Sigrid Nieberle: Gender Studies und Literatur. Eine Einführung.
V. Gattung, Genus, Genre
担当:中村
☆文化学・文学における「語り」の研究の重要性――近年増している
・1970年代以降……学際的に影響を与え続ける精神科学・エピステモロジー・社会学・文芸学
・ナラトロジー研究×パフォーマンス研究……「時系列順の言語によるできごと」(S. 92)を扱う
z.B.)『諸コンセプトを旅する』(2002)
←「どの点においてジェンダー研究と語りの研究とは利益を与えあうか、どこでそれらが起こるか、この共同がどのように寄与したか」(S. 92)
☆大きな物語の終焉=フェミニズム、啓蒙による解放といったものに疑念が差しはさまれる
←「自然に与えられた、神が望んだ、もしくは科学的に実証された性差」(S. 92)が問いに付される
⇒「学問における語り」(S. 92)
☆文学の可能性――性的な秩序を多様化させることも、無力化することもある
「語ることは文化的な技術である。それは確かに、力強く、世界を説明するメタナラティブを助けるが、それを同じように効果的に無力化し、「ひっこぬく」ことができる」(S. 92)
・語りの声と、語りの審級(男性)との結びつけ=文化的に定着した受容の実践
←これを撹乱するものもある
・ジャンル――作者――語りという繋がりは相互依存的なもの
←語りのなかでジェンダーとジャンルは主題化され、演出されてもいるということを出発点とする
⇒これらによってジェンダーとアイデンティティの問題とを新たに議論の俎上に上げる
☆「語りの範型(Erzählmuster)」(S. 93)――共通のプロットの要素・修辞的なトポス・線的な並び
・近代的な男性性……語りの構造の下地をなしている・19世紀には家族のコンセプトと切り離せない
→家族小説:ジェンダーの観点なしには読めない
z.B.)テオドール・フォンターネ、グスタフ・フライターク、ヴィルヘルム・ラーベ、リカルダ・フーフ、トーマス・マン
→教養小説:男性のジャンルとされるが、女性作家によって書かれている
z.B.)フリーデリケ・ヘレーネ・ウンガー、ユーディト・シャランスキー
・どの時代にあっても、ジャンルはジェンダーとは切り離せない
☆より多様な性の在り方についてのナラティブ化
・ヴァージニア・ウルフ『オルランドー』:主人公にとって「性転換」を主張しようとする
→「そのような、理論を意識した批判によってバイナリーな性のモデルを問いに付し、同時に、どのようにそのことが語られているか、それについて何が語られうるかを問題化する」(S. 94)
・クリスタ・ヴォルフ『自分探し――記録用論考』(1980)
→性的アイデンティティの変遷・彼(女)らが語る際の条件
→性は個人・社会・政治の諸関係と密接
→映画化することによって多様な展開がみられる……カメラは語る人物への視線を開く
☆語りの経過……時間と空間とのなかで作られる
「登場人物たちが巻き込まれる矛盾、時間の飛躍、空白、空所、転換する脱線のなかの語りの中断、これらすべては語りの戦略であり、語りを時間的・空間的に整理することを助ける」(S. 95)
・語る人物と語られる人物とのジェンダーアイデンティティは、時間・空間的なパフォーマンスとして理解される=語られてはじめてジェンダーが生じる
・語りの諸要素を検証することで、テクストへの他のアクセス法が開かれる
・アルトゥール・シュニッツラー『グストル中尉』(1900):独白小説
→抒情詩・戯曲の語りの条件を使っている
→男性の語り手であることは徐々にわかってくる
→「特殊な社会における男性性のコード化」(S. 96)を扱う物語
→「語り手の恋人シュテッフィが「このひと」と名指されてはじめて、タイトルの名前と独白のわたしとが、グストル中尉という名前と階級とで証明されることを読者は知るのだ」(S. 97)
・アルトゥール・シュニッツラー『エリーゼ嬢』(1924):独白小説
→「引き延ばしの原則」(S. 97)はない
→語られる時間と語りの時間との関係が曖昧
→他人のセリフは斜字体↔︎女性の内的独白は間接話法
→「とくに精神分析によって動機づけられたシュニッツラーのエリーゼの従属は、美的・歴史的な文脈に接続される」(S. 98)
☆物語の〈語り〉と舞台の〈演出〉との違い……受容者の状況
☆演劇――作者の体験作品としては解釈されない
→文学史における特殊な位置づけ
←女性が結びつけられることはなかった
「20世紀にいたるまで有効な、女性の演劇史記述からの排除」(S. 99)
⇔実際には多くの女性作家、女性俳優がいた
☆18世紀後半の作品……家族作品・泣かせる作品←イギリスの「家庭内悲劇」との交差
・レッシング『エミーリア・ガロッティ』(1772)/『ミス・サラ・サンプソン』(1755):父―娘の関係
←構造的・個人的な女性への暴力が物語の中心に
・男性性の正当化
☆1800年前後の作品:女性は矛盾を擬人化したもの・「啓蒙の弁証法のアレゴリー」として登場(S. 100)
☆1900年前後の作品:病理学的ヒステリー言説……女性性と演劇とを自然化しようとする
・ヴァイマル期の女性作家による社会批判
☆理論方面から:「上演することとドラマ的言語を遂行することとが干渉する関係」(S. 101)
・劇中の肉体=実際の肉体を持ちながら同時に記号的に他者を表象する
・ドラマと演劇との関係、テクストと演出との関係も歴史化される必要がある
――しばしば文学研究が無視しがち
→ゲーテ時代から「舞台上での〈自然な形姿(natürliche Gestalt)〉」(S. 100)は展開されている
=性別の自然さも条件づけられてきた
・「クロス・ステージング」(S. 101):「不自然な姿という演出の伝統」(S. 101)
・「ズボン役(Hosenrolle[])」(S. 101):「「自然な姿」の「魅力的な」混乱」(S. 101)
→19世紀から1920年代にかけて「きわめてあやしげで、精神医学化された、しかもフェミニズム的な推測を加えた議論」(S. 101)が跋扈する
☆ポストモダン、ポストドラマ演劇
→「もはやミメーシス的には機能しない言語の、批判的な動員」(S. 101)
・イェルフリーデ・イェリネク:「言語・表象についての妥協なきフェミニズム的取り組み」(S. 101)
→日常・歴史記述での性にかんするレトリックをモンタージュする
→言語行為を演劇的行為に昇華する
→舞台上のものを精神医学的に自然・不自然で判断することの拒否
→言語を「はっきりと存在と可視性とのメディアとして「展示する」」(S. 101)
=登場人物は、習慣的な意味づけとは異なる言語をもって行為する者となる
→さまざまな引用を混ぜ合わせ、舞台にあげ、破壊する
・『レヒニッツ』(2009):ジェンダー表象をしない戯曲
→ジェンダー表象は演出されるまで書き込まれない:
「性が重要になるのは、パフォームされてからなのだ」(S. 102)
・「演出のイリュージョン的な身振りと脱構築的身振り」(S. 103)
読書会の議論において出た論点
・作者と語り手との性を読者はどのように想像するか
・ドイツ語で読んだ場合は、どのような性別を想定するか
・独白小説を扱うと、語りの性別がより話題にしやすくなるのではないか
・「ズボン役」と異性装者との関連づけの問題点
・文字で書かれたものが演劇で可視化されるのではないかという期待を寄せすぎているのではないか