Sigrid Nieberle: Gender Studies und Literatur. Eine Einführung.
V. Gattung, Genus, Genre
担当:端秀
【導入】
«Genus の語源» S.76
「ジェンダー(Gender)」と「ジャンル(Genre)」の両概念の語源、ラテン語の「ゲヌス(genus)」に遡る=文法上の性を示す語
「繋ぎ合わされたもの」を意味する中高ドイツ語である「gatunge(新高ドイツ語の Gattung:ガトゥング/様式・属)」も、「genus」の翻訳として挙げられる
・「子供(Kind)」も、語源的には「genus」と同系
・「夫(gate/Gatte)も」、中高ドイツ語の辞書では「ある者に等しい者」あるいは「彼に対して、同じように振る舞う者」として記されている
→ 複数の人々、あるいは複数の物事を扱うという点で、共通したメルクマールを備える
認識論的な観点からは、あるグループに属する事物を別のグループから区別するはずのメルクマールの決定が、学術的・体系的にいかに変化してきたのかという点が興味深い
・Gattung(属・様式)が、生物学においても文学においても中心的な役割を果たしてきたことは偶然ではない。
⇨ 概念上の共通のルーツと、両学問領域の記述とカテゴリー化に対する共通の認識論的関心を通じて、再構成することが可能
«形式の多様性» SS.76-77
文学的形式の多様性の探究とカテゴリー化(伝統的な大形式 ―叙事詩、叙情詩、戯曲―であれ、より細かな細分化を可能にするジャンルであれ)は、文学研究の最も重要な作業領域
近年では、とりわけ Gattung(様式)の境界や定義に対する批判的な検討が焦点に
特定のジャンルが特定のジェンダー配置と結びついていることは、読者にとっては日常的な受容体験
・z.B. 冒険文学-男性、メロドラマ小説-女性
・z.B. ポピュラー・カルチャー、ジャンルとジェンダーの類推はきわめて生産的であることが証明されてきた
この関連がどのような種類のものであるのか、また、それがいかに歴史的、社会的、文化的に異なって現れうるのかという問いは、非常に複雑な問い
・←その際、無条件の類推形成から出発すべきはない。むしろ、特定の歴史・詩的な配置を解明することが有意義(Fleig/Meise 2005)
近代と後期近代においては、「ジャンル特有の書き方」が形成されており、それによってテクスト内の欲望構造と象徴構造は制御されていた。句読法、文法、修辞法にいたるまで、正確に記述され得た:「サイコグラム(心読)分析」(Benstock 1991)。← 男性秩序の中における転覆的な干渉信号としての女性性にまだ焦点を絞っていた。↔その後の研究関心は、さらなるジェンダー的側面へ。その過程で、文学的形式とジェンダーの関連性は結果ではなく、むしろテクスト生成の前提として評価されるべきだと明らかに。
«ジャンルを受容する» S.77
作者性は、複雑な言説運用として、とりわけ、特定の様式やジャンルの反復的な出版を通して構成される。(4 章)
ある特定のジャンルにおいて成功するということは、同時にその作者のジェンダーに関する特定のイメージに結びついている
・z.B. 「pilchern:現実の困難を無視し、平和な世界へと逃避する」: 女性作家ピルヒャー自身とそのメロドラマ小説、映画化)
・←様式/ジャンルに関するジェンダーというカテゴリーは、文学テクストの生産だけでなく、流通や受容にとっても重要であることを示す (z.B. Marlene Streeruwitz)
ジェンダーとジャンルは、テクスト内の「秩序パターン (Ordnungsmuster)」であるだけでなく「認識モデル (Wahrnehmungsmodelle)」(Hof in Hof/ Rohr 2008)
・テクストは事前の設定や予備知識に基づいて受容され、それに応じた自動化された型(Folien)に当てはめられる
・観客はジャンルの規定を最大限に満たしつつも、特定の興味深い点においてそこから逸脱している作品を期待
・↔ ジャンル的期待とジェンダー・ステレオタイプの全てを満たすと、プロットやストーリーはあまりに予測可能になり、作品への関心は低下
・↔ 逆に、ある作品があらゆる既知の受容期待からあまりに大きく逸脱すると、観客は構成要素の大部分を理解することも分類することもできなくなり、方向喪失、混乱、受容的な注意力の減退へ;cf. 『事件現場』
«ハイブリッドなカテゴリーとしてのジャンル» S.78
このような受容モデルは、その循環構造において、ジャンルというものが、逆説的にもジャンルの逸脱を通じて、自らを構成しなければならないという事態を招く
・→ジャンルはハイブリッドで拡散的なカテゴリー(映画学)
文学でも、文学的形式をもはや固定的に描き出すのではなく、むしろその逸脱、断絶、そしてハイブリッド化した諸側面において捉えようとする試み
・→ 分析を困難に。造形的なメルクマールの固定的な集積として提示されるような、非歴史的で普遍妥当なジャンルのモデルは存在し得ないことに。
⇨ ジャンルとは、それ自体の変容の中からかろうじて抽出されうるわずかなものであり、かつ、絶えざる動的な変化のプロセスを免れないもの:ジェンダーとジャンルは相互依存。
・「ジェンダー配置はジャンルによって形成される」「ジェンダー配置はジャンルを構成する」(Liebrand/Steiner 2004, 8)
⇨ ジャンルとジェンダー(Geschlecht)に規定されている法則(Gesetz)そのものが、分析の批判的な眼差しの対象に
・ジャンルとジェンダー(Geschlecht)のパフォーマティビティへと議論を繋げることは、テクスト分析において、ジェンダーとジャンル/様式 (Gattung)の相互依存的かつ修辞的構成の「条件」を問うことを意味する(Babka in Hof/Rohr 2008)
・←これによって、再びジェンダーとジャンルの所与性(Vorgängigkeit)が疑われる
・:両者は、まさにその文学的あるいは映画的パフォーマンスの瞬間に構成される
・:これは、作者のジェンダーがジャンルに影響を与えるだけでなく、作者性がジェンダー化されている中では、テクストのジャンルや様式を通じてはじめてアクセス可能になるということを意味している
研究においては、このアプローチは、自伝的文学に関する研究において顕著に示されてきた
・語り手と主人公が通常は同一であるかのように見えるエゴ・ドキュメントは、その多くが、あらかじめ規定された女性的あるいは男性的作者性というフェミニズム的な前提のもとで調査されてきた ↔ しかし、むしろそれによって、歴史的な著者たちのジェンダーが繰り返し再固定されてきた
⇨不安定なジェンダー構築が支配的であるにもかかわらず、ジェンダーとジャンルのパフォーマンスにおいてそれらが果たしている重要な機能については、いまだ詳細に把握・記述されていない
・→以下の節では、ジェンダー研究の観点から、自伝、書簡、旅行記、を例に挙げて解説
«テクストの中の自我:エゴ・ドキュメント»
エゴ・ドキュメント:アイデンティティとジェンダー差異の研究にとって、とりわけ示唆に富む
ドイツ歴史学:自己証言(Selbstzeugnis)の概念が好まれる ↔ テクスト分析:ジャンル固有の境界設定の問題はあるものの、構成的な人称代名詞である「私(自我・自己)(Ich)」をジャンル名の中にも反映しているという点で「エゴ・ドキュメント」という語が適切
・z.B. 自伝、書簡、旅行記、日記:作者本人と同一であると思しき「私」によって語られる
・z.B. ジャン・パウル「自らの生の記述 (Selberlebensbeschreibung)」、スティーヴン・グリーンブラット「自己ファッション化(self fashioning)」:自己を「発明」するオートフィクション的なテクスト
・特に興味深い事例:z.B. ゲルトルード・シュタイン『アリス・B・トクラスの自伝』
・特に興味深い事例:z.B. ハンナ・アーレント『ラヘル・ヴァルンハーゲン:あるドイツ・ユダヤ人女性の生涯(ロマン派の時代から)』
・× 主体的・共感的な作者性モデル、○「ゴーストライティング」のモデル
テクストが特定の提示戦略の結果として「真正性(オースセンティティ)」を生成しようとする試みであると読解できる場合、それは常に「演出された結果」の問題となる(Hof/Rohr 2008)
・→ パラテクストやコンテクストがこうした戦略を支えているかどうかが決定的
・z.B. 特定のジャンルを想起させる副題 ―遺稿集、回想録、追憶、日記、記録など
文学研究の視点からは、自伝的な語りにおける言語的反復構造(パフォーマティビティ)と関連した、様式(Gattung)としての画一性に注目(Smith/Watson 2010)
エゴ・ドキュメントを分析する際には、テクスト内に行為する主体としての「自己」を立ち上げ、ジャンルとジェンダーを妥当な関係におく役割を果たす、特定の修辞的トポスやトロープを探索することが可能(Babka 2002; Sschabacher 2007)
«伝記と決定論» S.79
自己開示(Selbstauskunft):伝統的にジェンダー特有の受容態度が決定的な役割を果たしてきた、今も果たしている
・男性著者のエゴ・ドキュメント:著者の作品に関連づけられ、解釈の源泉として利用されてきた
↔ 女性著者のエゴ・ドキュメント(特に 18・19C):看過されてきた(Keck/Günter 2001)
女性著者のテクストの消失点は女性としての「伝記」に置かれる
・伝記主義的なジェンダー決定論という循環論法
・↔日常を詩化するという意味での芸術と生の相互浸透を目指したのは、ロマン派の女性のみではない
⇨女性および男性著者のテクストを、ドキュメンタリー的・真正的なものという機能的な過負荷から解放し、等しく当時の政治的、倫理的、美学的言説への文学的な寄与として読み解くことは、極めて一貫した論理的態度
・→以下では、自伝、書簡、旅行記というジャンル(=1700-1900 の特定の歴史と言説の中に、全盛期を見出すことができるジャンル)の詩学的な機能について例示的に扱う
«自伝的主体構成» SS.80-81
自伝的に書くことは主体を構成する方法:書く主体は、記述される対象としての自己の中に自らを映し出し、それによって読者の前には二重の対峙相手が出現
① 語りという物語風の行為の中に現れるパフォーマティヴな「私」
②提示のレベルにおいて、登場人物として現れる「私」
ジェンダーの視点からのアプローチ
・女性による自伝的テクストを「素朴で模倣的な」書き方というステレオタイプから解放、狭いキャノンの境界を越えた自伝文学へと眼を向けることに集中(Holdenried 1995;Niethammer 2000)
・伝統的にゲーテ『我が人生より・詩と真実』に由来する、男性中心主義的で自律的美学に基づく様式概念の問い直し
・→ 自伝文学を 18C の「発明」ではなく、一つの「大衆現象」として記述することを課題に(Kormann 2004)
・:15C 以来の広範な実践
z.B. 17C には、宗教的な動機による生の記述。男女の著者が等しく精力的に参加。バロック文学やその男性性のイメージでは、歴史的な生の記述とフィクション的な記述との境界線が曖昧
・マルガレーテ・エリザベート・ミロウの回想録『夫と子供たちのための遺産』
・「作品のない女性作家」:著者の他のフィクション作品を解釈するための材料として利用できないからこそ、オルタナティブな読解可能性。宗教的確信に満ちた、「嘆くもの(Klagende)」としての「私」
«コーパス研究» S.81
一つの自伝的史料だけでなく、より大きなコーパスに着目すると、ジェンダー特有の分析は容易になると同時に、より困難にも
・z.B. グライクスナー(2005):敬虔主義の家族アーカイブ。近代的な「自己構成」というテーゼと信仰言説。主体が書くことを通じて神という審判者に対して自己を主張しようとしているのか、あるいは、この執筆実験こそが、人間の意志的な服従のための修養として評価されるべきなのか。
⇨ 単なるジェンダー差異よりも、特定のグループへの帰属やその「自己証言」の実践を精密に分析することのほうが重要
ジェンダー差異は、トランスカルチュラル、宗教性、⺠族的・社会的出自といった側面によって有意義に補完され、それらの言説的ネットワークを問い直すことを可能に
⇨ 自伝的な実践の中で自らを発明したという「⻄洋的な個人」に関する歴史叙述は、ジェンダーというカテゴリーを後退させることなく、今後さらに問い直される必要
«書簡の換喩的性質» SS.81-82
書簡:⻑きにわたり、文学研究では主に伝記的な史料として扱われてきた
・↔ 詩学的・歴史記述的価値が実際に認識されたのは 20C 後半
・対話的なジャンル:自己と対峙相手を同時に構成。書簡による宛先指定は、メディアによって組織された地形的な距離の克服、ならびにコミュニケーション志向の換喩として機能
・文字、あるいは書かれたものは「全体に代わる一部」、書いた本人に代わって送られるもの
・Einsch. 死者から生者へのフィクションとしての手紙、ヨーロッパ書簡体小説
執筆と読解の間の特定のフェーズのズレに応じて、「不在の現前(あるいはその逆)」を組織
・:18C に考案された「身体の不在」が文字の交通、と文字による交通を可能に
⇨書簡というジャンルは、その身体的な参照性ゆえに、ジェンダー特有の含意をもつメディア
・手紙は「直接的な対話の代用」であり、その感受性豊かで親密な書き方は女性性と結び付けられてきた(ゲラート)
「友情の崇拝」(グライム)は、定期的な文通によってのみ実現可能、女性的なジェンダー特性に強く依拠して構想されていた:英雄的な男同士の友情とは対照的に、ここで恋人同士の比較を通じて呼び出されている感受性のバリエーションは、女同士の友情やシスターフッドのコミュニケーション・モデルほど永続的には定着しなかった
官僚的様式に対抗するエゴ・ドキュメントとしての書簡の革新的なポテンシャル
・:語表現における「自然さ」は「自然化の言説」の効果として現れる
・← 17C 以来、教育や「書簡作成手引書」の利用を通じて確立。感受性の伝統を超えて、書簡は個人的なメディアとしてだけでなく、歴史的・文化的に多層的な政治的メディアとしても浮上
換喩的な距離があるからこそ、女性性を書簡という身体の中に書き込み、特定のジェンダー側面(感受性、自発性、自然さ、家庭性)へと固定することが可能であり、必要であった
⇨だからこそ、19C-20C に、書簡は女性たちによって、こうした慣習に抗って書き、メディアを介した不在を利用して、公的・政治的空間へと進出するためのチャンスとして理解された。それは、メディアを介した不在という助けを借りつつ、外交的なものから急進的なものまで、極めて多様な執筆スタイルを駆使して行われた
«テクストはあるが、作品集はない» SS.82-83
ロマン派の書簡は、サロン主宰女性としての儚い名声への架け橋:伝統的、作品政治的な意味での作者性を確立することはできない
z.B. ベッティーナ・フォン・アルニム:挿入的な書簡体小説。素朴な真正性の理解を超えたエゴ・ドキュメントとして理解されるべき
z.B.ラーヘル・ファルンハーゲン:溢れんばかりの思索への意欲、ジャンルの多様性、言語遊び。詩だけでなく、短い物語、アフォリズム、格言、日記のような続き物の手紙、エッセイのような一節の統合
⇨家族的、友愛的、教育的なモデルに基づく、考えうるあらゆるジェンダー構成が文学的に演出され、文通相手の間で試行される
・← 書き手本人の生物学的性とは全く無関係に行われる
エゴ・マスカレード(自己の仮面劇):ジャンルの確信とゲヌス(Genus)の確信の不安定化。詩的な快楽、説得力、演出された経験のメディアとしての書簡。テクストの「背後」に何かが隠されているのか、隠された本来の意味の層としてそれを取り出すべきなのかについて、読者を絶えず不安な状態に
z.B. ベッティーナ・フォン・アルニム『ギュンデローデ』:プラトン、ディオン
z.B. メロウの往復書簡:「ブロンドの少年」の男装、スカーフ
«旅行記における流動化» SS.84-85
旅行記というジャンル:他のエゴ・ドキュメント同様に非歴史的に固定することはできない
・↔ 不在と現前の弁証法的な組織化、および文学的な主体構成の可能性に基づく。そこにエゴ(自我)の流動化(Mobilisierun)という重要な契機も:まなざしの方向性と配置を規定
⇨書くという行為の前に、主体は未知の場所を訪れ、通常は文化地理学的な差異について語る
・自己地理学的な書き物(autogeographisches Schreiben):故郷へ残った人々への手紙という形式であると同時に、特定の人生の段階についての自己証言
・← 自伝的な書き物や書簡とのジャンルの境界が流動的
旅する女性:旅行記ジャンルにおける女性の過小評価
↔ 広範な書誌調査の結果、18-19C のヨーロッパにおいて旅する女性は決して稀ではなかった
・⇨ 旅する女性の出発を解放的な旅立ちとする安易な寓意化、異邦に対する特有の女性的なまなざしというテーゼへの批判
・→ 女性のテクストの中にも、ヨーロッパ的なエキゾチズムのクリシェの存在
・→ 女性から女性へのまなざしを、共感として語るには、非性的なものとして扱うヘテロノーマティブな眼差しの秩序が前提とされている
«男性的・女性的終止法とは何か?» SS.85-86
抒情詩に関する文学研究における慣習:異なる意味論的レベルにおけるジェンダー(Genus)とジャンル(Genus)を短絡的に結びつける慣例
抒情詩分析における、「男性的」、「女性的」終止法:アクセントのある音節-男性的/アクセントのない音節-女性的 ←専門用語上宿命論、Aber warum
古フランス語の詩と音節に基づく韻律における慣例に由来:もともとは実際の「文法上の性」と連動
・← 女性名詞や女性形形容詞が行末にくると最後に音節にアクセントがなく、男性名詞だとアクセントがあった
→ 中世の韻律学の基礎知識としては意味があるが、近現代詩の分析実践においては、ほとんど妥当性なし
・← 古フランス語の音節数を数える韻律と、オピッツ以降のドイツ語のアクセントに基づく韻律は、そもそもシステムが異なり対応づけることができない
⇨ かつて用語の根拠となっていた実際の「文法上の性(Genera)」は、ドイツ語の詩の分析においてはもはや意味をもたなくなった。その結果、詩行の末尾にくるいかなる品詞の終止法も、「男性的」「女性的」と分類されるように
⇨ 終止法のジェンダー(Genus)の脱意味化/再意味化されて、近代的なジェンダー特性(Geschlechtscharaktere)概念に結び付けられた ←この語用論が批判的に問われることはなかった
女性性と男性性はここでは言説における否定にすぎない:「アクセントの有/無」が「男性的/女性的」のアナロジーに
・← まるで、「女性的」があることが依然として「男性的」の否定であるように;cf. 啓蒙以前のワンセックス・モデル
・⇨ 文法上のジェンダー(Genus)の代わりに近代のジェンダリング(Gendering)の意味論に:cf. 19 世紀音楽理論における同様の現象
「男性的」/「女性的」という概念は「強調」/「非強調」よりも決して正確ではない
⇨ むしろ、それらの概念は、ジェンダー特性を含意する付加を蓄積することを可能にしてしまう
«抒情詩のパフォーマンス» S.86
抒情詩テクストにおいて、聴覚的な構成は、単なる美学的な選択ではなく、形式(Gattung)にとっては構成要素:連関をもたらすもの
→ したがって、抒情詩のテクスト分析の慣習において、文法上の性(Genus)の残滓が保持されているのは決して偶然ではない
中世ジャンル研究において、役割詩の重要性は明白。近現代の文学部門よりも集中的に抒情詩ジャンルの研究を行なってきた。
・ → 登場人物や話り手のジェンダー化(Gendering)は、テクスト・パフォーマンスの結果であることが明らかになっている。
・ ← ジャンルこそがジェンダーとその巧妙な変奏を決定するのであり、その逆ではないから
ジェンダーというカテゴリーは、ジャンルと同様に「固定された境界ではなく、人物造形、愛やカップルのモデル、振る舞いのパターン、語り口、そして感情のための接続可能性を切り拓かれた構造を形成している
抒情詩が表出性のジャンルであるとみなされていることは、このことと矛盾するものではない。
«誰が話すか?» SS.86-87
詩の聴覚的側面がジャンルを規定するならば、理論的にはテクストの語り手との関連性を導き出すことができるはず
抒情詩は、他のあらゆる様式とジャンルと同様に、著者性とテクストに内在する「語り手としての私(Ich-Instanz)」は二つの異なる概念であるということが重要。分析においては、両者は峻別されるべき。
伝記的な短絡は慎重に避け、推測をテクストに投影しないことが常に重要
「抒情詩の<私>」:20 世紀初頭の概念、著者とテクストの関係を議論するためのもの
・→ 主に二つの理解
・ ①表象に基づく理解:発話主体(Aussagesubjekt)に由来、その主体がテクスト内で私と同一視できる/できないかを問うアプローチ
・②パフォーマンスに基づく理解:この「私」を、そのテクストを「発話する」、あらゆる「実際に語る私」のための「プレースホルダー」であると認識するアプローチ
→ 一方で、著者性に関する議論、他方で、抒情詩のナラティブの質や考えうる様式のハイブリッド化をめぐる議論へ
⇨ 理論的議論の一致した結論:詩における著者性と語り機能は常に峻別して設定されている
← 語り機能は、受容やあらゆる特定の文脈化において、読者によって能動的に割り当てられるもの
ジェンダー・スタディーズの視点の欠落:詩がどの程度まで著者のジェンダー・アイデンティティと結びつけられ得るかという点や、その決定に応じて、解釈結果が変えられるのかという観点は、現在の抒情詩理論では明示的に扱われてない
理論的議論においては、再び der Autor/ der Sprecher という総称的男性性が支配的に
↔1910 年にマルガレーテ・ズースマンが提唱した「抒情詩の<私>」という概念は、ちょうどこの文法上の対立を避け、より大きな開かれた可能性を提供しうるものであった
解釈要素としてのジェンダー:ジェンダーは他の多くの要因と並んで解釈結果に影響を与えるもの
⇨ しかし、ジェンダーを解釈手段として考慮することが、ジェンダー・アイデンティティーを固定化したり、詩の発話を著者の発話と同一視したりするような結果を招いてはならない
«例:アイデンティティの変容のトポス » SS.87-88
カロリーネ・フォン・ギュンダーローデからグンダ・ブレンターノへの書簡(1801):性転換(Geschlechterwechsel)の願い、戦場に赴きそこで死ぬという「非女性的」な願い、「なぜ私は男ではないのか」という嘆き。
⇨ 「うまくいっている女性のジェンダー・アイデンティティ」とは、安定した自己同一化に基づいており、「不和(unein)」ではないことであるということが逆説的に示されている:cf. プラトン
⇨ 音声的・文字的な一貫性:W を頭文字とする頭韻。W は M を逆さまにした文字であり、個々のアルファベットの文字自体が、ジェンダー差異とその読解を書き進めている
この文学的側面は、「書き手としての私」を提示する「文学的な自己演出」の場を形作る
↔ しかし、これが手紙という「明らかなエゴ・ドキュメント」であるため、通常であれば詩のように音声的・文学的・意味論的な一貫性を詳細に分析されることはない
ギュンダーローデの自殺 (1806)、たちまち「伝記的な解釈の枠組み」が持ち出され、この女性作家の破滅が「自身のジェンダー・アイデンティティに対する疑念」と安易に結びつけられてしまう危険性がある
«例:アネッテ・フォン・ドロステ=ヒュルスホフ『塔にて』 » SS.88-90
ドロステ=ヒュルスホフの詩 『塔にて』(1842):アイデンティティ変容のトポス、男性になりたいという願望の声(”möchte“, “wär“)
伝記的解釈:女性的原理と男性的原理の葛藤、作者自身の思考や感情への深い洞察を与えるもの(1844 年、書評)。決められた女性の役割に反抗し、別のアイデンティティを夢見る女性の解放的な自己演出(1970 年代フェミニズム)。「ドイツ語で最初にして最高のフェミニスト誌」(クリューガー)
↔ しかし詩の中の「髪」が「女性の髪」とは一言も言及されていない
1840 年、ドロステはすでに 45 歳、高度な教養と人生経験
← それにもかかわらず、伝記的・フェミニスト的解釈は、この詩を彼女の「素朴な表現」として読み、彼女を「小さな女の子」の位置へと貶める
⇨ このような解釈は、女性作家を「素朴で模倣的な」表現の枠に固定化し、詩がもつ美的ポテンシャルやメタ詩的な省察の側面を完全に無視
⇨ 著者を一人の「抒情詩人」として正当に評価する代わりに、その芸術性は論じられることすらなく、単なるエゴ・ドキュメント的な自己表現へと曲解されてしまう。
«メタ詩的なジェンダー言説» SS.90-91
ギュンデローデの書簡:テクスト外部の読者へ向けられたもの
↔ドロステの詩:「役割詩」の可能性。読者に対してテクスト外部と内部の発話状況を区別することを求める
・テクスト外部:読者層への呼びかけ
・テクスト内:最初は「若者(Geselle/Fant)」への呼びかけ。詩が展開するに連れて、「若者(Geselle/Fant)」とは鏡の像であることが明らかに。「私」は自身について語ると同時に、自身と対話している
・「塔にて」という場:周囲を見渡し、状況を省察できる場
・⇨想像上の自己拡張(imaginative Selbsterweiterung):文学の機能を活かし、読者に対して想像力による自己拡張の可能性を提示。可能なアイデンティティに関する「私」の語りによって、テクスト内外の発話状況が一致し、「私」と読者は同時にこの自己拡張を実践する
→ メタ詩としての読解:上記の観察は、この詩を「詩についての詩」として読むことを促す
・①神話的・寓意的な暗示:詩人を象徴するオルフェウスを引き裂いた神話上の女性像「マイナス」への言及
・②修辞的手段の実験とパフォーマティビティ:直喩と隠喩を交互に用いた自己拡張のシミュレーション、詩的次元とメタ詩的次元のパフォーマティブな統一体
・③「密かに解かれた」髪:女性像の暗示ではなく、むしろ他のアイデンティティ(神話的、子供、動物、男性)が想像されている
←ロマン派の荒々しい髪は元々男性のもの
→ この詩を、ジェンダーの視点から他のメタ詩的抒情詩の文脈で新たに議論すべき
⇨ これにより、女性詩人の位置を文学詩的に厳密に定義づけるというフェミニズムの課題にも応えることができる
エゴ・ドキュメントの定義と概念の拡大(3-5頁)
「エゴ・ドキュメント」という用語:1958年にオランダの歴史家シャーク・プレッサー[1]が考案
→ 1980年代にオランダの歴史家ルドルフ・デッカーが、ジャンルの具体化:自叙伝や回想録、個人的な日記、旅行記など
→ 1996年にヴィンフリート・シュルツェによって概念が拡大、自発的な手記にとどまらず、法廷や異端審問の調書といった権力関係のなかで「強いられた自己の証言」も包含するように
⇨ 客観的な事実の記録というよりも、生きた経験を解釈し意味を与える創造的なプロセスとして位置づけられる
歴史学におけるエゴ・ドキュメント再評価の背景(6-9 頁)
19 世紀の実証史学:エゴ・ドキュメントの客観性・信憑性が疑われることも(ランケ)
1970 年代:「心性史」(アナール学派)や、「ミクロストリア」(カルロ・ギンズブルグ)の潮流によって再評価の機運
文化論的転回以降:「事実」から「主観性の構築」へ・言語の拘束性を強調するポスト構造主義に対し、フェミニズムやポストコロニアリズムに刺激された「主体の復権」が生じた →エゴ・ドキュメントは客観的な事実の記録というよりも、個人が語り(ナラティヴ)や「実践」を通じて「経験」を解釈し、動機、記憶、感情といった「主観性」を能動的に構築する創造的なプロセスとして捉え直されるように。
現代:権力や文化の中心から排除されてきた人々の「内なる声」や内的葛藤や矛盾を復元し、個人のアイデンティティがいかに構築されたかを明らかにする手段として重視
3. アーカイブの権力性と「排除された声」の復元(9頁)
公的アーカイブにおいて、社会的に弱い立場にある人々の史料は排除されやすい傾向。歴史学の領域では、フェミニスト歴史家らが、文書館において社会的に下層に属する女性の史料が欠落している「史料の不均等性」を指摘
[1]:プレッサーはドイツ軍占領下の潜伏生活を生き延びたユダヤ人。彼は1950年に新設された国立オランダ戦史財団の委員に選出され、ドイツ占領下のユダヤ人の史料の収集にあたり、その過程では数百名におよぶ生存者のインタヴューなども行なった。その成果は、1965 年刊行『風のなかの灰』に結実することになる。プレッサーが主たる史料として用いたエゴ・ドキュメントの定義とは、「利用者が、「私」であるとか、時に (カエサルやヘンリー・アダムズのような) 「彼」という表現に直面することになる歴史資料 〔三人称の形で自己を語るような文体〕 」というものであったとされる。⻑谷川貴彦(編)『エゴ・ドキュメントの歴史学』岩波書店、2020 年、4-5頁。
⻑谷川貴彦(編)『エゴ・ドキュメントの歴史学』岩波書店、2020 年。