2025.10.01 「知識の宝箱」ページを更新しました。
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【目次】(1)下寺尾官衙遺跡 (2)南湖院(なんこいん)(3)烏帽子岩 (4)純水館 (5)旧相模川橋脚 (6)八雲神社(7)大岡祭 (8)浜降祭 (9)熊野神社(小和田) (10)熊野神社(高田) (11)高砂緑地 (12)西方貝塚 (13)懐島館址、懐島山の碑(えな塚)(14)弁慶塚、御霊神社 (15)住吉神社 (16)団十郎山の碑 (17)藤間家 (18)腰掛神社 (19)国木田独歩 (20)勘重郎堀 (21)宝蔵寺 (22)来迎寺
(1)下寺尾官衙遺跡
小出川を望む標高約13mの相模原台地頂部に位置する相模国高座郡家(郡衙)と考えられる下寺尾官衙遺跡(西方遺跡)と台地の南裾に位置する下寺尾廃寺跡(七堂伽藍跡)からなります。遺跡の西側では8世紀後半から9世紀前半にかけての船着き場と祭祀場が検出され、寺跡の南東でも祭祀場が検出されているなど、高座郡家に関連する施設が、相模原台地を中心とする比較的狭い範囲に集中していることが確認されています。
(2)南湖院(なんこいん)
明治32(1899)年に高田畊安によって開設されたサナトリウム(結核療養所)。最盛期には5万坪の敷地に14の病舎とさまざまな施設が点在し「東洋一のサナトリウム」と謳われました。サナトリウムの中でも南湖院は規模や設備において際立った存在で、在院中の死亡数も低く、一流の医療機関関係者が医学生を連れて視察に訪れています。南湖院の発展は、明治31(1898)年の茅ケ崎駅の開業とともに、まちづくりに大きな影響を与えました。
(3)烏帽子岩
湘南を歌った歌の中に数多く登場する、茅ヶ崎のシンボル「えぼし岩」。 正式名称は「姥島(うばじま)」といいます。茅ヶ崎海岸の沖合約1.4kmにあり、高さは約14.6mです。 えぼし岩の地層は古く、1,200万年前と調査により判明しております。地層は砂岩層と火山層が縞をなしていて、海底に堆積した地層が隆起したものが波で形が削られて、現在の形になったといわれています。昔のえぼし岩は現在のものより先端部分がより烏帽子らしく西へ長く尾を引いていました。しかし、戦後に米軍の射撃訓練の標的となり、先端部分は消失しました。その際に町のシンボルを守るための市民運動が起き、訓練は中止されました。 左の写真は、1930年代と現在の写真です。先端部分のほかに昔と比べてどこが変わったのか比べて見てみてはいかがでしょうか。ラチエン通りから海岸に出てくると防砂林の間にえぼし岩はとても大きく姿を現します。でも防砂林の通路を抜けて砂浜に出ると逆に小さくなってしまいます。
(4)純水館
「純水館」は1917(大正6)年から1935(昭和10)年まで、現在リニューアルオープンを控えるヤマダ電機付近にあった製糸工場です。 長野県で製糸工場を運営していた実業家の小山房全(ふさもち)が、病気療養のため南湖院に入院したことを機に工場を建設。面積は1万2000坪。最新器械204窯を備え、約350人体制で生産しました。南湖院の医師を工場医に迎え、従業員の健康管理にも注力。1922(大正11)年には米国の視察団が訪れ、翌年にニューヨークの国際絹織物展覧会で紹介されるなどその品質は海外からも高く評価されていたものの、関東大震災や世界恐慌の影響で閉鎖されました。
(5)旧相模川橋脚
旧相模川橋脚は、大正12(1923)年9月1日の関東大震災と翌年1月の余震によって、水田に橋杭が出現した全国的にもまれな遺跡です。当時の歴史学者沼田頼輔によって、鎌倉時代の建久9(1198)年に源頼朝の重臣稲毛重成が亡き妻の供養のために架けた橋の橋脚と考証され、大正15(1926)年に国の史跡に指定されました。 平成13年から実施された保存整備に伴う調査では、橋脚についての詳細が確認された他、新たに橋脚の北側から関連する大きな土留め遺構も発見され、19年2月6日に追加指定を受けています。 また、地震によって生じた液状化現象の痕跡も確認された他、橋脚の出現状況は関東大震災の地震状況を残す遺産としても評価され、24年度、史跡指定に加え国の天然記念物としての指定を受けることになりました。液状化現象としては全国初の国指定になります。 旧相模川橋脚は、歴史遺産(史跡)としての重要性に加え、関東大震災の地震状況を示す天然記念物としての面を有しており、本市の重要な地域遺産として高く評価されます。
(6)八雲神社
八雲神社(やくもじんじゃ)は、牛頭天王・スサノオを祭神とする祇園信仰の神社。他に祇園信仰に基づく神社名称としては、八坂神社(八阪神社・弥栄神社)、祇園神社、広峯神社、天王神社、須賀神社、素盞嗚神社があり、時代や資料によって通用される。社名は日本神話においてスサノオが詠んだ歌「八雲立つ出雲八重垣妻籠に八重垣作るその八重垣を」の八雲に因むものです。総本社は京都の八坂神社である。他のスサノオを祀る神社と同様、江戸時代までは「牛頭天王社」などと称していたが、明治の神仏分離により「牛頭天王」という社号が禁止されたため、祭神を牛頭天王と習合していたスサノオに変え、社名もスサノオに因んだものに変更したものである。
(7)大岡祭
大岡越前祭の由来において、茅ケ崎市堤にある浄見寺と大岡越前守忠相公の関係は欠かせないものとなっています。
江戸時代中期の有能な官僚であった大岡越前守忠相公を輩出した大岡家は、茅ヶ崎の堤村を領地として治めていました。2代当主忠政が初代忠勝の追善のために建立したのが、茅ヶ崎市北部にある浄見寺です。浄見寺は大岡家代々の菩提寺で、元和元年(1615年)にこの寺に改葬された初代忠勝の墓石をはじめとして、13代まで一族累代の墓碑58基が整然と並んでいます。5代当主である忠相公は1751年(宝暦元年)に75歳で亡くなっていますが、数々の功績に対して1912年(大正元年)従四位が贈られ、翌大正2年には忠相公の墓前で贈位祭が行われ、これが大岡越前祭の始まりとなりました。 その後、大岡越前祭は関東大震災や戦争などで中断していましたが、昭和31年に復活し、茅ヶ崎の春祭りとして墓前法要、越前行列など様々な催しが行われ、市内外を問わず親しまれています。
(8)浜降祭
天保9年(1838)、寒川神社の神輿が、例年春に行われる国府祭(こうのまち)【大磯町国府本郷】に渡御した帰途、相模川の渡し場で寒川の氏子と地元の氏子が争いを起こし、川に落ちて行方不明になってしまいました。
その数日後、南湖の網元である孫七さんが漁の最中にこのご神体を発見し、寒川神社に届けたことを契機に、毎年同神社の神輿がそのお礼のため南湖の浜に赴き、「禊(みそぎ)」をするようになったと言い伝えられています。
一方、江戸時代後期に幕府がまとめた『新編相模国風土記稿』によると、鶴嶺八幡宮では寒川神社のお礼参りよりずっと古い時代から、心身の罪やけがれを清める「みぞぎ」の神事を行うため、毎年浜辺への渡御が行われていたとあります。
(9)熊野神社(小和田)
当社は、文部省神社明細帳に登録されており、創立不詳なるも元禄元年再建の古棟札あり、相洲大庭荘小和田村鎮守と記されている。後、弘化四年、明治十七年、大正十三年再築の棟札及び熊野三社権現社号の古札あり。 御祭神 ( 熊野久須毘大神、熊野夫須美大神、速玉男大神、家津御子大神) 熊野大神 熊野大神の御神徳は、海上守護、魚漁、交通安全、殖産、興業、厄難除、家内安全等多くの御利益がある。 尚、摂社、姥母神社は、安産の神、病気平癒の神と尊ばれてきた。 古来、産土神社は住民と密接な神縁があり、初宮詣、七五三祝、結婚、喜寿、米寿祝等、参拝する慣しである。
(11)高砂緑地
茅ヶ崎駅から海の方 (南)に200mほど行くと住宅街の中に緑豊かな高砂緑地 (たかすなりょくち)があります。 市立図書館や美術館も隣接する静かな住宅街です。 この高砂緑地には明治時代の俳優、川上音二郎と貞奴夫妻が明治35年頃に住まいを構え、「萬松園」と名付け住んでいました。 敷地内には夫妻の記念碑があります。
(12)西方貝塚
小出地区には、県内でも有数の規模を残す堤貝塚をはじめとする縄文時代の貝塚が5か所で確認されています。貝塚は、当時採取された貝の殻を同じ場所にまとめて捨てたところで、カルシウム分が強いため腐らず現代まで残されたものです。そのため貝以外の動物や魚類の骨なども一緒に発見されることが多く、当時の自然環境や縄文人の食生活までを知ることができるとても貴重な遺跡です。相模湾岸には少ないといわれていますが、茅ヶ崎市では5遺跡も見つかっています。ここではそれぞれの貝塚の概略をご紹介します。
(13)懐島館址、懐島山の碑(えな塚)
懐島権守景義(ふところじまごんのかみかげよし)は、この地(茅ヶ崎市円蔵)に居住した平安末期から鎌倉時代初期の豪族・大庭景義の別名。保元の乱(保元元年・1156)で活躍したことで名高い。館跡は現在の「大明神神社」に比定される。かつては空堀跡や馬場などが見られ(『新編相模国風土記稿』)、近年まで堀らしき地形が周辺に認められた(『日本城郭大系』)とされるが、現在は開発が進み、遺構を明瞭に指摘することは困難である。なお、戦国時代、この地は後北条氏家臣・近藤孫太郎が拝領されており(『小田原衆所領役帳』)、この館跡は、その立地状況から鎌倉期から戦国末期まで使用されたものと推察されている。JR東海道本線・茅ヶ崎駅を県道45号で北上し、円蔵交差点を東に入ると大明神神社の参道がある。敷地内には数多くの石碑があって、住民から大切にされていることを知る。
(14)弁慶塚、御霊神社
(15)住吉神社
住吉神社(すみよしじんじゃ)は、神奈川県茅ヶ崎市南湖にある神社。南湖下町住吉神社とも。現在は市内中島の日枝神社の兼務神社である。御朱印の有無は不明。言伝えによれば、その昔、村人は疫病や災難から子供を守るため、鬼子母神を祀り、無病息災、家内安全を祈念していた。明治初年(1868年)、当時信徒総代石黒政五郎などが、大阪市住吉区の官幣大社住吉大社から御分霊を奉載して齋祀したのが当社の起源。御祭神は、中筒男命・表筒男命・底筒男命の住吉三神。例祭は3月3日だが、1月に済度と呼ばれる道祖神祭が今も継承されている。当時は漁業地である旧茅ヶ崎村西南湖下の鎮守として、崇敬が厚かったと伝えられている。現在の社殿は昭和3年(1928年)に改築され、今日に至っている。おそらく南湖では、江戸時代には現在は中町の氏神となっている八雲神社一社を祀っていたが、明治になり、それぞれの町内が大きくなったために、それぞれに氏神が祀られるようになった。
(16)団十郎山の碑
明治時代に活躍した歌舞伎役者。屋号は成田屋。本名は堀越秀(ほりこしひでし)。五代目尾上菊五郎、初代市川左団次と共に、いわゆる「團菊左時代」を築いた。写真的な演出や史実にもとづいて歌舞伎の近代化をはかる一方、伝統的な江戸歌舞伎の荒事を整理して、今日まで伝わる多くの形を決定、日本を代表する高尚な芸術の域まで歌舞伎を高めることに尽力した。その功績から「劇聖」とうたわれた。
明治29年、現在の茅ヶ崎鉄砲道付近に土地を求めて別荘を建てた。孤松庵と名付け、敷地内には稽古場を備え、ここで次世代の歌舞伎界を担う若手を育成した。釣りでも船中で背筋を伸ばして釣りをするなど、芸の修養としてみていた。「針ひとつ垂れるにも、端座しなければお前たちの姿勢を魚が侮るぜ。舞台に立つときも同じだ。踊るにも釣りをするにも、その姿がきちんとしていなければ、その芸も魚も君たちの心のままにならないよ。気をつけなさい」と説教した逸話がある。
趣味としては晩年、猟銃による鳥撃ちも加わったらしく、茅ヶ崎の別荘に預けられていた丑之助(六代目菊五郎)が團十郎の猟銃を勝手に持ち出し雁を仕留め、それがばれて大目玉をくらったというエピソードが残されている。
明治36年9月13日 茅ヶ崎の別荘孤松庵にて死去。葬儀は同じく茅ヶ崎に居を構えた新劇俳優の川上音二郎が一切を取り仕切り、茅ヶ崎駅から孤松庵までの経路を整備し、大磯に伊藤博文を訪ねて弔辞を依頼するなど、敬愛する九代目の葬儀準備に奔走、伊藤博文の弔辞も川上が代読した。約1万9千平方メートルを超える広大な別荘孤松庵跡地は、地元茅ヶ崎では團十郎山と呼ばれ親しまれ、平和町交番の横の公園に石碑が立っている。
(17)藤間家
柳島の藤間家は、江戸時代に代々名主を務め、家業であった廻船(かいせん)問屋としても柳島湊(みなと)を母港として、大々的な商いを行っていました。「かながわの百人」に選ばれた藤間家13代の藤間柳庵(りゅうあん)は、この屋敷で生まれました。江戸の著名な書家である秦星池(はたせいち)に学び、多くの文化人とも交友がありました。文人として幕末の社会情勢を細かに記録し、ペリー来航の実見談も残しています。藤間家は、近世の社会情勢を語る重要な文書資料や廻船商ならではの民俗資料を多数所蔵し、これまでも文化資料館や市史編纂(へんさん)委員により民俗・歴史資料の調査が行われてきました。さらに、社会教育課文化財保護担当による数度の考古学的調査の結果、広大な藤間家屋敷地の地中に、江戸時代以前の遺物類がそのまま包含(ほうがん)されていることが確認できました。これまで不明だった柳島、南湖など市南部地域の歴史草創期を解明する糸口になる遺跡であることも判明し、総合的な内容を有す史跡として高く評価されています。 家業の廻船業では観音丸・不動丸などを所有し、江戸をはじめ、各地の港を往来し、物資の流通に活躍しました。
(18)腰掛神社
(19)国木田独歩
南湖院の名を一躍高めたのは国木田独歩(1871~1908)の入院でした。独歩が入院したのは1908(明治41)年2月4日。病状はかなり進行しており、多くの文学者が独歩を見舞いました。その一人、真山青果(まやませいか)は田山花袋(たやまかたい)のすすめで独歩の「病床録」を編むこととなり、その記事は『読売新聞』に連載され、南湖院の存在が多くの人に認知されることになりました。独歩のわがままと癇癪(かんしゃく)持ちはだれもが認めるところで、それは家族や友人たちに対してだけではなく、南湖院の職員に対しても向けられました。院長の高田畊安は呼吸器を安静にするために、なるべく声を出さないように注意しましたが、それも守らず、来訪者との談話など、数間離れた病室でもはっきり聞き取れたといいます。6月になると、喀血(かっけつ)がみられるようになり、23日夜、「大量の喀血と同時に何の苦悶もなくして独歩国木田哲夫氏の玉の緒は永劫に絶え果てたので何の処置を施す暇も無かった」(南湖院副長・中村愛子医師)という最期を迎えました。
(20)勘重郎堀
JR相模線の香川駅で降りて改札口を出ると、すぐ右手に「義人三橋勘重郎」と力強く書かれた標柱がある。地元の人に義人として慕われている「三橋勘重郎」とは? 香川駅近くにある浄心寺(日蓮宗)の山門の左手に、日蓮の題目塔と並んで三橋勘重郎の供養塔がある。寛政5(1793)年に建てられたものだが、お供えの花も多く、地元の人たちの勘重郎への思いは相当深いものがあるようだ。香川小の道徳の授業でも勘重郎について教えているという。 相模線の線路を渡り、東へ住宅街を歩くと、玄珊寺(曹洞宗)周辺の「史跡勘重郎散策路」に、地元自治会が建てた案内板があり、そこに「答え」が記されている。「三橋勘重郎は、宝暦~天明(1751~1788)の頃、香川村の名主であった。安永年間(1772~1780)に、大飢饉が続いた。このと時、勘重郎は、下寺尾の協力を得て、浄見寺付近の駒寄川に堰を設け、十四町(1.5㎞)に渡り、水路4尺、両側通路に6尺の堀を造って、この付近まで水を引き、天水頼りの香川村の田地に灌漑し、農民を救ったといわれている。後に、勘重郎は、飢饉が続く中、年貢減免を訴えた罪で処刑されたと伝えられている」「ふるさとの歴史散歩」(茅ヶ崎郷土会編)にも、次のような記述がある。「幕府の『百姓の強訴処罪の令』によるとがめで、村が処罰される危機にたたされて単身罪を負い、ごう問にも屈せず、ついに断罪に処せられた」。いつの時代も、一身の利害を顧みず、自分が正しいと思うことをやり抜く人はいる。ただ、三橋勘重郎に関する裏付け史料がなく、今後、じっくり研究してみたい人物の一人である。
(21)宝蔵寺
地蔵尊二十四札所というのは、江戸時代の中頃から広く行われるようになった神仏「札所巡り」の一種で、全国各地に設定されている。24という数は、二十四日が地蔵尊の縁日とされていることからきているのではないかと言われている。今は廃れ去った高座郡南部地蔵尊札所は、第1番の宝蔵寺から始まり、茅ヶ崎市の南部を巡って寒川町、藤沢市の北西部へと北上し、海老名市の南部に至るもので、最終の24番は海老名市中河内の地蔵堂(吉祥寺持ち。今は跡地のみ)である。分布は、茅ヶ崎市内9カ所、寒川町内9カ所、海老名市内4カ所、藤沢市内2カ所となっている。藤沢市内でもう1カ所札所に設定されていた獺郷の高徳庵は明治になって廃絶して今はないが、このことから、この札所が設定された時期が江戸時代であったことが推測される。
(22)来迎寺
芝増上寺末。江戸時代に編纂された『新編相模国風土記稿』によると、ここ旧芹沢村には「宝沢寺」、「法円寺」、「来迎寺」、「蓮妙寺」、「善谷寺」、「普門寺」、「延命寺」の七ヶ寺が存在していた。宝沢寺は当山派修験(吉岡村瀧岡寺触下)の寺院で江戸時代には腰掛明神社の別当寺を務めていたが、明治の神仏分離の際に廃寺となり今は存在していない。当時別当修験職だった石腰家は廃寺に伴って神職に復し、現在も代々腰掛神社の宮司を務めている。法円寺は長重山と号し、鎌倉比企谷の妙本寺を本寺とする日蓮宗の寺院だったが、明治23年に栃木県の旧西方村に移転している。来迎寺、蓮妙寺、善谷寺の三ヶ寺は現存し、来迎寺の寮だった普門寺(下馬落観音堂)、延命寺は無住のお堂として残っている。