妙法蓮華経観世音普門品
背景 「長坂の棚田(富山県氷見市)」(令和7年8月30日 撮影)
背景 「長坂の棚田(富山県氷見市)」(令和7年8月30日 撮影)
令和7年9月6日 更新
大乗仏教経典の代表格として、諸宗派が重要視してきた「法華経(ほけきょう)」。全二十八章からなる中で、曹洞宗では、十六「如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)」、二十一「如来神力品(にょらいじんりきほん)」、二十五「観世音普門品(かんぜおんぼさつふもんぼん)」を日常の法要儀式において読誦してまいりました。
その中で、今回より二十五「観世音普門品」を読み味わわせていただきますが、少しでも経典が説き示す世界観を身近に感じていくためにも、本文に入る前に、「妙法蓮華経観世音普門品(みょうほうれんげきょうかんぜおんぼさつふもんぼん)」というタイトルを通じて、知識を深めておきたいと思います。
まず「妙法」ですが、これには「仏がお示しになった尊き教え」という意があります。すなわち、「仏法」ということに相成ることでしょう。
次に「蓮華」ですが、「仏・菩薩がお座りになる席」を指し示しています。泥土において、汚れることなく香しくきれいに咲く蓮の花は、古代インドにおいて珍重されてきました。仏教では、そんな蓮華を「仏性(ぶっしょう)」という、「誰しも有する仏の性質」にたとえ、重視しています。そして、蓮華の如く尊きみ教えを「妙法」と解する観点が「妙法蓮華経」という名につながっていきます。
「妙法蓮華」は普く全てのいのちに対して、その苦悩を救済する「衆生済度(しゅじょうさいど)」が何よりもの目的です。「普門」とあるのは、「誰一人として取り残されることなく、普く全てのいのちを救済するための入り口」を意味します。そんな「普門」に導き入れるためのみ教えとなるのが、「妙法蓮華」なのです。
普く全てのいのちを救済すべく、三十三の姿に変化(へんげ)を繰り返しながら、お釈迦様に成り代わって、妙法蓮華をお示しになるのが、「観世音」という仏様です。正確には「観世音菩薩」と申します。「観音巡り」等、普段、我々が「観音様」として親しく信仰している仏様です。
観音様始めとする「菩薩(ぼさつ)」という仏様は、既に仏道修行を重ね、お釈迦様を始めとする「如来(にょらい)」様の位にありながらも、敢えて、我々凡夫に寄り添い、少しでも「普門」へとお導きするのを自らの役割としています。そんな菩薩の役割について、次回、観音様を通じて、その詳細を申し上げたいと思います。
令和7年10月4日 更新
我々にとって馴染み深い仏様のお一人として「観音様」がいらっしゃいます。観音様は正式には「観世音菩薩」と申しますが、この御名は「観」・「世音」・「菩薩」と分けて見ていくと、その功徳やありがたみがじわじわと感じられるのではないかという気がいたします。
まず「観」は訓読みで「みる」となります。「みる」と読む文字は他に4つあり、挙げてみると、「見る」、「看る」、「視る」、「診る」が出てきます。これらには物事を見る度合いや見方の違いがあるとお考えいただければよろしいかと思いますが、中でも「観音様」の「観」には、「物事を広く見渡す」とか、「深く見通す」という意味があることを押さえておきたいと思います。すなわち、自らが生かされている地において、個人的な判断による制限を設け、その中の当てはまるものには目を向けるものの、そうではないものには目を向けないといった差別的な捉え方をするのではなく、そこに存在する全てのいのちに目を向け、救いの手を施していくような見方・捉え方をしていくのが、「観る」ということなのです。ですから、「観る」は、言ってみるならば、「仏のお悟りを得た者のモノの見方」ということなのです。
そうした広く深い視点を以て、この世の一切の音(世音)に目を向けるのが「観音様」であるということになりますが、「世音」というのは、たとえば人間や動物の声、機械の音などのような耳で聴きとることができるものだけを指すのではありません。「世音」には、私たちの心の中の声のような無音のものも含まれていることをも知っておきたいところです。
そうした音の有無に関係なく一切の音を観るのが「観世音菩薩」という仏です。ちなみに「菩薩」は「上求菩提(じょうぐぼだい)」、「下化衆生(げけしゅじょう)」を自らの役目とする仏です。「上求菩提」とは、「仏のお悟りを目指して懸命に仏道修行に励むお姿」、「下化衆生」は、「娑婆世界に存在する全てのいのちに佛の救いの手を差し伸べて救済するお姿」です。ですから、既に仏の位に達しながらも、敢えて、我々凡夫の側にいて、仏の世界へと導いてくださるのが「菩薩」であると解して然りなのです。
「世音」という点について考えていくとき、むしろ声なき声のような、音のないものに対して、しっかりと目を向けて、その訴えるものを感(観)じ取りながら、救いを施していくことに全力を注ぐのが「観音様」であると捉えてよろしいかと思います。次回よりそうした観音様のご修行、仏としての在り方を「観世音普門品(かんぜおんぼさつふもんぼん)」から読み味わってまいりたいと思います。
令和7年10月8日 更新
【本文】
爾時無尽意菩薩(にじむじんにぼさつ)即従座起(そくじゅうざき)偏袒右肩(へんだんうけん)
合掌向仏(がっしょうこうぶつ)而作是言(にさぜごん)
世尊(せそん)観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)以何因縁(いがいんねん)名観世音(みょうかんぜおん)
【書き下し】
爾の時に無尽意菩薩、即ち座より起ちて、偏に右の肩を袒(はだぬ)き、合掌して仏に向って、是の言を作す。世尊、観世音菩薩は何の因縁を以てか観世音と名づくるや。
第1回「妙法蓮華経観世音普門品 ―〝誰一人として取り残されることなく救われるみ教え〟への入り口—」でもお話いたしましたように、「観世音菩薩普門品(かんぜおんぼさつふもんほん)は「法華経」の第二十五章に該当します。当然ながら、その前の第二十四章の続きとして二十五章にはいるわけですが、まず、二十四章「妙音菩薩品(みょうおんぼさつほん)」の最終部について、少し触れておきたいと思います。
「妙音菩薩」とは「妙音」が指し示すように、美しいお声で仏法を広める菩薩様で、仏道修行によって神通力を有し、様々な相に姿形を変えながら、人々の苦悩を救済する菩薩様として知られています。
その妙音菩薩がお釈迦様の説法をお聞きすべく「霊鷲山(りょうじゅせん)」にやって来て、自身が体得なさった仏法についてお釈迦様にお話しし終えたとき、その場にいらっしゃった無尽意菩薩が立ち上がると共に、お釈迦様に「観世音菩薩は何の因縁を以てか観世音と名づくるや」とご質問なさったというところから第25章が始まります。
無尽意菩薩は尽きること無い智慧を有しながら、あらゆるいのちの救済を自らの行いとする菩薩様です。「観世音菩薩というお名前はどのような因縁・理由によって命名されたものか」と問う無尽意菩薩様。その時のお姿はお釈迦様に敬意を表した丁重なるものであったことが、「偏に右の肩を袒(はだぬ)き、合掌して仏に向って」という一句から伝わってまいります。
「偏に右の肩を袒き」とあるのは、「偏袒右肩(へんだんうけん)」と言う右の肩を顕わにしたインドにおける敬意の念を表す礼法です。曹洞宗の葬儀や法要等の仏教行事において、僧侶が袈裟(けさ)を身にまとっているのをご覧になったことがある方ならば、想像しやすいかと思いますが、僧侶が袈裟を被着すると左肩が隠れ、右肩があらわになります。これが「「偏袒右肩」です。
そして、「合掌」は一般の方にもおなじみの仏教徒の進退(しんたい)(所作)です。「合掌」は「掌を合わせる」とのことで、右手と左手の両方の掌を合わせ、それぞれの指をきれいに合わせるという相手への敬意を有した進退です。
お釈迦様様に対して身心を以て、最大の敬意を表しながら「観世音菩薩」に対する質問を展開していく無尽意菩薩様。次回はそれに対するお釈迦様のご回答をお示しさせていただきます。
令和7年10月11日 更新
【本文】
仏告無尽意菩薩(ぶつごうむじんにぼさつ)。善男子(ぜんなんし)。若有無量(にゃくうむりょう)。百千万億衆生(ひゃくせんまんおくしゅじょう)。受諸苦悩(じゅしょくのう)。聞是観世音菩薩(もんぜかんぜおんぼさつ)。一心称名(いっしんしょうみょう)。観世音菩薩。即時観其音声(そくじかんごおんじょう)。皆得解脱(かいとくげだつ)。
【書き下し】
仏、無尽意菩薩に告げ玉わく、善男子、若し無量百千万億の衆生あって、諸々の苦悩を受けんに是の観世音菩薩を聞いて、一心に観世音菩薩を称名すれば、即時に其の音声を観じて、皆解脱することを得ん。
無尽意菩薩の「観世音菩薩というお名前はどのような因縁・理由によって命名されたものか」という問いに対して、お釈迦様は「偏袒右肩(へんだんうけん)」、「合掌」といった言葉が指し示すように、敬意を以て丁重にお答えになりました(仏告無尽意菩薩)。その内容が今回以降、順次、お示しされていきます。
まず「善男子」とありますのは、仏道修行に邁進する在俗の男性信者を指すものであることを押さえておきます。ここではお釈迦様が無尽意菩薩を優れた仏道修行者と捉え、敬意を以て「善男子よ」と呼びかけた上で、その問いにしっかりとお答えになろうとするお気持ちが伝わってまいります。
「若し無量百千万億の衆生あって、諸々の苦悩を受けんに是の観世音菩薩を聞いて、一心に観世音菩薩を称名すれば、即時に其の音声を観じて、皆解脱することを得ん。」お釈迦様はおっしゃいます。「大勢の人々がいて様々な苦悩を受けて悩み苦しんでいるとき、観世音菩薩のお名前を聞いて、一心にその名をお称えするならば、即時に観世音菩薩の御名の功徳を観じ取り、苦悩から救われることができるだろう。」と—
「称名」というのは、仏菩薩の名をお称えすることです。心の奥底に潜む苦悩といった〝声なき声〟も含め、この世のあらゆる音(世音)を広く見渡し、深く見通しながら、誰一人として取り残すことなく救いの手を差し伸べてくださるのが「観世音菩薩」でした。日常生活の中で、苦悩に出くわしたとき、そんな観音様のお名前を口に発することで、自分の中で意識できるようになっていきます。それが仏の世界への入り口となり、我々を救う様々な仏のみ教えとの出会いが実現し、必ずや苦悩から救われていくのです。
「一心称名」―そんな観音様のお名前を意識しながら日々を過ごしていきたいものです。
令和7年10月18日 更新
【本文】
若有持是(にゃくうじぜ)。観世音菩薩名者(かんぜおんぼさつみょうしゃ)。設入大火(せつにゅうだいか)。火不能焼(かふのうしょう)。
【書き下し】
若し是の観世音菩薩の名を持する者あらば、設え大火に入るとも、火を焼くことを能わず
令和6年元日に発生した「能登半島地震」では、輪島市の朝市で火災が発生し、甚大な被害が出ました。この背景には付近の道路の通行止め、断水や防火水槽の倒壊による消火栓の使用不可、地盤の隆起による河川の水の使用不能と、様々な悪条件が重なったことが被害を大きくしてしまったとの見解があります。
当時、曹洞宗石川県青年会の会長職を拝命していた住職は発災から20日が経過した1月20日、輪島の会員の安否確認のために現地入りし、被害のあった朝市通りの状況を目の当たりにしました。灰と化した建物に加え、目に留まったのは炎上してサビついている何台もの乗用車です。その燃料であるガソリンは勿論のこと、家庭内のプロパンガスや暖房用の灯油、そして電気と、私たちは様々な可燃性の高いアイテムに囲まれて日常生活を送っていることを再確認させていただいた瞬間でした。そして、こうした日常生活を送る我々にとって、一度、大火が発生したならば、人間一人の力で消化させることなど、容易なことではないことを思わずにいられませんでした。
そうした大火を「観世音菩薩の名を持ずる者あらば(観世音菩薩の御名を一心にお称えするならば)、その被害を押さえることができる」とお釈迦様はおっしゃいます。お釈迦様のお示しになっている「大火」とは、決して、火災のことを指しているのではありません。火災の如く一度発生したら、周囲を巻き込み、大きな被害を与えてしまうものを指して「大火」とおっしゃっているのです。
では、それは一体、何を指すのでしょうか。それが「三毒煩悩」の一つとして示されている「瞋(いかり)」なのです。瞋りという大火が発生したとき、それを消火することなく、放置しておくとどうなるでしょう?当然ながら、言葉や行いとなって表出し、周囲の人々に害を与えていくことでしょう。
しかし、それだけではありません。瞋りの感情を制御できず発してしまった当人自身が、後に何かのきっかけで社会的な制裁を受けたり、自らの言動を恥じたりする場面に巡り合うときがやってくるのです。要は「大火」たる「瞋」の感情というのは、表出させれば、自他共に害を及ぼし、苦しめていくことになるのです。そのことをしっかりと押さえておきたいところです。
若かりし頃は「瞬間湯沸かし器」と揶揄され、感情的になっては瞋りの言動を表出させてばかりだった住職ですが、近年、X(旧Twitter)等のSNSにおいて、さしたる理由もなく怒りの感情を表出させ、世間の人々の批判に晒されている方を目の当たりにしては、ようやく感情のコントロールの重要性に気づき、自分に言い聞かせながら過ごす日々です。自分の感情をコントロールできず、周囲に不快感を与えるのは、一社会人として許されることではありません。たとえ、SNSがあろうがなかろうが関係なく、感情のコントロールを生涯の課題と捉え、毎日を過ごしていきたいと考えています。
そのためにも「瞋」の感情が沸き起こって来たならば、即座に「観世音菩薩」の御名を思い起こし、感情のコントロールを行っていくのです。それが今回の一句におけるお釈迦様のお示しなのです。
令和7年10月25日 更新
【本文】
由是菩薩(ゆぜぼさつ)。威神力故(いじんりきこ)。若為大水所漂(にゃくいだいすいしょひょう)。称其名号(しょうごみょうごう)。即得浅処(そくとくせんしょ)。
【書き下し】
是れ菩薩の威神力に由るが故に若し大水の漂わす所となるも、其の名号を称すれば、即ち浅処を得ん。
令和6年元日の「能登半島地震」発生から8カ月余りが経過した9月21日、奥能登を中心に再び自然の猛威が復興に向けて前向きに進んでいた人々の日常を直撃しました。「令和6年9月能登半島豪雨」です。この災害により、16名が死亡。河川の氾濫と土砂災害が多発しました。この豪雨が能登半島地震の復興を遅らせてしまったと指摘されるほど甚大な被害をもたらせたことは言うまでもありません。
2008年(平成20年)の「新語・流行語大賞」に〝ゲリラ豪雨〟という言葉が選出されて以降、度々、各地に甚大な被害をもたらす「線状降水帯」の発生と、これまでにも増して、水害の恐怖を覚えずにはいられません。
住職の住む金沢市内においても、この令和7年夏は幾度か豪雨の脅威を目の当たりにすることがありました。とりわけ、8月7日の豪雨においては、ほんの数十分で車が通れなくなるくらいに道路が冠水したかと思えば、雨が止むと、一瞬にして水が引いていく様を目の当たりにしました。それまでは連日にわたる猛暑・酷暑で水不足が心配されており、少しでも雨が降ればと願ったものですが、いざ、雨が降れば、とてつもない被害が出てしまいます。まさに〝いのちを生かすも水、いのちを殺すも水〟、水の恐怖を実感しつつも、「あるべき水との日常的なかかわり方」というものを考えていかねばならないと感じております。
前段において、お釈迦様は「観世音菩薩の名を持ずる者あらば(観世音菩薩の御名を一心にお称えするならば)、大火の被害を押さえることができる」とおっしゃいました。それは大水も同じです。一瞬にして人々の平穏な日常生活を飲み込み、方々に甚大な被害をもたらす大水ですが、人々の観音様への信仰・帰依によって、その害を押さえることができるというのです。
ただし、ここで注意しておかなくてはならないのは、決して、観音様のお名前をお唱えすれば、火災や豪雨の被害を免れられるということではないということです。かつて古老は「愛着の水が観音の慈悲の水(法水)となる」とお示しになりました。「観世音菩薩の名をお称えすれば、大火の如き燃え盛る瞋りの感情を穏やかに調え、周囲と和しながら関わっていく道がを眼前に顕れる」のです。「観世音菩薩の名をお称えすれば、いのちを奪う水がいのちを生かし、仏のお悟りへと導いてくださる仏法の水となる」のです。それが古老のお示しの意味するところです。
そうした観世音菩薩の称名の意を正確に解しながら、「普門品」に示されているお釈迦様のみ教えを味わっていきたいものです。