、自在であり限りがない。
私たちは、多くの先人たちの導きによって、同じように浄土への道を歩ませていただく。この道は、凡夫が浄土で仏となり、自在の救いを行うことができる尊い道である。
拝読 浄土真宗のみ教え より
この世界にかえり来るというが、どこに?
何処にかえって来ておる?
自在の救いです
つまり、どのような相(かたち)を自在に・・・、
私たち一人ひとりに応じて取ることができる、そして最終的にお念仏の教えに導く
私達の想いの中に働いてくださる、これが具体的な還って来ている相(すがた)
そのお陰でご報謝としてお荘厳を調え、仏縁を
結ばせていただく、それが残された私たちのお浄土へ往く相(すがた)
今回は坊守の満中陰と言うご縁でした。
南无阿彌陀佛、なもあみだぶつ、なんまんだぶつ!
2024/11/01 拝読 浄土真宗のみ教え 親鸞聖人のことば 今回は”かならず再び会う”です。南无阿彌陀佛!なもあみだぶつ!なんまんだぶつ!
かならず再び会う
先立った方々を思えば、在りし日の面影を懐かしく思うとともに、言いようのない
寂しさを覚える。
親鸞聖人は、お弟子に宛てた手紙の中で仰せになる。
浄土にてかならずかならずまちまゐ(い)らせ候ふ(う)べし
再び会うことのできる世界がそこにある。今ここで、同じ信心をいただき、ともに
阿弥陀如来の救いにあずかっている。だからこそ、かならず浄土に生まれて再び会える
確かさを、今よろこぶことができる。
本願の教えに出あえた時、今ここで救われ、再び会うことのできる世界が恵まれる。
拝読 浄土真宗のみ教え より
それまでは、この娑婆世界にて一日一日を尽くしながら、お念仏称える中で、なんまん
だぶつ、なんまんだぶつと出あっていくばかり、南无阿彌陀佛、なもあみだぶつ、なん
まんだぶつ!
2024/10/31 葬送の儀の様子 既に還相のはたらきの中でお浄土へ送り出す、その追体験、南无阿彌陀佛!なもあみだぶつ!なんまんだぶつ!
浄土真宗における通夜、葬送の儀のお心。それは追体験、既にお浄土から還っている、そのはたらきの中で先立たれた方をお浄土へ送り出す追体験。その仏縁を通して残された私たちがお浄土へ生まれ往く相(すがた)をいただくのです。南无阿彌陀佛、なもあみだぶつ、なんまんだぶつ!
親玉に”本願名号正定業 至心信楽願爲因”が刻まれた大念珠を繰りながらお念仏の中で送り出し、更に梵鐘を撞きながら、なんまんだぶつ、なんまんだぶつ、またお浄土で!なんまんだぶつ!
葬送の儀の際のお斎、勿論精進、お赤飯
お斎とは葬儀、仏事の際の仏前にての食事
この度は色を薄めた赤飯。赤飯は祝い事、目出度く浄土往生を遂げられた。是ほど目出度いことはない、しかし、やはり悲しみも・・・その悲しみの涙で色が薄まるお赤飯
その様なお心を形に、南无阿彌陀佛、なもあみだぶつ、なんまんだぶつ!
四十九日の忌明けまで精進、なまんだぶ!
2024/10/31 臨終勤行について・・・南无阿彌陀佛、なんまんだぶつ!
臨終勤行
臨終とは終わりに臨んでと書くように、本来、また可能なら存命中に長年お育てにあずかった阿弥陀如来さまに申す最期のお礼のお勤めです。坊守宜子、9月25日、その為の一時帰宅でした。多くのお同行と共に、・・・また、お浄土でお会いしましょう!南无阿彌陀佛、なもあみだぶつ、なんまんだぶつ!
しかし、よく考えてみれば常に臨終なのでは?常に無上涅槃の一瞬前!常に間に合っている!南无阿彌陀佛!なもあみだぶつ!なんまんだぶつ!
2024/10/09 往生礼讃 日没讃 無常偈をアップ、南无阿彌陀佛!
往生礼讃 日没讃 無常偈
南无阿彌陀佛、なもあみだぶつ、なんまんだぶつ!
Ojō raisan nitimotsu-san mujyō-ge
Namoamidabutsu!Namandabu!Namandabu!
全てのいのちと共に阿弥陀如来のお浄土に往き生まれることを願いながら。
【15】日没の無常の偈を説きます。どうか皆さま、聴いてください
人間はいそがしくあれこれの務めに翻弄されながら
いのちの日々空しく過ぎることを知りません
それは風の中の灯のようにいつ消えるとも分からず
あわただしく六道を経めぐって定まれる所がない。
いまだに解脱して苦しみの海を出ることもできずに
どうして心安らかにして恐れ驚かずにおられようか。
どうか皆さま聞いてください、若くして強健な時に
自らつとめ励んで無常を離れた涅槃のさとりを求めましょう
南无阿彌陀佛!なまんだぶつ!なまんだぶ!
2024/10/01 拝読 浄土真宗のみ教え 親鸞聖人のことば 今回は“真実の教え”です。南无阿彌陀佛
真実の教え
あらゆる者を救いとる教えこそ真実の教え、究極の教えである。
親鸞聖人は仰せになる。
それ真実の教を顕さば
すなはち『大無量寿経』これなり
『大無量寿経(だいむりょうじゅきょう)』には、あらゆる人を念仏一つで救おうと誓われた、阿弥陀如来の本願が説かれている。
釈尊はその生涯をとおしてさまざまな教えを説き広められた。
この経が説かれるとき、釈尊のお顔は、いまだかってないほどに悦びにあふれ、気高く光り輝いておられた。
あらゆるものを救いとる阿弥陀如来の本願を説くことこそ、釈尊がこの世に出られた目的だったからである。
拝読 浄土真宗のみ教え より
その “念仏一つ”とはどの様な念仏?本願に誓われた南无阿彌陀佛の念仏です。それはどの様な“念仏一つ”?
「われにまかせよ、わが名を称えよ、浄土に生まれさせて仏にならしめん」
如来さまのわが名、つまり南无阿彌陀佛と称えるお念仏です。それが“念仏一つ”の念仏なのです。
なんまんだぶつと口にかけるままが、“わが名を称えよ”が聞こえている姿、それがそのまま、“われにまかせよ”の仰せが聞こえていることになるのです!それは“阿弥陀如来さまのお浄土に生まれる私を受け容れた”ことになる!その様に仕上がった南无阿彌陀佛が口にかかる、この“念仏一つ”です。南无阿彌陀佛!なもあみだぶつ!なんまんだぶつ!
2024/09/01 拝読 浄土真宗のみ教え 親鸞聖人のことば 今回は ”凡夫”です。南无阿彌陀佛
凡夫
親鸞聖人は仰せになる。
凡夫といふ(う)は 無明煩悩われらが身にみちみちて 欲もおほ(お)く いかり
はらだち そねみ ねたむこころおほ(お)くひまなくして 臨終の一念にいたるま
で とどまらず きえず たえず
凡夫は、命終わるその瞬間まで、煩悩から離れられないものを言う。すべてのことを
私中心にみて争いをおこし、欲望・怒り・妬みに、心と身体を悩ませ苦しみ続ける。
仏法に出あうとき、煩悩に満ちみちている凡夫は、他の誰のことでもなく、この私のことと気づかされる。念仏申すひぐらしの中に、ありのままの私の姿を見せていただく。
拝読 浄土真宗のみ教え より
み教えは、最も深く、最も本質的な「私=凡夫」を映し出す鏡です
南无阿彌陀佛を正しく受け容れると、次の事がはっきりします。
“この度が生死流転・輪廻・迷いの最後のいのちであり、そのままこの上ない覚りのお浄土に辿り着くのだと!もう逃げられない摂取不捨の利益の中!その大安心の中で最も深く本当の自分を受け容れられるのです。考えられないことですが、気づかないうちにそれをナマンダブと受け容れたのです。
安心して迷っていける救いが南无阿彌陀佛の救い! 南无阿彌陀佛!なもあみだぶつ!なんまんだぶつ!
2024/08/24 浄土真宗における信仰生活とは
浄土真宗の信仰生活とは
ご本尊さまの役割
お木像さま、或いはご絵像さまを日常生活の中で本物の阿彌陀如来さまと思ってお給仕をさせていただくのです。“本物と思って”とはどの様な意味?
本物ではないからです・・・。
では、偽物? いいえ、違います。
仮の阿弥陀如来さまです。それを承知の上で、“本物と思って”お給仕、お世話をさせていただくのです。信仰生活とはそういう事です。大事なことです。
では、本物の阿弥陀如来さまはどちらに?
私の口から出る南无阿彌陀佛のお念仏が正真正銘の本物の阿弥陀如来さまなのです。
聞見、聞く見仏!
南无阿彌陀佛、なもあみだぶつ、なんまんだぶつ!
2024/08/18 南无阿彌陀佛とお念仏を称えることの意味、お心
南无阿彌陀佛を称えるとは?
お礼参り、大念珠を繰りながらお念仏を、つまり、なんまんだぶつ、なんまんだぶつ、なんまんだぶつ と南无阿彌陀佛を称える様に勧めます。そこにはどの様な意味が?どの様なお心が?
親鸞聖人さまは”尊号真像銘文“の中で教えてくださいます。南無阿弥陀陀佛を称えることは(私たちがその時、その様に思わずとも)、“南无阿彌陀佛を称える”ことは“そのまま”“安楽浄土に生まれようと思うこと”に“なる”のであり、また同時に、“全てのいのちに”この“南无阿彌陀佛の功徳”を“与えている”ことに“なる”というのです!
私たちの“はからいを超えた”とはそいういうこと!不可称不可説不可思議!南无阿彌陀佛!
2024/08/12 お盆、浄土真宗のお盆について
お盆の準備、墓所の草刈り、清掃、早い方は八日、九日頃からそれぞれの墓掃除を行い、お花を活けて帰られます。この営みの中で先立たれた方々との会話が成り立つのです。南无阿彌陀佛
お盆についての世間一般の受け止め方と浄土真宗の受け止め方は違うのです。南无阿彌陀佛を正しくいただきますと、お盆の時に限らず、何時でも何処でも南无阿彌陀佛を通して、この上ない覚りに至った先立たれた方と出会っておるのでした。南无阿彌陀佛!
お盆
亡くなられた先人たちのご恩に対し、あらためて思いを寄せるのがお盆である。
親鸞聖人は仰せになる。
願土(がんど)にいたればすみやかに
無上(むじょう)涅槃(ねはん)を証(しょう)してぞ
すなわち大悲(だいひ)をおこすなり
これを回向(えこう)となづけたり
浄土へと往生した人は、如来の願力によってすみやかにさとりをひらき、大いなる慈悲の心をおこす。迷いのこの世に還り来たり、私たちを真実の道へ導こうと常にはたらかれるのである。
仏の国に往き生まれていった懐かしい人たち。仏のはたらきとなって、いつも私とともにあり、私をみまもっていてくださる。
このお盆を縁として、すでに仏となられた方々のご恩をよろこび念仏申すばかりである。南无阿彌陀佛!なもあみだぶつ!なんまんだぶつ!なんまんだぶ!なまんだ・・・
拝読 浄土真宗のみ教え 42~43ページ
2024/08/05 ”お礼参り” ご葬儀の後のお礼参り、その心について
葬儀後、遺族の皆さまが”お礼参り”に
お礼参りの意義とは?阿弥陀如来さまにお礼をするとは?
お葬儀をするとは、その前提として臨終、臨終の一念があったということです。
南无阿彌陀佛を正しく身に付けた者にとって臨終の一念、瞬間はどのような意味が?
その臨終の瞬間まで私たちの煩悩は留まらず、消えず、絶えず・・・なのです
従って、因果応報で言えば死んでからも迷い(輪廻転生し)続けなければ・・・
しかし、南无阿彌陀佛を正しく身に付けたが故に
その臨終の一念に大般涅槃、この上ない覚りのお浄土に至るのです。
死んで迷い続けるのではなく、覚りのお浄土に生まれるのです。
これがお念仏の功徳利益なのです、
阿弥陀如来さまの不可称、不可説、不可思議の
救い, その慶びがお礼参りなのです。
悲しさ、寂しさにかき消されないよろこびが なもあみだぶつ、なんまんだぶつ と
全員で大念珠を繰りながら元気よく“なんまんだぶ、なんまんだぶ、・・・”
この相(すがた)が既に先立った方が“お念仏称えるのですよ”と
お浄土から還っている相(すがた)なのです。南无阿彌陀佛、なんまんだぶつ・・・
2024/08/01 今回は拝読 浄土真宗のみ教え・親鸞聖人のことば、第一章”人生そのものの問い”を
アップしました。南无阿彌陀佛
浄土の真宗は、お浄土、または阿弥陀如来さまがその始まりではない。
始まりは“苦悩の私”なのです。苦悩の私です。私の苦悩ではありません。
南无阿彌陀佛、なもあみだぶつ、なんまんだぶ!
人生そのものの問い
日々の暮らしのなかで、人間関係に疲れた時、自分や家族が大きな病気になった時、身近な方が亡)くなった時、「人生そのものの問い」が起こる。「いったい何のために生きているのか」「死んだらどうなるのか」。
この問いには、人間の知識は答えを示せず、積み上げてきた経験も役には立たない。
目の前に人生の深い闇が口を開け、不安の中でたじろぐ時、阿弥陀如来の願いが聞こえてくる。
親鸞聖人は仰せになる。
弥陀の誓願は無明長夜のおおきなるともしびなり
「必ずあなたを救いとる」という如来の本願は、煩悩の闇に惑う人生の大いなる灯火(ともしび)となる。この灯火をたよりとする時、「何のために生きているのか」「死んだらどうなるのか」、この問いに確かな答えが与えられる。
拝読 浄土真宗のみ教え 六ページ
“不安の中でたじろぐ時”、“阿弥陀如来の願いが聞こえて来る”。
何故そういう事が言い得るのか。
私の側からは絶対に出てこないことです。
何故なら、
不安の中でたじろいでいる時、阿弥陀如来の願いを連想できますか?
できません。
では、この法語は何故その様な事を?
ここに私たちの因果の道理を超えた因果がはたらいているのです。
私には解かり様がありません。
従って、確かな答え(救い)が既に届いていてもそれを認識できません。
それ故に、その確かな答えは姿を変えて問い、“人生そのものの問い”となって
私のいのち、その五感に迫ってくださるのです。
そして私を育てて、この不可思議な南无阿彌陀佛の救いを頷けるように
仕上げてくださるのです。
しかし、その為には、その事態、状態を教え導いてくださる善知識が必要なのです。
お聴聞です。南无阿彌陀佛、なもあみだぶつ、なんまんだぶつ!
2024/07/01 5帖第2通 八万の法蔵章の超意訳を試みました。南无阿彌陀佛
八万四千と言われる膨大な経典類を知り尽くした大学者であっても、自らのいのちの行方、その救いの道を見出せなければ単なる愚か者です。たとえ文字を十分に読めない在家の信者(男女)であろうとも自らのいのちの行方を確かに解決していれば、それが本物の智者という者です。
従って、我が浄土の真宗においては、如何ほど諸々の経典の内容を知り尽くしても、与えられる二心なき信(まか)せた心、この救いが身に付けなければ、空しい事であります。
ここを、親鸞聖人さまは「誰であろうと、阿弥陀如来さまの本願を信ぜずしてたすかることなどありえない」と仰ったのです。
つまり、どのような女性でもその他の行を差し置いて、この“救われ難い命の行方の大問題”を阿弥陀如来さまに信(まか)せる一(ひと)念(おもい)が心の一番奥底に生じた瞬間から間断なく相続される結果、十人の中で十人、百人の中で百人、つまり一人ひとり全てのいのちが分け隔てなく阿弥陀如来の浄土へ往生できるのです。これは疑いようがないことなのです。
不思議だなあ、南无阿彌陀佛、なんまんだぶ!
2024/06/01 末代無智章の意訳を試みました。南无阿彌陀佛
正しい仏の智慧を持ち得ない現代の私たちは、どの様に罪業が深かろうとも、あれこれと思い迷うことなく阿弥陀如来さまの“かならず救う、まかせよ”の仰せを素直に受け入れれば、その仰せの通り必ず救われます。それは阿弥陀如来さまが私たち一人ひとりの称える念仏となって覚りの浄土に連れて帰るからです。その様に仕上がった願い・誓いが南无阿彌陀佛だからです。この覚りのお浄土へ導かれる私を受け容れた上には、何時でも何処でもお念仏称える生涯を送るべきです。南无阿彌陀佛、なもあみだぶつ、なんまんだぶつ!
2024/05/01 聖人一流章 超意訳を試みました。南无阿彌陀佛
親鸞聖人さまが勧めますお念仏の救い、その要は“信(まか)せた心”であります。
その“信(まか)せた心”とは私の行いや信じぶりを用いさせない、阿弥陀如来さまの側から私の往生浄土を実現させる、人間の思議を超えた願いの力“必ず救う、まかせよ”の仰せに順った“信心”なのです。その状態を“信(まか)せた心が生じ、この上ない覚りが正しく定まった輩(ともがら)”とも言い表し、称えるお念仏は、常に新しく聞こえる如来さまのよび声と同時に“ああ、如来さまが私のお浄土参りを確かなものにしてくださった”と聞こえ続ける救われた上でのお念仏と心得るべきであります。南无阿彌陀佛!なもあみだぶつ!なんまんだぶつ!なんまんだぶ!なんまんだぶ!
2024/04/01 白骨章の意訳を試みました。南无阿彌陀佛
白骨の御文章(現代語意訳)
世の中の流れに翻弄されながら、水面に漂う浮き草の様な生き様、始まる時も、その途中も、終わる時も、喜びも悲しみも振り返ってみれば夢幻の様な一生涯であります。
元気で長生きと云いますが、一万年生きた人の話を聞いたことがありません。一生はあっという間です。たとえ百年でも元気で生き切れますでしょうか。
自分が先か、他人が先か、今日かも知れない、明日かも知れない、生き急いだり、死に遅れたり、その有様は葉末に引っかかる或いは木の根元に落ちる露しずくの様に忙(せわ)しいと云われています。
従って、朝には元気でも、無常の風に思いがけず吹かれて、閉眼して息途絶えれば、たちまちに変容が始まり、夕方にはやがて白骨になる身に、・・ 身内家族が集い嘆き悲しんでも、もうどうしようもありません。
そのままにはしておけないので、野辺の送りをし、荼毘にふして、煙になってしまうと、ただ白骨だけが残るのです。それはそれは、もう言葉では言い尽くせない悲しみです。
この世の儚さは、老いも若きも関係ありません。どなたも只今より、自らの“行業としてのいのちの行方”こそが一番の重大事であることに目覚めて、その問題を既に解決してくださってある阿弥陀如来さまにおまかせして、“お浄土に往き生まれる不可思議な私”をお念仏称える中からいただき続けるべきであります。南无阿彌陀佛 なもあみだぶつ なんまんだぶつ なんまんだぶつ なんまんだぶつ なんまんだぶつ なんまんだぶつ
2024/03/01 信心獲得章の意訳を試みました。南无阿彌陀佛
浄土真宗の“信心いただく”ということは阿弥陀如来さまの十八番目の願いを身に付けるという事であります。この願いを身に付けるとは南无阿彌陀佛の救いのはたらきに目覚めさせられるということです。従って、この救いにまかせようと思った瞬間に、それは実は阿弥陀如来さまの側からの“われにまかせよ、わが名を称えよ、浄土に生まれさせて仏にならしめん”のよび声が既に聞こえている相(すがた)なのです。これが実は阿弥陀如来さまから私たち凡夫に振り向けられている仏心なのです。
このことを、仏説無量寿経には「あらゆるいのちが覚りの世界・お浄土に生まれるにあたって必要な功徳を、私たちに代わって完成してくださった」と説かれてあります。よって、始まりの無い過去世から積み重ねた悪業煩悩が、不可思議な願いの力によって消えてなくなり、お浄土に生まれる正しく定まった菩薩方の仲間入りをしたのと同じであり、このお陰で「煩悩を断ち切らずしてこの上ない覚りに至れる」と言えるのです。このことは浄土真宗だからこそ言えることであり、他派の方々には理解し難い内容であることをよく心得る必要があります。(信心獲得章 意訳)