唯物論が真実なら、輪廻転生は避けられない
(・・・のではないかという空想)
(・・・のではないかという空想)
※なんかものものしいタイトルですが、特に宗教とかスピリチュアルな話とかいうわけではありません。
←ここに書いたような内容を縮めてNotebookLMに投げてみたらラジオ風動画ができました。
自分の主張したいことが抜け落ちてたり多少ズレている部分もありますが、概要はまとまっています
もともと「人は死んだら無になるだけ」という考えに昔から違和感を覚えていました。
それは別に特定のスピリチュアル的・宗教的な思想を信じていたとかいうわけではなく、単に『無』という概念が「今自分が現に生きている」という事実に対してあまりにも突飛過ぎるというか・・・何か噛み合わないという感覚。
「今自分が生きている」ことと「自分が死んだら永遠に無である」ということが両立するはずはない、というような根拠のない違和感というか何かごまかされているような感覚を持っていました。
しかし、具体的に何に違和感を感じているのか?という部分は言語化できずにモヤモヤしてたのでそれを何とか言語化しようとして、考えの再整理をする中で思いついたことを文章にまとめたのがこのページの内容です。
そんな経緯で出てきたものなので、輪廻や唯物論について「信じたい」とか「信じたくない」という感情を補強するために考えたものではありません。「死んでも生まれ変わるはずだから安心してください」といった慰めとか、その逆の「延々と生まれ変わる無限ループって怖くね?」とかいうことを主張したいわけでもありません。
「唯物論の立場に立ってみたら論理的帰結としてこのようになるのではないか?」というのを思いついた・・・という内容です。
体に残留したカフェインのせいで眠れない夜とかに中二病的な脳みその空転に伴い延々と考えてしまって、何か深い考えを思いついたつもりが翌朝になってみると「なんであんなのが深い考えだと思い込んでたんだ・・・」とがっかりする類のアレですが、キャッチーなタイトルを思いついてしまったので、文を書く訓練と備忘録も兼ねてどこかに残したくて書いてしまいました。
議論自体は別に新しいものではありませんが、フワフワしたものになりがちな輪廻転生に関する議論を「唯物論」というわかりやすいアンカーに括りつけることは、論点の再整理になるような気がしています。
実は、過去に幾度となく語られてきたであろう単純な論理の焼き直しに過ぎません。短く言うと、
『無』が一度『有』を生じた以上、再び『有』が生じる可能性は排除できない
『私』が一度生まれた以上、再び生まれる可能性は排除できない
という単純なことを言っているようなものです。
が、最後には「可能性は排除できない」どころか、むしろ、実際は「避けられない」のではないか…?という結論になりました。
理屈を箇条書きしたのが以下です。
(ちょくちょく表記がブレていますが、クオリア=経験主体と読んで差し支えありません)
唯物論において、『私』というクオリア/経験主体の発生は、脳のような何らかの物理的な媒体の上に発生した物理現象にすぎません。
その現象が発生するロジックは不明です。
その現象は少なくとも一度、実際に起こりました。(『私』が現に生きて経験しているので)つまり起こりうる現象であることが証明されています。
『私』が死んだ後も、地球や宇宙には『私』の依り代となり得る物理的な媒体(素材)はたくさんあると見込まれます。
よって宇宙が存在する限り、『私』なるクオリアの発生は、いずれ再び起こると想定するのが自然です。(原理が不明なため、一度きりの現象である保証がない)
その宇宙自体が消滅したとしても、似たような理屈で再発生します(後述)。よって宇宙が消えたとしても『私』の触媒となる物質もまた新しい宇宙でいずれ発生します。
死んでいる間は『私』という経験主体は何も知覚しないので、その間は主観的には時間は流れません。つまり次に経験主体の発生が起こるのが何億年先であろうと、主観的には死んだ直後にすぐ別の何か(人間、犬、深海魚、カエル、エイリアンなどなど)としての経験が始まっています。次にそれが起こるまでのインターバルは実質的には存在しません。
唯物論においては、この無限ループを止めてくれる可能性のある神のような絶対的な能力者がいないので、すべてはただ物理的に起こり続けます。
よって、唯物論に立脚するなら、『私』は永久に輪廻転生し続けます。
『私』は物理現象に過ぎないという前提
ここで言う「輪廻転生」あるいは「私」は、記憶や個性の連続性を伴うものとは限りません。また、転生する先が人間とも限りません。経験主体(何らかの経験を感じる私=クオリア)が何らかの物理媒体上で再び生じるということだけを焦点として輪廻転生と言っています。
そして唯物論に立脚する以上、必然的にそのクオリアそのものも物理現象に過ぎないと想定します。
確かに、クオリアは通常の物理的な枠組みでは今のところ捉えきれませんが、クオリアが現時点で物理的なフレーム内でどう捉えればいいのか謎だからといって、逆に『霊』とか『魂』のような物理法則界のアウトローを唐突に想定して話を始めてしまうと、初手から煙をつかもうとするような話になってしまいます。ここで唯物論を起点としたのは、そのような前提の飛躍によって足場のない中空に初手から飛び出してしまうのを防ぐためでもあります。
「『私』なる経験主体とは何なのか?」という哲学については手に負えないので深掘りできませんが、『私』という現象の本質が何であれ、それが駆動するロジックはどうも脳のような物理的なハードウェアと何らかの形で関係を持っているらしいことが明らかな以上、『私』なる現象も物理法則の枠内を出ることはないはず…というわけです。
(哲学的概念をダンボールに収納することができないのと同じように、クオリアが真に「非物理的」な何かだとしたら、それが物理的な世界の物質と干渉することはなさそう)
つまりここでは、「それ(クオリアという現象)が何かは分からないが、とにかく何らかの物理現象の一種ではあるのだ」とし、物理的世界の論理を超越した外野からの介入はないものとみなすということです。
クオリアは、思考や感情や身体的活動ではありません。一般に「人間らしさ」と呼ばれるそれらは、神経細胞ネットワークの電気信号の伝達やその結果の神経ホルモンの分泌による、通常の物理現象と見なすことができます。
しかしそうした思考や感情や運動などの現象を「感じる」というのは、それとはまた質の異なる現象です。
このような「物理的な構造やプロセスから、なぜクオリアが生じるのか?」「クオリアって今の物理学モデルの中に組み込めないのでは?」みたいな話は「意識のハードプロブレム」と呼ばれています(こんな基本的な事すら知らなかった)。
概要で述べたように、『私』の発生という現象は、少なくとも一度は起きました。しかし「特定の物理的媒体にたまたま意識が生まれる」という唯物論の考えは、『私』という経験主体が宿る先が私の体でなければならなかった理由について何も説明してくれません。
(この「私はなぜ私なのか?(他の誰かではないのか)」という疑問は、前述の意識のハードプロブレムに対して「意識の超ハードプロブレム」と呼ばれるようです)
同じ日、あるいはほぼ同時刻に生まれた子供だって世界にはたくさんいるはずなのに、なぜ私は隣家の田中くんではなく、静岡県の鈴木さんでもなく、ケニア生まれのマショモさんでもなかったのか?
私は私の体を通してしか世界を見れません。たとえ血を分けた親や子であったとしても、他人の視界を共有して何かを一緒に見たり、他人の食べている食べ物の味を感じることはできません。似たようなタンパク質構造物(脳)は地球上に無数に存在するのに、なぜそれらすべてに同時に宿るのでもなく、他人や他の動物に宿るのでもなく、この体だけに宿ったのか?謎です。
私が他の誰かではなく私として生誕したというのは、原理的にまったくの未知なのに、実際に起こったことだけは間違いなく確定している・・・という、考えてみれば極めて危なっかしい怪奇現象なのです。
また、私ではない別の人も、私と同じようなクオリアを持っているように見えます。持っているように見えるだけで持っていないかもしれませんが、この感情や感覚を持っている体に私というクオリアが依拠していることは確かなので、他にも似たような物理媒体があるのであれば同じような「私ではないが、おそらく似たような形で世界を経験しているっぽいクオリア」が宿っているはずだ・・・とミラーリング的に想定することができます。
人間に限りません。犬や豚や鳥も感情を持っているかのように振る舞います。だとしたらクオリアが宿る物理的な媒体として、人間の体や脳だけが特別な存在だと考える根拠はあまりありません。異なる生物間における脳という器官の機能的な類似性を考えると、カエルや犬の脳でもその現象を起こすには十分かもしれませんし、それどころか実は脳すら必要なく、単細胞生物や植物、更にはキノコや石でもいいかもしれません。
それらが言語やイメージで何かを考えることは出来なかったとしても、何らかの形で世界を経験しているかもしれません。
そしてもちろん、経験主体の宿り先である物理的媒体が地球上のものに制約される理由もありません。今私はたまたま地球上の肉体を媒体として生まれましたが、宇宙のどこか別の惑星の虫やエイリアンの体でも良かったかもしれません。
つまり、私というクオリアが再び再発生するための物理的媒体は、条件がゆるくなればなるほど、宇宙には膨大に存在する可能性があるということです。「宇宙の広さを考えたら、地球上にしか生命がいないなどということは確率的にあり得ない」という話をどこかで聞いた事がありますが、この地球や人類という狭い観測範囲ですら日々新生児が生まれ出ている以上、私が死んだとしても、再び『私』という物理現象が再発生するまでに数万年や数億年といった長いインターバルを仮定する必要すらなく、死んでから数秒や数時間でそれは再度起きる可能性があります。
(そして先に触れたように、インターバルがどれだけあろうと、主観的には一瞬です)
このため、「死んだら永遠に無になるだけだ」という考えは極めて脆弱な想定になります。
これが一見、合理的な仮定に思えるのはよく分かります。自分も唯物論で考えれば「そりゃ死んだら体や脳が機能しなくなるんだから、主観的には何もなくなるだろう」と当然のように考えていました。深く考えてそう言っているわけではないとはいえ、それが唯物論者ルートにおいて到達できる唯一当然の帰結のように語られがちです。
しかしむしろ、これは非常に根拠の薄い突飛な想定です。
有限の事象が無限につながると言っている点では「死後は永遠の天国or地獄が待っている」というような宗教的世界観と似ています。
しかし、「なぜか分からないが私は生まれた」というのは、例えるなら、森の中の一本の木が突然発火したようなものです。
「なんか知らんがいきなり森の木が燃え始めた」のに、「火が消えた後は、もう二度と燃えることはないだろう」と想定するのは無謀です。なぜなら、発火が起きた以上はその森や木々には発火を引き起こす何かがあることを意味するからです。
私が死んだとしても、脳のような特定の物理媒体が再び地球や宇宙のどこかで新しく形成され続ける限り、現在の我々にはまだわかっていない特定のロジックに基づいて、クオリアが新しい物理媒体上で再び機能し始める可能性があります。
そしてそのときにどこかの新しい脳か何かに宿ったクオリアが『私』でなく『他のだれか』である保証はありません。なぜなら、先ほど述べたように原理は未知だからです。
なぜ今のこの体に宿ったのが『他のだれか』でなく『私』だったのか・・・?謎ですが、でも現に私は生まれてしまいました。
しかし、体や脳のような物理的媒体は宇宙に充分にあるといっても、その物理媒体の数量と再生可能性が単純に比例するとは限りません。『私』というクオリアの発生のためには単に物理的媒体が存在するだけでは不十分で、別の何らかの(単数あるいは複数の)物理現象との干渉が必要かもしれません。
先ほどの例えで言えば、森に木がたくさんあったとしても、気候が乾燥していて、なおかつたまたま発生した雷が特定の条件下で木を直撃したとか、そういう他の現象の干渉がない限り、木が燃え出すことはないでしょう。
雷ならまだ頻繁に起こりますが、クオリアの発生にはもっと希少な条件の連鎖が必要になるかもしれません。大量のサイコロの目が奇跡的に揃って初めて起こるような現象だとしたら、地球や宇宙に脳のような物理媒体がいっぱいあるというだけでは「私はまた生まれる」と言い切るには確率的に不十分な可能性があります。
たしかに、周りを見れば人間や動物はたくさんいます。それを考えると、クオリアの発生はそんなに確率の低い現象には思えません。人間に限っても、地球上で赤ん坊が毎秒2~3人のペースで生まれているそうです。しかしそれだけでは不十分です。なぜなら、先ほども軽く触れましたが、彼らは実は本当はクオリアを持たず、恋愛をしたり、就職活動をしたり、映画や漫画を作ったり、複雑な経済理論や哲学について語ったりしながらも、実は内面では何一つ感じていない――タンパク質で出来た精巧な機械(いわゆる「哲学的ゾンビ」)である可能性も排除できないからです。
要は『人間らしさ』という言葉の中で混同されがちな「思考や感情」と「クオリア」とはまるっきり別個に成立する現象である可能性が高いため、人間が人間らしく行動しているからといってその人間にクオリアがあることの証明にはならず、いくらたくさんの人間や動物が活動しているといっても、クオリアの発生はもっと天文学的に確率の低い稀な現象である可能性があります。
もちろん稀な確率で起こる現象だとしても、充分に長い時間があれば起こり得るだろうと言うことはできそうです。
が、逆に時間が有限なのであれば、その低確率のあたりくじを再び引けるほど充分に長いかどうか?それはわかりません。
木が永遠に存在していたら、たしかに山火事は永遠に繰り返すでしょう。でも木が永遠に存在するとは限りません。宇宙の寿命がいくら長くても、もし『私』というクオリアの発生が充分に発生確率の低い現象であるならば、次にそれが偶然起こるよりも早く宇宙が消滅して永遠の無になる可能性があります。
それなら宇宙の寿命が尽きるまで「死んだまま逃げ切れる」可能性はあるのでは?この地球での生涯が、有限の時間の流れの中の最後の一回かもしれないじゃないですか?
なぜそうじゃないと言えるのか・・・それは、宇宙も(さらには時間すら)消滅してもまた復活するだろうからです。
唯物論的な人生観を考えてみましょう。わかりやすいものとしては以下のようなものです。
「赤ん坊としてこの世界に生まれる前は、ただ『無』だった。
そして死んで世界を知覚しなくなった後は、やはり永遠の無が続くだけだ」
これは言い方を変えると「無から突然、人生という1回限りの経験が生じた」と言っていることがわかります。
しかし、これは逆に言えば「無と呼ばれたそれは完全な無ではなかった」ということでもあります。ここでいう無が主観的な無であろうと、客観的な無であろうと同じです。それが本当の無であったら、永遠の無が永遠に続くだけで、人生経験などというものは発生しません。
既に例に挙げたように、人生という発火が起きたということは、必然的にその背景に何らかの燃料があったはず。言い方を変えると「無と呼んでいる状態は、少なくとも一回の『人生』という経験を生み出すことのできる何らかの潜在性を持っていた」ということを意味します。これがここで基盤になる汎用的な理屈で、色々な物事に当てはめることができます。
「私が今現にここにいるのだから、宇宙が私を生み出せることは証明されている」のと同様に、宇宙それ自体についても「宇宙が今現にあるのだから、Xが宇宙を生み出せることは証明されている」と言えてしまうわけです。これには実は唯物論という前提すら必須ではありません。
ここでいう【何らかの潜在性】、つまり宇宙を生み出したその上位構造『X』が創造神であれ、量子が対消滅を繰り返す潜在的なエネルギー場であれ、はたまた42次元の仮想世界シミュレーションマトリックスのような何かであれ、「XがYを生み出すことのできる潜在性を持っていたことは証明されている。なぜなら今現にYがあるからだ」と言っているだけだからです。
仮にその上位構造そのものが消滅したとしても、そのさらに上位の階層構造に対して同じ問いかけが発生します。無限の入れ子構造が再帰的に続くのです。
よって、何かの消滅というのは真の消滅ではなく、その背景構造へ溶け込むような見かけ上の消滅であり、消滅できるということはそれ自体が「その何かが再び生成され得る」ということを逆説的に証明していることになります。
消滅できるということは、それまでは存在していたということである。
存在していたということは、どこかの時点で発生したことを意味する。
発生したということは、その上位の(背景)構造に「それを発生させる何らかの潜在性」があることを意味する
からです。
単純すぎて子供の屁理屈みたいですが、その単純さゆえに、宇宙論や世界観に多少のパラダイムシフトが起こっても機能します。
宇宙や時間の実在すら必要としません。「生まれる」という表現とか「生む側」と「生まれる側」という区別自体が、暗に一方向にのみ進む時間というものの存在を暗黙に仮定した上に成り立っているような気もするので言葉が無意味化する気はしますが、宇宙や時間といった中間媒体が全て幻影だったとしても『私』という経験主体だけは現に依然として存在しているため、「私とは、私以外の何かによって生み出された(後天的な)存在である」という前提を置き続ける限りは、「『私』でない外側の何か」階層の根元にある根源的な何かと『私』との一対一の関係は残るはずです。
(唯心論や唯識論のような立場から「それらが存在しているかのように五感で認識してるだけで本当は全部幻」みたいな話になってくるとまた別ですが、ここでは唯物論を前提にしているため)その「根源的な何か」、つまり宇宙やら時間やらの上位構造と遡っていった先に現れる構造の親玉が『無』です。結局この話は『無』vs『有』・・・「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」みたいな話になってきます。
もし世界のデフォルト状態が無だったとしたら、有が今現にある以上、無が有を生み出せることは証明されています。
しかしもちろん、無が有を生み出すというのは、それ自体が矛盾です。すでに述べたように、それが本当に無だったら無以外のものが生まれるはずがないからです。
無から無以外のものが生まれるという矛盾は、時間軸的に別の切り口で表現することもできます。
それが「世界の始まりは何であったか?」という問いです。誰もが一度は考えたことがあるかもしれませんが、ご存知のとおりこの問いは無限ループに陥ってしまいます。「Xによって世界が始まった」と言えば「ではそのXはどうやって始まったの(何によって作られたの)?」という問いが生まれ、その問いかけは無限に後退するからです。
これは単純化した内容で、実際には宗教であれ宇宙論であれ、もう少しツッコミは入れられるかもしれません。
宗教で言えば「神は生まれもしないし死にもしない」といわれればそこで話は終わってしまいますし、宇宙論ではビッグバン以前を問える考え方や、そもそもビッグバンという始まりを必要としない理論なども考えられているかもしれません。ただ私たちに馴染み深い一方向的な時間の考え方では、結局どこかで何かはぐらかしのような答えにぶつかることになるか、主観的な体験に根差していて言語化できない領域に入ることになるはずです(「私は瞑想によって宇宙の真理を悟った」みたいな)。
そもそも言語で考えてる時点で無茶な気はしますが、これは私たちの脳の限界でしょうか?
または「世界のデフォルト状態が『無』である」という前提が間違っている可能性もあります。何で人間は無がデフォルトだと自然に想定しているのか自体謎ですが(多分死や睡眠と関係してると思う)、とりあえず「世界のデフォルトは有である」という真逆の前提を置いてみると、「無が有を生む」という自己矛盾や無限後退の問題は解決するように思えるからです。
(ただし、前提をそのようにすると、宇宙に途中で何か新しいものが生まれることはできなくなるので、あらゆる事象は潜在的に元々存在していることになり、核融合発電や富山県やニンテンドースイッチなどといったあらゆるものは遥か過去から常に存在し続けていたという、また別の複雑さと対峙することになるはずですが・・・)
いずれにしても、現に宇宙(少なくとも私)が存在している以上、何かが「本当の意味で消滅する」ことは不可能なので、宇宙も時間も無限であると推定できます。それらは潜在化と顕在化、つまり見かけ上の生成と消滅を繰り返すかもしれませんが、本質的には常住だという結論になります。
このあらゆるものの常住性が、「輪廻転生するかもしれない」ではなく「避けられない」とした論拠です。今自分が生きている以上、宇宙は「少なくとも一回の私という人生経験」を生み出す潜在性をもっていたことは事実です。しかし、その上さらに「この人生は最初で最後の一回限りの奇跡かもしれない」という可能性の方も、宇宙や時間の常住性によって否定されます。
「時間が無限というのは全ての現象が成立するという意味ではない」という考えもあり、実際「あらゆる事象は、時間が無限であれば必ず起こる」というのは、いささか言い過ぎの怪しい前提のような気がします。
しかし、「一度起きたことなら、時間が無限であればまた必ず起こる」とは言えます。それが一度起きたという事実が、原理的に起こりうる事象だということを既に証明していて、さらに時間が永遠だということは試行回数が無限だということであり、「ほうら二度と起きなかつたろう?」と言える瞬間は決して来ないのに対して、それが起こりうる可能性の方は依然として存在し続けるからです。
『私』というクオリアの発生という現象が非常に長いタイムスパンを経なければ確率的に起こらない、きわめて稀な奇跡的現象だったとしても、その常住の時間と宇宙の中においてはいずれは必ず起こることになります。
そして唯物論的に私たちはその死んでいる間の時間を知覚することはできないので、主観的には死んだ直後に別の何かに生まれ変わっている・・・というわけです。こわいですね。
おわり
蛇足1:ありうる例外
これが起こらないシナリオはあるか?と考えてみて、一番手っ取り早く思いついたものとして、いちおう「宇宙が完全な静的状態で永遠に固定される」というシナリオは例外になり得るかもしれません。
これは例えば「宇宙の膨張などによって物質同士が離れすぎて大局的な相互作用が起こらなくなり、すべてが冷えて安定状態を迎える(熱的死)」といった仮説のことです。
個人的には、いかなる形でも何らかの「動き」がどこかで微小に継続しているのだとしたら、それが再び他の動きを誘発する可能性があるため、「永遠に思えるほど長い静止状態」とは言えても「永遠」とは言えないと思います(物理学には詳しくありませんが、そもそもミクロな動きまでゼロだったら物質はそもそも存在できるのか?という気も…)
しかしもしこれが何らかの方法で本当に「永遠に」続くのだとしたら、時間が無限であろうとも、確かに二度と輪廻しない可能性は残ることを認めざるをえません。
蛇足2:「無からは何も生じない」
無 vs 有については、Wikipediaには「無からは何も生じない」という、まさにそのもののページがありました。哲学を理解できるほど知的バイタリティがないため、これが使い古された概念であることも知らなかったのですが、自分の言いたいことが適切に表されていました。
主に世界の存在の起源や根拠について議論する際に使用される概念で、「無から有が生じることはありえない」という意味で使われる。
その英語版のページ(Creatio_ex_materia)からの引用(※Google自動翻訳):
プルタルコスは、現在存在する構造化され形作られたものは、それ以前の、形も形もない物質から派生したものであると述べている。したがって、創造行為とは、この無秩序な物質を秩序づける過程であった。[ 10 ]
ローマの詩人で哲学者のルクレティウスは、彼の最初の著書『事物の性質について』 (1.149–214)の中で、この原理を表現しました。彼の主張によれば、もし何かが無から生じ得るのであれば、動物が完全に形成された状態で出現したり、ある時点ではリンゴの実をつけた木が後に梨の実をつけるのを目撃したりすることさえ、常に無から何かが生まれるのを観察するのは当たり前のこととなるでしょう。これは、無から何が生まれるかの前提条件がなく、先天的な原因や物質が、何が生じるかを制限する余地がないからです。つまり、ルクレティウスは無からの創造は自然における規則性の欠如につながると信じていました。[ 11 ]
この主張・格言を受け入れた初期のギリシャ哲学者との交流の中で、オリゲネスのような無から創造を受け入れたキリスト教の著述家たちは、無から何かが生まれることはあり得ないという本質的な前提を単純に否定し、それを神の力の限界の推定とみなした。つまり、神は実際に無から何かを創造することができると考えられていたのである。[ 12 ]