参考文献について

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令和2年度事業報告
https://www.city.ueda.nagano.jp/site/nihonisan/52253.html

令和2年度 上田市日本遺産補充調査報告書
https://www.city.ueda.nagano.jp/uploaded/attachment/34666.pdf

レイライン関連の文献 (P38〈参考・引用文献〉より)

「塩田平・古代のロマンを追って 太陽の線」『信濃路』第42号 相原文哉 1983
「祝 日本遺産認定 太陽の道・龍の郷」民話・伝説散歩その7 「週刊うえだ」2020年(令和2年)9月26日(土曜日)第1624号 益子輝之 2020
「信州名匠会研修会資料」令和2年7月18日開催 相原文哉 2020

※「益子 2020」の新聞記事は「太陽の線」(相沢 1983)の発表時の経緯(郷土史家の反対があったこと)についての参照としては妥当ですが、内容については論旨の簡単な紹介に過ぎず、参照の必要性があるか疑問。(「女神岳の頂上と信濃国分寺が一本の線で結ばれていて、その中間地点に生島足島神社がある。さらにその線を東へのばしていくと大日木の大日孁神社に。これこそ太陽の道」という論旨でした。」という記述だけ。)また、国分神社についての記述はなく、報告書の参照は誤りか?
表題とは少し異なり、この記事の半分は科野大宮社の話です。(「~常田の科野大宮社。実はこの神社が生島足島神社とよばれていた時代があったのです。」「中世から近世中葉まで、生島足島という神社がもう一社あったことは、歴史研究の上では避けて通れない事実です。寛政の吉田家の裁定も、最初は一社に生島、一社に足島でした。」)

※「太陽の線」(相沢 1983)は随筆文。「こんな馬鹿な、不思議なことがあっていいものか、恐ろしいことになった!」のような文章が所々に入ります。断定的に仮説を重ねた内容で、一番重要なはずの「太陽の線」の角度が明記されていません。生島足島神社の参道と太陽の線(泥宮や女神岳を通る)が一致している図がありますが、事実でないことは明らか。報告書は誤りのある仮説をストーリーの根拠としている?