Sigrid Nieberle: Gender Studies und Literatur. Eine Einführung. II. Gender und Literaturgeschichte.
第 4 章:作者性と性(Autorschaft und Geschlecht)S. 68-75
担当:深澤
作者性(Autorschaft):作者(Autor)と並んでラテン語由来。しかし単に原作者(Urheberschaft)等々に言い換えれば話が終わるわけではない。1960 年以降、多彩な学際的研究領域の開拓。
1800 年以降の著作権に関する法的観点
文献学的には作者性とは不在(Absenz)の問題である:作者本人がコメントしない/できない場合、その代わりを務める解釈者。シュライアーマッハー以降の感情移入(Einfühlung)。作者本人よりも「より良く理解できる」解釈者像。/ただし最近になって作者審級の再評価(Aufwertung)が進むが、これは 1800 年ごろの自律美学や社会経済的発展と結びついている。
性に特化した観点から見た作者性:
・先行する理論的な議論(解釈学、ディスクール分析、記号学的な作者概念)
・18 世紀後半に初登場した女性作者(Autorin)という言葉:外国の特殊なケース(スタール夫人)を除いて皮肉的で侮蔑的に用いられた。→作者概念は男/女で非対称。
・ジェンダー・スタディーズにとっての矛盾した学術状況:一方で構造主義的な議論がいわゆる「作者」を記号論・ディスクール分析の観点から批判。他方、女性学は男性作家とは違う存在としての女性作家像に固執。経験的・実証的な女性作家像に肩入れ。
・女性作家の名前や署名、彼女らの主体としての地位、女性作家として地保を固めるためにそれらが果たす機能の考察が徐々に始まっている。女性作家の前提として共有されてきた「苦しむ女性」像の終わり。また男性作者というカテゴリーも不安定化。
法的・倫理的な性差:
・ラテン語の auctor は「女性の法定後見人(Rechtsvormund)」をも意味しえた。
・男性中心主義的な「作品(著作物)支配(Werkherrschaft)」や「作品政策(Werkpolitik)」:18・19 世紀の女性は公民権を有さず、家庭空間に押し込められていた。彼女たちは経済的に自立できず、人格に基づく一貫した行動(インテグリティ)も発揮しえない。公的な場に女性が躍り出ること自体「越境」を意味し、「女性作者のスキャンダル性」や 1770‐1830 年ごろの厳しい出版事情についてもすでに指摘されている。(Hilmes 2004)
教育:
・作家として名を成すための絶対条件(conditio sine qua non)だった教養や研究へのアクセスは、当時の女性にはほとんど与えられていなかった。兄弟が受ける家庭教師の授業のおこぼれに与る姉妹というトポス(ウルフ『自分一人の部屋で』1929)。1900 年ごろ女性に開放され始めた大学教育(最初チューリッヒ、次いでバイエルン...):Ernst von Wolzogen の小説 Das dritte Geschlecht(1899)でフィクション化。
このような状況ゆえ、女性作家たちがセラピー的な意味で物を書いていたのも不思議ではない。たとえば Sophie von La Roche にとっての文学は個人的な問題克服戦略のメディアと位置付けられたりするが、しかし特定のジャンルに基づいたテクスト制作や出版形態が作者の個人的・特異体質的な表現であると解釈するのは部分的にしか正しくない。 → 哲学・教育・経済・法的言説を作者性の条件として入念かつ広範に再構成する必要がある。(方法としての Quellenbibliographien, Gesamtdarstellungen, Einzelstudien)
作者性を性の観点から研究するにあたって求められるのは基礎観察(basale Beobachtung)から出発すること:女性作家のテクストには葛藤が見出せる。彼女らは一方で作家であり、他方妻であり母である。Sophie von La Roche, Therese Huber, Caroline Auguste Fischer は作家収入で家族を養っていたが、その匿名性を(すぐには)放棄しなかった。つまり家庭の事情と商業出版可能性との界面に位置づけられる(女性の)作者性。19 世紀以降もこの葛藤は拡大。
Becker-Cantarino が指摘する「性差検閲(Geschlechterzensur)」:書くことそれ自体ではなく、誰に向けて書くか、出版形態、書く対象(テーマ)が統制の対象になった。たとえばフィヒテは女性が書くべきことについて語り、あるいは女性小説(Frauenroman)なるものも「女性のための、女性についての(für und über Frauen)」作品とされた。ゲーテ&シラー曰く「物書く女は詩的才能があるのではなく、模倣欲求があるだけだ。」それゆえ「作品支配」とは特定の読者層や収入源へのアクセス権を(美的な装いをして)支配することを意味していた。
「性差検閲」の 2 つの機能:1.女性作家たちの登場による競争摩擦の最小化。2.女性作家たちの書いてよいジャンルや美的前提の管理。 → それゆえ女性たちはいくつもの境界/限界を超えなければならなかった。1.家庭から文学的公的世界へ。2.彼女たちに許された特定のテーマ・ジャンルから別の言説(たとえば政治的テーマ)へ。
Helen Fronius の研究(2007):女性作家を管理しようとする試みは実際どのように実現されたのかという問い。コンスタントに確認できるミソジニー(たとえばゲーテ・シラーの発言)の一方で、女性を支援する実践(ゲーテ、シラー、リヒテンベルク)も多数あったという矛盾。/この矛盾は事典類の調査でも確かめられる。たいていの事典は女性作者の作品をその性に基づいて判断し、侮蔑的に評価することも少なくなかったが、他方でその女性たちをわざわざリスト化して事典に収録している。/物を書いているという理由でその女性性を否認される女性作家たちもいたが、男たちが管理してこない形でネットワークを築く女性作家たちもいたという。 → 結論:「性差検閲」は一定で安定したものではなかった。
名前の研究:フーコー「作者とは誰か」(1969):作品・テクスト内外の界面に位置する作者名。これは解釈に影響を与え、読者たちのイメージに作用する。/女性作家たちの名字は 18・19 世紀を通して安定したシニフィアンではなかった。結婚、離婚、再婚で名前がコロコロ変わる。また同化ユダヤ人にとってはファーストネームさえ変わった。(Brendel Mendelssohn – Brendel Veit – Dorothea Veit –Dorothea Schlegel など他にも例あり)。女性は自分自身と一致していなかった。その主体の地位は名前に従って安定していたわけではない。/また匿名・偽名で出版されるケースも多々あった。男性の名前を使う女性作家、その逆も然り(女性作家のジャンルで売り上げを伸ばすため)。/研究初期の被害者としての女性作家のようなイメージは相対化されなければならないにしても、女性作家の記号的プレゼンスが低かったのは事実。/女性作者というものが生物学的に決定されているという見方(たとえばボーヴォワール)は、言説的・転覆的実践を考慮すると変更されうる。/女性作家の名前は 20 世紀を通して女性作家の指示記号(Designator)として確立されたが、70・80 年代のフェミニズムがやったように、創造性を身体性や繁殖性のようなメタファーで記述すべきではない。というのもまさに男性作家たちが生殖性(Generativität)言説によって「作品支配」を要求したから。生み出す(Zeugen undGebären)は古来、男の文学的産出性のメタファーだった。 → 文学研究にとって重要なのは、作家たちの性別の違いに関わらず、「性差の歴史(Geschichte der Geschlechter)」に取り組むべきだということ。
「作者の死」:
バルト:作者がテクストの背後に消えると彼が言うのは、あらゆるテクストを匿名なものとして読みたいというわけではなく、決定的な解釈審級としての作者をアンインストールするということ。その意味で作者は「意図を持って振る舞う共演者(Aktant)」だということになる。
フーコー:作者機能の分類から出発:1.法的・制度的な意味。2.歴史・文化に依存。3.言説における複雑な操作によってのみ確立される存在。4.Ego-Pluraliät によって特徴づけられる。 → この議論によると、作品は作者を持っておらず、むしろ作品は作者機能を介してある名前(作者名)に帰属させられ、この名前が今度は作者機能を請け負うことになる。
作者審級をアン・再インストールするというバルト=フーコー的なコンセプトの代わりになる考えはあるのか?Härtel の研究(2009)は、社会構造との関係における個々人(エージェンシー)の行為能力(Handlungskompetenz)を議論。いわゆる「家父長的権威」のようなものも、昇華・攻撃・断片化・集団化というモデルによって置き換えられる。
作者性研究における非対称性:作者の死/帰還に関する研究が多くの場合、無徴化された無性性(Geschlechtlosigkeit)や西洋の作家の男性性から出発する。それに対し、女性・ジェンダー学は女性作者の問題含みとなった構成に関心を寄せ、女性作家に焦点を当てる。
是非とも必要(Desiderat)なのは、たとえば作者性と平等な夫婦関係とが詩学的・隠喩学的にどのように噛み合っているかを研究すること。またたしかに男性性はヘゲモニアルなものと考えられるが、そのさまざまな周縁化を考慮すると、男性性も新たに捉えなおされる。/さらに検討されるべきは、ジェンダー及び作者性研究のさまざまな観点を詩学的な観点と結び付けること。たとえば男性性の危機は、特に 2 次大戦以降、ドイツ社会の再男性性化現象と特徴づけられてきた。そこで考慮すべきは、危機に陥ったアイデンティティだけでなく、その逆の安定したアイデンティティというものが言説を支配していたし、今もしているということ。/また作者性それ自体が構造主義・言説分析的批判の中で危機にある。/トポス化した危機にある男性/被害者としての女性:この危機の物語論的、またエピステーメー的なポテンシャルを研究すると、性に特有の言説とこのナラティヴとの興味深い連関が明らかになる。(黙示録的・終末論的イメージや古今の神話が危機の物語装置として用いられている。)
両性具有的作者性:ロマン派に遡って分かるのは、作者性は書き手の実際の性別に結び付いている必要はないということ。むしろ作者性は両性具有とは、相互に依存したセルフデザインである。これを論じたのが Horstkotte のブレンターノ研究(2011):「私が書くとき、私は何者か?」というロマン派的な問いは、伝記的には答えられない。女性の声/男性の文字の融合というファンタジーはブレンターノにとって重要な定数である。(→作者性の間テクスト的・詩学的次元の研究へ)
クリステヴァの間テクスト性(1972)概念とその功罪:テクスト生成にとって決定的な単位としての作者を相対化。彼女にとってテクストは間主観的というより間テクスト的なコミュニケーションと理解される。(論証に難ありとして批判もされる。)この概念の登場により、文学研究においてテクストとそのテクスト性とが焦点になり、またテクスト外の作者が持っていた解釈にとっての重要性を失うことになる。/この概念は男女の性差を強調するか、あるいは両者の平等性を強調するかに応じて拒否されもすれば、歓迎されもする。特にインターネット環境における新しい作者性という点では歓迎される。/ネット上での著作権に関する問題、マイノリティの承認問題と絡んでホットな話題である。