伝光録


                          背景 「京都駅」(平成29年8月26日 撮影)

第1回「首章・本則 ―我と大地と同時に成道す―」

令和4年10日 更新

【本則】 釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)、明星(みょうじょう)を見て悟道(ごどう)して曰(のたまわ)く、「我れと大地有情(だいちうじょう)と同時に成道(じょうどう)す。」

 

―「師、正安(しょうあん)二年正月十二日において、初めて請益(しんえき)す。」―

曹洞宗の太祖(たいそ)・瑩山(けいざん)禅師が加賀・大乘寺(だいじょうじ)二世住持職に在った鎌倉時代末期、具体的には正安(しょうあん)【1299-1302】二年正月十二日とありますが、この日より禅師は、大乘寺で日々、仏道修行に励む門下の修行僧たちに対して、曹洞宗の伝灯を提示なさいました。すなわち、お釈迦様を起点とし、以降、師から弟子へと仏法がどのように伝わってきたのか、また、弟子たちはどのような形で成道(悟りを得ること)なさったのかをお示しになったわけですが、それを侍者(じしゃ)(側近の僧)が筆録したものが「伝光録」です。

 

折しも、瑩山禅師が二十八歳のときにお開きになった初開道道・阿波(徳島県)の城満寺(じょうまんじ)ご住職・田村航也老師より「光を伝える」という小冊子が全国の曹洞宗寺院に配布されました。この小冊子では、伝光録の内容が簡潔に記されていると共に、お釈迦様以降歴代祖師方がイラスト入りでご紹介されているスタイルが親しみやすく、老師にはこの先、当コーナーを進めていく上で大いに参考になる資料との仏縁をいただけたと、只々、感謝するばかりです。

 

ちなみに、伝光録に定まったスタイルがあります。全編において、①本則(ほんそく)②機縁(きえん)③拈提(ねんてい)④頌古(じゅこ)という一定の形態となっています(詳細は下記一覧表をご参照下さい)。伝光録は内容も難解で、実際、住職も平成28年頃から少しずつ読んでまいりましたが、最近、少しは理解が進んできたかなと感じるようになってきました。そうした理解の一助となるのは、他でもなく、スタイルが一定であることが大きいものと思っています。

 

①     本則(ほんそく) 古則(後人が手本とすべき法則)や公案(仏祖が指し示した道理)

②     機縁(きえん)  仏道修行者が師の教えを受けるのに最適な機会

③     拈提(ねんてい) 古則や公案を提起して、仏道修行者に示すこと

④     頌古(じゅこ)  祖師の古則に対して、偈頌を用いながら簡潔に宗意を示したもの

 

さて、そんな伝光録の最初を飾る「首章」は、お釈迦様について、主に12月8日の明け方、坐禅を通じて悟りを得たことを中心に提示がなされています。釈迦牟尼仏(お釈迦様)が坐禅をしながら、明星(明け方)、ついに悟道(仏の道をお悟りになった)わけですが、その際に「我と大地と同時に成道す」とおっしゃったと瑩山禅師はお示しになっているのが、首章・本則の内容です。

 

―この言葉が意味するものは何なのでしょうか―?

 

それは、お釈迦様は坐禅を通じて、12月8日の明け方にお悟りを得たのは確かなのですが、お釈迦様だけが悟りを得たのではなく、人も動物も自然も、この大地の上に存在しているお釈迦様の周囲の全てがお釈迦様と一緒に悟りを得たということです。

 

そもそもお釈迦様のお悟りは、「縁起」と申しまして、「全ての存在が関わり合い、支え合い、つながっている」という道理でした。全てが自分という存在とつながり、関わり合っているのであれば、自分が悟りを得たとすれば、大地に存在する全ての者だって、同時に成道しているはずであり、その道理を説き示しているのが、「我と大地と同時に成道す」という一句なのです。

 

こうしたお釈迦様のお言葉について、瑩山禅師はさらに詳細に次の「機縁」及び「拈提」の中で説き示していかれるのです。

第2回「首章・機縁 葦(あし)―釈尊悟道(しゃくそんごどう)に至るまで―」

令和4年4月1日 更新

【機縁】 夫(そ)れ釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)は、西天(さいてん)の日種姓(にっしゅせい)なり。十九歳にして子夜(しや)に城を踰こえ、檀特山(だんとくせん)にして断髪す。それよりこのかた、苦行六年、遂に金剛座上に坐して、蛛網(しゅもう)を眉間に入れ、 鵲巣(じゃくそう)を頂上に安じて、葦(あ)し、坐をとほし、安住不動、六年端坐、 三十歳臘月(ろうげつ)八日、明星の出(いで)しとき、忽(たちま)ち悟道、 最初獅子吼(ししく)するに是言(このげん)あり。


―「三十歳臘月八日、明星の出しとき、忽ち悟道、最初獅子吼するに是言あり」―

この一句にある「是言」は、前段の「本則」において、瑩山禅師様が提示なさったお釈迦様が悟道(お悟りを得ること)された際に発せられたという「我れと大地有情と同時に成道す」を指しています。「獅子吼」というのは、“百獣の王”と呼ばれる“ライオン”が吠えることですが、ライオンが吠えると、多くの獣たちが従うように、仏となったものが一句発することによって、衆生が帰依するというのが、「獅子吼」なのです。


ちなみに、お釈迦様がお悟りを得たのは、通説では35歳の12月8日となっておりますが、ここでの瑩山禅師様のお示しは30歳となっています。これは後出の出家19歳(通説29歳)と併せ、古説と捉えるのが一般的です。それを踏まえ、ここでは敢えて正誤を議論するようなことは、必要性のない戯論として避けたいと思います。


そんなお釈迦様が、そもそも、どういうご出生の方であったのかという所から、瑩山禅師様のご提唱が始まります。


まず、「西天の日種姓」と紹介されています。「西天」は修証義第3章でも学ばせていただきましたが、「インド」を指します。「日種姓」はお釈迦様の5つの俗姓の一つです。ここではお釈迦様がインドのご出身で、「日種」という姓であったことが語られています。


お釈迦様は王族のご子息としてお生まれになりましたが、生後、一週間ほどで実母が他界し、その妹である叔母によって育てられたとのことです。生後間もなく辛い出来事を経験なさったわけですが、その後は将来の国の統治者として、何不自由ない生活を送ることができたというのです。


やがて16歳となったお釈迦様は結婚され、長男も生まれ、父親となられました。しかし、この頃から人間ならば誰しもが経験する現実(生老病死)に悩まれ、19歳(29歳)のとき、将来の地位も家族も全て捨てて、城を出られたと言います。それが「十九歳にして子夜に城を踰え」であり、お釈迦様の「出家」です。


「出家」されたお釈迦様は、「檀特山」にて髪を剃り、六年間に渡る苦行に励まれます。始めは断食等、ご自分の身を痛めつける苦行を通じて、苦痛に耐え、精神力強化に励まれたのでしょう。しかし、そんな苦行にいくら励んでも、ご自分の苦悩が晴れることはありませんでした。


そんな中で巡り合ったのが「金剛座上に坐して」という言葉が指し示しているように、姿勢を正し、心静かに座るという「正身端坐(しょうしんたんざ)」、すなわち、「坐禅」とです。“遂に”という言葉が付されているところに、6年間もの長きに渡るお釈迦様の苦行のシビアさを思わずにはいられません。また、長い長い道のりだったことでしょう。しかし、そうやって、ついに巡り合ったのが「金剛座上に坐す」ことだったのです。眉間の「蛛網(クモの巣のような状態)」や頭上の「鵲巣(カササギの巣のような状態)」はお釈迦様のいで立ちを言い表したものです。


そして、「葦、坐をとほし、安住不動、六年端坐」とあります。最初は小さな芽のようなものだったのが、後に芽吹いて花を咲かせるがごとく、坐禅によって、12月8日の明け方、悟道なさったことが提示されています。ここでは“葦”という言葉に大きな意味があるような気がいたします。最初から優れているものや完璧なものというのは存在しません。たとえお釈迦様の悟道につながった坐禅であっても、それを初めて取り組む者にとってみれば、何もわからないところからの“セロスタート”なのです。当初はわからないがゆえの戸惑いなり、疑問なりといったものに苦悩することでしょう。しかし、我が身に引き起こされる様々な困難と向き合い、それを乗り越えながら、決して、諦めることなく、“やって、やって、やり続ける”うちに、道が開けてくるのです。


そのことを、私たちはお釈迦様の「悟道」を通じて、学ばせていただきたいものです。

第3回「首章・機縁② ―対機説法(たいきせっぽう)一筋の実際―」

令和4年4月24日 更新

【機縁】 爾(しか)しより以来(このかた)、四十九年、一日も独居することなく、暫時(ざんじ)も衆(しゅ)の為に、説法せざることなし。一衣一鉢欠くことなし。 三百六十余会、時時じじに説法す。

 

『三十歳臘月(ろうげつ)八日、明星の出しとき、「我れと大地有情(だいちうじょう)と同時に成道じょうどうす』と獅子吼ししくなさって以来、お釈迦様は四十九年もの間、ただひたすらに「衆の為に説法する」というご生涯を送られたことが瑩山禅師様より明らかにされています。「衆の為に説法す」は、言うまでもなく、「世の人々の苦悩に寄り添い、説法によって救済なさってきた」ことに他なりません。それは「一日も独居することなく」が指し示すように、どんなときも休みなく、ずっと続けられてきたというのです。まさに、お釈迦様のご生涯は説法一筋のものであったと言っても過言ではありません。それも最期の最期が訪れるまで説法三昧のご生涯でした。そのことは、仏遺教経(お釈迦様がお亡くなりになる直前までなさったご説法が記された経典)からも明らかです。

 

お釈迦様の説法は「対機説法(たいきせっぽう)」であったと言われております。対機(相手)の能力・機根や職業等を加味しながら、相手に応じ、相手に合わせる形で言葉を発していく説法が「対機説法」です。

 

そうした対機説法一筋のご生涯を送られたお釈迦様の生き様を知る上で、「一衣一鉢欠くことなし」という点もまた、注目しておきたいところです。「一衣一鉢」は自分の所持品や社会的地位といったものと決別し、出家者としての道を選んだ仏道修行者が所有することを許される品物のことで、「一枚の衣と一つの器」を意味しています。すなわち、身につける衣服と食事をする際に用いる椀だけは、出家者が所有してもよいということになっているわけですが、これは、出家者の清貧な姿・生き様の象徴と言っても過言ではありません。相手に視点を合わせ、その苦悩に寄り添いながら救いの説法を施してきた出家者の身なりは、質素で清らかなものであったということを押さえておきたいものです。

 

そして、そうした清貧なる姿に人びとは心を許し、自らの奥底に潜む様々な苦悩を、赤裸々に語ることができたのではないかという点にも注目しておきたいところです。第一印象で相手の全てを判断してはいけませんが、第一印象というものは、中々、侮れないものです。なぜならば、そこにその人の人格というものが8割方にじみ出ているからです。

 

たとえば、誰かに悩みを相談する際に、すぐにでも怒り出しそうな表情の方であったり、威圧的な態度が身なりや言動ににじみ出ている人には、中々、心の内を話そうという気持ちにはなれないものです。そういう意味では、お釈迦様の「一衣一鉢欠くことなし」という柔らかみのある清貧なお姿には、人は心をオープンにして話しやすい空気を醸し出すのではないかという気がいたします。是非とも見習いたいところです。

 

そんなお釈迦さまとご縁をいただき、「三百六十余会、時時に説法をさせていただく身」として、相手を慮りながら、質素な姿で、柔かい語り口と確実に聞き取る聞き方による説法・対話を心がけていきたいと思っております。 

第4回「首章・機縁③ 正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)の付嘱(ふしょく)」

令和4年日 更新

【機縁】 終(つい)に正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)を摩訶迦葉(まかかしょう)に付嘱(ふしょく)す。 流伝(るでん)して今に及ぶ。実に梵漢和(ぼんかんわ)の三国に流伝して、正法修行すること之を以て根本とす。 彼(か)の一期(いちご)の行状(ぎょうじょう)、以て遺弟(ゆいてい)の表準(ひょうじゅん)たり。

 

前段において、お釈迦様は三十歳臘月(ろうげつ)八日、明星の出しとき、「我れと大地有情(だいちうじょう)と同時に成道(じょうどう)す」と獅子吼(ししく)なさって以来、四十九年もの長きに渡り、ただひたすらに「衆の為に説法する」というご生涯を送られたことが瑩山禅師様より明らかにされました。そのご説法は「対機説法(たいきせっぽう)」という言葉がしっくりくるように、対機(相手)の能力・機根や職業等に応じ、相手に合わせる形でなされてきたものでした。

 

そんなお釈迦様が対機に応じて発せられた八万四千とも言われる多くのみ教えが、「流伝(水が流れるように広がり、伝わってきていること)して今に及ぶ」理由とは何か、それが瑩山禅師様から発せられているのが、今回の一句です。

 

これまでにも、他の経典等を通じて、仏教が師から弟子へと教えが伝わることによって、今日まで伝わってきたことはお伝え申し上げてきました。それを「相承(そうじょう)」と申しますが、伝光録では「付嘱」という言葉が用いられています。これは、「師が器と見抜いた弟子に法を伝えると共に、それを広め、大切にお護りしていくことを願う」のを意味する言葉です。まず、お釈迦様が摩訶迦葉というお弟子様に仏法(正法眼蔵)を付嘱なさったことによって、仏教流伝の歴史が始まったということが、瑩山禅師様より提示されています。

 

「正法眼蔵」というと、道元禅師様のお示しになった経典のタイトルとして有名ですが、そもそも、「正法眼蔵」は「正法(お釈迦様がお示しになった正しいみ教え)の真髄」を意味しています。“眼”には、“全てを映し出す”という意味が、“蔵”には、“一切のものが包み込まれている”という意味があります。

 

そうした万事を明確にし、あらゆるものを内包した仏法の真髄を、お釈迦様は自らの後継者としての器を持った人物と見抜いた摩訶迦葉に付嘱なさったのが起点となって、仏法が流伝。やがては梵漢和とあるように、インドから中国・日本へと広まっていきました。

 

そんな仏法の根本にあるのは、「正法修行すること」であると瑩山禅師様はおっしゃっています。これは、「正身端坐(しょうしんたんざ)」、すなわち、臘月八日にお釈迦様が成道なさるきっかけとなった「坐禅を行じ続けること」に他なりません。そうした坐禅の実践をお釈迦様以降の遺弟(お釈迦様以降のお弟子様)方は、「一期の行状」であり、「遺弟の表準」と捉え、師から付嘱されたみ教え一筋に生きてまいりました。そして、自らが師となった折には、弟子に付嘱し、仏法流伝の道筋が成されていったのです。

 

ちなみに、摩訶迦葉はお釈迦様の高弟で、「頭陀行(ずだぎょう)」という、「厳格で質素な生活を根本とする修行をなさった人物」として名高い方です。詳細は後述の「第1章」において学ばせていただけたらと思います。

第5回「首章・機縁④ 三十二相(さんじゅうにそう)・八十種好(はちじゅっしゅごう) ―“お坊さんらしさ”の追求―」

令和4年5月11日 更新

【機縁】 設(たと)ひ三十二相(さんじゅうにそう)、八十種好(はちじゅっしゅごう)を具足(ぐそく)すると雖(いえど)も、 必ず老比丘(ろうびく)の形にして、人人にかはることなし。

 

「坐禅(正身端坐【しょうしんたんざ】)」を行とするお釈迦様のみ教え・生き様に惚れ込み、仏法僧の三宝に帰依する遺弟ゆいていを名乗るのであれば、「お釈迦様一期の行状を自らの表準としていくこと」は至極当然のことであり、何ら疑いの余地はありません。

 

そんなお釈迦様の行一筋に生きてきた仏道修行者が、その後継者としての器があると見抜いた者に正しい仏法(正法眼蔵【しょうぼうげんぞう】)を伝えるということの繰り返しによって、仏法は時代を超え、国境を越え、今の私たちの眼前に存在しています。そのことが瑩山禅師様によって提示されていることが、「伝光録」を紐解くことによって見えてまいりますが、そんな禅師様のお言葉を今一度、読み味わわせていただいた上で、一人の釈尊遺弟として、我が日常の行状を振り返っておく必要があることを痛感しております。それは「お坊さんらしさ」ということにつながっていくように感じております。果たして、自分自身が日常発する言動が、他者から見たときに「お坊さんらしい」と感じていただけるかどうか、その上で、釈尊遺弟としての器を磨いていくことが、遺弟たるものの使命であると捉えております。

 

そうした“お坊さんらしさ”ということに関して、今回の一句に目を向けていく上で、「三十二相」や「八十種好」という言葉に着目してみたいと思います。「三十二相」は「出家・在家に関わらず、全ての大人が具えている(具足)姿形」のことです。また、「八十種好」は「仏と成りし者が具足する特徴」のことで、先の三十二相に付随する副次的なものです。三十二や八十の全てを示すほどの紙面の余裕がありませんので、詳細は割愛させていただきますが、双方、内容が重複しているものが見受けられるものの、全身に渡って丸みや穏やかさ、端正で調ったお姿が現れていたり、光明(仏の光)に満ちた黄金色のものであったりという特徴が伺えます。いずれにしても、周囲の人びとが親しみやすさや安心感を覚えてくれるような姿であり、まさに世間一般が僧侶に願う“お坊さんらしさ”とも合致しているように感じます。

 

―「必ず老比丘の形にして、人人にかはることなし」―

「比丘」は「男性の修行者」を意味していますが、「老」という言葉が付されていることによって、瑩山禅師様が「四十九年、一日も独居することなく、暫時も衆の為に、説法せざることなし」と評されたように、お釈迦様の説法一筋のご生涯における晩年のお姿が強くイメージされているような気がいたします。それは、かの臨終の瞬間、「仏遺教経」にあるように渾身の力を振り絞って、最期に遺弟の皆様に説法をなさったお姿とも通じます。あのお姿は「衆の為に説法する」お姿そのものです。そういう生き様を遺弟の一人として、真似ることによって、人によって変えられることなく仏法が流伝していくのです。 

第6回「首章・機縁⑤ 仏の法儀(ほうぎ)・形儀(ぎょうぎ)を慕う ―正法断絶せざる理由わけ―」

令和4年5月1日 更新

【機縁】故に在世よりこのかた、正像末(しょうぞうまつ)の三時、彼の法儀(ほうぎ)を慕ふ者、仏の形儀(ぎょうぎ)をかたどり、     

仏の受用(じゅよう)を受用して、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)、片時(かたとき)も自己を先とせざることなし。仏仏祖祖(ぶつぶつそそ)、単伝(たんでん)し来(きた)りて、正法断絶(しょうぼうだんぜつ)せず。

 

「在世よりこのかた」ということですから、お釈迦様が実在していらっしゃった時代を指しているわけですが、それ以降、仏道修行を通じて、「三十二相(さんじゅうにそう)・八十種好(はちじゅっしゅごう)」という出家者の姿を身につけられた仏教の祖師方によって、時と場所を超えて、仏法がそっくりそのまま、今日の我々まで伝わってきたことが瑩山禅師様より提示されています。それが「仏仏祖祖、単伝し来りて、正法断絶せず」です。「単伝」は「他の存在を組み込むことなく、単独で伝わっていくこと」を意味しています。

 

そうした「単伝」ということが、時と場所を超えて実現できた理由とは何なのでしょうか―?

 

それを瑩山禅師様は「彼の法儀を慕ふ者、仏の形儀をかたどり、仏の受用を受用して、行住坐臥、片時も自己を先とせざることなし」とお示しになっています。彼の法儀(仏祖の正しい作法)は、言うまでもなく、お釈迦様がお示しになった作法・み教えのことですが、後世、お釈迦様の生き様にほれ込み、お釈迦様を慕い、帰依してきた人びとが、仏の形儀(姿形)をそっくりそのままに真似て、行じてきた、すなわち仏の全てを受用(否定せずに受け入れていくこと)してきたからこそ、今日まで仏法が伝わってきたと瑩山禅師様はおっしゃっているのです。

 

また、瑩山禅師様は「行住坐臥(日常の全ての立ち振る舞い・言動)において、自分よりも仏を優先させてきたこと」を提示なさっています。「片時も自己を先とせざることなし」という一句は、道元禅師様が「学道用心集」における「菩提心を発すべき事」の中で、「吾我を忘れる」ということをお示しになっていますが、そことも相通ずる仏のみ教え・生き様として、しっかりと押さえておきたいところです。お釈迦様の法儀や形儀というものを慕い、帰依するというのであれば、どんなときも、自分の思いや考えよりも先に、お釈迦様のお考えに標準を合わせ、お釈迦様のみ教えを基に言動を調え、発していく姿勢がなくては、お釈迦様の弟子であり、彼の法儀を慕う者とは、到底、言えないのです。今日まで仏教の単伝に携わられてきた全ての仏仏祖祖が、「吾我を忘れて」、お釈迦様の法儀・形儀を慕ってきたからこそ、正法が断絶することはありませんでした。これそ、まさに、「仏の慧命(えみょう)を嗣続しぞくする」ということなのです。

 

ちなみに、正像末の三時とありますが、これは、お釈迦様亡きあとに、仏法が世間に存在する期間を「正法(しょうぼう)(お釈迦様在世によって正法と修行による証果を得られる時期)」・「像法(ぞうほう)(正法と修行は存在するが、証果が得られぬ時期)」・「末法(まっぽう)(教法はあれども、世の中が乱れ、争いが絶えず、修行する者もない時代)」の3つに分けたものです。それぞれの期間については、「正法五百年(千年)、像法五百年(千年)」といった具合に、所説がありますが、この説を見ても明白のように、現代は「末法の世」ということになるのでしょう。そのことは、ロシアのウクライナ侵攻を始めとする世界情勢に目を向けても、合点がいきますが、そんな末法の世に生かされている私たち一人一人が、仏の法儀・形儀を慕い、吾我を忘れて毎日を過ごしていくことによって、一日も早く、争いのない、平和な世界が訪れることを願うのです。 

第7回「首章・機縁⑥ 仏法流伝(ぶっぽうるでん)の因縁(いんねん) ―その根底にあるもの―」

令和4年5月22日 更新

【機縁】今の因縁分明(いんねんぶんみょう)に指説(しせつ)す。設(たとひ)四十九年、三百六十余会、指説すること異なりと雖も、種々因縁(しゅしゅいんねん)、譬喩言説(ひゆごんせつ)、この道理に過ぎず。

 

学道の者(仏道修行者)にとって、教えを受ける上で最適のタイミングとなる「機縁」の最期の一句を読み味わわせていただきます。ここではまず、瑩山禅師様はお釈迦様が六年間に渡る正身端坐(しょうしんたんざ)の末、三十歳臘月(ろうげつ)八日、明星が出たとき、「我れと大地有情と同時に成道す」と獅子吼ししくなさったことに触れていらっしゃいます。これがお釈迦様の成道(お悟りを得ること)であり、これが“因”となって、仏教が誕生、梵漢和(インド・中国・日本)へと流伝(伝わること)していったことが引き続き示されていきます。これは先の“因”に対する“果”であり、こうした仏法流伝の因縁というものが瑩山禅師様より分明(詳細)に指説(説明)されてきたのが、「機縁」なのです。

 

そんな仏法が梵漢和において流伝してきたことによって、お釈迦様のみ教えに触れた学道の者たちは、お釈迦様の生き様や形儀きょうぎを慕い、瑩山禅師様が「片時も自己をさきとせざることなし」と評するように、どんなときもお釈迦様の師として敬いました。これぞまさに、仏に帰依する学道の者の姿であり、仏法の流伝における因果でもあるのです。

 

ここで、瑩山禅師様によって提示されている「因縁」について触れておきます。これは仏教における極めて重要な思想です。修証義第一章の中で、道元禅師様より「因果の道理」に関するお示しがありましたが、「因縁」は、「因果の道理」と合致するもので、今一度、よくよく確認しておきたいところです。今の自分自身と向き合ってみたとき、幸せな毎日を過ごしている方は、過去に善行に励み、徳を積んできたことが因となって、今の果があるのです。逆に今、あまり幸せを感じられていない方は、過去のどこかに今の結果を生み出す悪しき原因があったはずです。「大凡因果(おおよそいんが)の道理歴然(れきねん)として私(わたくし)なし」は修証義の一句ですが、今の現況に満足することなく、不平不満を言ったり、他者や周囲が悪いと、人のせいにするような考え方をしたりするようではいけません。全ては自分が作り、自分によってもたらされた結果であることを、「私なし」という言葉からしっかりと押さえておきたいところです。

 

そうした仏法流伝における因縁始め、難解な仏法を日常生活の様々な場面をヒントに喩えを用いてわかりやすく示されたというのが、「譬喩言説」の意味するところですが、「譬喩言説」には、様々な見解があることは、瑩山禅師様もお認めになっています。「四十九年、一日も独居することなく」というお言葉に表れているように、お釈迦様は説法三昧のご生涯を送られただけに、「八万四千(はちまんしせん)」と呼ばれる膨大なみ教えを始め、多岐に渡る譬喩言説が存在するのは致し方ないことかもしれません。当然ながら、異国に流伝していく中で、種々の解釈だって生ずることでしょう。しかし、その根底にあるものは、三十歳臘月八日における「我れと大地有情と同時に成道す」の獅子吼ただ一つだと瑩山禅師様はおっしゃっているのです。

 

そのことを踏まえ、次回からは瑩山禅師様が更にご自身の見解を詳細にお弟子様に提示なさっている「拈提」を味わってまいりたいと思います。

第8回「首章・拈提① “我”の参究」

令和4年5月2日 更新

【拈提】謂(いわ)ゆる我(われ)とは釈迦牟尼仏に非ず。釈迦牟尼仏も、この我より出生(しゅっしょう)し来る。唯(ただ)、釈迦牟尼仏出生するのみに非ず。大地有情も皆是これより出生す。

今回から始まる「拈提」は、瑩山禅師様が大乘寺の修行僧に対して、祖師方が師から仏法をいただき、お悟りを得た機縁に触れながら、ご自身の見解をお示しになった箇所です。瑩山禅師様の視点から仏教祖師方の師と弟子のやり取りの背景にあるものなどが明示されており、非常に内容が深く、読み応えもあります。

今回の一句はお釈迦様が三十歳臘月(ろうげつ)八日、六年間の端坐(たんざ)の末、お悟りを得た際に獅子吼(ししく)なさったとされる「我れと大地有情(だいちうじょう)と同時に成道(じょうどう)す。」における「我」に関する拈提です。瑩山禅師様によれば、お釈迦様は「我と大地有情と~」とおっしゃっているものの、この「我」はご自分のことを指しているのではないとおっしゃっています。すなわち、「我=釈迦牟尼仏ではない」というのです。それが「謂ゆる我とは釈迦牟尼仏に非ず。」の意味するところです。

続けて、瑩山禅師様は「釈迦牟尼仏も、この我より出生し来る。」とおっしゃっています。お釈迦様は「我」からお生まれになり、成道(仏の道をお悟りになること)なさったというのです。そして、「釈迦牟尼仏出生するのみに非ず。大地有情も皆是れより出生す。」とあります。お釈迦様が「我」からお生まれになっただけではなく、同時に大地有情なるこの世の全ての存在も、お釈迦様と同じように「我」から出生し、成道なさったと瑩山禅師様はお示しになっているのです。

この「我」なるもの正体は何なのでしょうか。そして、「我=釈迦牟尼仏ではない」というのは、一体、どういうことなのでしょうか。ここが仏教思想における要の一つであり、難解なところでもあります。仏道修行者たる我々の使命とは、仏道を行じながら、「我」というものを参究し、明確にしていくことなのです。

そもそも、「我」というのは、「自分」という捉え方をするのが一般的ではないかと思いますが、我が身を「我」と称するのは、お釈迦様だけではありません。全てのいのちが「我」なのです。そんな「我」という存在は、空なるものであると仏教では説きます。すなわち、いつ、どうなるかわからないはかない存在であるということです。自分の頭なり、自分の手足だと思っているものも、いつかは老い、死を迎え、滅びていきます。あの世に赴く者に生前の自分の手足や頭が一緒についてくるわけではありません。修証義第一章・總序の中に「唯独り黄泉に赴くのみなり」とあるように、私たちは一人であの世に赴くのです。自分を意味する「我」ではありますが、その背後には自分のものだと思い込んでいたものが、本当は空なる存在であり、決して、自分のものだと強く主張し、執着すべきものではないという意味が含まれていることを、しっかりと押さえておきたいものです。

そうした我が身たる「我」が、実は有限の存在であり、はかないものであることへの明確な理解・体得というのが、お釈迦様のお悟りであったのです。有限且つはかない性質をお悟りになると同時に、それがお釈迦様のみならず、この世の全てのいのち・存在に当てはまることをも、お釈迦様はお悟りになったのです。

さらに、そうした一つ一つの「我」が集まり、お互いに支え合い、助け合って、この娑婆世界が成立していることも、お釈迦様はお悟りになったのです。すなわち、全ての存在がつながり、関わり合っているという、「衆縁和合(しゅうえんわごう)」や「縁起(えんぎ)」の道理にもお気づきになったというのです。

そうしたつながって、支え合っている全ての存在に対して、「我」の一つであるお釈迦様が六年間の坐禅修行の末、お悟りをお開きになったとき、その周囲でつながっている全ての存在もまた、同時にお悟りを得たというのが、「釈迦牟尼仏出生するのみに非ず。大地有情も皆是れより出生す」の意味するところです。我々が生かされている娑婆世界というのは、様々な「我」が集まり、支え合い、関わり合って存在していることを今一度確認しながら、自分という存在は、そんな中にある一つの「我」であると捉えておきたいところです。そうした「我」というものを次回も引き続き、伝光録を読み味わいながら、参究していきたいと思います。

第9回「首章・拈提② 釈迦牟尼仏成道するとき」

令和4年12日 更新

【拈提】大鋼(たいもう)を挙ぐるとき、衆目悉(しゅもくことごと)く挙るが如く、釈迦牟尼仏成道するとき、大地有情も成道す。

唯、大地有情成道するのみに非ず。三世諸仏も皆成道す。

三十歳臘月(ろうげつ)八日、六年間の端坐(たんざ)の末、お悟りを得たお釈迦様が獅子吼(ししく)なさったとされる「我れと大地有情(だいちうじょう)と同時に成道(じょうどう)す。」というお言葉について、加賀・大乘寺2世住持職の瑩山禅師様が会下の修行僧たちにご自身の見解をお示しになっているのが、「拈提」です。その中で、瑩山禅師様は、道を歩む仏道修行者たちに対して、「我の永続的参究の必要性」をお示しになっています。

「我」というと、「われ」と呼んで、「自分自身」のことを指していると捉えますが、この娑婆世界には「自分」以外にも、過去・現在・未来、数多のいのちが存在しており、それら全てが「我」なのです。そうした「我」が集い、関わり、支え合いながら、私たちの娑婆世界が成立しています。それを仏教では「衆縁和合(しゅうえんわごう)」とか、「縁起(えんぎ)」と申します。

また、「我」の一つ一つが、永遠に存在するものではなく、時間との関わりの中で、次第に老い、滅していく無常なる存在であることをも、この娑婆世界の道理として、押さえておく必要があります。

そうしたことを踏まえた上で、「我れと大地有情(だいちうじょう)と同時に成道(じょうどう)す。」というお言葉について、今回は大鋼(具体例)を挙げながら、もう少し踏み込んでみ教えが展開されていきます。「釈迦牟尼仏成道するとき、大地有情も成道す」―お釈迦様がお悟りを得たとき、大地有情(この世の全ての存在)も同時にお悟りを得たというのです。

それだけではありません。「大地有情成道するのみに非ず。三世諸仏も皆成道す」とあります。三世(過去・現在・未来)のあらゆる仏と成った者もまた、お釈迦様が成道したのと同時に悟りを得たというのです。

過去の仏というのは、「過去七佛(かこしちぶつ)」と呼ばれ、お釈迦様よりはるか昔に存在していらっしゃった仏様を指します。実はお釈迦様のお悟りというのは、お釈迦様が始まりなのではなく、お釈迦様以前に存在していた仏様たちが既にお悟りになっていたことだというのです。そのお悟りを六年間の坐禅という手法を用いながら、三十歳臘月八日、明確になさったのがお釈迦様だというのが、正確な解釈なのです。

お釈迦様亡き後、お釈迦様に帰依し、仏道を歩みながら、同じように、お悟りを得た祖師方がいらっしゃいました。それが道元禅師様や瑩山禅師様といった方々であったということを、ここでは押さえておきたいところです。そして、そうした方々によって、仏法は今日まで受け継がれているのです。

お釈迦様のお悟りは太古の昔から存在し、今を生きる仏道修行者たちが真摯に仏道を歩むことによって、次世代に受け継がれ未来永劫に渡って存在し続けるのです。それが仏教の歴史であり、事実なのです。

第10回「首章・拈提③ お釈迦様の謙虚さに学ぶ人生訓」

令和4年6月1日 更新

【拈提】恁麼(いんも)なりと雖(いえど)も、釈迦牟尼仏に於おいて、成道の思ひをなすことなし。大地有情の外ほかに釈迦牟尼仏を見ること勿(なか)れ。

「我と大地有情と同時に成道す」というお釈迦様が獅子吼なさった一句には、お釈迦様が成道なさったときに、今という時を同じく生かされているいのちも、過去に生かされてきたいのちも、また、未来に生かされるであろういのちも、皆、同じようにして仏と成り、お悟りを得たという意味合いが含まれています。

この世には、人間や動物のような呼吸をしているもの存在もあれば、コップ一個や、金属片ように呼吸をしない存在もあります。そうした存在の一つ一つを、瑩山禅師様は「我」と表現なさいました。人間もいれば、動植物もいる、コップのような道具や大自然もある、しかし、それぞれが違った存在であり、同じ人間であっても、一人一人は異なる存在であり、何一つとして同じ存在はないのです。そうした異なる「我」どうしが関わり合い、支え合っていることにお気づきになったのが、お釈迦様の成道なのです。

そんなお釈迦様が成道の際に獅子吼なさったものの(恁麼なりと雖も)、「成道の思ひをなすことなし。」とあるように、「ご自分が悟りを得たという意識がない」と瑩山禅師様はお示しになっています。これは一体、どういうことを意味しているのでしょうか。

「伝光録・首章」における「我」とは同じ文字でありながら、内容は異なりますが、「我」には、「吾我」という言葉があるように、「自分中心の」とか、「我先に」という意味合いがあります。それを踏まえながら考えていくと、「成道の思ひをなすことなし」におけるお釈迦様には、成道という誰もが簡単には到達できない、ハイレベルな事を成し遂げられたにもかかわらず、「オレが見事に悟りを得たのだ!」というような横柄な意識がなかったことが読み取れます。それは坐禅という修行を、やって、やって、やり続けていくことによって、自ずと悟りの境地に到達できたのであり、自分だけの力で成し遂げたわけではなく、自然の営みによるものであったという意味が含まれているのです。

たとえば、6月に入れば、次第に気温が上がり、梅雨に入れば、雨の日が多くなります。アジサイは見事なまでに可憐な花を咲かせます。これが自然の営みです。お釈迦様の成道というのは、凄さとか、尊さといった面がクローズアップされがちですが、お悟りを得た当のご本人は、決して、悟りを得たことに対して、傲慢や横柄な態度を醸し出したのではなく、あくまで謙虚で低姿勢であったことに気づかされます。そのことを指し示す瑩山禅師様のご見解をしっかりと胸に収めながら、日々の仏道修行に邁進していきたいところです。

コロナ禍で多くの行事が中止や延期を余儀なくされていた時期から、今は再開へと方向性に変化が見え始めてきました。先日、ある方と電話をする中で、「コロナがまん延している時期に組織で様々な役割を担ってきた人は、何もできないままに役目を終わろうとしているが、これからは中止・延期の判断を下す前に、どうすれば開催できるのかを考えていくことが大切ではないか」という話題が出ました。このとき、ふと頭の中に、組織の中心人物であることを自称し、自己の判断で各種行事を采配してきたと豪語する方と、その数日前にお話ししたことが思い出されました。当人は、自らが敏腕な人間であると言うものの、残念ながら、周囲は当人に対して、面倒に見える行事は中止、やりたいと思う行事は理由をつけてやるという評価をしています。そのことを当人は微塵にも存じ上げていません。

この方のように、人間が傲慢や横柄な態度になってしまうのは、自分の能力を過信しているからなのでしょうが、自分の知らないところでは、どう判断されているかは、見えにくいものです。これは決して、他人事ではありません。我が事として留意しつつ、お釈迦様のように、謙虚で低姿勢な姿で、毎日を過ごすことを心がけていきたいものです。

第11回「首章・拈提④ 瞿曇(くどん)の眼睛裏(がんせいり)を目指して」

令和4年6月26日 更新

【拈提】設(たと)ひ山河大地(せんがだいち)、森羅万像(しんらばんぞう)、森森たりと雖(いえど)も、悉(ことごと)く是れ瞿曇(くどん)の眼睛裏(がんせいり)を免れず。

「山河大地(山や河、大地)」、「森羅万象(この世のありとあらゆる存在)」は、いずれも私たち人間が生かされている娑婆世界を形成し、そこに存在している全てのものたちを指しています。山は大量の土が集まって形成されています。そして、そこにはたくさんの草木が生い茂り、青々とした山の姿を表しています。「森森たり」というのは、そういう山の姿を表しているのです。

木々が生い茂っていれば、山の奥深くがどんな状態になっているのか、そして、そこにどんないのちが生かされているのか、山の全てを完全に把握しきるのは至難の業です。それは河の中であっても、私たちが日常生活を営んでいる大地の上であっても、同じです。山には山が、川には川が有する世界観があります。そして、それらには諸行無常や縁起(万事がつながり、関わりあっている)といった「この世の道理」がもれなく適用されています。

そうしたそれぞれのフィールドにおける世界観や、この世の道理というものを、細部まで確認したとしても、自分の考えや好みに合わないと感じたものを素直に認めようともせず、自分の好き勝手な見方で、都合のいいように解釈してしまうのが、我々凡夫なのですが、それに対して、そうした世界観なり道理というものを認めたのが、坐禅によって仏の道を成し遂げたお釈迦様なのです。

「瞿曇」とあります。これはお釈迦様のご出身である釈迦族の人々の姓です。本来はお釈迦様だけを指しているわけではないのですが、仏典を読み解いていきますと、お釈迦様を指して「瞿曇」とお呼びする用例が時折、見受けられます。そうした「瞿曇」なるお釈迦様のお悟りの眼(眼睛裏)は一切、個人的な都合や私見に捉われたようなものではなく、道理は道理のままに、そっくりそのままに受け止めるモノの見方ができるというのが、今回の一句の意味するところです。

ちなみに、仏教では「八正道(はっしょうどう)」と申しまして、悟りを得た仏の行いが示されています。その最初が「正見(しょうけん)」とあります。これが「瞿曇の眼睛裏」ということにも相通ずるわけですが、これを土台として、正しい仏の生き方・仏の言葉の発し方・仏のモノの考え方等へとつながっていくことを押さえ、「瞿曇の眼睛裏」を目指し、仏の精進を重ねていきたいものです。 

第12回「首章・拈提⑤ 瞿曇の眼晴裏に立(りっ)する」

令和4年日 更新

【拈提】汝等諸人、また瞿曇(くどん)の眼睛裏(がんせいり)に立(りっ)せり。唯立せるのみに非ず、今の諸人に換却(かんきゃく)しおはれり。

「瞿曇(お釈迦様)」の「眼晴裏(お悟りの目)」ということについて、瑩山禅師様は一歩踏み込んでお示しになります。それは「汝等諸人」とありますように、今、大乘寺において瑩山禅師様の下で仏道修行に勤しむ修行者たちは勿論のこと、その時代の人々、さらには、現代社会に生かされている我々のような次世代の人々にも発せられたみ教えであると捉えるべきでしょう。そのことを押さえた上で、本文に触れていきたいと思います。

前回、「瞿曇の眼晴裏」というのは、この世の道理をお悟りになったお釈迦様の捉え方によって、物事を見たり考えたりすることであるということに触れさせていただきました。我々、仏道を歩む者は勿論のこと、一般社会に生きる方々も、できるだけ自分のわがまま勝手なモノの見方や考え方は止めて、道理を道理のままに受け止めていく捉え方を身につけていけたらと願うのです。

そうした「瞿曇の眼晴裏」が指し示しているような姿形を以て、この世が存在・成立しているというのが、「瞿曇の眼晴裏に立せり」の意味するところです。過去・現在・未来、いつの時代であれ、この世に生かされている全ての者は、「瞿曇の眼晴裏」という大きな存在に包まれるようにして、その存在が成立しているというのです。それは変えようのない事実であると共に、決して、お釈迦様が諸人を配下に置いて、その存在を支配しているということではないということを理解しておきたいところです。

そして、「唯、立せるのみに非ず、今の諸人に換却しおはれり」とあります。「換却」は「交換」のことです。私たちが「瞿曇の眼晴裏」に支配されているという捉え方が誤っているのと同時に、私たちは、その生き方や考え方、すなわち、自らの仏道修行の方法如何によって、「瞿曇の眼晴裏」が我が身に根づき、仏のお悟りに近づいてけるということを、もう一つの留意点として押さえておきたいところです。

私たちは「瞿曇の眼晴裏」に立すると共に、日々の自らの在り方ひとつで、いくらでも「瞿曇の眼晴裏」に近づけるという、瑩山禅師様からの励ましのメッセージをしっかりと受け止め、毎日を過ごしていきたいものです。

第13回「首章・拈提⑥ 肉団子(にくだんす)と瞿曇(くどん)の眼晴裏(がんせいり)」

令和4年7月24日 更新

【拈提】又瞿曇(くどん)の眼晴(がんせい)、肉団子(にくだんす)となりて、人人の全身、箇箇壁立万仞(へきりゅうばんじん)せり。

お釈迦様のお悟りの境地で物事を捉えていく視点というのが、「瞿曇(お釈迦様)」の「眼晴裏(お悟りの目)」でした。そもそも、私たち人間は、そうした「瞿曇の眼晴裏」というものを最初から具えているわけではありません。坐禅を始めとする日々の仏道修行によって、私たちの感覚器官(眼・耳・鼻・舌・身体・心の六根)というものは段々と磨かれていくものなのです。まさに「瞿曇の眼晴裏」は、そうやって育まれていくものなのであり、仏道修行によって、凡夫の身体が仏の身体へと近づいていくのです。

今回の一句の中に、「肉団子」という言葉が使われています。「肉団」というのが、まさに我々衆生の身体を指しています。悟りを得た仏の視点を意味する「瞿曇の眼晴裏」というのは、容易には到達できぬものではなく、先にも申し上げましたように、最初から完成されているものでもありません。元来は「肉団子」とあるように、誰もが衆生の眼であり、凡夫の物事の捉え方なのです。

それは後世、仏と呼ばれる祖師方も同じで、たとえば、修証義第二章の中に「仏祖(ぶっそ)の往昔(おうしゃく)は我等(われら)なり、我等が当来(とうらい)は仏祖ならん」とあるように、「仏も元々は我々と同じ凡夫だったのが、仏道修行によって仏に成った」とあります。まさに仏も長い長い仏道修行の末、「肉団子」が「瞿曇の眼晴裏」と成っていったということなのです。ですから、「瞿曇の眼晴裏」と「肉団子」の両者は、切っても切り離せない密接な関係にあると捉えていくべきなのです。それが「瞿曇の眼晴、肉団子となりて」の意味するところです。

「肉団子」の段階にある者が、「瞿曇の眼晴裏」に至った者を見れば、当然ながら格段に違うレベルの高さに気づかされることでしょう。それを意味するのが「壁立万仞」です。「壁立」は「直立した高い壁」を、「万仞」は「極めて深い、高い状態」を意味しています。これは、例えてみるならば、容易には超えられぬほどの高い壁であり、中々、行き先が判別できぬほどの深い森のような状態ということなのでしょうが、「肉団子」から見た「瞿曇の眼晴裏」というのは、雲の上という言葉がしっくりくるような歴然とした違いがあるのです。

そうした高い壁や深い森のごとき違いがある「肉団子」と「瞿曇の眼晴裏」ですが、両者は別個に存在しているのではありません。私たちの日々の過ごし方によって、いくらでもつながり、近づくことができるもの同士なのです。そのことを押さえておきたいところです。それは「肉団子」も精進すれば「瞿曇の眼晴裏」となり、「瞿曇の眼晴裏」も怠け続ければ、「肉団子」になるということなのです。 

第14回「首章・拈提⑦ 成道の道理を考える上で」

令和4年7月31日 更新

【拈提】諸人即ち是れ瞿曇(くどん)の眼晴(がんせい)なり、瞿曇即ち是れ諸人の全身なり。若(も)し恁麼(いんも)ならば、何を呼よんでか、成道底(じょうどうてい)の道理とせん。

前回は、「瞿曇(くどん)の眼晴裏(がんせいり)(お釈迦様のお悟りの眼)」と「肉団子にくだんす(凡夫のモノの見方)」の関係性について、触れさせていただきました。両者は別個に存在しているものではありません。我々凡夫の眼(モノの見方)というのは、自らの日常生活の過ごし方によって、「瞿曇の眼晴裏」にもなれば、「肉団子」にもなるのです。私たちが仏道修行に邁進しながら日々を過ごせば、「瞿曇の眼晴裏」に近づくことでしょう。また、私たちが一日一日を無駄にし、怠惰な生活を送っていれば、「肉団子」にもなり得るということなのです。

ですから、瑩山禅師様は「諸人即ち是れ瞿曇の眼晴なり、瞿曇即ち是れ諸人の全身なり。」とお示しになるのです。諸人(我々凡夫)たる者は、毎日の過ごし方次第で瞿曇の眼晴(仏の悟りのモノの見方)を体得することができるのです。また、そもそも、瞿曇(お釈迦様)だって、王位という将来の保証された地位や妻子と離れ、仏道修行に邁進なさったからこそ、仏に成られたのです。仏もまた、元来は私たちと同じ凡夫であったということを背後に秘めているのが、「瞿曇即ち是れ諸人の全身なり」なのです。

この点は、仏道修行を行じていく上で、よくよく押さえておきたいところです。坐禅に代表される仏道修行というのは、「無所得無所悟(むしょとくむしょご)」と道元禅師様がお示しになっているように、容易く形ができて、何かしらの結果が出るものではありません。しかし、だからと言って、何も結果が出ないものでもありません。自分勝手な解釈を持ち込むなどして、自分に都合のいい捉え方をしているようでは、忽ち道から外れ、まさに何も得るものもなければ、何か悟ることもなくなってしまうのです。すなわち、余計な未来への期待(たとえば、自分に何かいいことが起ることを期待するようなこと)を持たずに、仏のみ教えに従って、仏の道を歩んでいけば、次第に形が仕上がってくるということなのです。仏道というのは、そう簡単に目標が見えてくるものではなく、時間をかけて長い道のりを歩んでいくようなものなのです。途中で諦めたり、断念したりしてはいけません。歩み続けていくうちに、仏のお悟りへと近づいていくものなのです。

だから、瑩山禅師様は我々に問いを投げかけていらっしゃるのです。「若し恁麼ならば、何を呼でか、成道底の道理とせん。」と―。「底」には、古典文法上の様々な用法はあるようですが、ここでは疑問詞としての用法で解釈していきたいと思います。「もし、凡夫が仏道修行をして、仏のモノの見方を養うと共に、仏も仏道修行によって凡夫から仏に成ったのではないとするならば、一体何が成道の道理と言えるのだろうか?」―。「長い長い仏道を時間をかけて修行しながら、ついには悟りを得る」というのが、成道の道理です。瑩山禅師様の問いかけは、我々に成道の意味を再確認させるだけの強い力を秘めています。

そして、この問いかけは、さらに大きく一歩踏み込んだ問いかけへとつながっていきます。それが次の首章・拈提の中心的思想ともいえる「与とも」です。

第15回「首章・拈提⑧ 瑩山禅師様の問いかけ」

令和4年14日 更新

【拈提】且問(しゃもん)す、大衆、瞿曇(くどん)の諸人と与ともに成道するか、諸人の瞿曇と与に成道するか。

瑩山禅師様が我々にお釈迦様の成道の意味を再確認させるべく発せられた「何を呼でか、成道底の道理とせん。」の問いかけ。そこから更に一歩踏み込んだ形で問いかけがなされていくのが、今回の一句です。キーワードとなるのは‟与”です。この言葉は、お釈迦様が三十歳臘月(ろうげつ)八日、成道なさった際に獅子吼したとされる「我与大地有情、同時成道(我れと大地有情と同時に成道す)」の中に用いられています。この‟与”始め、‟我”というものを、瑩山禅師様は仏道修行の中で詳細に考え、明確にしていくようにと会下の修行僧たちにおっしゃいます(詳細は後日掲載)。

瑩山禅師様は「且問す、大衆」とあるように、大衆(修行僧たち)に且問(試問すること)という形で以て、問いかけます。「瞿曇(お釈迦様)の諸人(凡夫・一般人)と与に成道するか、諸人の瞿曇と与に成道するか。」―ポイントは「与」の解釈です。お釈迦様のお悟りが「縁起の道理」という、「この世の全ての存在がつながり、関わり合い、支え合っている」であったことから推察するならば、一つ一つ全く異なる存在であるもの同士がつながり合っている関係性において、お釈迦様が成道なさったとき、周囲の関わり合っている全ての存在もまた、一緒に成道なさったと捉えることができるでしょう。この点については、「拈提」の冒頭部でも触れられています(詳細は第9回をご覧ください)。そうなると、「瞿曇の諸人と与に成道する」という問いかけが成り立つことは確かであると言えるでしょう。

では、その反対とも言える「諸人の瞿曇と与に成道するか」という問いかけは成立するのでしょうか。確かに、縁起の道理からいけば、瞿曇と諸人はつながり、関わり合っていますから、成り立たないことはありません。

しかし、お釈迦様の成道ということに主眼を置いてみたとき、お釈迦様が三十歳臘月八日にお悟りを得たことから全てが始まっていることになるのです。成道なさったのはお釈迦様であり、諸人ではありません。しかしながら、お釈迦様の成道によって、お釈迦様とつながっている諸人もまた成道できた、すなわち、お釈迦様が成道の手本を提示なさったことによって、諸人が成道の機縁をいただくことができたと解するのが妥当ということなのです。そういう意味から、「瞿曇の諸人と与に成道する」という問いかけが成立することに気づかされるのです。

 

我々凡夫は毎日の過ごし方次第で仏にも近づければ、凡夫になり下がったままで過ごすこともできます。‟与”の一文字が持つ深遠なる背景に思いを巡らせながら、お釈迦様の成道あって、我々凡夫が仏のお悟りに近づける喜びを噛み締め、周囲とのつながり、関わり合いを大切にして、今日もお釈迦様を目指して仏道を歩んでいきたいものです。

第16回「首章・拈提⑨ 成道底の道理 ―諸人が有する成道の可能性―」

令和4年8月21日 更新

【拈提】若し諸人の瞿曇(くどん)と与ともに成道すると言ひ、瞿曇の諸人と与に成道すると言はば、全くこれ瞿曇の成道にあらず。因(より)て成道底の道理と為すべからず。

仏教の始まりは、瞿曇(お釈迦様)が三十歳臘月八日に「我与大地有情、同時成道(我れと大地有情と、同時に成道す)」と獅子吼なさったことに端を発するわけですが、そのお釈迦様の成道によって、後世の仏教祖師方もまた、同じようにして悟りを得ることができたというのが、前回の瑩山禅師様のお示しです。

この点について、瑩山禅師様は「成道底の道理」という言葉を用いて表現なさっています。それはお釈迦様の成道を起点として、諸人(凡夫・一般人)の成道が成立していくということです。確かにお釈迦様と諸人は関わり合い、つながっています。しかし、決して、諸人の成道が起点となって、お釈迦様がお悟りを得たわけでもなければ、お釈迦様だけが成道なさって、諸人が凡夫のまま悟りを得ることができないということでもありません。それらは、まさに「瞿曇の成道にあらず」なのです。

「起点はお釈迦様の成道である」―そこから導き出されることは、誰しも成道の可能性を有しながらも、お釈迦様を指標とし、仏道を精進するならば、等しく成道の機会が与えられているということです。「成道底の道理」を理解していく上で、この点をしっかりと押さえておきたいところです。

こうした「成道底の道理」を踏まえ、今日も我々の仏道修行は行われていくのです。

第17回「首章・拈提⑩ “我”と“与”の参究」

令和4年8月2日 更新

【拈提】成道の道理、親切に会えせんと思はば、瞿曇(くどん)、諸人、一時に払却(ほっきゃく)して、早く我がなることを知るべし。

前段において、瑩山禅師様がお示しになった「成道の道理」とは、お釈迦様の成道(三十歳臘月(ろうげつ)八日、6年間の坐禅修行の末、お悟りを得たこと)を根底としながら、それと同じように仏道を精進すれば、誰もが同じように悟りを得ることができるというものでした。

この成道の道理を指し示す上で、瑩山禅師様は、お釈迦様が成道なさったときに獅子吼なさったとされる「我与大地有情(われとだいちうじょう)と、同時成道(どうじにじょうどう)す」ににおける“我”や“与”という文字にスポットを当てて、着目していらっしゃいます。たとえば、今回は「早く我なることを知るべし」とあったり、この後の段でも「我を明らめ、与を知るべし」とお示しになったりしているように、「我」や「与」というものを参究し、明確にしておく必要性を説いていらっしゃいます。

―「我」と「与」―

この二つは別個に存在するものではありません。深く関わり合いながら一体となって存在しているものです。しかし、別個であると決め込んでみたり、あまり一体であることにばかり目を向けていたりすると、お釈迦様や瑩山禅師様が指し示す道理が中々、見えてこなくなるものです。ときには、これまでの常識や思い込みからの脱却を試みながら、「我」や「与」が持つ意味を個々に追求し、双方の関係性を把握していくことが、伝光録・首章始め、仏道修行におけるポイントの一つと捉え、道を歩んでいきたいところです。

「与」については、前段等でも既にお示しされているように、「お釈迦様の成道を起点とした各種の姿形や働き」という解釈を基本としていきたいところです。

では、「我」とは何なのでしょうか―?

お釈迦様が獅子吼なさったお言葉にある「我」は、当然のことながら、お釈迦様ご自身を指しているわけですが、それはお釈迦様だけを指しているわけではないようです。勿論、主はお釈迦様なのですが、それも含め、成道の道理をさらに明確にし、具体的に捉えていく上で(親切に会せんと思はば)、瑩山禅師様が「瞿曇、諸人、一時に払却」するとお示しになっているように、「瞿曇(お釈迦様)と諸人(我々凡夫)を一時的に払却(切り離すこと)」して、考えてみる必要があるというのです。これは「“悟りを得た仏”と“未だ仏道が未完成の凡夫”という二見対峙の見解を一旦、捨てた上で考えてみる」ということです。そうすることによって、「我」が明確になっていくということをなのです。

この二見対峙の見解を払却することによって、双方が仏に成れる性質を有したものであることに気づかされるのです。六年間の端坐という仏道修行によって、悟りを得たのが仏なのです。また、そうした修行をしていなかったり、あるいは、修行はしているものの、未だ道途上にあって、成道に至っていなかったりするのが、凡夫なのです。一見したところ、全く別物のように見受けられる仏と凡夫ですが、その根底には仏に成れる性質を有しているという共通点があることに気づかされます。この万事が共通して有する「仏に成れる性質」というのが、「仏性(ぶっしょう)」なのです。

そうした「仏性を有する」という共通点の存在を確認した上で、我々凡夫が仏を目指し、いただいたいのちを生きていくことが重要であることは、もはや言うまでもない仏道修行者のあり方です。ここでは、再度、確認しておくに留めておきたいところです。

第18回「首章・拈提⑪ “我”を明らめ、“与”を知る」

令和4年日 更新

【拈提】我の与なる、大地有情なり。与の我なる、是れ瞿曇老漢(くどんろうかん)に非ず。子細(しさい)に点検し、子細に商量(しょうりょう)して、我を明あきらめ、与を知るべし。

「我」と「与」ということについて、瑩山禅師様は「子細に点検し、子細に商量して、我を明らめ、与を知るべし」とお示しになっています。これは『「我」や「与」ということについて、事細かく参究し、明確にしておくように。』ということで、これが仏道修行者に向けた仏と成った祖師からのメッセージと捉えるべきでしょう。「点検」という言葉は現代でも使用されていますが、「点を打つがごとく、一つ一つ調べる」という意味があります。また、「商量」には、「商人が物品売買の際、お互いに値段を相談して定めていくように、丁寧に問答して審議すること」を意味しています。

前段において、「我」とは、「仏性(仏に成れる性質)を有した全ての存在」を指し、「与」は、「成道なさったお釈迦様を起点とした各種の姿形・働き」であると捉えました。お釈迦様が三十歳臘月(ろうげつ)八日に成道なさったとき、「我与大地有情、同時成道」と獅子吼なさったとのことですが、瑩山禅師様は、このお言葉はお釈迦様が成道なさったとき、その周囲に存在する全てのものが仏に成ったことを指し示すものであると解釈をなさっています。すなわち、“今”という時間、“ここ”という場所において、ご自身と周囲の全ての存在とがつながっているということを指し示しているのです。ちなみに、これがお釈迦様のお悟りです。

そして、それは“今”・“ここ”だけに限定されたことではありません。「三世諸仏(さんぜしょぶつ)も皆成道す。」とおっしゃられるように、三世(過去・現在・未来)といった時間的な縛りは一切関係なく、過去や未来の仏も皆、お釈迦様の成道によって、同じように成道なさったというのです。

これらを考えあわせていくに、お釈迦様が成道なさったときに獅子吼なさったお言葉には、過去・現在・未来、時間や場所に関係なく、全ての存在がつながり、関わり合い、支え合っているという中で、我の成道によって、大地有情、全ての存在が成道していくということが指し示されているのです。これが「与」という成道の働きです。そして、それが「我の与なる、大地有情なり」の指し示すところです。大地有情、この世の全ての存在は、「仏性」という「仏に成れる性質」を有しているという点では、同じものなのです。

 

また、「与の我なる、是れ瞿曇老漢に非ず」とありますが、「我」も「与」も大地有情とつながりがあるものならば、瞿曇老漢(お釈迦様)のみに限定されるものではないということを指し示しています。「我」はお釈迦様に限定されたものではなく、仏性を有した全ての存在を指しています。それらが周囲の全ての存在と関わっているという道理を押さえながら、「我」と「与」の参究を続けていきたいところです。

第19回「首章・拈提⑫“我”と“与”の参究における留意点」

令和4年9月11日 更新

【拈提】設(たと)ひ我を明(あき)らめたりといふとも、与を明らめずんば、亦(ま)た一隻眼(いっせきげん)を失す。然(しかり)と雖(いえど)も我と与と一般(いっぱん)に非ず、両般(りょうはん)に非ず。

瑩山禅師様は前段において、「我」と「与」ということについて、「子細(しさい)に点検し、子細に商量(しょうりょう)して、我を明らめ、与を知るべし」とお示しになっていました。そうやって、「我」や「与」を事細かく参究し、明確にしたとしても、「我を明らめたりといふも、与を明らめずんば、亦た一隻眼を失す」とあるように、「我」のみを明確にし、「与」は明確にしないといった、偏った参究をしているようでは、片方の眼を失ったような状態になると、瑩山禅師様はおっしゃっています。「一隻眼」というのは、「正しい見識」のことで、仏眼(仏のモノの見方)です。「一隻」には「2つあるものについて、そのうちの一方」という意味があります。

果たして、2つの眼があるならば、両方とも肉眼(凡眼)といった凡夫のモノの見方をする目なのか、あるいは、一方が肉眼(凡眼)であれば、もう一方は、仏眼(正しい見識を有した仏の眼)なのか、はたまた、双方の眼が仏眼なのか、我々が仏道を修し、歩んでいく上で、「我」と「与」の双方を子細に参究しなければ、一隻眼(正しい見識)を失うことになりかねないという瑩山禅師様のお示しを踏まえるとき、我がモノの見方が仏眼となるよう、自らの眼を磨いてくことの重要性を思わずにはいられません。

そして、瑩山禅師様は続けます。「我と与と一般に非ず、両般に非ず」と。「一般」は「同じもの」、「両般」は「両方、二種類」の意を有します。「我」と「与」は、決して、「同じもの」ではありません。それは、これまで参究してきた通りです。仏に成れる性質を有した全ての存在である「我」は、その一つであるお釈迦様(瞿曇老漢【くどんろうかん】)が坐禅修行によって、お悟りを得た際に、時と場所を超えて、全ての存在がつながっているがゆえに、皆、瞿曇老漢のごとく仏道修行に励むならば、いつか必ず仏のお悟りを得られるときがやって来ることが証明されたのです。それが「与」の意味するところです。

また、「我」と「与」は別々のものでもないと瑩山禅師様はおっしゃっています。両者は違うものではあるものの、相互に関連し合い、一体となったものなのです。そうやって「仏」という存在が成り立っていると解すべきでしょう。

こうした「我」と「与」について、どちらか一方に偏った形で参究をしても、仏の道にはたどり着きません。双方、個別の存在ではあれども、一体のものとして捉えてくことが、「我」と「与」の参究において、瑩山禅師様が指し示す留意点なのです。

第20回「首章・拈提⑬ 仏性を信じて」

令和4年10日 更新

【拈提】正(まさ)に汝等の皮肉骨髄(ひにくこつずい)、尽く与なり。屋裏(おくり)の主人公、是れ我なり。皮肉骨髄を帯(たい)せず、四大五蘊(しだいごうん)を帯せず。

 

仏道を歩む上で、仏に成れる性質を有した存在である「我」と、仏と成ったお釈迦様を起点とした各種働きを意味する「与」。この双方を細部に渡って参究し、明確にしていくことが大切であると瑩山禅師様はお示しになっています。そうした「我」や「与」について、別の角度から考察を加えているのが、今回の一句です。

 

まず、「汝等の皮肉骨髄、尽く与なり」とあります。「皮肉骨髄」というのは、私たちの身体を構成する皮・肉・骨・髄のことで、これらの要素が集合して、私たちが存在するわけですが、そのことを踏まえた上で、諸仏諸祖が指し示す真理や大法を解していくのが、「皮肉骨髄」の説かんとしているところです。ここでは瑩山禅師様は、私たちの皮肉骨髄の集合体である身体そのものが「与」という、仏の修行を行じ続けることによって、仏に成れる可能性を有していることを再度、お示しになっています。すなわち、誰もがご先祖様から代々伝わるいのちをいただいて生かされていますが、ご先祖様からいただいた肉体には、仏に成れる要素が含まれているということです。そこに気づくとき、そうした素晴らしい肉体をいただいて生かされていること自体が、何物にも代えがたい幸せであることを思わずにはいられません。だから、先祖への感謝が芽生え、その恩に報いるべく、仏のみ教えに従って仏の生き方を行じていくことが求められていくのです。

 

次に、「屋裏の主人公、是れ我なり」とあります。屋裏は自分の家、すなわち、皮肉骨髄から成る自分の身体のことを、また、主人公は仏法を、それぞれ例えたものと解釈を施します。これは誰もが有する仏性(仏に成れる性質)を意味し、「我」を指しているのです。

 

「明珠在掌(みょうじゅたなごころにあり)」という禅語がありますが、「明珠(宝物)は、どこか遠くの秘境の地のような場所にあるのではなく、実は自分の手中という、身近な場所に存在している」というのです。我々は、それを知ろうともせず、どこか遠くにあると思い込んでいるのです。そんな思い込みに捉われながら、遠くばかりを求め、日々の地道な修行を続けようとしないがために、中々、仏に近づけないでいるのです。そのことも押さえておきたいところです。

 

「皮肉骨髄を帯せず、四大五蘊を帯せず」―「四大」は「地・水・火・風」という、この世の全てを構成している要素、「五蘊」は「色・受・想・行・識」という、四大の構成要素を指しています。我々の皮肉骨髄というのは、そうした要素の集合体でありながら、仏性という仏に成れる性質を有するがゆえに、各種要素を超えた存在なのです。だからこそ、仏に成れる性質を信じて、毎日を精進して過ごしていきたいのです。

第21回「首章・拈提⑭ 皮袋(ひたい)あってこそ」

令和4年10月18日 更新

【拈提】畢竟(ひっきょう)して言はば、庵中不死(あんちゅうふし)の人を識(し)らんと欲せば、豈今這(あにいまこ)の皮袋(ひたい)を離れんや。然(しか)れば大地有情(だいちうじょう)の会(え)をなすべからず。

 

「庵中不死の人を識らんと欲せば、豈に今這の皮袋を離れんや。」は釈尊相承(しゃくそんそうじょう)35祖・中国の石頭希遷(せきとうきせん)禅師(700-790が撰述した「草庵歌(そうあんか)」の末尾の一句です。「草庵歌」は石頭禅師が大きな盤石の上に草庵を結び、坐禅三昧の日々を送っていたときに、悟りの境地を歌ったもので、庵中不死の人とは、誰もが本来有する仏性をたとえたもので、庵は肉体、不死人は仏性を指します。

 

前回、「皮肉骨髄(ひにくこつずい)」という言葉が用いられていましたが、皮・肉・骨・髄の集合体である我々の身体が「皮袋」です。「与」という、皮肉骨髄の固体を超えた「仏性(仏道修行を行じ続けることで、仏の悟りに近づける性質)」を有する存在としての我が身を考えるとき、やはり「皮袋」の存在あってこその悟りであり、皮袋を原点・基本として、私たちは仏のお悟りに近づけると捉えていくべきことに気づかされます。

 

突き詰めてを言えば(畢竟して言はば)、仏性を有した我が身を考えていくとき、皮袋たる我が身を考慮することなしに、正確に我が身を捉えていくことはできないというのです。我が身がどういう性質を持ったものなのかを考えていくとき、やはり仏性を有しているという点を抜きにして正確な把握などできるはずがなく、我が身と仏性の存在を明確に関連づけながら、皮袋というものを捉えていくべきなのです。それが「庵中不死の人を識らんと欲せば、豈に今這の皮袋を離れんや。」の意味するところです。

 

だから、「大地有情の会をなすべからず」とあるように、この世の一切の存在は集いをなしているのです。それは、お釈迦様が六年端坐(ろくねんたんざ)、三十歳臘月八日(さんじゅっさいろうげつようか)にお悟りになったお互いに関わり合い、支え合って生かされているという、この世の道理なのです。

第22回「首章・拈提⑮ 万像之中独露身(ばんぞうしちゅうどくろしん)」

令和4年10月25日 更新

【拈提】設(たと)ひ春夏秋冬に、転変(てんぺん)し来りて、山河大地(せんがだいち)、時と与に異なりと雖いえども、知るべし、是れ瞿曇老漢(くどんろうかん)の、揚眉瞬目(ようびしゅんもく)なる故に、万像之中独露身(ばんぞうしちゅうどくろしん)なるなり。撥万像也(ほつばんぞうなり)、不撥万像也(ふほつばんぞうなり)。

 

今朝方、お檀家さんの宅に月参りにお伺いいたしましたところ、開口一番、「すっかり寒くなりましたね」という言葉を交わしました。先日お伺いしたお宅はファンヒーターが出ているなど、つい一カ月ほど前までは「暑い、暑い」と言っていたのが嘘のように、夏は過ぎ、秋の真っ只中を迎えています。「春夏秋冬に、転変し来りて、山河大地、時と与の異なり」-時間の流れとの関わりの中で、今・ここ、山河大地に存在している全てが変化していくという、この世の道理が指し示す一句です。

 

そうした中で、瑩山禅師様は、「知るべし」と修行僧たちにおっしゃいます。瑩山禅師様は何を学道の者たちにお伝えしようとなさっているのか?-それが「瞿曇老漢の、揚眉瞬目なる故に、万像之中独露身なるなり」です。

 

「揚眉」とは「眉を上げる」ことで、「瞬目」は「まばたきをすること」です。お釈迦様(瞿曇老漢)が眉を上げ、まばたきをするという場面で思い起こされるのは、お釈迦様が迦葉尊者(かしょうそんじゃ)に法を伝えた「世尊拈華微笑(せそんねんげみしょう)」の故事です。これは、大勢の修行者が集う場において、お釈迦様がまばたきをしながら、金波羅華(こんぱらげ)(金色の蓮の花)を示したとき、その意を介さぬ者ばかりがいる中で、ただ一人、迦葉尊者のみがその意を得て、にっこりと微笑んだことによって、お釈迦様が迦葉尊者に正法を伝えたというものです。次に「万像之中独露身」ですが、宇宙万象の中において、何事にも依存したり、捉われたりすることなく、ただ一人、堂々とその絶対的な姿を露わにしている存在があるということを説いています。すなわち、この世の全ての存在が「万像之中独露身」という唯一の存在であるということであり、これこそが瑩山禅師様が今回の一句の中で特に我々に強く訴えたかった箇所なのです。

 

仏法は瞿曇老漢の揚眉瞬目によって、迦葉尊者に伝わり、以降、インド・中国・日本と時間と場所を超えて脈々と伝わってまいりました。その仏法において、「万像之中独露身」というのは、一人一人の人間が異なる絶対の存在でありながらも、誰もが「仏性」という「仏に成れる性質」を有していることをも説き示しています。仏法を伝えてきた師と弟子が仏性を持った者同士であった―だからこそ、仏法は伝わってきたのです。我が身が「万像之中独露身」であることを再確認するとき、このいただきもののいのちが尽きる日が来るまで、仏性の花が開花できるように、毎日を過ごしていきたいと願うのです。

第23回「首章・拈提⑯ 横参竪参(おうさんじゅさん)して自己の成道を会す」

令和4年10月31日 更新

【拈提】法眼(ほうげん)曰く、甚麼(なん)の撥不撥(ほつふほつ)とか説かん。又地蔵曰く、甚麼(なに)を喚(よん)でか万像(ばんぞう)と作(な)さん。然あれば、横参竪参(おうさんじゅさん)し七通八達して、応(まさ)に瞿曇(くどん)の悟処(ごしょ)を明らめ、自己の成道を会すべし。

 

中国五家七宗の一つである法眼宗(ほうげんしゅう)の祖・法眼文益(ほうげんもんえき)(885-958)と、その師である地蔵桂深(じぞうけいしん)(867-928)のお名前が出てまいります。「何を以て万像と言うのか?」―師・地蔵の問いに、法眼は「撥不撥」と説き示されました。「発することも万像、発さないことも万像、万事がただ一人、堂々とその存在を露わす唯一絶対の存在である」―それが法眼の説く「万像」です。

 

雪峰義存(せっぽうぎぞん)(822-908)の流れをくむ地蔵や法眼は熱心な仏道修行者で、行事綿密、それゆえ、中国禅宗の発展に貢献すると共に、大勢の弟子を育成されました。残念ながら法眼宗はその後、早い段階で凋落(ちょうらく)していったようですが、その特色である公案等は今の臨済宗に継承されていったようです。

 

中国における禅宗の歴史については、住職もまだまだ参究の余地を残しておりますが、禅宗法系譜(禅宗における仏法が誰から誰へと伝わっていったかが図示された系譜)を拝見するだけでも、相当数の僧侶のお名前や系譜が確認できます。お釈迦様から伝わる仏法が達磨大師(生没年他説あり)によって中国にもたらされましたが、中国では、それが幾多にも広がりながら、中には今日まで続く系譜もあれば、残念ながら消えてしまったものもあることに気づかされます。日本には道元禅師様が天童如浄禅師(1162-1227)の下で仏道修行に励まれたことによって、もたらされましたが、いかにお釈迦様の仏法が途絶えることなく今日まで伝わっていることがすごいことなのかを、改めて感じます。

 

そうした国を超え、時を超え、多くの人から人へと伝わってきた「瞿曇の悟処(お釈迦様のお悟り・み教え)」というものは、決して、一点だけで捉えるべきものではないことは、言うまでもありません。「横参竪参」―縦横様々な角度から自在に参究すべき「七通八達(万事に通ずること)」のみ教え・お悟りと理解すべきです。正解を一つに絞るような一点に捉われた解釈では、そこから外れた解釈の排除につながります。そうした捉え方では、仏法を正しく理解しているとは言えません。時には横から捉え、また、別の時には縦から見ていくような、様々な角度から柔軟に捉えていくのが、お釈迦様のみ教え・お悟りであることを、ここでしっかりと押さえておきたいところです。そして、私たちも柔軟な捉え方や解釈というものを仏法から学び、身につけていきたいと願うのです。それが瑩山禅師様のおっしゃる「自己の成道を会す」ということなのです。 

第24回「首章・拈提⑰ 自らの言葉で語る」

令和4年1日 更新

【拈提】恁麼(いんも)の公案(こうあん)、子細(しさい)に見得(けんとく)し、一一に胸襟(きょうきん)より流出(るしゅつ)して、前仏(ぜんぶつ)及び今時(こんじ)の人の語句をからず、次の請益(しんえき)の日を以て下語(あぎょ)説道理すべし。

 

「恁麼の公案(このような仏祖のみ教え)」ということですから、前段において示された「横参竪参(おうさんじゅさん)し七通八達(しちつうはったつ)して、応(まさ)に瞿曇(くどん)の悟処(ごしょ)を明らめ、自己の成道を得すべし」を指していることは言うまでもありません。縦横斜め、様々な角度からお釈迦様がお悟りになったことを確かめることによって、自らの成道ということを体得していくことが仏道修行における要の一つであり、そうした捉え方をしながら、仏道を極めていくことが、「子細に見得する」ということなのです。

 

仏道修行者の日常というのは、「横参竪参し七通八達」しながら、お釈迦様のお悟りを明確にしていくことです。そして、そうやって自分自身が次第に仏に近づいていくのです。これは仏道に限らず、芸術でもスポーツでも学問でも、どんな道においても通ずる道を参究していく上での大切な姿勢です。

 

こうした道の参究の中で、ときには先人の生き様であったり、現時点で道の最前線を歩む方の成功例や体験であったりというものが大いに参考となることもあるでしょう。仏道修行者にとっては、前仏(過去に仏に成った祖師方)や、今の時点で行事綿密な仏道修行者の言葉が参考になることがあるということです。

 

ただ、あまり先達ばかりを求め、他者からの借り物によって道を理解していこうとしても、確実に何かを得られるものではありません。たとえ得るものがあったとしても、それはほんの一握り程度のものなのです。やはり、自らの身で以て道を行じてこそ、道というものは身についていくので、坐禅という仏に成る修行を繰り返していく中で、自らの言葉で以て仏道を語れるようになっていくのです。それは、どんな道にも当てはまりまるもので、こと仏道の世界においては、それが子細に見得した修行者ではないかという気がいたします。「一一に胸襟より流出して」とあります。日頃から仏道修行に励むがゆえに、自分の中から沸々と仏の道理が言葉や思想になって沸き起こっていることを指し示しています。なぜ、そんなことが起こるかと申し上げるならば、自分自身が仏と成っているからに他ならないからです。

 

以上、これまでの瑩山禅師様から仏道修行者に示されたお釈迦様成道に関するお示し(拈提)を踏まえ、瑩山禅師様は「次の請益の日を以て下語説道理すべし」と修行者たちにおっしゃいます。「請益」は修行者たちが師匠に教えを求めることによって、自らを益していくことです。瑩山禅師様が2代住持職をおつとめでいらっしゃった頃の大乘寺だいじょうじ様には、修行僧たちが瑩山禅師様に直にみ教えを求める請益の機会というものが存在していたのでしょう。

 

そんなときに、「下語説道理すべし」と瑩山禅師様はおっしゃっています。「下語」は会下の修行者たちが教えを求めてきたことに対して、師が指し示す簡易な言葉です。この下語によって、「説道理」、すなわち、「道理を説く」というのです。道に迷ったとき、どうすれば正しい道を歩んでいけるのか、その的確な道先案内ができる師の元には、方々から修行者が集います。そして、そうした修行者たちが道を究め、仏と成り、仏のみ教えが広まっていくことを、仏教の長い長い歴史が証明しています。道を求める者、道を案内する者、双方の存在によって、お釈迦様のみ教えが今日まで脈々と伝わってきた事実を、改めて、再確認しておきたいところです。

第25回「首章・頌古 一枝秀出(いっししゅうしゅつ)す老梅樹(ろうばいじゅ)」

令和4年11月6日 更新

【拈提】山僧(さんぞう)、亦(ま)た此一則下(このいっそくか)に卑語(ひご)を着けんことを思う。諸人聞かんと要すや。

【頌古】一枝秀出(いっししゅうしゅつ)す老梅樹(ろうばいじゅ)、荊棘(けいきょく)、時と与に築著(ちくじゃく)し来る。

 

「伝光録」における「首章」もいよいよ、最終箇所に入りました。第1回でも触れさせていただきましたが、瑩山禅師様は仏教の開祖であるお釈迦様のみ教え・お悟りが、釈尊成道後、どのような形で師から弟子へと伝わっていったかを一定のスタイルを以て、提示なさっています。今回の「頌古(じゅこ)」は祖師方の古則に対して、偈や詩を用いながら簡潔に宗意を示したもので、この後に続くどの章も最後は瑩山禅師様の偈頌によって締めくくられています。

 

まず「首章」の「拈提」における最終部分となる「山僧、亦た此一則下に卑語を着けんことを思う。諸人聞かんと要すや」に触れておきます。瑩山禅師様は「山僧(仏道修行の身である僧侶)」と謙遜して自称しながら、諸人(会下の修行僧)に卑語(これまで述べてきたお釈迦様のお悟りに関する自らの見解を謙虚な姿勢で評する言葉)を以て、自らの提唱を締めくくることをお伝えしています。「聞かんと要すや」―最後に皆さんの耳をお借りしたいという謙遜の意を込めたお言葉には、師と弟子と言った、一見、どちらかが上で、どちらかが下といった表面的な上下関係があるように見えますが、実はそんな小さな関係性など超越した同じ仏道修行者として、共に仏の道を歩んでいこうとする姿勢が感じられます。これぞまさに師と弟子が“同(ひとつ)”に融け合った「同事(どうじ)」であり、禅の修行道場というのは、こうした同事の空気感が常に漂う場でなくてはならないことを再確認させられます。

 

―「一枝秀出す老梅樹、荊棘、時と与に築著し来る。」―

初めは小さくて若々しかった梅の木も、長い長い時を経て成長を遂げ、やがては老いて「老梅樹」となっていくわけですが、枯れていくだけのいのちに見えた老木に、ほんのわずかの枝が顔を出している様が「一枝秀出す老梅樹」から思い浮かべられます。この一枝には、決して、いのちが尽きようとしている老木の姿を表しているのではありません。老いながらも新しいいのちが息づき、これから先も生きていこうと必死にいのちの脈を打ち続けている姿が表現されているのです。

 

お釈迦様は三十歳臘月八日に坐禅修行によって成道なさったとのことですが、それは、まさに老木に生じた若々しくて、未来のある希望に満ちた一枝のようなものであったということなのでしょう。老梅樹は、そんな瑩山禅師様を生み出した「我」を指しています。

 

「我与大地有情と、同時に成道す」―お釈迦様が悟りを得たときに獅子吼なさったセリフ―

この「我」は、頌古にある老梅樹が指し示すものであると共に、それは瑩山禅師様だけに限定されたものではない、あらゆる存在・全てのいのちというものを意味していることを、ここでは再確認しておきます。表面的には枯れて終わるように見えても、決して、そういうものではなく、永遠の存在たるものである―それが「我」なのです。

 

次に、「荊棘」という言葉が出てまいります。荊棘(いばら)という障害物を表す存在は、「三毒煩悩さんどくぼんのう(貪り・瞋いかり・愚かさ)」という仏教が指し示す人間が生きていく上での障害となる存在を意味しています。そうした荊棘もまた「我」から生じたものであり、「我」の一つなのです。それらも時の流れの中で、様々な姿形をまとって現前(築著)しているというのです。

 

この世には様々ないのちが老梅樹に生える一枝のごとく存在していますが、その枝の育て方・生き方ひとつで、枝は仏にもなれば、鬼にもなっていくのです。そんな一枝を生み出す老梅樹の存在を意識しながら、仏に成る道を歩む毎日を過ごしていきたいものです。 

第26回「第一章・本則 一枝の金波羅華(こんぱらげ)がつないだ仏縁」

令和4年11月22日 更新


 【本則】 第一祖、摩訶迦葉尊者(まかかしょうそんじゃ)、因(ちなみ)に世尊拈華瞬目(せそんねんげしゅんもく)し、迦葉破顔微笑(かしょうはがんみしょう)す。世尊曰(せそんのたまわ)く、「吾(われ)に正法眼蔵涅槃妙心有(しょうぼうげんぞうねはんみょうしんあ)り、 摩訶迦葉(まかかしょう)に付嘱(ふしょく)す。」

 

お釈迦様が耆闍崛山(ぎじゃっくせん)(霊鷲山【りょうじゅせん】)という所で説法をなさっていたときのことです。霊鷲山はお釈迦様の説法地の一つで、ここで繰り広げられた人間同士のドラマは、現代にも仏教説話等、様々な形で伝わっております。

 

そんなエピソードの一つとなるのが、今回から瑩山禅師(けいざんぜんじ)様によって提唱されていくお釈迦様と高弟・摩訶迦葉尊者(まかかしょうそんじゃ)とのやり取りです。お釈迦様が霊鷲山にて大勢の人々の前でご説法をなさっていたとき、その中にいらっしゃった迦葉尊者との出会い・関わり・師弟関係形成に至るまでの一連の流れ、そして、それに対する瑩山禅師様の詳細なご説明と見解が示されていくわけですが、その具体的な内容を語る上でキーワードとなるのが、「世尊拈華瞬目」や「迦葉破顔微笑」、「正法眼蔵涅槃妙心」です。それらに触れながら、お釈迦様と迦葉尊者とのエピソードを読み味わってまいりたいと思います。

 

まず、迦葉尊者について簡単に触れておきたいと思います。古代インドにおける十六大国の一つで、お釈迦様の成道や布教伝道が行われた摩竭陀国まかだこくのご出身で、お釈迦様の十大弟子のお一人、その中でも「頭陀第一(ずだだいいち)」と呼ばれたほど、厳しい頭陀行(質素に徹した仏道修行に励むこと)を修せられた方です。また、お釈迦様がお亡くなりになったとき、高弟の中でも年長者であったことから、お釈迦様の葬儀を執り行うと共に、葬儀の後、五百人からのお弟子様たちを集め、お釈迦様の教法を確認し合い、後世に伝える会議の場(結集【けつじゅう】)を持った方でもあります。

 

そんな迦葉尊者がお釈迦様のご説法をお聞きするべく、大勢の方が集う霊鷲山にいらっしゃったとき、仏教を守護する役割を有する梵天王(ぼんてんおう)がお釈迦様に一枝の金波羅華こんぱらげ(金色の蓮華)を差し出し、説法の依頼をなさいました。すると、お釈迦様は梵天王のご依頼に応じて、壇上に登壇し、人々にいただいた一枝の金波羅華を拈じてお見せになりました。

 

このとき、聴衆のほとんどがお釈迦様の意を解することができず沈黙してしまったのですが、ただ一人、そのお釈迦様の意を解して、破顔微笑(にっこりと微笑むこと)なさった人物がいらっしゃいました。それが迦葉尊者でした。お釈迦様は言葉だけでは語り尽くせぬ仏法のお示しを梵天王からいただいた一枝の花に込めて、聴衆に提示なさったのですが、それに対して、その場では迦葉尊者のみが、お釈迦様の意を理解し、静かに微笑むことで回答なさったというのです。これが「世尊拈華微笑」として今日まで伝わるお釈迦様と迦葉尊者のエピソードです。

 

お釈迦様のお悟りというのは、全てが言葉で表現しつくせぬ高尚で尊いものなのです。自らの苦悩から救われたい等、様々な思いを持って霊鷲山に集う大勢の聴衆は、お釈迦様が発する言葉の一字一句もを聞き逃すまいとなさっていたことでしょう。そんな中で、一枝の華を拈じながら言葉だけでは表せぬ仏の境地・お悟りを提示なさったお釈迦様の意を一体、誰が解することができただろうか?―唯一、ご理解なさった迦葉尊者こそが、お釈迦様の後継者に相応しい人物であり、だからこそ、お釈迦様から迦葉尊者に仏のみ教えが伝わっていったのです。それが「正法眼蔵涅槃妙心」であり、後世、仏教祖師方が師から弟子へと伝えていったものなのです。

 

前回、瑩山禅師様がお示しになった「一枝秀出(いっししゅうしゅつ)す老梅樹(ろうばいじゅ)、荊棘(けいきょく)、時と与ともに築著(ちくじゃく)し来きたる」という偈頌(頌古【じゅこ】)について触れさせていただきました。これはお釈迦様の成道に関する偈頌なのですが、老梅樹(我)という、様々な存在から仏に成るものも出てくれば、荊棘(妨げとなるもの)を有する者も出てくるというのが、この世の定めとは言え、それを踏まえて、仏に近づく道を歩んでいくことが、仏道修行者の使命であることが確認できる偈頌であると捉えています。お釈迦様が拈じられた一枝の金波羅華は、老梅樹から誕生してお釈迦様と迦葉尊者の仏縁を育みました。また、迦葉尊者もこの霊鷲山でのやり取りによって、仏に近づくことができた人材であったと捉えらえます。今一度、瑩山禅師様がお示しになった偈頌にも触れながら、我なる老梅樹から生じた私たちも、少しでも仏に近づけるよう、日常のほんのわずかなものにも見える一枝の花にさえも目を向けながら、毎日を過ごしていきたいものです。

第27回「第一章・機縁① 三十一相を具足(ぐそく)せし婆羅門(ばらもん)」

令和4年11月2日 更新

【機縁】 摩訶迦葉尊者(まかかしょうそんじゃ)、姓は婆羅門(ばらもん)。 梵(ぼん)には迦葉波(かしょうは)、此(ここ)に飲光勝尊(おんこうしょうそん)と曰(い)ふ。尊者生(そんじゃう)まる時、金光(こんこう)、室に満みちて、光ことごとく尊者の口に入る、因(よ)りて飲光と称す。其身金色(そのみこんじき)にして、三十一相を具足(ぐそく)せり。唯(ただ)、烏瑟白毫(うしつびゃくごう)の欠けたるのみなり。

 

お釈迦様のお悟り・み教えを受け継いだ高弟・摩訶迦葉尊者―その出生や身体的特徴が瑩山禅師様より詳細に説明されていくのが今回の一句です。

 

まず、「姓は婆羅門」とあります。後に「ヒンドゥー教(インド教)」がインド国民の民間信仰宗教として普及していきますが、その起源となるのが「婆羅門経(バラモン教)」で、ヒンドゥー教に基づく四つの区分の最上位と位置付けられるのが「婆羅門」です。参考までに下記の一覧表において、ヒンドゥー教における「四姓制度」に触れておきたいと思います。

 

婆羅門 バラモン          僧族・司祭者

刹帝利 クシャトリヤ   王族・士族

毘舎   ヴァイシャ       庶民(農工商)

首陀羅 シュードラ       奴隷族


こうした四姓制度を見てみると、かつての日本も江戸時代に「士農工商」の身分制度がありました。いずれも共通するのは、人間を出生の違いで区別し、差をつけてしまうことになった社会制度であるということです。当然ながら、現代社会においては憲法等によって、身分制度は勿論のこと、それに基づく差別行為は禁止されていますが、私たちは、こうした事例を前に、決して、過去の歴史的事実として終わらせるのではなく、これからの時代においても同様の差別意識を持つことがないよう、意識しながら毎日を過ごしていきたいものです。

 

ちなみに、婆羅門には四つの段階があるとされています。最初は「梵行期(ぼんぎょうき)」といって、7・8歳頃から師について住み込み状態で12年ほど祭儀を教わる「学業期」、次が20歳頃、師の元から自宅に戻り、結婚して、祭事に専念する「家住忌(いえずみき)」、そして、家事・財産の全てを成長した子どもに譲り、林野にて修行に励む「林棲忌(りんせいき)」、最後は全てを捨てて世間に出て托鉢生活に勤しむ「遊行期(ゆぎょうき)」という流れです。迦葉尊者はこうした生涯を送ることになっていた婆羅門の一人だったのです。ちなみに、師となるお釈迦様は釈迦族のご出身ということから、刹帝利(クシャトリヤ)」に属していらっしゃいました。

第28回「第一章・機縁② 多子塔前(たしとうぜん)の決定的瞬間」

令和4年111日 更新

【機縁】 多子塔前(たしとうぜん)にして、初(はじめ)て世尊(せそん)に値(あ)ひたてまつる。世尊、善来比丘(ぜんらいびく)とのたもふに、鬚髪(しゅはつ)すみやかに落ち袈裟(けさ)体に掛る。乃(すなわ)ち正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)を以て付嘱(ふしょく)し、十二頭陀(じゅうにずだ)を行じて、十二時中虚(むなし)く過ごさず。

 

―「三十一相を具足(ぐそく)する婆羅門(ばらもん)・迦葉尊者(かしょうそんじゃ)」―

尊者にとって、生涯に渡る師となる世尊(お釈迦様)と初めて出会った場所が「多子塔前」であることが瑩山禅師様より提示されます。「多子塔前」において、お釈迦様と迦葉尊者は出会い、正法眼蔵(仏法)が伝わったのです。それは仏教史における「初めての師から弟子へと教えの相承そうじょう」が為された決定的瞬間とも言うべき場面でしょう。

 

この決定的瞬間について、瑩山禅師様から詳細に説明が施されていきます。まず、「世尊、善来比丘とのたもふに」とあります。「善来比丘」というのは、インドにおいて修行者たちを「ようこそ、いらっしゃい」と歓迎する際に発せられる言葉です。そんなお釈迦様からの温かい歓迎のお言葉をいただいた瞬間、「鬚髪すみやかに落ち袈裟体に掛る」とあるように、迦葉尊者のヒゲや髪がなくなり、袈裟を身につけた、すなわち、「清浄なる出家者の姿になった」というのです。そして、「正法眼蔵を以て付嘱し」とあるように、お釈迦様から迦葉尊者に仏法が伝わり、仏教史上初の師弟関係が多子塔前において誕生したというのです。これは、仏教が後世に伝来していく上での礎ともなった重大な場面と捉えて十分なものです。

 

そうしたお釈迦様のみ教えを受け継いだという高弟・迦葉尊者は「十二頭陀を行じて、十二時中虚しく過ごさず」という人物であったことが瑩山禅師様より紹介されます。「十二頭陀行」は「修行僧が衣食住における貪りや執着を振り払うための12の修行」です。迦葉尊者は「頭陀第一」と称されたように、誰よりも徹底的に頭陀行を修し、厳格かつ質素な日常を過ごしてきた人物です。「十二時中虚しく過ごさず」からは、一日中、頭陀行に徹底した迦葉尊者の生き様がにじみ出ているような気がいたします。

 

ここで「十二頭陀」について、一覧表にて下記の一覧表にて触れておきます。

 

在阿蘭若処       ざいあらんにやしょ             戸外の静かな地で過ごすこと

常行乞食          じょうぎょうこつじき         他者の接待を受けず、自ら食を乞うこと

次第乞食          しだいこつじき          貧富の差なく食を乞うこと

受一食法          じゅいちじきほう                午前中一回と決まっている食事以外は食さないこと

節量食       せつりょうじき               定まった量の食を受け、それ以上、多くの食を受けないこと

中後不得飲漿   ちゅうごふとくおんしょう   午前中一食以外、以降は正食をいただかないこと

著糞掃衣          ちゃくふんぞうえ                人が捨てた汚衣を縫うなどして着用すること

但三衣                 たんさんね                     定まった三衣以外は着用しないこと

塚間住                 ちょうかんじゅう                墳墓にあって住すること

樹下住                 じゅげじゅう  

露地坐                 ろじざ                               屋外の草地や樹下に住むこと

但坐不臥          たんざふが                     常時坐禅を行じて、横にならないこと


こうして見てみますと、「十二頭陀」が大変厳しい修行であることが伝わってまいりますが、一つの行に徹底することが仏道であることに改めて、気づかせていただくのです。 

第29回「第一章・機縁③ 正見(しょうけん) ―お釈迦様のモノの見方―」 

令和4年12月25日 更新

【機縁】 但(た)だ形の醜悴(しゅうすい)し衣の麁陋(そろう)なるを見て、一会悉(いちえことごと)く怪(あやし)む。之(これ)に依(より)て、処処の説法の会毎(えごと)に、釈尊座を分ち迦葉を居(お)らしむ。然(しか)しより衆会(しゅうえ)の上座(じょうざ)たり。

 

―瑩山禅師様より「十二頭陀を行じて、十二時中虚しく過ごさず」と評される迦葉尊者(かしょうそんじゃ)―

後に徹底した頭陀行(厳格かつ質素な修行)によって、「頭陀第一」と称されましたが、それゆえに人々の眼には尊者のお姿が「形の醜悴し衣の麁陋なる」とあるように、みすぼらしくて粗末なものに見えたのでしょう。この舞台となる霊鷲山においてお釈迦様の説法をお聞きすべく集っていた一会が悉く尊者を怪しんだのは致し方ないのかもしれません。

 

修証義第4章の中で道元禅師様は「其形陋(そのかたちいや)しというとも、此心(このこころ)を発(おこ)せば、已(すで)一切衆生の導師なり」とお示しになっています。此心は「菩提心(ぼだいしん)」を指し、「自分の中に存在している本心・本来の姿」を意味するものです。それを持って毎日を生きる者ならば、たとえ、その姿形がみすぼらしかろうが、人々を導く仏であると道元禅師様はおっしゃっているのです。このお言葉の背景に迦葉尊者のお姿があったのではないかと想像するに、仏教の深みを思わずにはいられません。まさに道元禅師様も瑩山禅師様もお釈迦様のみ教えに従い、その生き様に帰依した祖師方だったということです。

 

そうした誰もが怪しむ迦葉尊者に対して、お釈迦様は常に自らが説法される際には、その隣に居らせたというのです。それが「処処の説法の会毎に、釈尊座を分ち迦葉を居らしむ」の意味するところです。この理由は他でもなく、お釈迦様の迦葉尊者に対する絶対的な信頼です。たとえ会衆全員が迦葉尊者の表面的な姿に捉われて怪しもうが、お釈迦様は違います。目に見えるものだけで判断せず、その内面にまで広く目を向け、深く見通しながら、人を判断し、物事を分析していくのが、お釈迦様のモノの見方なのです。これこそ「正見」なる「正しいモノの見方」なのでしょう。是非、私たちも見習いたいものです。

 

こうしてお釈迦様からその本質を見抜かれ、座を分ちて、その隣に侍した迦葉尊者はお釈迦様の高弟として、後継者として会衆から認識されていくようになるのです。それが「会衆の上座たり」の意味するところです。

第30回「第一章・機縁④ 古仏 ―不退(ふたい)の上座―」

令和年1月日 更新

【機縁】 唯、釈迦牟尼仏一会の上座(じょうざ)たるのみに非ず。過去諸仏の一会にも不退(ふたい)の上座たり。知るべし、是れ古仏なりといふことを。唯諸(もろもろ)の声聞(しょうもん)の弟子の中に排列(はいれつ)すること勿(なか)れ。

 

―お釈迦様からの絶大なる信頼を受け、その臨位に侍する迦葉尊者―

そのみすぼらしくて粗末な姿ゆえに、当初は釈迦牟尼仏一会の中では怪しまれてしまいましたが、一会の師たるお釈迦様の正見(しょうけん)(偏らないモノの見方)によって、一会の上座として認識されるようになっていきました。

 

それだけではありません。「過去諸仏の一会にも不退の上座たり」と瑩山禅師様はおっしゃいます。「不退」には、「不退転(ふたいてん)(仏道修行において、お釈迦様のお悟りに向かって、退くことなく進んでいくこと)」という言葉があるように、「仏道修行において得た功徳を失わないようにしていく」という意味があります。お釈迦様のお悟りというのは、お釈迦様が三十歳臘月(さんじゅっさいろうげつ)八日に坐禅修行によって体得したときに誕生したわけではありません。実は、それ以前の、はるか太古から存在していた真理で、それに気づき、言語化して多くの人々にお伝えしたのがお釈迦様だというのが正しい捉え方です。そんな過去世も含め、現時点は勿論のこと、さらには未来世においても釈尊教団随一の不退なる仏道修行者であることがお釈迦様から発せられているのが、「過去諸仏の一会にも不退の上座たり」です。

 

これを踏まえ、瑩山禅師様は会衆に対して、「知るべし」と喚起を促した上で、迦葉尊者が「古仏」であるとおっしゃっています。「古の仏」、すなわち、「過去世に存在していた仏」ということです。お釈迦様のお悟り同様、迦葉尊者は今という時間・ここという場所にすい星のごとく現れた優れし者ではありません。過去世から不退に仏道を歩みながら、仏のお悟りを積み重ねてきた結果、今・ここに姿を表した存在であるということなのです。「古仏」というのは、そういう観点から捉えた古からの仏という意味でからの言葉なのです。

 

そうした「古仏」であるがゆえに、瑩山禅師様は「唯諸の声聞の弟子の中に排列すること勿れ」とお示しになっています。「声聞」は「お釈迦様の説法・み教えを聞いて修行に励む仏道修行者」です。今・ここに集いし修行者と排列(配列)できる存在ではなく、すでに道を完成させた別格の修行者であるということです。

 

こうした諸の観点から、お釈迦様は迦葉尊者の器を見抜き、ご自身がお悟りになった仏法を伝えていったのです。

第31回「第一章・機縁⑤ 相承(そうじょう) ―大迦葉(だいかしょう)への付嘱(ふしょく)―」

令和5年1月15日 更新

【機縁】 然るに霊山会上八万衆前(りょうぜんえじょうはちまんしゅまえ)にして、世尊拈華瞬目(せそんねんげしゅんもく)す。皆心を知らず、黙然(もくねん)たり。時に摩訶迦葉独(まかかしょうひと)り破顔微笑(はがんみしょう)す。世尊曰く、吾(われ)に正法眼蔵涅槃妙心(しょうぼうげんぞうねはんみょうしん)、円明無相(えんみょうむそう)の法門あり、悉(ことごと)く大迦葉(だいかしょう)に付嘱(ふしょく)すと。

 

機縁の最後に第一章・本則の内容が繰り返されます。今回の舞台となる霊鷲山(りょうじゅせん)において、梵天(ぼんてん)(仏教の守護神)が一枝の金波羅華(こんぱらげ)(金色の蓮華)を差し出して、お釈迦様(世尊)に説法の依頼をなさったとき、梵天の勧請によって壇上に登られたお釈迦様は無言のまま、そこに集いし人々(霊山会八万衆)に金波羅華をお見せになりました(世尊拈華瞬目)。ところが、その意を解する者はなく、辺りは静まり返っていました。(皆心を知らず、黙然たり)

 

そんな中で、ただ一人、お釈迦様の意を解し、にっこりと微笑んだ(破顔微笑す)者がいました。それが摩訶迦葉尊者です。お釈迦様の三十二相から見れば「肉髻(にっけい)(頭部が隆起して高くなっている箇所)」のみが欠けた三十一相を有し、みすぼらしい姿(形の醜悴し衣の麁陋なる)で、周囲の会衆からも怪しまれるほどの存在ではありました。しかし、お釈迦様からは「古仏」として、その本質を見抜かれ、全幅の信頼の下、席を半分譲り受け、一会の上座として認められていくのです。

 

そんな迦葉尊者を、お釈迦様は「正法眼蔵涅槃妙心、円明無相の法門を悉く大迦葉に付嘱す」とおっしゃって、自らの後継者・弟子となさいました。「正法眼蔵涅槃妙心」は端的には「仏法」を示すお言葉として、本則で登場していますが、「円明無相」については、今回が初めての登場となります。これは一切の執着から離れた状態を指しています。お釈迦様が三十歳臘月八日(さんじゅっさいろうげつようか)の坐禅によって整理・体得なさったお悟り・み教えというものは、何かに捉われることのない自由で、あらゆる事象をも認め、受け止めたものです。それをそっくりそのまま迦葉尊者に付嘱するということは、迦葉尊者には、それだけの力量があることをお釈迦様がお認めになったからに他なりません。「大迦葉」というお釈迦様が発せられたお言葉には、そうした意味合いが含まれているように感じます。

 

こうしてお釈迦様のみ教えが迦葉尊者に相承されていきました。次回の「拈提(ねんてい)」からは、瑩山禅師様がこの相承に関する見解をお示しになっていきます。

第32回「第一章・拈提① 祖祖単伝(そそたんでん)の実処(じっしょ)」

令和5年1月22日 更新

【拈提】 謂(いわ)ゆる彼時(か)のときの拈華(ねんげ)は祖祖単伝(そそたんでん)し来りて、妄(みだ)りに外人(げにん)をして知らしむることなし。故に経師論師(きょうじろんじ)、多くの禅師(ぜんじ)の知るべき所に非ず。実に知りぬ、其実処(そのじっしょ)を知らざることを。

 

―「謂ゆる彼時の拈華は祖祖単伝し来りて、妄りに外人をして知らしむることなし」―

霊山会八万衆(りょうぜんえはちまんしゅ)(霊鷲山に集いし大勢の人々)の中で、無言のまま金波羅華(こんぱらげ)を提示なさったお釈迦様の「拈華」の意を、唯一、解することができた摩訶迦葉尊者(まかかしょうそんじゃ)。この師と弟子のやり取りが基本となり、正法眼蔵涅槃妙心(仏法)が今日まで伝わってきたことが瑩山禅師様より説明されていきます。そのやり取りに関する具体的な内容は、当然ながら、それぞれの師弟間では異なってはいるものの、そこには、この「拈華瞬目」に見られる精神が流れており、決して、外人(仏道から外れた人々)が知ることも、入り込む余地さえもない、仏道を行ずる師と弟子の信頼関係だけが織りなす世界だったと解することができます。

 

ひょっとすると、そうした世界観を頭の中だけで理解しようとしたり、むやみやたらと言葉で解説したりするのは間違っているのかもしれません。「経師(経典の字面のみで意味を解釈していく立場をとる師)」、「論師(仏教を経論等の文字で解釈し、実践が伴わない師)」、「禅師(専ら坐禅修行に励み、禅に通じた師)」の「知るべきところに非ず」という瑩山禅師様のお言葉はよくよく見極め、そのお示しせんとしている論点(実処)を押さえておきたいものです。

 

お釈迦様の時代、全ての禅法に通じた修行者は「禅師」と呼ばれていましたが、時代が進んでいく中で、仏教に専門分野が生じ、細分化されていくようになりました。そうした中で登場するのが、「経師」や「論師」といった立場の方々です。この他にも「律師(りっし)(戒律の順守を主とする師)」、「三蔵師(さんぞうし)(経典のみを学し、仏道修行に乏しい師」、「法師(ほっし)(仏道修行によって法を説き、人々に布教教化を施す師)」といった方々がいらっしゃったそうですが、仏教が日本に伝来した際には、朝廷が特に徳が高く、功績も顕著な僧に禅師の称号を送っていたり、江戸時代までは住職に禅師の称号を与える習慣もあったりしたそうです。明治時代以降は、曹洞宗の大本山が永平寺と總持寺に固定されていく中で、両大本山の住持職(貫首【かんしゅ】)に対して、皇室から禅師号をお送りするという形で定着しております。

 

今回、瑩山禅師様の拈提おける実処とは何かを考えていくとき、仏道の世界において、師から弟子に仏法が伝わっていくということに着目したとき、特定の分野からの視点のみで解釈してみたり、自分と相手の間に何らかの立場の違いなどを作って、特定の人の立場は聞き入れないといった姿勢では実処を捉えることはできないということです。決して、瑩山禅師様は坐禅をすることも経典祖録を読むことも、否定なさっているのではありません。坐禅だけを重視して行じてみたり、経典祖録の読解・解釈ばかりに専念するといった、何か一点に捉われるような解釈の仕方をするのではなく、常日頃から坐禅も経典祖録の読解・解釈も、全て重視し、どれも行じていく姿勢なしには、「拈華瞬目」を始めとする、祖祖単伝の実処を捉えてくことは難しいというのです。

 

仏教は専門家・細分化することなく、「経師」・「論師」・「律師」・「禅師」といったそれぞれの立場を包括した視点で捉えていくことが大切だということを、瑩山禅師様のお言葉から、しっかりと押さえた上で、日々の修行に勤しんでいきたいものです。

第33回「第一章・拈提② 多子塔前(たしとうまえ)の付嘱(ふしょく)」

令和5年日 更新

【拈提】 然しかも恁麼(いんも)なりと雖いえども、恁麼の公案こうあん、霊山会上(りょうせんえじょう)の公案に非ず。多子塔前(たしとうまえ)にして付嘱(ふしょく)せし時の言げんなり。伝灯録(でんとうろく)、普灯録(ふとうろく)に載る所は、是これ霊山会上の説といふこと非なり。最初に仏法を付嘱せしとき、是かくの如きの式あり。

 

「拈華瞬目(ねんげしゅんもく)」に見るお釈迦様から迦葉尊者への祖祖単伝(そそたんでん)(仏法の付嘱)というのは、「八万衆(はちまんしゅう)」とも言われる大勢の修行者が集いし霊鷲山(りょうじゅせん)で行われたことと解するのではなく、正確には「多子塔前」にて為されたことと捉えるべきであるというのが、今回の一句の指し示すところです。

 

この点については、宋代(1004年~1007年)に法相宗の僧侶・道原(どうげん)が編纂した“一七〇〇の公案”と称され、お釈迦様始めとする祖師方のお言葉を収録した「景徳伝灯録(けいとくでんとうろく)」や雲門宗の雷庵正受(らいあんしょうじゅ)(1146-1208)が「景徳伝灯録」を継承し、そこに一般在家の言葉を加えて編纂した「嘉泰普灯録(かたいふとうろく)」においても、はっきりと明記されていることが瑩山禅師様よりお示しされています。

 

これを受けて、今一度、伝光録の「機縁」に目を向けてみると、多子塔前において、お釈迦様と迦葉尊者が初めてお会いしたとき、お釈迦様が「ようこそいらっしゃい!」と迦葉尊者を喜び迎え入れなさったこと、そして、その瞬間に迦葉尊者のヒゲや髪がなくなり、袈裟がかかるという清浄なる出家者としての姿に生まれ変わったことが記されておりました。この多子塔前における一連の儀式のごとき出来事によって、「最初の仏法の付嘱」という、「お釈迦様から迦葉尊者への祖祖単伝」がなされていったことを、ここでしっかりと押さえていおきたいところです。

第34回「第一章・拈提③ 多子塔前(たしとうまえ)の仏心印印可証明(ぶっしんいんいんかしょうめい)の意味するところ」

令和5年2月12日 更新

【拈提】故に仏心印(ぶっしんいん)を伝ふる祖師に非ざれば、彼(か)の拈華(ねんげ)の時節を知らず、又彼(か)の拈華(ねんげ)を明らめず。

 

「拈華瞬目(ねんげしゅんもく)」に見る「多子塔前(たしとうまえ)におけるお釈迦様から迦葉尊者への仏法の付嘱(ふしょく)の式」は仏法を体得なさった師が弟子の力量を子細に点検し、認め、証明したことを意味する大切な場面です。以降も多くの仏教祖師方によって、こうした場面が展開され、仏法が今日まで伝わってきているというのが前回のお示しでした。

 

この師が弟子を認め、悟りの境地に達したことを証明するのが、「仏心印」です。「仏心」には、「誰もが生まれながらに有する仏に成れる性質」という意味があり、「仏性(ぶっしょう)」とも言い換えることができます。『一人の仏道修行者が坐禅修行を始めとする仏道修行によって、自分の中に元来、存在していた清浄なる心(仏性)というものを、いつの間にか見失っていたことに気づき、仏の悟りの境地に到達した。そして、自らと同じような道を歩みながら、仏と成った者と出会い、師の立場となって後継者として認め、仏法を伝えていった』こうした関わりによって、2つに分かれていた師と弟子が一本に交わっていくのです。祖祖単伝(そそたんでん)という師から弟子へと法が伝わるというのは、このような師と弟子が一体化していくことであるというのを、ここで押さえておきたいものです。

 

この点が見えてくると、多子塔前で繰り広げられた拈華瞬目という、初めての仏法付嘱のエピソードについて、その時節や内容を詳細に調べ、自らの中に明らかにしておくことが欠かせないことに気づかされます。祖祖単伝の仏法付嘱というのは、仏教の世界において、それほどまでに重要なものであるということを併せて確認しておきたいところです。

第3回「第一章・拈提 瑩山禅師様の願い」

令和5年2月1日 更新

【拈提】諸禅徳(しょぜんとく)、子細(しさい)に参到(さんとう)し、子細に見得(けんとく)して、迦葉(かしょう)の迦葉たることを知り、釈迦(しゃか)の釈迦たることを明らめ、深く円妙(えんみょう)の道を単伝(たんでん)すべし。

 

「多子塔前(たしとうまえ)で為されたお釈迦様から迦葉尊者への仏法の付嘱(ふしょく)の式」というのが、師から弟子へと仏法が伝わってきた祖祖単伝(そそたんでん)の原点であったことは、これまで確認してきたとおりです。瑩山禅師様は会下の仏道修行者に「諸禅徳!」と呼びかけた上で、この「拈華瞬目(ねんげしゅんもく)」のエピソードにみる言葉だけでは表現し尽くせぬほどの深淵な仏法の相承(そうじょう)というものを、子細(詳細に渡って)参到(参じ極めること)し、見得してほしいと願っていらっしゃいます。そんな瑩山禅師様の願いが十分すぎるくらいに感じ取れるのが、今回の一句です。


「迦葉の迦葉たることを知り、釈迦の釈迦たることを明らめる」というお言葉の中には、お釈迦様と迦葉尊者、各々のご生涯を知るのは勿論のこと、両者の関係性や以降の祖祖単伝というものについても、一本の道となった関連し合っているものと捉え、子細なる参究を施していってほしいという思いがにじみ出ているように感じます。仏教というのはお釈迦様のみで完結するものでもなければ、迦葉尊者の存在によって、全てが語りつくせるものでもありません。お釈迦様以前に存在していた過去の七佛に始まり、お釈迦様の成道(じょうどう)、そして、「拈華瞬目」に示されるお釈迦様と迦葉尊者の祖祖単伝、それらを起点として、以降、今日までの師から弟子への円状の如きつながりを持った仏法の相承というものを、ときには特定の祖師や師弟関係にポイントを押さえながら一点集中的に、またあるときには広大なる視点を以て全体的に捉えてみるのです。そうした参究というものが、瑩山禅師様が我々後世に生かされる人々に願う仏道の参学方法であることを押さえておきたいところです。

第36回「第一章・拈提⑤ 瞬目を明らめる」

令和5年2月26日 更新

【拈提】拈華(ねんげ)は暫(しばら)く置く、彼(か)の瞬目(しゅんもく)せし所、人人明(にんにんあき)らめ来るべし。汝等(なんじら)よのつね揚眉瞬目(ようびしゅんもく)すると、又是れ瞿曇(くどん)の拈華瞬目せしと、一毫髪(いちごうはつ)も隔(へだた)らず。汝等、語話微笑(ごわびしょう)すると、魔訶迦葉(まかかしょう)、破顔微笑(はがんびしょう)せしと、全く毫髪も異なることなし。

 

「拈華瞬目(ねんげしゅんもく)」に見る師・瞿曇(くどん)(お釈迦様)から弟子・魔訶迦葉(まかかしょう)への仏法の付嘱という、仏教史上、初めての祖祖単伝について、瑩山禅師様は我々仏道修行者に子細なる参到(さんとう)・見得(けんとく)を願っていらっしゃるというのが前回の内容でした。

 

そして、今回、瑩山禅師様はそうした「拈華」に関するお話は「暫く置く」とおっしゃっているように、この話題を一旦、ストップさせていらっしゃいます。その上で、次は「瞬目」ということについて触れていくとお示しになっています。この「瞬目」もまた、我々学道の者にとって明確にすべきものであるということなのでしょう。それが今回の一句が指し示すところです。

 

「瞬目」とは「まばたき」のことで、「揚眉」は「眉をあげること」です。「揚眉瞬目」とあるのは、眉を上げて、目をパチパチと瞬かせることから、「日常の動作所作」をたとえたものと解します。「よのつね」という言葉が付されていますから、私たちの日常生活の中において普段から為されることと捉えていけばよろしいかと思いますが、そうした日常レベルの所作と「瞿曇の拈華瞬目(破顔微笑)」、すなわち、「お釈迦様が一枝の金波羅華(こんぱらげ)を拈(ねん)じた意を知った迦葉尊者がにっこり微笑んだエピソード」とは、何ら大差なきものであるというのが、今回の瑩山禅師様のお示しです。「一毫髪」という言葉が用いられています。「毫」には、「動物の細毛」という意味があり、そこから「ほんのわずかなもの」と解します。多子塔前で為された師から弟子への仏法相承という神聖なる儀式と、我々の日常のあらゆる所作との間には、何の隔たりもない、ほぼ同等のものであるというのです。

 

それは仏道修行者の「語話微笑」にも言えることだと瑩山禅師様はおっしゃいます。「語話微笑」は「仏祖の言葉や教示を語らい合うこと」で、これと「破顔微笑」というものも「全く毫髪も異なることなし」とあるように、大差がないというのです。

 

瞿曇と迦葉尊者のやり取りは、一見、我々凡夫の見識や日常生活からは大きくかけ離れた尊いもの見受けられます。勿論、そうした面も有しながらも、実は私たちの日常生活とは微塵もかけ離れたものではないという側面があることが瑩山禅師様より提示されています。「拈華」の話題を一旦、休止させてまで語れる「瞬目」について、我々の日常生活と大差ない上に、密接に関わり合っているという点を重視しながら、触れていきたいところです。

第37回「第一章・拈提⑥ 仏道修行者の課題」

令和5年日 更新

【拈提】然(しか)れども、彼(か)の揚眉瞬目(ようびしゅんもく)せし者を明らめざれば、西天(さいてん)に釈迦あり迦葉(かしょう)あり、自心に皮肉骨髄あり、許多(こた)の眼華(げんげ)、多少の浮塵(ふじん)、無量劫来(むりょうこうらい)、未だ曽(かつ)て解脱(げだつ)せず、未来劫(みらいごう)も亦沈淪(またちんりん)すべし。


瞿曇(くどん)(お釈迦様)から迦葉尊者(かしょうそんじゃ)に仏法が付嘱された際の「眉揚瞬目」に見るやりとりは、私たちの日常生活の中で何気に為されていることから大きくかけ離れたものではないというのが前段でのお示しでした。


この「眉揚瞬目」のエピソードを細部にわたって明確にしておくことが仏道修行者の課題であると瑩山禅師様はおっしゃっていますが、「もし、それを明確にしなかった場合、どうなるのか?」ということについて、今回は触れられています。


まず、「西天に釈迦あり迦葉あり」とあります。「西天」はインドを指しますが、お釈迦様も迦葉尊者もインドにおいて、仏法と出会い、仏の悟りを体得なさいました。「眉揚瞬目」の指し示すところ明確にするとき、太古の昔にインドの国で為された仏法の付嘱を基本として、それがそっくりそのまま現在の世に伝わり、未来へと受け継がれていくという流れを確認しておきたいところです。この繰り返しによって、仏法が今日まで伝わっていることは疑いようがありません。


次に「自心に皮肉骨髄あり」とあります。「皮肉骨髄」は「皮・肉・骨・髄という、私たちの身体を構成する重要な要素」のことで、そこから「相伝の仏法」を指します。そして、「許多の眼華」とありますが、「許多」は「多くの」、「眼華」は「本当は実在しないのに、人々の迷いによって生じてしまった架空の花」のことです。「多少の浮塵」における「浮塵」は、「仏道修行の妨げとなるもの」のことで、「眼華」に見るような迷いであったり、執着といったりするもののことであると捉えればよろしいかと思います。「無量劫来」ですが、「劫」は長時間ということで、過去世からの長い時間、その反対に永遠の未来を意味するのが「未来劫」です。「眉揚瞬目」に触れることなく、仏道を行じていくということは、お釈迦様や迦葉尊者の存在を蔑ろにするばかりか、自分の中に仏法を体得することもできず、「眼華」や「浮塵」に捉われたまま一向に解脱(悟りを得ること)することもないと瑩山禅師様はおっしゃっているのです。そして、未来劫においても「沈淪すべし」とあるように、「沈淪(落ちぶれること)」していくだけであるというのです。


それほどまでに世尊(せそん)(お釈迦様)の「眉揚瞬目」のエピソードを明確に捉えていくことは我々仏道修行者にとっての大きな課題であるということを今一度、再認識しておきたいところです。

第38回「第一章・拈提⑦ 主人公(しゅじんこう)の識得—諸人の鞋裏(あいり)に在(あり)て動指(どうし)することを得ん―」

令和5年3月12日 更新

【拈提】若(も)し一度(ひとたび)彼(か)の主人公(しゅじんこう)を識得せば、魔訶迦葉まさに、汝諸人(なんじしょじん)の鞋裏(あいり)に在(あり)て動指(どうし)することを得ん。


一般的に「主人公」といえば、「物語などのフィクション作品の中心的な存在で、ストーリーを作り上げていく者」を指しますが、禅の世界では「仏性を有する本来の自分」を意味する言葉として用いられます。


前段において、瑩山禅師様は「彼(か)の揚眉瞬目(ようびしゅんもく)せし者を明らめ」ない限りは、我々はいつまでも仏道の本質に近づくことができず、「眼華(げんけ)」や「浮塵(ふじん)」といった自らを迷わせるものに捉われてしまい、一向に解脱(げだつ)(仏のお悟りを得ること)することができないとお示しになっていました。


この点をしっかりと認識した上で、仏道修行を勤しむとき、「彼の主人公を識得する」ことができるようになるというのです。「識得」は「見極める」と解すればよろしいかと思いますが、こうした眉揚瞬目を明確にすることを重視した日常的な仏道修行によって、「主人公の識得」が実現していくとき、「魔訶迦葉まさに、汝諸人(なんじしょじん)の鞋裏(あいり)に在(あり)て動指(どうし)することを得ん。」と瑩山禅師様はおっしゃっています。「鞋裏」とは、「靴の裏」のことですが、ここは「私たちにとって身近な場所でありながらも、常に意識を向けて見ることがないような場所」であることに気づかされます。まさに「主人公」が意味している「仏性」の性質とも合致しているように見受けられますが、こうした普段から中々、意識されないながらも、間違いなく自分そのものである場所が、我々の「鞋裏」なのです。


そんな「鞋裏」に存在していて、「動指」、すなわち、「自由自在なる動き」が可能になるというのが、「彼(か)の揚眉瞬目(ようびしゅんもく)せし者を明らめる」ことによって到達できる境地と解していけばよろしいかと思います。すなわち、今回も前段・前々段でもお示しされていたように、仏法の世界における最初の師(お釈迦様)から弟子(迦葉尊者)への悟りの付嘱というものを参究し尽くしていけば、「私たちの日常生活の中で何気に為されていることから大きくかけ離れたものではない」ということにたどり着くというのです。


一見したところ、非日常的で難解な仏道修行ですが、お釈迦様や迦葉尊者を始めとするどの仏教祖師方も、私たちと同じ娑婆世界にいのちをいただき、そこに生かされ、そこで仏法と出会い、仏法を体得なさったのです。私たちの日常と同じ空間の中で仏法との出会い・体得がなされたことを今一度、押さえておきたいものです。

第39回「第一章・拈提⑧ 瞿曇(くどん)の滅却」

令和5年3月1日 更新

【拈提】知らずや、瞿曇眉揚瞬目(くどんようびしゅんもく)せし所に、瞿曇乃ち滅却(めっきゃく)し了(おわ)ることを。迦葉破顔(かしょうはがん)せし所に、迦葉乃ち得悟し来ることを。是(こ)れ即ち吾有(わがう)に非ずや。


今回の一句は「知らずや(知っているか?)」という瑩山禅師様の問いかけによって始まりますが、それは瞿曇(お釈迦様)の「眉揚瞬目」に関しての問いかけです。「眉揚瞬目」については、今まで幾度も述べられてきた通りで、お釈迦様から迦葉尊者に仏法の付嘱(ふしょく)がなされた際に、お釈迦様が金波羅華(こんぱらげ)を拈じて、目を瞬かせたことを指していますが、これは前回も触れさせていただいたように、私たちと同じ娑婆世界にいのちをいただいた者同士が、私たちの日常と何ら変わりのない空間の中で仏法と出会い、体得なさったことを意味しているのです。


これを受けて、迦葉はお釈迦様の眉揚瞬目の意を解し、にっこりと微笑んだ(破顔)わけですが、そうした仏法付嘱の場面において、瑩山禅師様は「知らずや」と聞き手である会下の修行者たちに注意喚起を与えながら、「瞿曇乃ち滅却し了ることを」と発していらっしゃいます。「滅却」には「なくなってしまう」という意味があります。お釈迦様が「眉揚瞬目」なさった瞬間、迦葉は破顔し、得悟した(悟りを得ること)ということですから、迦葉に法が伝わったその瞬間、それまでは瞿曇と迦葉というそれぞれ別個の存在であった二人が、師と弟子という関係性となった、すなわち、二者の存在から一体の存在へと変化していったという解釈が成立します。これぞ瑩山禅師様から提示される新たな視点であると共に、こうした解し方を提示すべく、瑩山禅師様が敢えて、「知らずや」という問いかけをなさっているようにも感じられます。


師と弟子の関係性というのは、そうした仏法を介した一体に溶け合ったものであることを「滅却」という言葉から押さえておきたいところです。

第40回「第一章・拈提⑨ 非日常的かつ日常的な仏法の付嘱」

令和5年3月26日 更新

【拈提】正法眼蔵却(しょうぼうげんぞうかえ)りて自己に付嘱し畢(おわ)りぬ。故に喚(よん)で迦葉(かしょう)と為すべからず、喚(よん)で釈迦と為すべからず。


「瞿曇(くどん)(釈尊)の滅却」という「二者だった師と弟子が一つに溶け合い、一体化していくこと」が仏教史上、最初となる仏法の付嘱という場面において成し遂げられたことは、後世の仏法付嘱・相伝(そうでん)の規範となり、今日にも受け継がれてきました。


そうしたお釈迦様以降、2600年もの長い歳月の中で成し遂げられてきた師と弟子による正しい仏法(正法眼蔵)の付嘱というものは、お釈迦様や迦葉尊者だけのものでもなければ、お二人に特化された特別ものでもない、誰もが師であるお釈迦様の役割を果たし、誰もが弟子である迦葉尊者となって、今日まで仏法が伝わってきているのです。現に多子塔前(たしとうぜん)における仏法付嘱の場面では弟子である迦葉尊者も、この後には阿難陀尊者(あなんだそんじゃ)を弟子として迎え、その師となり、仏法をお伝えしています。


そんな仏法の付嘱というものが、特定の者のやり取りだけを取り上げたものではないことを強調すべく、「喚んで迦葉と為すべからず、喚んで釈迦と為すべからず」と瑩山禅師様はおっしゃっています。


そして、過去の師と弟子のように、これから先も様々な師と弟子が現れ、仏法を付嘱し、一体化していくことが一般的に成し遂げられる可能性はいくらでもあるということを指し示しているのが「正法眼蔵却りて自己に付嘱し畢りぬ」です。仏法の付嘱というのは、非日常的であり、神聖な特別のものという印象がある半面で、真に道を求める者同士の仏縁によって、日常的なレベルで為されてきた事実もあるということを押さえておけばよろしいかと思います。

第41回「第一章・拈提⑩ 正法(しょうぼう)を顕(あら)はさんが為に」

令和5年日 更新

【拈提】曽(かつ)て、一法の他に与ふるなく、一法の人に受(うく)るなし。之を喚(よん)で正法(しょうぼう)と為す。彼(か)れを顕(あら)はさんが為に、華を拈じて不変なることを知らしめ、破顔(はがん)して長齢(ちょうれい)なることを知らしむ。恁麼(いんも)に師資相見(しししょうけん)、命脈流通(めいみゃくるずう)す。


「拈華微笑(ねんげみしょう)」に見るお釈迦様から迦葉尊者(かしょうそんじゃ)への仏法の付嘱(ふしょく)というのは、仏教の世界における師から弟子への仏法の相承(そうじょう)(師匠から弟子に仏教のみ教えが伝わっていくこと)の原点となったものです。以降、これと同じことが多くの子弟間で繰り返されてくわけですが、そこでは二者だった師と弟子が仏法を介して一つになっていくということが成し遂げられてきました。それが前回の一句が指し示す内容です。


こうして相承されてきた仏法は、「一法の他に与ふることなく、一法の人に受るなし」とあるように、お釈迦様の時代以前から他に何種類もあったりとか、内容が多岐にわたったりするといったものではありませんでした。お釈迦様から迦葉尊者へと付嘱された仏法こそが「正法」であると瑩山禅師様はお示しになっています。そして、その「正法」は、以降も姿形を変えることなく、今日まで受け継がれてまいりました。


この「正法」というものが、どういうものを指すのかを明確にしたのが、お釈迦様の多子塔前(たしとうぜん)における「世尊拈華瞬目(せそんねんげしゅんもく)」、「迦葉破顔微笑(かしょうはがんみしょう)」なのです。多子塔前において、お釈迦様はそこに集いし多くの人々に無言で一輪の花をお示しになりました。ほとんどの者がその意を解することができぬ中で、仏法というものは文字や言葉だけでは語り尽くせない奥深いものであることを体得していた迦葉尊者のみが無言のままにっこりと微笑みながら、お釈迦様の意を解したのです。『正法たる仏法は、過去においても、現在(いま)においても、未来においても変わることのない「長齢」なるものである』—一枝の花を掲げながら、お釈迦様は、そのことをもお示しになっていたのです。勿論、迦葉尊者もそのことを十分にご理解なさっていたことでしょう。だから、お釈迦様から正法が伝わっていったのです。


こうした師と弟子が互いに相見(あいまみ)え、仏法を介して一つに溶け合っていく様を指し示すのが、「師資相見(しししょうけん)」です。それは師弟間がぴったりと重なり合い、僅差のない対等な状態を指しているのです。そんな師資相見による仏法の付嘱が、とどまることなく、滔々と流れる流水の如くになされる様を表しているのが、「命脈流通(めいみゃくるずう)」です。まさに今日まで仏法が伝わってきたのは、「命脈流通」という言葉が指し示す通りのものなのです。


全く異なる人間である者同士が、仏法とご縁を結び、仏法を通じて次第にその関係性を深め、やがては一体化していくという構図の中で、今日まで多くの師と弟子によって仏法が受け継がれてきたことを確認しておきたいところです。

第42回「第一章・拈提⑪ 慈氏(じし)の下生(あしょう)を待って―永遠不滅なる迦葉尊者—」

令和5年4月16日 更新

【拈提】円明(えんめい)の了知(りょうち)、心念渉(しんねんわた)らず、正(まさ)しく意根(いこん)を坐断(ざだん)し鶏足山(けいそくさん)に入り、遥かに慈氏(じし)の下生(あしょう)を待つ。故に魔訶迦葉(まかかしょう)、今に入滅(にゅうめつ)せず。



円明(見事で完全なこと)なる悟りの境地に、心念といった自分の心の働きによって作られた理屈だとか、自分に都合のいい考え方などといったものが入り込む余地などありません。正法は「長齢」なる永遠不変の存在なのです。


鶏足山という地名が出てまいりますが、ここは迦葉尊者入寂(かしょうそんじゃにゅうじゃく)の地と伝えられています。「入寂」とは、「僧侶の死」であり、また、「坐禅によって、静寂なる世界に安住する」ということをも意味しています。「正に意根を坐断し」とあるように、迦葉尊者は、お釈迦様の下で三毒煩悩(貪り・瞋り・愚かさ)を断ち、仏と成ったわけですが、今回の一句では、そんな迦葉尊者が、その後、鶏足山を自らが永遠に仏として坐す地と選ばれたというが瑩山禅師様より紹介されています。


次に「遥かに慈氏の下生を待つ」という一句に注目してみたいと思います。鶏足山に入られた迦葉尊者は、仏と成って、坐禅三昧の生涯を送られたということですが、迦葉尊者は、そうすることによって、慈氏(弥勒菩薩【みろくぼさつ】)が姿を現すのを待ち続けているというのです。「弥勒菩薩」は56億7千万年後に娑婆世界に生きる人々の前にお姿を見せると言われていますが、お釈迦様に次いで仏と成る菩薩様ということから、「将来仏」とも称されています。


弥勒菩薩様が出現なさるとき、「竜華三会(りゅうげさんえ)」と呼ばれる人心を救うべく開かれる三度の大法会・大説法の場が設けられると伝えられております。このとき、過去において、お釈迦様のご説法を聞き漏らしてしまった者たちも弥勒菩薩様のみ教えに触れることができるとのことから、弥勒菩薩様はお釈迦様のお弟子様として、未来において人々を救う待望の仏様であるという解釈がなされているのです。


そうした将来仏である弥勒菩薩様の登場を鶏足山で坐禅をしながら待ち続けている迦葉尊者様—その肉体は既に滅びているものの、そのお心は今も尚、「師資相見(しししょうけん)」とあるように、多くの師弟間を始めとした後世の人々に受け継がれながら、今日まで生き続けています。まさに「命脈流通(めいみゃくるずう)」という言葉の通りであり、それが「摩

訶迦葉、今に入滅せず」の意味するところなのです。


「師の肉体は既に無くとも、そのみ教えは永遠に生き続けるものである」—こうした考え方が仏教の世界にあることを知っておくことによって、仏教に対する理解の一助となり、その解釈が深まっていくように思っております。

第43回「第一章・拈提⑫ 釈迦の常住(じょうじゅう)・迦葉の不滅—仏の慧命を嗣続(しぞく)する―」

令和5年4月23日 更新

【拈提】諸人、若し親く学道して子細(しさい)に参徹(さんてつ)せば、迦葉不滅のみに非ず、釈迦も亦(ま)た常住(じょうじゅう)なり。



道元禅師様がお示しになった「教授戒文(きょうじゅかいもん)」の中に、『第一不殺生(ふせっしょう)。生命(しょうみょう)の不殺(ふせつ)にして仏種増長(ぶっしゅぞうちょう)し、仏の慧命を続(つ)ぐべし。生命を殺すこと莫(な)し。』という一説があります。「戒」は「仏と成りし者の生き方」を指しますが、その第一に掲げられている「不殺生」というのは、人であれ、動植物であれ、モノであれ、すべての存在に仏のいのち(仏種)が宿っていることを認めた上で、万事を殺すことなく生かす(増長)ことが大切であることを説いたものです。道元禅師様は仏種を有する存在に対して、そのいのちを生かし続けていくことを「仏の慧命を続ぐ」とおっしゃっていますが、これが仏道修行を行じていく上での何よりもの重要な目標であると言っても過言ではないような気がします。そうすることによって、仏のいのちは永遠に生き続けると共に、仏教のみ教えが過去のものではなく、現在にも生き生きと輝き続けていくことができるのです。


今回の一句の中で、「迦葉不滅のみにあらず、釈迦も亦た常住なり」という瑩山禅師様のお言葉がありますが、この根底にあるのが、「仏の慧命を続ぐ」ということであると捉えています。すなわち、今を生かされている私たちが約2600年も前の時代から連綿と受け継がれてきているお釈迦様のみ教えを日常生活の中で行じ続けていくことによって、仏のいのちが受け継がれ、お釈迦様や迦葉尊者のいのちが永遠不滅かつ常住なるもの(常に存在していること)となっていくのです。


「親く学道して子細に参徹する」—私たちが仏道に親しみ、細部にわたって仏の道を参究していくという修行を日常的に継続していくことで、仏の慧命が嗣続(しぞく)されていくことを、今一度、押さえ、明日からの日常を過ごしていきたいものです。

第44回「第一章・拈提⑬ 築著磕著(ちくじゃくかつじゃく)ー自由無碍なる境地の中でー」

令和5年4月30日 更新

【拈提】故に汝等諸人、未曽生(みぞうしょう)より直指単伝(じきしたんでん)して、古(いにしえ)に亘(わた)り今に亘りて築著磕著(ちくじゃくかつじゃく)す。



仏道について、私たちが日常的に親しみ、詳細に参究していくことによって、「仏の慧命(えみょう)が嗣続(しぞく)されていく」ことを、前段において確認させていただきました。


こうした仏道というものが今・ここに存在すると同時に、人々が学び、修行していけるのも、はるか2600年前、「三十歳臘月八日(さんじゅっさいろうげつようか)」とあるように、お釈迦様が12月8日の明け方に坐禅修行を通じて、悟りを得たこと(成道【じょうどう】)に端を発し、そこからお釈迦様のお弟子様となる迦葉尊者に仏法のすべてを受け継いだこと(直指単伝)によって為されていることをも確認しておきたいところです。「未曽生」という言葉には、私たちがこの世にいのちをいただくはるか昔という意味や、私たちが仏道と出会うずっと以前の頃という意味も含まれています。まさに古に亘り今に亘る(亘古亘今【ごうこごうこん】)という言葉が指し示す通りです。


そうした古くは過去の時代にまで遡り、新しくは現在に至るまで、師と弟子による仏法の付嘱というものは、「築著磕著」という言葉に表されるように、捉われのない自由なるものであったことが瑩山禅師様よりご紹介されています。「築著」というのは、「方々に打ち当たること」で、「磕」という文字にも、「石がぶつかり合うような音」という意味があります。


お釈迦様と迦葉尊者以降、多くの師と弟子の間で為されてきた「師資相見(しししょうけん)」というものは、師も弟子も何か一点のことに執着し、不要に身心を惑わされることのない、捉われから解放された自由なる境地の中で為されてきたということを、今回は確認しておきたいところです。

第45回「第一章・拈提⑭ 唯急に今日(こんにち)に弁道(べんどう)せば —石川県能登地震に想うもの―」

令和5年日 更新

【拈提】故に諸人二千年前の昔を思慕(しぼ)すること勿れ。唯急に今日(こんにち)に弁道(べんどう)せば、迦葉鶏足(かしょうけいそく)に入らず、正(まさ)に扶桑国(ふそうこく)に在(あり)て出世することを得ん。



仏道修行者にとって、むやみやたらと過去に思いを馳せ、古を慕ってみたり、今の自分たちが修行不足であるなどと、自らを卑下するようなことを思ったりする必要はありません。瑩山禅師様が「唯急に今日に弁道せば」とおっしゃっているように、〝今という時間〟・〝ここという場所〟において、只管(しかん)に坐禅を行じ、一心に仏の道を求めていればよく、それが学道の者のいのちの使い方だと捉えることができます。「今」・「ここ」において怠けて過ごす余裕などありません。「露命(ろめい)」という言葉が指し示すように、私たちのいのちは、まさにいつ・どうなるかわからない、はかないものなのであることを再確認しておきたいところです。


―令和5年5月5日・午後2時42分—

ゴールデンウィークの真っ只中の穏やかな昼下がり、5月8日の新型コロナウイルスの5類への移行や世界保健機関(WHO)による緊急事態宣言終了の発表等、いよいよ世間がコロナ禍前の状態に戻り、賑わいを見せ始めていた最中、石川県能登地方を震源とする震度6強・マグニチュード6.5の地震が発生。この地震によって、一人が死亡、33名の方が負傷されたとのことです(令和5年5月7日現在)。この日の北國新聞の報道によれば、今回の地震でお亡くなりになった65歳の男性は、昨年の6月に発生した珠洲地震で被害を受けた奥様のご実家の修繕作業のために週末になると珠洲に足を運んでいらっしゃったそうで、この日も傷んだ倉庫の屋根の修繕作業中に被災されたとのことでした。この男性を知る方は「真面目で優しく、近隣の方々にも気を遣う方だった」とそのお人柄を慕い、故人を偲んでいらっしゃいました。まさに男性は、「今」・「ここ」において、「唯急に今日に弁道せば」という言葉にふさわしく、いただいたいのちを一生懸命に生き、全うされた方だったように思われます。こうした方お一人お一人のお力によって、我々の日常生活が成り立っているという視点を忘れてはなりません。


そして、「唯急に今日に弁道せば」という道を真摯に生きる人々の生き様によって、後世の人々にも道が伝わっていくということも押さえておきたいところです。仏道の世界において、「今」・「ここ」において弁道修行を重ねてきた迦葉尊者だったからこそ、鶏足山(けいそくせん)に入り、弥勒菩薩(みろくぼさつ)の登場を待ちながら、永遠の仏道修行に入られたのでしょう。また、お釈迦様のみ教えがインドの祖師方から中国に伝わり、さらにそこから扶桑国(日本)へと伝わって、出世(この世に出現すること)したとも言えるのです。これが一つの仏道の世界における道理なのです。


そして、この道理は仏道の世界以外にも、私たち人間が生かされている娑婆世界の様々な場面において相通ずる道理でもあることを知っておきたいところです。特に今回の石川県能登地方を襲った大きな地震を想うとき、我々一人一人が、はかないいのちを生かされている自らの生き様を問いかける場を設けたいと願うのです。この地震でお亡くなりになった男性のご冥福をお祈りすると共に、これ以上、自身による被害が拡大しないことを願うばかりです。

第46回「第一章・拈提⑮ 釈迦の肉親今猶(な)ほ暖かに、迦葉微笑また更に新たならん ―能登地震被災地での活動を通じて得たもの―」

令和5年5月14日 更新

【拈提】故に釈迦の肉親今猶(な)ほ暖かに、迦葉微笑また更に新たならん。恁麼(いんも)の田地(でんち)に至り得ば、汝等却て迦葉に嗣ぎ、迦葉却て汝等に受けん。



「釈迦の肉親今猶ほ暖かに」

2600年ものはるか昔に、この世に実在していたお釈迦様の肉親が今も尚、暖かいぬくもりを持っているというのは、どういうことなのでしょう。それは、言うまでもなく、お釈迦様の存在が決して、過去の一時代だけのものであるとか、既に尽きてしまったものであるというのではなく、今も尚、生き続けているということです。


「迦葉微笑また更に新たならん」

お釈迦様のお弟子様である迦葉尊者が、霊鷲山(りょうじゅせん)における多子塔前(たしとうぜん)において、お釈迦様から仏法を付嘱するにふさわしい人物と目された瞬間に、師(釈迦)と弟子(迦葉)が一つに溶け合い、仏法が伝わっていきました。まさに「師資相見(しししょうけん)」や「命脈流通(めいみゃくるずう)」ということが成し遂げられたということであり、これが仏法の誕生です。こうした仏法の誕生もまた、過去の一時代のものだけではなく、師と弟子の双方の条件が調うことによって、いつの時代にも起こりうることだというのです。


以上の2つのようなことは、毎日、仏道を歩み、「恁麼の田地に至り得る(仏の悟りの境地に至る)」ことによって、為されていくというのが、今回、瑩山禅師様によって指し示されています。「汝等却て迦葉に嗣ぎ、迦葉却て汝等に受けん」とあります。私たちも日々の修行によって、迦葉の跡を継ぐこともできれば、迦葉から教えをいただくこともできるのです。


私事ですが、今年の4月に「曹洞宗石川県青年会」の会長を拝命しました。会長就任1カ月も経たない令和5年5月5日、能登地方を震源とする震度6強・マグニチュード6.5の地震が発生。青年会で長らく共に活動してきた前会長のお寺を始め、多くの方々が被災されました。


これまで青年会では災害が発生した際には、被災地に駆けつけ、ボランティア活動に汗を流してきました。そうした諸先輩方の活動を参考にしながら、曹洞宗石川県宗務所や被災地との十分に連絡を取り合い、被災地からのニーズに合わせ、ボランティア活動を務めさせていただくことにしました。


そんな青年会としての第1回目の活動が、5月13日(土)に行われ、レンタカーのトラックを駆って、会員3名で参加させていただきました。現地の被害状況は想像以上に凄まじく、言葉を失ってしまいました。


お伺いしたご寺院様では、檀家総代さんも共に汗を流しておられました。被災直後にも関わらず、和気藹々と作業をなさる気丈なお姿に、ボランティアとして被災地を救うべき私が、逆に救われたような心持ちになりました。この日は近くの野球場に開設された災害ゴミの仮置き場にトラックで廃材等を運ぶ作業をさせていただきました。ちょうど土日ということもあって、県内外からボランティアセンターに登録して活動される方、被災者のお子さんや親せきの方が集い、収集所周辺は多くの車で渋滞ができていました。


被災地が元の状態に戻るまでには、まだまだ時間がかかりそうですが、私は被災地の状況を目の当たりにして、被災地の人々に思いを馳せながら、いただいたいのちを精一杯、被災地のために使わせていただくというのが、お釈迦様から迦葉尊者へと受け継がれた仏道というものの一側面と考えています。こうした我々の生き様によって、「釈迦の肉親今猶ほ暖かに、迦葉微笑また更に新たならん」ということが実現することを願うばかりです。

第47回『第一章・拈提⑯ 無始無終古来今を絶す―「過去七佛(かこしつぶつ)」と一つになる―』

令和5年5月28日 更新

【拈提】七佛(しちぶつ)より汝等に到るのみに非ず、汝等まさに七佛の祖師たることを得ん。無始無終古来今を絶して、即ち是れ正法眼蔵付嘱有在(しょうぼうげんぞうふしょくうざい)ならん。



「七佛」とあるのは、お釈迦様を含めた7名の仏様のことです。一般的には、仏教は今から約2600年前、お釈迦様が三十歳臘月(ろうげつ)八日、明星の出しとき、坐禅修行によって悟りを得たことによって、その歴史が始まったと伝えられています。しかし、正しくは、お釈迦様がお悟りを得る以前から存在していた「この世の真理」というものに気づき、それを言語化して、一般にお示しになったと解すべきなのです。すなわち、悟りを得るというのは、何もお釈迦様が新しいものを発見し、人々に提示したということではないのです。お釈迦様以前の時代、遥か太古の昔から存在していた真理というものに、お釈迦様もお気づきになると共に、それを坐禅によって明確になさったということなのです。


そうしたお釈迦様のお悟り以前から存在していたこの世の真理というものを体得していた仏様がお釈迦様以外の6名の仏様で、次の通りです。


毘婆尸佛(びばしぶつ)人寿(人間の寿命)8万歳のときに出現、菩提樹下で三度の説法を施し、34万8千人の人々を救済したと称せられる仏様

尸棄佛(しきぶつ)人寿7万歳のときに出現、分陀利樹下で悟りを得、20数万人の人々に説法を施し、救済したとされる仏様

毘舎浮佛(びしゃふぶつ)人寿6万歳のときに出現、沙羅樹下にて悟りを得、説法をなさったとされる仏様

拘留孫佛(くるそんぶつ)人寿5万歳のときに出現、尸利樹下にて悟りを得、4万人の人々に布教教化したとされる仏様。

拘那含牟尼仏(くなごんむにぶつ)人寿4万歳(3万歳)のときに出現、烏曇波羅(うどんぱら)樹下にて悟りを得る。拘留孫佛同様、インドにて実在したとされるお釈迦様以前の仏様で、この仏様にちなんだ遺跡等が確認されている。

迦葉佛(かしょうぶつ)人寿2万歳のときに出現、尼狗律(にぐりつ)樹下に坐して悟りを得、一回の説法で1~2万人の人々を救済した。お釈迦様のお弟子様である摩訶迦葉尊者(まかかしょうそんじゃ)とば別人。


前回の「釈迦の肉親今猶(な)ほ暖かに、迦葉微笑また更に新たならん」という言葉が指し示すように、お釈迦様のみ教えというものは、私たちが真摯に求めていくことによって、次第に現前してきます。そして、私たち自身が過去の仏様と一つに溶け合い、一体化していくのです。


そうした過去の仏様と、今を生かされている仏道修行者の一体化ということを、お釈迦様以前の「過去七佛」と称されている仏様にまで範囲を広めて指し示されているのが、「七佛より汝等に到るのみに非ず、汝等まさに七佛の祖師たることを得ん。」の一句です。先にも申しましたように、仏教というものは、お釈迦様のお悟りによって始まったというよりも、それ以前から存在していた真理というものを、お釈迦様が明確になさったと解釈すべきものです。そして、そのみ教えが未来永劫に受け継がれ、今、私たちの眼前に存在しているのです。まさに始まりもなければ、終わりもない、「無始無終古来今を絶して」という言葉の通りなのです。


そんな仏法(正法眼蔵)というものが、〝今という時間〟・〝ここという場所〟において付嘱され、存在(在在)していることを再確認させていただく仏縁となるのが、今回の一句なのです。

第48回「第一章・拈提⑰ 有材不変易(うざいふへんにゃく)の仏法」

令和5年11日 更新

【拈提】之に依(より)て釈迦も迦葉の付嘱(ふしょく)を得て、兜率天(とそつてん)に今に有在(うざい)なり。汝等も霊山会上(りょうじゅえじょう)にして有在不変易(うざいふへんにゃく)なり。




前段において、「無始無終古来今を絶して、即ち是れ正法眼蔵付嘱有在(しょうぼうげんぞうふしょくうざい)ならん」とありましたように、お釈迦様によって人々に明確に示された仏法は、お釈迦様以前から存在していたものであると共に、「釈迦も迦葉の付嘱を得て」とありますように、「お釈迦様がお弟子様の迦葉尊者に伝えた」からこそ、〝今という時間〟・〝ここという場所〟において存在(有在)していることを、前段に引き続き、再確認しておきたいところです。


「兜率天(とそつてん)」という言葉が用いられております。これは、弥勒菩薩(みろくぼさつ)(56億7千万年後、お釈迦様に続いて成仏する【仏に成る】とされる仏様)が住するとされる世界を指します。お釈迦様から迦葉尊者に仏法が伝わったことによって、次世代の仏様と称される弥勒菩薩様の元にも正法がもたらされ、有在(存在している)というのです。


また、「汝等も霊山会上(りょうじゅえじょう)にして有在不変易(うざいふへんにゃく)なり」とあります。「仏法を学び、仏道を行ずるものならば、霊鷲山(りょうじゅせん)において、有在不変易(何の変哲もなく存在し続けること)であろう」というのです。すなわち、仏法は時代や場所といった外的要因に関係なく、求める人のところには、ちゃんともたらされていくものであるということなのです。


仏法を求めぬ人のところには仏縁が育まれることはありません。仏法は求める人のために、時代や場所に関係なく、ちゃんと準備されていて、すぐに姿が表れるようになっているのです。今回は、その点を、今一度、押さえておきたいところです。

第49回「第一章・拈提⑱ 如来寿量(にょらいじゅりょう) —霊鷲山上(りょうじゅえじょう)の説法は永遠なり―」

令和5年6月26日 更新

【拈提】道(い)ふことを見ずや、常在霊鷲山(じょうざいりょうじゅせん)、及余諸住処(ぎゅうよしょじゅうしょ)、大火所焼時(だいかしょしょうじ)、我此土安穏(がしどあんのん)、天人常充満(てんにんじょうじゅうまん)と。唯、霊山会上のみ所住処(しょじゅうしょ)に非ず、豈(あに)、梵漢本朝(ぼんかんほんちょう)も亦た洩(も)るることあらんや。如来の正法流転(しょうぼうるでん)して一毫髪(いちごうはつ)も欠(かく)ることなし。



令和5年5月8日、「新型コロナウイルス感染症」が五類感染症に位置付けられたことによって、随分とコロナ禍前のような日常が戻ってきたような気がします。金沢市内も兼六園やひがし茶屋街といった観光地周辺には日本人のみならず、海外からの観光客の姿を見かけるようになってきました。また、お寺の世界でもコロナ禍の約三年間は、〝法要なし・法話なし・人と人との関わりなし〟といった毎日が続きましたが、次第に再開の動きを見せ、6月23日には「峨山園法要(がさんえんほうよう)★」(曹洞宗石川県宗務所主催)が4年ぶりに本格開催され、ご法話を務めさせていただきました。


その席上でお話させていただいたことを一部、ご紹介させていただきます。平成20年に3年間の曹洞宗布教師養成所での研修を終えた私は、曹洞宗の布教一筋に15年間やってまいりました。ところが、コロナ禍で法要の中止、法話の機会の喪失という思いもよらぬ現実に直面したとき、「このまま法話の機会がなくなるのではないか・・・。」と、将来に不安を覚えました。しかし、法話の依頼のあるなしに関係なく、仏道修行(坐禅)と仏教の学習(曹洞宗の祖師方が示された経典祖録の学習)の2点は怠ることなく習慣化させていこうと思い直し、この3年を過ごしてまいりました。誤解を恐れずに申し上げるならば、「仏様の真似をして過ごした3年間」でした。すると、大変な毎日ではあるものの、どこか心が落ち着き、穏やかな気持ちで毎日を過ごせるようになっていったのです。コロナ禍前、ご法話で「仏様の真似をして過ごせば、毎日が穏やかな気持ちで過ごせる」と説いたものですが、図らずも、コロナ禍において、それを我が身で実感できたのです。


ここ数回、「伝光録」において、瑩山禅師様が「釈迦の肉親今猶ほ暖かに」(第46回)とか、「無始無終古来今を絶して」(第47回)、「有在不変易(うざいふへんにゃく)」(第48回)とお示しになったように、仏法とは太古の昔から存在していたものを、お釈迦様が明確にし、今日まで伝わっていることが確認できました。そして、仏法はこの先も未来永劫に存在し続けていくものだというのです。


しかし、それは私たちからのアプローチがない限りは、それらの存在を確認することはできません。すなわち、私たちが意識的に日常生活の中で仏の修行をする(仏の真似をする)ことによって、仏の存在が実感できるようになるということです。


今回の一句の中で、瑩山禅師様は法華経(ほけきょう)「如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)」の一説を引用なさっています。「常在霊鷲山(じょうざいりょうじゅせん)、及余諸住処(ぎゅうよしょじゅうしょ)、大火所焼時(だいかしょしょうじ)、我此土安穏(がしどあんのん)、天人常充満(てんにんじょうじゅうまん)」。これの意味するところはまさに、仏のいのちが永遠無量なるもの(寿量)であるということです。「如来寿量品」では、お釈迦様が常に霊鷲山に在って、説法を続けていると説きます。実際には今から約2600年前の2月15日の夜半にお釈迦様は80年のご生涯を終えていらっしゃいますが、仏は入滅(にゅうめつ)【お亡くなりになること】の姿を現しながらも、仏の教えを求める者に対しては、姿を現して、苦悩を救い、仏の悟りの世界へとお導きになるということを説いているのです。すなわち、お釈迦様の霊鷲山上での説法は、「霊山会上のみ所住処(しょじゅうしょ)に非ず」とあるように、当時のものだけではなく、現代においても、将来においても、求める者の眼前に姿を現してくれるのです。


それは時間的な面のことだけを言っているのではありません。場所に関しても同じで、「梵漢本朝(ぼんかんほんちょう)も亦た洩(も)るることあらんや。」とあるように、仏教がインドで発祥し、そこから中国・日本へと伝わってきたように、仏のお悟りは時と場所を超えて広まっていくものなのです。こうして「如来の正法流転(しょうぼうるでん)して一毫髪(いちごうはつ)も欠(かく)ることなし。」とあるように、時と場所を超えて伝わってきた仏法は、仏教の原点であるお釈迦様がお悟りを得たときから、ほとんど形を変えることなく今日まで伝わっているというのです。


冒頭にも申しましたように、私はコロナ禍中に、自分なりに積み上げてきた布教教化の道が、想定外の事態を受けて失われていくのではないかという不安を抱えました。そうした思いがけない困難に出会い、あれこれと思い悩んでいた私の眼前に「如来の正法」が現れ、一仏道修行者の端くれとして、やるべきことをやって時が来るのを待てばよいと伝えていってくれたような気がします。


こうして振り返ってみれば、まさに「八風(はっぷう)吹けども動ぜず」という禅語もありますが、困った時には、仏の世界の門を叩き、そのみ教えを希いながら、進むべき道を進んでいく大切さを、身をもって教わった3年間のコロナ禍だったように思います。「霊鷲山上の仏は永遠なり」—是非とも心しておきたい言葉です。




★峨山園法要

大本山總持寺二祖・峨山韶碩(がさんじょうせき)禅師のご生誕地である石川県津幡町・瓜生(うりゅう)において、禅師のご生誕を祝しながら、そのご遺徳を偲ぶ法会。昭和40年から毎年、営まれている

峨山園法要の様子(右は平成30年、住職が法話を担当させていただいたときのものです)

第50回「第一章・拈提⑲ 諸人の精進と不精進に依て」

令和5年日 更新

【拈提】若(も)し然(しか)れば此会(このえ)は、是れ霊山会(れいざんえ)たるべし。霊山は是れ此会たるべし。唯諸人の精進と不精進とに依て、諸仏、頭出頭没(ずしゅつずもつ)せるのみなり。今日も頻(しき)りに弁道し、子細(しさい)に通徹(つうてつ)せば、釈尊直(じき)に出世なり。唯、汝等自己不明に依て釈尊昔日(そのかみ)入滅(にゅうめつ)す。



前回、毎年6月23日に営まれる大本山總持寺二祖・峨山韶碩(がさんじょうせき)禅師様(1276-1366)の生誕法要(峨山園法要【がさんえんほうよう】)について触れさせていただきました。峨山禅師様といえば、当時、今の石川県・輪島市にあった大本山總持寺(現在は明治期の大火を機に横浜市鶴見区に移転、輪島には「跡地」を意味する「祖院(そいん)」の語が付された大本山總持寺祖院がある)と石川県・羽咋市(はくいし)にある「永光寺(ようこうじ)」の50数キロ離れた両寺の住職を兼務なさっていた際に、朝のお勤めをすべく毎朝のように行き来された「峨山越え」を行じられた禅僧として、多くの人々に敬われ、今日まで語り継がれている方です。この峨山禅師様の91年のご生涯は「仏の道一筋に、仏道に徹底して過ごされたもの」と申し上げても過言ではありません。


様々な形はありますが、「仏の道一筋に生きてこられた」という点においては、どの仏教祖師方にも共通しています。仏教の開祖であるお釈迦様は勿論のこと、以降、そのみ教えを受け継ぎ、日本に禅のみ教えをもたらし、福井県に永平寺をお開きになった道元禅師様も然り、大本山總持寺をお開きになった瑩山禅師様も然りです。こうした生き様が「精進」なのです。


「精進」について、お釈迦様はお亡くなりになる直前、「少水の常に流れて、則ち能く石を穿(うが)つが如し」という、大変明快なたとえを用いて、お示しくださっています。どんなに硬い石でも、そこに向かって少量でもいいから毎日毎日水を流し続けていれば、その石が変形し、割れるときが訪れます。それと同じように、「ほんのわずかでもいい、自分のできる範囲のことでいい、毎日、目標に向かってコツコツ努力し続けることで、我々が掲げた大目標も達成できる」というのが、「精進」の説かんとするところです。「自分たちのできる範囲で」という言い方は、近年、世間で言われるようになってきた「SDGs(持続可能な開発目標)」にも通じるような気がいたします。少水ほどの量でいいから、生涯に渡って続けていくことに意義があり、だからこそ、「持続可能」とか、「できる範囲で」という言葉に大きな意味があるような気がいたします。


そうした「精進」ということを、「精進と不精進とに依て」、すなわち、「精進するかしないか」によって、「釈尊直に出世なり」とあります。私たちが精進するかしないかによって、遠い昔日の昔に、すでに入滅(お亡くなりになること)なさっているお釈迦様が、私たちの眼前に現れるというのが、今回の一句の意味するところです。「頭出頭没」とありますのは、「姿を現したり消したりすること」を指しています。


お釈迦様の存在は昔日のものであり、今の時代には通用しない、現代とは無関係なものと捉えているようでは、お釈迦様とのご縁が育まれることはないでしょう。それが「自己不明」の言い表すところです。お釈迦様の存在は遠い昔に亡くなったのではなく、今も、そして、これから訪れる未来においても生き続ける永遠の存在なのです。要は私たちの「頻(しき)りに弁道し、子細(しさい)に通徹(つうてつ)する」という、仏道を求め、精進していく姿があるならば、必ずやお釈迦様が姿を現し、私たちに救いの手を差し伸べ、仏のお悟りへと導いてくださるということなのです。そのことを忘れることなく、弁道修行に邁進していきたいものです。

第51回「第一章・拈提⑳ 仏子への願い・仏子の使命」

令和5年7月23日 更新

【拈提】汝等已(なんじらすで)に仏子たり。何ぞ仏を殺すべけんや。故に急(すみやか)に弁道して速(すみや)かに慈父と相見(しょうけん)すべし。



道元禅師様や瑩山禅師様始め、各宗の宗祖といったお釈迦様以降のみ教えを受け継ぐ仏教祖師方は「仏の道一筋に生きてきた」方々でした。前段では、そうした仏道修行に徹底した生き様を指して「精進」と申しておりました。精進によって、既に入滅(にゅうめつ)(お亡くなりになること)なさっているお釈迦様が私たちの眼前に姿をお見せになり、み教えを提示なさるのです。それが「頭出頭没(ずしゅつずもつ)」の意味するところでした。


〝仏の道一筋に生きてきた仏教祖師方〟を、「仏子」という言葉で表現することができます。大乘寺(だいじょうじ)二世住持職をおつとめになっている瑩山禅師様は眼前に集う修行者たちに対して、「汝等已に仏子たり」と呼びかけていらっしゃいます。ここには瑩山様がたとえ彼ら修行者の経験値や能力の差に違いがあれども、そこには一切目を向けず、一人一人を尊き仏道修行者として捉え、お認めになっていらっしゃることが見受けられます。そうした仏子たる者の使命として、瑩山禅師様が仏子に願うことが明示されているのが、今回の一句です。一つは「何ぞ仏を殺すべけんや」とあるように、「仏のいのちを殺さずに生かすこと」です。もう一つは「急に弁道して速かに慈父と相見すべし」ということです。


「仏のいのちを生かす」ということについて、これは道元禅師様が「教授戒文(きょうじゅかいもん)」において、「不殺生戒(ふせっしょうかい)」を説いていらっしゃいますが、その中にある「仏の慧命(えみょう)を嗣続(しぞく)する」とも合致します。すなわち、今・ここにいのちをいただき、生かされている者が、仏のみ教えと出会い、仏のみ教えに随って仏道修行に邁進することによって、仏の存在が“見える化”していく(頭出頭没)のであり、そうやって、仏のいのちが現世に広まり、次世代へと受け継がれていくのです。


こうした仏と出会い、そのみ教えに随って修行していくことが「弁道」です。弁道によって、「慈父」たる「お釈迦様」との「相見(お会いすること)」が可能となるわけで、この論理展開は誰もが合点のいくものではないかという気がします。


仏子たるもの、弁道(仏道修行)に精進し、慈父たるお釈迦様に相見できますように。それが仏子たるものの使命であることを再確認しておきます。

第52回「第一章・拈提㉑ 行住坐臥を俱(とも)にする」

令和5年7月31日 更新

【拈提】よのつね釈迦老漢(しゃかろうかん)、汝等(なんじら)と俱(とも)に行住坐臥(ぎょうじゅうざが)し、汝等と俱に言語伺候(ごんごしこう)して、一時も相離るることなし。



「仏子(ぶっし)」として、「仏のいのちを生かす」ことを自らの使命としてきた方々は、いつ、どんなときであっても、お釈迦様のお姿が拝見でき、そのみ教えに触れることができるのでした。そのことを再度、瑩山禅師様が他の言い回しで提示なさっているのが、今回の一句です。


「よのつね釈尊老漢、汝等と俱に行住坐臥し、汝等と俱に言語伺候して、一時も相離るることなし。」—「お釈迦様は常に、あなた方修行者と行動を共にし、その様子をお伺いして穏やかな言葉で接しながら、片時もあなた方から離れることはない。」ということです。「行住坐臥」というのは、「私たちの日常の立ち振る舞いのこと」のことで、「言語伺候」には、「謹んでお伺いしながら言葉を発する」という意味があります。


このように、私たちの方から、お釈迦様を求め、その慧命(えみょう)を嗣続(しぞく)していこうとするならば、たとえ今は既に亡くなっている釈迦老漢であっても、我々の求めに応じて、まことしやかに丁重なる姿勢で私たちと関わり、仏のみ教えを発しながら、私たちの心を穏やかに調えてくれるのです。平穏無事な日常というものは、誰もが願うものです。そうであるならば、釈迦老漢を求めていくことがよろしいかと思います。そうやってお釈迦様と行住坐臥を俱(とも)にし、一時も離れることなく過ごすことによって、穏やかな日常の到来を目指していきたいものです。

第53回「第一章・拈提㉒ 不孝の人」

令和5年日 更新

【拈提】一生若し彼(か)の老漢を見ずんば、諸人悉く皆不孝の人たらん、巳に仏子といふ。若し不孝の者たらば、千仏の手も及ばず。



前段では、瑩山禅師様から「仏を求め、そのみ教えから学ぼうとする姿勢を持った者に対して、お釈迦様(釈尊老漢)はしっかりと応じてくださる」とのお示しがございました。


その反対に、今回は「一生若し彼の老漢を見ずんば」とあるように、釈尊老漢のみ教えを一生涯、一度たりとも求め見ることがない者について触れられています。「一生若し彼の老漢を見ずんば」―そういう人間は「不孝の人である」と瑩山禅師様はおっしゃっています。「不孝」について、「不幸せ」を意味する「不幸」ではなく、「不孝」とあることに注目してみます。


「不孝」というのは、古代日本の律令(刑法と刑法以外の法典)の中に制定されている八虐の一つで、祖父母または父母に対する犯罪行為を指しています。もっとも、瑩山禅師様が在世していらっしゃった中世は、律令制度は終焉を迎え、不孝も「祖父母や父母との家族関係の断絶」という意味で用いられるようになりましたが、いただいたいのちを全うしていく上で、仏に見(まみ)えることのないまま生涯を終えるようなことは、律令制度において禁じられていた「不孝」を犯すに等しいくらいのものであると、瑩山禅師様は我々に強く指し示していらっしゃるのです。


そうした「不孝」の者に対して、瑩山禅師様は「千仏の手も及ばず」ともおっしゃっています。「千仏」というのは、「過去・現在・未来に存在する数多の仏様」を指しています。仏を求めぬ者には、どんな仏も手を差し伸べてくれないのは言うまでもありません。


何かと苦悩が付きまとう娑婆世界に生かされる私たちにとって、その苦悩を救ってくれるのが釈尊老漢始めとした仏様です。釈尊老漢は救いを求めれば必ず応じると共に、私たちを仏の世界へと導き入れてくれます。こちらからお釈迦様にアプローチし、不孝の人とならぬようにしていきたいものです。

第54回「第一章・頌古 雲谷幽深の処、更に霊松の歳寒を歴る有り」

令和5年8月13日 更新

【拈提】今日大乗の子孫、また恁麼(いんも)の道理を指説(しせつ)せんとするに卑語(ひご)あり。諸人、聞かんと要すや。

【頌古】知るべし、雲谷幽深(うんこくゆうしん)の処(ところ)、更に霊松(れいしょう)の歳寒(さいかん)を歴(へ)る有り。



瑩山禅師様は「伝光録」の各章における最終箇所は、必ず「頌古(じゅこ)」で締めくくっていらっしゃいます。「頌古」は「祖師方の古則に対して、偈や詩を用いながら簡潔に宗意を示したもの」でした。加賀・大乘寺において、大勢の修行僧を前に、瑩山禅師様は「大乗(乘)の子孫、また恁麼(いんも)の道理を指説(しせつ)せんとするに卑語(ひご)あり。諸人、聞かんと要すや。」と呼びかけになりました。「卑語」というのは、「下品な言葉」ではなく、「自らを謙遜なさっておっしゃった評価の言葉」です。瑩山禅師様は修行僧たちに心して聞くよう促しながら、釈迦老漢(お釈迦様)から愛弟子・迦葉尊者(かしょうそんじゃ)へと仏法が伝来していく中に示されている道理について、頌古を用いながらお示しになるのです。


―「知るべし、雲谷幽深の処、更に霊松の歳寒を歴る有り。」―

本日は旧盆(8月盆)の真っ只中、テレビでは炎天下の中、お墓参りをする家族連れの姿が報じられていました。金沢市内は7月の新盆(7月盆)のため、8月盆の時期は特別の行事がありません。そこで、私は以前から、他県の友人のお寺のお手伝い(棚経【たなぎょう】)に出向いておりました。棚経(たなぎょう)は、檀信徒の皆様のご家庭にあるご仏壇に読経し、過去帳に記載されたご先祖様の戒名をお読みして、お盆の先祖供養をするというものです。


コロナ禍によって、長らくお伺いしていたお寺の棚経がなくなり、今年から新たにご縁のできたご寺院様にお伺いすることになりました。本日がその第一日目となりましたが、お寺はまさに、瑩山禅師様のおっしゃる「雲谷幽深」という言葉がピッタリの静かで緑の多い山間に佇んでおり、お檀家さんも田園が広がる静かな農村で先祖代々の家や土地を護り次ぐ方々ばかりでした。一日で20件近くのお檀家さん宅をお伺いしましたが、初対面かつ20分程度の短い時間での訪問なのに、なぜか以前から知り合いであったかのような、すっかり意気投合したかのような方が何人もいらっしゃったことが、とてもうれしく、印象的でした。一見したところ、のどかな田園風景が広がる一帯ではあるものの、そこに生きる人々の様々な人生が絡み合い、のどかな中にも奥深さを思わずにはいられませんでした。物事を捉えていくとき、表面的に表れているところだけで判断するのではなく、その背景に存在している様々なものにも目を向けながら、広くかつ深く捉えるようにしてく大切さを再確認させていただいたように思います。それが「知るべし、雲谷幽深の処」の意味するところです。


そんな「雲谷幽深の処」には、「更に霊松の歳寒を歴る有り」とあるように、「長年の寒さに耐える霊験あらたかなる松がある」とあります。様々な苦難と共に毎日を過ごしながらも、それを受け止め、しっかりと生きていく者だからこそ、物事の本質や仏法の神髄に近づいていけるのであり、雲谷幽深における奥深さにも気づくことができるようになるのでしょう。


長い人生の中で、初対面の方との出会いは幾度も経験することですが、最初から意気投合し、深い関係を築けるというのは、滅多にないことです。その滅多にないことが釈尊老漢と迦葉尊者の間に起こり、それが後世への仏法伝来の起源となったことは重々に承知しておくべきことです。お二人が師弟関係を結ぶに至った理由は、お二人がまさに「雲谷幽深の処」が体得できる存在であり、「霊松の歳寒を歴る」存在だったからです。そんなお二人の生き様に触れながら、私たちも自らの人生を、より一層深めていきたいと願うところです。

第55回「第二章・本則 門前の刹竿(せっかん)を倒却著(とうきゃくじゃく)する」

令和5年8月20日 更新

【本則】第二祖、阿難陀尊者(あなんだそんじゃ)、迦葉尊者(かしょうそんじゃ)に問いて曰(いわ)く、「師兄(すひん)、世尊(せそん)、金襴(きんらん)の袈裟(けさ)を伝うる外(ほか)、別に箇の什麼(なに)をか伝うる。」迦葉、「阿難」と召す。阿難応諾(おうだく)す。迦葉曰く、「門前の刹竿(せっかん)を倒却著(とうきゃくじゃく)せよ。」阿難大悟(だいご)す。



お釈迦様は悟りを得て間もなく、故郷にお戻りになりました。このとき、釈迦族の王子ら数名がお釈迦様の下で出家し、仏門とのご縁を育んだといわれます。その中の一人に、阿難陀尊者という方がいらっしゃいました。阿難はお釈迦様のいとこにあたる人物で、その兄・提婆達多(だいばだった)も同時期にお釈迦様の下で出家しています。しかし、兄の提婆は中々、悟りを得られぬことから、次第に仏の道から外れていきます。お釈迦様への嫉妬から、お釈迦様への妨害行動に出たり、殺害計画を企てたりと、その悪事は枚挙にいとまがありません。


そんな兄とは違って、弟の阿難は仏の道一筋にお釈迦様に20年近く付き従い、誰よりもお釈迦様のお言葉やみ教えを耳にしたことから、「多門第一(たもんだいいち)」と呼ばれ、十大弟子(お釈迦様のお弟子様の中でも特に優れた10人の修行者)のひとりとして、数え上げられるようになりました。


しかし、かほどにお釈迦様の側で修行に励み、誰よりもそのみ教えを聞いてはいたものの、お釈迦様がそのみ教えを伝え、教団の将来を託す者としてお選びになったのは迦葉尊者でした。結果的には、阿難はお釈迦様から直接、教えを受けたのではなく、高弟の迦葉尊者から受け継ぐことになります。そんな迦葉尊者に付き従うこと20年、ようやく阿難が大悟(仏の悟りを体得すること)した瞬間とその時のやり取りが、今回の本則に指し示されています。


阿難が迦葉尊者に問いかけました。「世尊(お釈迦様)は師兄(兄弟子である迦葉尊者のこと)に金襴の御袈裟をお伝えになりましたが、それ以外に何かお伝えになったものはあるのですか?」―僧侶が身にまとう袈裟の中でも金糸模様を織り込んだものを「金襴」と申しますが、お釈迦様が迦葉尊者に金襴の袈裟を伝えたというのは、仏法を伝えたということであり、金襴の袈裟は仏法の象徴なのです。前段・第一章の機縁において、「善来比丘(ぜんらいびく)とのたもふに、鬚髪(しゅはつ)すみやかに落ち袈裟(けさ)体に掛る。乃(すなわ)ち正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)を以て付嘱(ふしょく)し、十二頭陀(じゅうにずだ)を行じて、十二時中虚(むなし)く過ごさず。」とありました。多子塔前(たしとうぜん)においてお釈迦様と迦葉尊者が出会ったとき、迦葉尊者のヒゲや髪の毛がなくなり、袈裟がかかると共に、正しい仏法(正法眼蔵)が伝えられていったことが示された場面です。


そうした金襴の袈裟以外に迦葉尊者に伝えたものはなかったのかという阿難の問いに迦葉尊者は「門前の刹竿(せっかん)を倒却著(とうきゃくじゃく)せよ。」とお答えになりました。法要や説法がある場合に、寺院の門柱に掲げる旗を「刹竿」と言いますが、それを「倒却著(倒し切ってしまえ)」と迦葉尊者はおっしゃっているのです。この言葉を聞いて、阿難はついに悟りを得るのですが、この言葉の意味するところは一体何なのでしょうか。


法を説く者がその合図として掲げる刹竿を倒してしまえば、周囲には見えなくなってしまいます。周囲に分かるように、刹竿を立てて合図を出せば、皆が気づきますが、倒してしまえば誰も気づくことはありません。そうなると、仏法を広めるという目的が果たしづらくなります。仏法を広めるために刹竿を立てることだけを考え、そこに捉われていては、仏法の神髄は見えてきません。刹竿を倒すということの意味をも併せて知ってこそ、仏の悟りへと到達できるのです。


阿難は「多門第一」と呼ばれ、誰よりもお釈迦様のみ教えを多く聞き、博識であることが強みでした。しかし、そのことに満足していれば、それ以上先に進むことはできず、到底、仏の悟りに到達することなどできないのです。お釈迦様の下で20年、更に迦葉尊者の下で20年、専一に仏道修行に励み、阿難尊者は、ようやく今、説法には欠かせぬ門前の刹竿を倒し切ってしまうことの意を悟り、お釈迦様のお墨付きを得ている迦葉尊者から認可を得ることができたのです。そして、これはお釈迦様の認可をも得たことをも意味しているのです。

第56回「第二章・機縁① 親族への仏法付嘱が意味するもの」

令和5年日 更新

【機縁】夫(そ)れ阿難尊者は、王舎城(おうしゃじょう)の人なり。姓は刹定利(せっていり)、父は斛飯王(こくぼんのう)。実に世尊の従弟なり。



第二祖・阿難尊者について、その出生や仏法との機縁等が瑩山禅師様より説明されていきます。


瑩山禅師様によれば、阿難尊者は「王舎城」のご出身であるとのことです。王舎城はお釈迦様が成道(悟りを得ること)なさったり、仏教伝道を行ったりした地とされる中インド・マカダ国の首都で、古代インドの十六大国の一つです。ちなみに、お釈迦様から迦葉尊者に仏法の付嘱がなされた「多子塔(たしとう)」のある「霊鷲山(りょうじゅせん)」は王舎城の東北にあった山で、マカダ国が仏教と縁深い地であることに気づかされます。


そんな仏縁深き地にお生まれになった阿難尊者は、「姓は刹帝利」とあるように、インド国民の民間信仰宗教であるヒンドゥー教に基づく「四姓制度」の一つに数えられる「王族・士族」のご出身であったことが瑩山禅師様より紹介されます。この「刹帝利」には、釈迦族国王のお釈迦様一族が属しています。


※「四姓制度」については、第27回に詳細を説明させていただいておりますので、そちらもご参照ください。


そして、阿難尊者の父・斛飯王は「世尊の従弟」であると紹介されています。世尊(お釈迦様)と迦葉尊者は赤の他人で初対面の者同士でしたが、阿難尊者は、そうではなく、お釈迦様一族の者であり、親族の一人として、お釈迦様とはすでに面識があったことということです。


人間の世界において、家族・親族といった関係性の深い間柄の者同士ならば、ついつい感情が入り、特別扱いをしてしまう場合もあるかもしれません。しかし、釈尊教団には、そうした感情移入による区別や差別的な関わりは一切、存在しません。もし、そんなものがあったとすれば、お釈迦様は迦葉尊者を差し置いて、真っ先に阿難尊者に仏法を付嘱なさったことでしょう。仮に阿難尊者に仏法を体得できる器がなかったとしても、そこには半目をつぶったことでしょう。


そうした表面的な関係性で感情移入せず、仏法を体得できる器が育っているかどうか、そこに目を向け、師から弟へと仏法が伝わっていくのです。そこに到るまでの過程の中で、弟子は懸命に修行に励むのです。阿難尊者もまた、お釈迦様に20年仕え、さらに迦葉尊者にも20年仕え、ついに仏法体得の瞬間を迎えるのです。

第57回「第二章・機縁② 歓喜(かんき)ー人が寄ってくる人間とは・・・?ー」

令和5年9月10日 更新

【機縁】梵語には阿難陀(あなんだ)、此(ここ)には慶喜(けいき)といひ、又は歓喜(かんぎ)といふ。如来成道の夜に生る。容姿端正にして十六大国も隣とするなし。見る人ことに歓喜す。故に名と為す。



古代インドのサンスクリット語である梵語において、阿難の名は慶喜(けいき)または歓喜(かんぎ)とも言うと瑩山禅師様はおっしゃっています。そして、阿難尊者が、お釈迦様が成道(仏のお悟りを得ること)なさった日の夜にお生まれ人になったこと、「容姿端正にして十六大国も隣とするなし(十六大国どこを見渡してみても、阿難以上に容姿の調った者はいない)」ということが説明されています。阿難尊者は今でいうところの〝イケメン〟だったのでしょう。


ちなみに、「十六大国」について申し上げておきます。古代インドにおいて、紀元前6世紀から5世紀にかけて、ガンジス川流域に中央アジアの牧畜民族であったアーリア人が定住し、先住民と交わりながら多くの小国が誕生しました。その中でも特に有力なのが「十六大国」で、お釈迦様が成道し、布教伝道なさったマカダ国や、後にマカダ国に合併されるコーサラ国が有力国として君臨していたとのことです。


そんな十六大国の中でも一・二を争うほどの美しい容姿の持ち主であった阿難尊者には「慶喜」または「歓喜」という呼び名があったということですが、「歓喜」には、「楽しい」とか、「喜ぶ様」という意味があります。思うに、容姿端正というのは、元来からのイケメンということだけではなく、穏やかな心持ち、優れたお人柄というものも加わって醸し出されているように思います。阿難尊者は、たとえ自分にとって不都合かつ避けたくなるようなことがあっても、いつもニコニコと穏やかな面持ちで、しっかりと自分の心の中で消化したり、どんなことがあっても喜ばしい気持ちで関わったりするような人間性の優れた方だったのではないでしょうか。だからこそ、「容姿端正にして一六大国も隣とするなし」と評されたのではないかという気がいたします。元来持って生まれたものに加え、日々の中で育まれていった人間性から生み出される顔立ちの良さということが、「歓喜」という言葉が説かんとしているところのように思います。


こうした歓喜の思い極まる阿難尊者ゆえに、会う人会う人にも歓喜の念が伝播していたのでしょう。阿難尊者の傍にいれば、誰もが心洗われ、喜ばしい気持ちになっていったのです。だから、「歓喜」という名で呼ばれたということなのです。我々もこうした阿難の生き様を真似ていきたいものです。


図らずも令和5年4月から曹洞宗石川県青年会会長の任に当たっておりますが、就任前に「あの人には人が寄っていかない」と陰口を言う方もいたようです。確かに私自身、40歳前後の頃は、特に血気盛んで、きちんと物事を成し遂げたいと考える余り、周囲にも厳しく接していた時期がありました。今思えば、なぜ、あんなにピリピリしていたのかと恥ずかしくなるくらいなのですが、当時は何事もキッチリこなすことの一点に執着していて、他のことが見えなくなっていたような気がします。


そんな自分を知る方からすれば、「人が寄っていかない」と評されるのも仕方ないのですが、そんな自分でも、多くの人から会長として選んでいただいたことを思うとき、「歓喜」という言葉にあるような柔らかさや穏やかさを併せ持った人間でありたいと願い、毎日を過ごしています。会長職を拝命して半年が経ちますが、果たして、「人が寄ってくる会長」になっているのかどうか、まだまだ未知数ですが、40歳前後の時期を思えば、誰かと諍いを起こしたり、不愉快な思いをしたりする場面が減り、穏やかな気持ちで毎日を過ごせているように思います。自分の意識の変化によって、少しは状況がいい方向に進んでいると思いたいところです。「歓喜」という言葉を胸に、少しでも人間性を高めながら、2年間の任期を務めさせていただきたいと思っております。

第58回「第二章・機縁③ 二十年に及ぶ仏の侍者(じしゃ)ー阿難尊者に見る学仏道の者のあり方ー」

令和5年9月1日 更新

【機縁】多聞第一(たもんだいいち)にして聡明博達(そうめいはくたつ)なり。仏の侍者(じしゃ)たること二十年、仏の説法として宣説(せんぜつ)せざるなく、仏の行儀(ぎょうぎ)として学し来(きた)らざることなし。



明年(令和6年【2024年】)、太祖瑩山紹瑾禅師七百回大遠忌(たいそけいざんじょうきんぜんじしちひゃっかいだいおんき)をお迎えするに当たり、本年は来る令和6年の一大仏事をお知らせし、予め修行させていただく「予修(よしゅう)」の年として、方々で法会等が営まれております。去る9月12日から15日にかけて輪島にある大本山總持寺祖院(だいほんざんそうじじそいん)にて、毎年、修行されている「御征忌会(ごしょうきえ)」においても予修法要が営まれ、住職も法要に参列させていただきました。


そんな仏縁の中、松山寺御開山・融山泉祝大和尚(ゆうざんせんしゅくだいおしょう)が瑩山禅師三百回大遠忌に際し、「伝光録」の書写をなさったことが、この度の七百回大遠忌をお迎えする中、後世の人々のの研究によって判明、その報を受けた住職の胸には熱いものがこみ上げてきました。計らずも現・松山寺二十八世住職を拝命している私は、兼ねてから伝光録を読み味わい、令和4年からは、お寺のホームページに、その解説を掲載してまいりました。そんな中でお迎えした七百回大遠忌において、御開山様の偉業に触れると共に、自らが松山寺住職として、また、一学道の者の端くれとして、正当なる道を歩ませていただいている確信をいただくと共に、謙虚な気持ちで更なる精進を誓い、今日も報恩の行をつとめさせていただくのです。


さて、後年、「多聞第一」と呼ばれ、お釈迦様の侍者(側近)として、その側に侍り、誰よりも多くそのみ教えを耳にしてこられた阿難尊者に関する瑩山禅師様のご教示を読み進めてまいりたいと思います。


瑩山禅師様は阿難様が多聞第一であると共に、「聡明博達(道理を十分に心得た賢い者)」であると評されています。そんな阿難様はお釈迦様の側に二十年間もの間、お仕えし、そのお言葉をお聞きしながら、仏道修行に励んでこられたというのです。思うに、お釈迦様(仏)やそのみ教え(法)に対する絶大なる帰依(きえ)の念なくしては、中々、このような偉業は成し遂げられるものではないと思います。それが学道の者たる仏道修行者の本来のあるべき姿なのです。そして、それは伝光録を全て書写なさった松山寺御開山・融山泉祝大和尚も同じだと考えます。そんなことが頭の中を過(よぎ)るとき、自らの襟元が正され、令和の現代における一学道の者として、古人に恥ずかしくない生き方を心がけていこうという思いが湧き出てくるのです。


お釈迦様の侍者として、二十年の歳月を過ごされた阿難尊者について、瑩山禅師様は「仏の説法として宣説せざるなく、仏の行儀として学し来たらざることなし」とお示しになっています。「宣説」は「自分の見解や主義を述べること」であり、「行儀」は「立ち振る舞い」を指します。二十年という長い期間、誰もが帰依し、敬意を表する偉大な方と過ごし、最もその言葉を聞いた者であれば、誰彼かまわず、自らの見解を言いふらしたくなるものです。しかし、それは凡夫(ぼんぶ)の所業であり、学道の者ならば、師から自らの教えを受けるにふさわしい者と認可されない限りは、そのようなことはしません。阿難様はそのことをよくよくご理解なさっていた学道の者だったということなのです。瑩山禅師様の「宣説せざるなく」の一句からは、阿難様が真の仏道修行者であり、お釈迦様の高弟・迦葉尊者(かしょうそんじゃ)からお釈迦様のみ教えを受けるに相応しい人物であったことが明確に証明されているように感じます。


それでいて、阿難様がお釈迦様の行儀をしっかり学び取っていたという一句からは、師の「自らが誰よりもお釈迦様の侍者として、お釈迦様のことを存じ上げているんだ」というような横柄な態度は一切、感じられません。黙々と仏道修行を重ねていらっしゃったお姿だけが伝わってきます。


「多聞第一・阿難尊者」ゆえに、お釈迦様が阿難様ではなく迦葉尊者に仏法を伝えたことは、一見したところ、阿難様にとっては、おもしろくないことだったと思えるかもしれません。しかし、そんな捉え方は、学道の者の捉え方とは言えません。誰が何を言おうが、周囲からどのような捉え方をされようが一切関係なく、ただ只管(ひたすら)に仏の道を歩むのが「学道の者」なのです。成果や見返りを求めることなどナンセンスで、仏の道一筋に、何年も何十年も生きてきた結果として、阿難様は迦葉尊者から仏の道をお伝えいただくのに相応しい人間となり、法が伝わっていったと理解すべきなのです。


多聞第一・阿難尊者の生き様からは、「学道の者」としてのあるべき姿がにじみ出ているような気がいたします。よくよく学んでおきたいところです。

第59回「第二章・機縁④ 副弐伝化が意味するもの」

令和5年9月27日 更新

【機縁】世尊(せそん)、迦葉(かしょう)に正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)を伝付せしきざみ、同(おなじ)く阿難に付嘱して曰く、副弐伝化すべしと。之に依(より)て迦葉に随ふこと亦二十年、あらゆる正法眼蔵、悉く通達せずといふことなし。



お釈迦様の侍者(側近)として二十年、誰もが敬う尊師のお言葉を誰よりも耳にしたにもかかわらず、そのことを他者に自慢げに言いふらすわけでもなく、自らの見解をまくし立てるようなことも一切なさらない。それでいて、お釈迦様の行儀(立ち振る舞い)については、完璧なまでに学び取っていた真の学仏道の者である阿難尊者。ところが、世尊(お釈迦様)が直接、仏法の真髄(正法眼蔵)を伝付なさった迦葉尊者は阿難尊者のような親族の一人ではなく、全くの他人でした。また、阿難尊者と同等の力量を有する仏法伝付に相応しい人物でもありました。


そんな阿難尊者に対する正法眼蔵の付嘱というきざみ(事例)について、瑩山禅師様は「副弐伝化すべし」というお釈迦様のお言葉を提示なさっています。ここに、お釈迦様がお示しになった阿難尊者に対する仏法伝付の思いが示されています。


「副弐」には、「補佐」や「助手」という意味があります。すなわち、「お釈迦様に補佐的に付き従いながら、仏法を伝えていく」というのが、お釈迦様の阿難尊者に対する仏法の付嘱なのです。すなわち、お釈迦様からの直接的な法の伝付ではなく、迦葉尊者を通じての間接的な伝付ということです。


この背景には「多聞」ということは、仏に近づく上では欠かせないものの、それだけでは、仏の心に通じ、仏の道を体得したとは言えないという見解があります。すなわち、自らが耳にしたことは、徹底して行じていく中で、いつか必ず、道を得る瞬間が訪れるということなのです。お釈迦様は阿難尊者にそうした時間を20年間与えると共に、自らに代わって迦葉尊者に「副弐伝化」の大役を与えました。そして、それによって阿難尊者が道を完成させたのです。そのことを指し示すのが、「迦葉に随ふこと亦二十年、あらゆる正法眼蔵、悉く通達せずといふことなし。」です。


多聞第一、優れた学道の者である阿難尊者が仏に近づき、そのお悟りを完成するためにいただいた20年間。この中で阿難尊者は更に学仏道に精進し、ついに迦葉尊者の下で仏と成りました。この瞬間はお釈迦様のお二人の高弟への願いを、それぞれが達成した瞬間でもあったことを心に留めておきたいところです。

第60回「第二章・拈提① 祖師道の証本」

令和5年10日 更新

【拈提】夫れ祖師の道の他家に類せざること、之を以て証本と為すべし。



今回から瑩山禅師様による拈提(修行者への提示)が始まりますが、その冒頭において、瑩山禅師様は「祖師の道が他の道とは異なるものであることは、これまでの話が証明している」とおっしゃっています。〝これまでの話〟とは、他でもなく、前段の機縁の中で示されてきた迦葉尊者から阿難尊者への仏法の伝付に関するエピソードです。


機縁の冒頭において、師から弟子への仏法の伝付というのは、たとえば、親戚だから認めるというような、相手の立場など、表面的な関係性に感情移入して為されるものではないというみ教えがございました。あくまで当人に仏法を体得できる器が育っているかどうか、言ってみれば、本人の精進が仏法伝付の決め手となっていくということなのです。


阿難尊者は「多聞第一」と称され、長らくお釈迦様に仕え、誰よりもお釈迦様のみ教えを耳にしてきた方でした。機縁の中に「歓喜(かんぎ)(穏やかな心持ち、優れたお人柄が表情ににじみ出ていること)」という言葉がありました。そこからもわかるように、お釈迦様という偉大なる師と長期にわたり関わっていたからこそ、善き人間性が育まれると同時に、仏のみ教えをいただくには十分すぎるくらいの器を有した存在にまで育っていったのです。そのことは、他の誰から見ても疑いようのないものだったはずです。


しかし、お釈迦様は阿難ではなく迦葉に法を伝えると共に、阿難に対しては迦葉を通じての間接的な仏法の伝付(副弐伝化)という手法を取ることになさいました。この背景には、「多聞」という他者からの言葉を聞くのみではなく、自分の耳で聞いて体得したことを通じて、自らの力で仏の道を歩んでいく姿が培われてこそ、法の伝付が実現されるということがあるのです。それが「精進」ということなのです。


そうした阿難の現段階での修行者としての状態を深く見極めると共に、阿難への勇猛なる精進を願うお釈迦様の深い愛情に満ちた「副弐伝化」という方策そのものが、他の様々な道とは異なる、一線を画したものだということをしっかりと押さえ、次回以降、瑩山禅師様の拈提を読み進めてまいりたいと思います。

第61回「第二章・拈提② 阿難尊者、正法伝持・心地開明(しんちかいめい)の理由(わけ)」

令和5年10月15日 更新

【拈提】阿難すでに多聞第一、広学博達なり。仏まのあたり 聴許(ちょうきょ)しましますこと多し。然(しか)れども、尚(な)ほ正法を伝持し、心地(しんち)を開明することなし。



「多聞第一」と称される阿難尊者は、お釈迦様の側にお仕えして20年。この間、「仏まのあたり 聴許しましますこと多し」とありますように、お釈迦様から離れることなく、常にお釈迦様を目の当たりにし、そのお言葉をお聞きすることが許されていました。それゆえ、「広学博達」という言葉にも示されているように、幅広い広い知識を有した有能な存在として釈尊教団の中で頭角を現していったのでしょう。ちなみに、「機縁」の中でも、瑩山禅師様は有能なる阿難尊者を「多聞第一にして聡明博達(そうめいはくたつ)なり」と、今回と同様に評していらっしゃいました。


しかし、いくら多聞第一の有能なる阿難尊者であっても、お釈迦様が直接、法をお伝えになったのは迦葉尊者で、阿難尊者には「副弐伝化(ふくじでんけ)」という間接的な形で法の伝授していくことになっていきました。お釈迦様が迦葉尊者に法をお伝えになって以降、さらに20年、阿難尊者は迦葉尊者に付き従って、法を体得なさるのです。


そんな多聞第一にして、広学博達、聰明博達と評される阿難尊者がお釈迦様から法を受け継ぐに至らなかった理由は何なのでしょうか―?それが示されているのが、今回の一句です。「正法を伝持し、心地を開明することなし」とあります。誰もが認める有能な阿難尊者でも、仏のお悟りを体得していなかったことが、お釈迦様の法を受け継ぐに至らなかった理由であると瑩山禅師様はおっしゃっているのです。すなわち、阿難尊者が「未証果」なるがゆえの展開だったということです。


いつの時代にも頭の回転が速い有能な人間はいます。彼らは周りよりも秀でた能力を持っているがゆえに、周囲から一目置かれ、頼られることでしょう。ところが、そんな中には、あまりに周囲にチヤホヤされてしまうと、自分は優れていると勘違いしてしまう人間もいるもので、そうなってしまえば、周囲に横柄な態度で接するようになるなどして、忽ち、信頼を失ってしまうことになるのです。今まで培ってきたものの全てが、一瞬にして水泡に帰すのです。


そうならないように、自らの身心を律しながら周囲と関わっていくことの大切さを説くわけですが、こと仏道の世界では、有能であることに満足し、そこで終わってしまうようでは、仏道を成し遂げることはできないということを、しっかりと押さえておきたいものです。仏を目指し、少しでも仏に近づけるよう、「精進」していくことによって、正法を伝持し、心地を開明できるのです。お釈迦様の下では「仏まのあたり 聴許しましますこと多し」の阿難尊者は、迦葉尊者の下で、そうやって精進し、ついに仏果を得たのです。そのことを理解し、以降の瑩山禅師様のみ教えを読み味わってまいりたいと思います。

第62回「第二章・拈提③ 神通(じんずう)を現じて、終(つい)に畢波羅窟(ひっぱらくつ)に入る」

令和5年10月29日 更新

【拈提】迦葉、畢波羅窟(ひっぱらくつ)にして、如来(にょらい)の遺経(ゆいきょう)を結集(けつじゅう)せんとせしとき、阿難、未証果(みしょうか)なるに依(より)て、彼の室に入ることを得ず、許さず。時に阿難、密(ひそか)に思惟(しゆい)して、速やかに阿羅漢果(あらかんか)を証す。而して入らんとするに、迦葉の曰く、既に証果せば神通(じんずう)を現じて入るべしと。時に阿難、小身を現じて鑰(かぎ)の穴より入る。終(つい)に畢波羅窟に入る。



「未証果(仏道修行によって仏の悟りを得るに至っていないこと)」ゆえに、お釈迦様から直接、法を受け嗣ぐまでに至らなかった阿難尊者ですが、尊者の師であり、お釈迦様から直接、法を伝付された迦葉尊者もまた、そのことを厳しい眼で以て捉えていたこと。そして、それを受け取った阿難が師のみ教えに随い、弟子としての第一歩に立つまでに至ったこと。それらが、今回の一句を読み味わう中で感じ取れます。


―「迦葉、畢波羅窟にして、如来の遺経を結集せんとせしとき、阿難、未証果なるに依て、彼の室に入ることを得ず、許さず。」―迦葉尊者が畢波羅窟でお釈迦様の最期のみ教えについて、結集(お弟子様を始めとする関係者と話し合うこと)の場を設けようとしたとき、阿難が未証果だったために、この場に招くことを許さなかったというのです。「如来の遺経を結集する」というのは、お釈迦様がお亡くなりになった直後に迦葉尊者を座長として、お釈迦様の最期のお言葉(遺経)を収集し取りまとめたといわれる「第一回結集」を指しているものと考えられます。この結集は中インドの王舎城付近にあったとされる畢波羅山(ひっぱらざん)の麓の石室で行われた模様です。畢波羅窟はお釈迦様が食後の坐禅をした場所です。また、重病にかかった迦葉尊者がお釈迦様のみ教えを聞いて体調を回復させたり、坐禅中にお釈迦様の死を知るに至ったりした地でもあります。


そんな大切な意味を持つ第一回結集に、聰明博達で、「多聞第一」と呼ばれるくらいに、誰よりもお釈迦様の側に長く仕えた阿難が参加できないというのは、あってはならないことであると同時に、阿難なしにお釈迦様の最期のお言葉を収集し、まとめきるのは至難の業であることは想像に難くありません。しかしながら、未証果であるという師の判断がある以上は、阿難の第一回結集への参加は叶いません。


阿難尊者は「密に思惟して(そんな状況を踏まえ)」、「速やかに阿羅漢果(煩悩を断ち、為すべきことを為して人格を完成させた者に与えられる仏の弟子としての最高位)を証す」とあるように、仏道修行によって、師の認可を得ることにしました。


そんな阿難に対して、迦葉尊者は「神通を現じて入るべし」とおっしゃいました。「神通」は、「仏道修行によって体得される言葉では表せぬ摩訶不思議な力」を指します。阿難は師の言葉に随い、「小身を現じて鑰の穴より入る」とあるように、完全に門を閉ざされ、簡単には入ることができない石室に身体を小さくして、鑰(カギ)穴のような小さな隙間から入っていったと言うのです。すなわち、師から入室を許可されていない畢波羅窟に入るために、師の言葉に随って、仏道修行に精進し、師から入室を許可されるまでの存在になったということを指し示しているのが「神通を現じて(畢波羅窟に)入る」なのです。


こうして畢波羅窟に入り、第一回結集の場に参加することが認められた阿難尊者-これはまさに、ようやく迦葉尊者の弟子として正式に認可されるための第一歩を踏み出したということなのです。いよいよ阿難尊者が仏と成るための道が深まっていくのです。

第63回「第二章・拈提④ 一器(いっき)の水を一器に伝ふるが如し」

令和5年1日 更新

【拈提】諸弟子悉く曰く、阿難は仏の給仕(きゅうじ)として多聞にして広学なり。一器(いっき)の水を一器に伝ふるが如し。少しも遺漏(いろう)なし。願くは阿難を請(しょう)して再説せしめん。



未証果と言われていた阿難尊者が、〝神通(じんずう)を現じて、鑰(かぎ)の穴より畢波羅窟に入る〟とあるように、迦葉尊者のお言葉に随って、仏道修行に励み、ようやく、その認可を得られるところまで来ました。


そんな阿難尊者について、他の修行者たちが迦葉尊者に「阿難を請して再説せしめん」とあるように、「再度、阿難尊者に法を説くチャンスを与えてくださいますように」と、懇願なさっているのが今回の一句です。「諸弟子悉く曰く」以下に示される修行仲間が発する言葉の中には、師から弟子への仏法の相承(そうじょう)というものが如何なるものであるか、明快なたとえを用いながら示されています。それが「一器の水を一器に伝ふるが如し」という一句です。これは「相承」というものを明快に指し示すたとえとして、今日まで受け継がれている一句です。


「少しも遺漏なし」とあるように、「一滴も漏らすことなく、残すことなく、眼前の器に入っている水を別の器に移し替えるように、お釈迦様のみ教えがそっくりそのまま師から弟子へと受け継がれていく」のが、「相承」です。眼前の器の水は、他の器に移し替えても、移し替えた先の器の形に応じながら、納まっていきます。そこでは、移し替えた水の色や性質、味等、一切、その本質が変化することはありません。それと同じように、師のみ教えに対して、弟子が水が形を変えるように、自らが謙虚かつ柔軟に師のみ教えを受け止めていくこと。また、師も自らの師からいただいた仏法を遺漏なく弟子に伝えること。それが「一器の水を一器に伝ふるが如し」に示された仏法の相承なのです。


諸弟子が悉く阿難尊者を推すのは「仏の給仕として多聞にして広学」であるからに他なりません。これは誰よりも長くお釈迦様に仕え、多くのみ教えを聞き、学も広い阿難尊者こそが、お釈迦様の直弟子である迦葉尊者のみ教えを受け継ぐに相応しい人物であると誰もが評しているということです。


そんな諸弟子の意見を受けて、迦葉尊者が阿難尊者に再説を請います。詳細は次回、見ていきたいと思います。

第64回「第二章・拈提⑤ 頂礼(ちょうらい) 一代の聖教(しょうぎょう)の始まり」

令和5年11月12日 更新

【拈提】迦葉、阿難に語(かたり)て曰く、衆悉く汝を望む。汝再び座に登り、請(こ)ふ宣説(せんぜつ)せよ。時に阿難、密(ひそか)に如来の付嘱を護し、又迦葉の所請(しょこう)を受(うけ)て、遂に立(たち)て衆の足を礼し、座に登りて、如是我聞一時仏住(にょぜがもんいちじぶつじゅう)と宣説して、一代の聖教(しょうぎょう)悉く宣説す。




「迦葉、阿難に語(かたり)て曰く、衆悉く汝を望む。汝再び座に登り、請(こ)ふ宣説(せんぜつ)せよ」―他の修行者たちが「阿難の再説(阿難尊者が再び大衆の面前で説法を行うこと)」を望んだことを受けて、迦葉尊者は阿難尊者に再説を請い願います。それを受けて、いよいよ阿難の再説が始まるのが、今回の一句です。


迦葉尊者の要請(所請)を受けた阿難尊者は、「立て衆の足を礼し」とあるように、修行者たちにひれ伏して(自らの頭を相手の足につけて拝むこと)、説法者の座る席に身を置いたというのです。これは古代インドにおける仏教の礼法の一つで、最高の敬意を表する「頂礼(ちょうらい)」というものに該当します。人間の体の中でも大切な部位でもある頭を相手の足につけて拝むというのは、自分という存在を放下して相手を敬う修行に他なりません。そこには、阿難の迦葉尊者を始めとする修行仲間の切なる願いを真剣に受け止め、それに応えようとする修行者としての姿が垣間見られます。


そうした一大決心を以て、法座に臨む阿難は「如是我聞一時仏住」と宣説します。これは「一代の聖教」とあるように、お釈迦様が生涯に渡ってお示しになられた仏法を指しています。これは〝多聞第一〟と称されたように、いつ、どんな場面においてもお釈迦様に仕え、そのみ教えを耳にしてきた阿難だからこそ語れる説法ではないでしょうか。そのように感じます。


ちなみに「如是我聞」というのは、「かくの如く我によりて聞かれたり」という意で、お釈迦様亡き後に、お釈迦様の説法を語り、まとめ上げるための会議の場となった「結集(けつじゅう)」において、阿難尊者が発した言葉と言われております。「如是」には「信頼」、「我聞」には「仏のみ教えをよく護り保つ者」という意味がそれぞれ込められています。ここは、ご自分が絶対的な信頼を寄せると同時に、一人の仏のみ教えを護持する仏道修行者として、一時(あるしばらくの時期)、仏と住した際、徹底的に耳にした「一代の聖教」を、誠意の限りを尽くして大衆に宣説したことを、阿難尊者が声高らかに宣言なさった場面とも言えるような気がいたします。

第65回「第二章・拈提⑥ 諸弟子の讃歎(さんたん)」

令和5年11月1日 更新

【拈提】迦葉、諸弟子に語(かたり)て曰く、如来の所説と異(かわ)れりや、否(いな)やと。諸弟子曰く、如来の所説と一字も異れるなしと。諸弟子は皆是(こ)れ三明六通の大羅漢なり。聞漏(ききも)らすことなし。異口同音(いくどうおん)に曰く、知らず、是れ如来再来しましますか、是れ阿難の所説かと疑ふ。仏法の大海水、流(ながれ)て阿難の身に入ると讃歎(さんたん)す。



迦葉尊者の所請(要請)を受けて、一大決心を以て「一代の聖教(お釈迦様が生涯に渡ってお示しになった仏法)」を再説(説法)なさった阿難尊者。今回は、それに対する諸弟子の所感が述べられていきます。ちなみに諸弟子については、「三明六通の大羅漢」であると説明が付されています。「三明」とは次の三つです。


「宿命明(自己及び他己の過去の運命や状態を知る智慧)」

「天眼明(自己及び他己の未来の運命や状態を知る智慧)

「漏尽明【ろうじんめい】(一切の煩悩を断ち、悟りを得る智慧)」


また、「六通」は「六神通」とも言い、「仏菩薩が仏道修行によって得る六種の神力」を意味しています。六つの力の中には、先の「三明」に加え、次の三つがあります。

「神足通【じんぞくつう】(身体を意のままに自由にできる神通力」

「天耳通【てんにつう】(一般には聞き取れない音声までも自由に聞き取れる神通力)」

「他心通【たしんつう】(他者の心の中までも自由に測り知ることができる神通力」


こうした「三明」と「六通」を併せて、「三明六通」と申しますが、阿難の再説を聞いた諸弟子は、「三明六通の大羅漢」と称されるように、日常の修行によって、一般人の能力をはるかに超えた力を有する羅漢(仏様)であり、まさにお釈迦様と大差がないほどの力量を具えるにまでになった方々であることを理解しておきましょう。


そんな諸弟子に迦葉尊者は「阿難の再説は如来(お釈迦様)がお示しになったことと異なるものか否か」とお聞きになります。それに対して、三明六通の大羅漢であり、〝多聞第一〟と称される阿難尊者同様に、如来の所説を「聞漏らすことなし」の諸弟子の回答は、異口同音に「如来の再来なのか、阿難自身の説法なのかがわからないくらいである」というものでした。「仏法の大海水、流て阿難の身に入ると讃歎す」とあります。大きな海の如き広大無辺なるお釈迦様のみ教えが、「一器(いっき)の水を一器に伝ふるが如く」、そっくりそのまま阿難に伝わっていったかと思われるほどに、阿難の再説はお釈迦様そのものであり、お釈迦様の領域に今にも達しそうなくらいに尊く、優れたものであったと諸弟子は称賛していらっしゃるのです。


こうした諸弟子の称賛からは、阿難の力量がもはや迦葉尊者の認可をいただければ、お釈迦様の仏法を伝授されるべき者として十分なまでに高まっていることが伝わってまいります。人生の壁というものは、その壁の高さに応じた修行を、どんな困難も受け止めながらも継続していくことよって、いつか必ず乗り越えられることができるということを指し示していることも押さえておきたいところです。

第66回「第二章・拈提⑦ 流伝(るでん)―仏道の必須条件―」

令和5年110日 更新

【拈提】如来の所説、今に流伝(るでん)するは阿難の所説なり。実に知る、此道(このどう)は多聞に依らず、証果に依らざることを。之を以て証拠と為すべし。



前段では「三明六通の大羅漢」と称される諸弟子方が阿難尊者の説法をお聞きになって、「如来の所説と一字も異れるなし」と異口同音に評されたとありました。これは阿難の仏道修行が十分にお釈迦様の領域に達したことが、力量のある大勢の修行者たちによって証明された瞬間と言えるでしょう。


これを受けて、瑩山禅師様は「実に知る、此道は多聞に依らず、証果に依らざることを。之を以て証拠と為すべし。」とおっしゃっています。諸弟子の阿難尊者に対する評価からは「此道(仏道)というものは、多聞であることが大事なわけでもなければ、証果(仏道修行によって悟りを得た結果)によって評価されるべきものでもない」ことがはっきりと証明されたということです。これは言い換えるならば、「流伝」こそが、仏道における必須条件であるということなのです。


「流伝」とは、「水が流れるが如く、教法が世間に拡がり伝わっていくこと」を指し示す言葉です。「一器(いっき)の水を一器に伝ふるが如く」という例えにもあるように、いくら師の教えを多く聞き、体得したかのように見えても、お釈迦様から脈々と流伝されている教法を多く聞き、体得していない限りは、仏法を会得したとは言えないということなのです。


仏道修行者たる者、何を学ぶのか?何を行ずるのか?何を体得するのか?これらの問いかけに対する答えは「お釈迦様の教法」以外にはないということを、「流伝」という言葉を通じて、再確認しておきたいところです。

第67回「第二章・拈提⑧ 大悟の因縁」

令和5年12月1日 更新

【拈提】然(しか)も尚ほ迦葉に随ふこと二十年、今の因縁の処(ところ)にして始めて大悟す。既に如来の成道の夜に生れし人なり。



本章の「機縁」の中でも触れられていましたように、阿難尊者はお釈迦様から直接、法を伝付されたのではなく、お釈迦様のお弟子様である迦葉尊者に二十年間付き随い、それが因縁となって、法を付嘱されたのでした(副弐伝化【ふくじでんげ】)。


仏教が重視する「因果の道理」とは、「何事も原因があり、それに応じた形で結果が生ずる」というものでした。お釈迦様に付き従って二十年、さらに迦葉尊者に付き従って二十年、この両者の中で、どちらか一方でも欠けていたとすれば、仏弟子・阿難の誕生はあり得なかったことでしょう。


また、阿難尊者が「如来の成道の夜に生れし人なり」とあるのも、何か因縁めいたものを思わずにはいられません。お釈迦様が一週間近くに渡り、「この坐から立つまい」と心に決め、只管に坐禅修行に打ち込んだ結果、ついに成道(仏の道を完成させ、仏と成った)なさった12月8日の夜、迦葉尊者はこの世の生を受けたというのです。そもそも阿難尊者はお釈迦様のいとこにあたる方で、お釈迦様のことをよく存じ上げていらっしゃったことは想像に難くありません。そして、その人間性の偉大さに感銘を受けていたことも考えられます。


そんなお釈迦様が成道なさったという特別の日にお生まれになったことも一因となって、阿難尊者は仏法に目覚め、仏道修行者への道を歩み始めたのでしょう。その結果、阿難尊者の大悟が叶ったのです。そして、これが仏法の流伝・仏教のいのちの永続という果を生み出していくのです。

第68回「第二章・拈提⑨ 祖師道に入る」

令和5年12月24日 更新

【拈提】華厳(けごん)等は聞かざる所なり。然れども仏の覚三昧(かくざんまい)を得て、聞かざる所を宣説す。然れども祖師道に於(おい)て不入なることは、我等が不入と全く以て一同なり。



「華厳経(大方廣佛華厳経)」はお釈迦様の最初のご説法が記されたものです。つまり、お釈迦様が成道なさってから2~3週間ほど後に、ご自身が菩提樹の下でお悟りになったことをまとめ、初めて人々にお伝えしたものが記載されているということですが、それは多聞第一と称される阿難尊者でさえも耳にしていない内容のようです。


しかし、阿難尊者は、そうしたお釈迦様の処女説法は聞いていなくとも、「仏の覚三昧」を得ていたため、たとえ聞いていないことであっても、しっかりと宣説なさったと瑩山禅師様はおっしゃっています。「覚三昧」というのは、「覚(仏のお悟り)」と「三昧(心を一境に専注すること)」と分けて捉えればよろしいかと思います。「仏の悟りにおける心を専一にすること」を意味しています。すなわち、阿難尊者はお釈迦様のお悟りというものにしっかりと我が身を向けて、お釈迦様と一つになっていたということなのです。これは言ってみるならば、「多聞第一」ということを既に超えて、もはやお釈迦様に近いところまで阿難尊者の実力が高まってきていることを意味しているのです。それゆえに、直接、お釈迦様からお聞きしていないことであっても、まるでお釈迦様がお示しになるかのごとくに、我が言葉として発せられることができているのです。そして、これが「祖師道に入る」ということなのです。


「祖師道に入る」ということは並大抵のことではありません。相当に仏道修行を積み重ねてこそ為せる業です。この娑婆世界に生かされている多くの者は「凡夫(ぼんぶ)」であり、まだまだ祖師道に「不入」の者ばかりです。そうした凡夫たちとは異なり、長年にわたる仏道修行を経て、祖師道に入り、仏の覚三昧を得るまでになったのが、阿難尊者であるということを、今回は押さえておきたいと思います。

第69回「第二章・拈提⑩ 阿難尊者とお釈迦様に見る仏道修行の本質」

令和年1月4日 更新

【拈提】抑(そもそ)も阿難は乃往過去(ないおうかこ)の昔、空王(くうおう)の所(みもと)にして、今の釈迦仏と同時に阿耨多羅三藐三菩提心(あのくたらさんみゃくさんぼだいしん)を発(おこ)しき。阿難は多聞を好む。故に未(いま)だ正覚(しょうがく)を成ぜず。釈迦仏は精進を修しき。之に依て等正覚(とうしょうがく)を成じたまふ。



「阿難は多聞を好む。故に未だ正覚を成ぜず。」

「釈迦仏は精進を修しき。之に依て等正覚を成じたまふ。」

この瑩山禅師様がお示しになっている阿難尊者とお釈迦様の対を為す修行観・修行方法にこそ、仏道修行の本質がはっきりと見て取れるのではないか?—そんな気がしております。


優れた師に随い、仏道修行とは何たるか、そのみ教えを、「多聞」とあるように「聞いて聞いて聞きまくった」としても、あるいは、若かりし頃の道元禅師様が中国でご修行中に古人の経典・祖録を「読んで読んでよみまくっていた」のを、西川(せいせん)の僧なる修行者に咎められましたが、そうした参考書を読んで知識を得るようなことをしたとしても、日常生活の中で教えを実践し続ける「精進」という姿なくしては、「正覚」や「等正覚」という言葉が意味する「仏のお悟り」というものには到底たどり着けないというのです。そのことを、瑩山禅師様はお二人の仏道修行者の修行観・修行法を取り上げながら、具体的にお示しになっているのが今回の一句です。この対となっている一句は、一仏道修行者として、是非是非、我が身に念じ込んでおきたいところです。


「抑も阿難は乃往過去の昔、空王の所にして、今の釈迦仏と同時に阿耨多羅三藐三菩提心を発しき」とあります。お釈迦様も阿難尊者も乃往過去(遠い昔)、空王(世界が成立する以前のずっと昔に存在していた仏様)の下で、仏道修行に励み、「阿耨多羅三藐三菩提(悟り)」にたどり着いたというのです。このとき、阿難尊者は「多聞」という形での修行を、また、お釈迦様は「精進」という方法で、それぞれ悟りを得たというのです。


しかし、長い年月を経た今、瑩山禅師様は『「多聞」では「正覚」や「等正覚」といった本当の意味での仏のお悟りに到達できない、「精進」という日々の仏の修行の積み重ねによってこそ、仏のお悟りに近づけるのだ。』とおっしゃっているのです。そして、その根拠となるのが、今から約2600年前、お釈迦様の「三十歳臘月八日(さんじゅっさいろうげつようか)」と伝わる菩提樹の下での坐禅修行による「成道」に他ならないのです。


-令和6年1月1日-

穏やかな元日の夕刻に能登半島を襲った最大震度7を記録した「令和6年能登半島地震」。図らずも曹洞宗石川県青年会会長として、この災害に携わらせていただき、お寺を全国の曹洞宗青年会からの支援物資の受け入れ先として開放すると共に、自らも被災地に支援物資を届けるなど、微力ながら被災地支援を続けさせていただいております。余震や二次災害の心配から、未だ手付かずのままの被災地、長引く断水生活等、変わり果てた被災地を目の当たりにしながら、長丁場が予想される活動。「阿難は多聞を好む。故に未だ正覚を成ぜず。」・「釈迦仏は精進を修しき。之に依て等正覚を成じたまふ。」の対句を胸に、支援を続けさせていただきたいと今日も奮起するのです。

第70回「第二章・拈提⑪ 多聞は道の障礙(しょうげ)たることを知るべし!」

令和6年1月28日 更新

【拈提】実に知る、多聞は道の障礙(しょうげ)たることを、是れ其(その)証拠なり。故に華厳経に曰く、譬えば貧窮(びんぐう)の人の宝を算(かぞ)へて自(みずか)ら半銭の分なきが如し。多聞も亦復(ま)た是(かく)の如しと。



ある炎天下の昼下がり、額に大粒の汗を流しながら、懸命に海藻を干す一人のご老師。

その姿を目の当たりにした若かりし日の道元禅師様。

そんな道元禅師様に「炎天下の中で海藻を干すことが高齢になった自分に与えられた修行だ」とおっしゃるご老師。

その言葉を受けて、道元禅師様は仏道修行とは何かをお悟りになったと述懐されています。


この「典座教訓(てんぞきょうくん)」に示されているエピソードが「他は是れ吾に非ず」という、「他人がしたことは自分がしたことにはならない」という意味を有する禅語へとつながっていくわけですが、今回、瑩山禅師様より「実に知る、多聞は道の障礙たることを、是れ其証拠なり」の一句は、まさに瑩山禅師様から発せられる「他は是れ吾に非ず」であると思っています。


「多聞」が指し示すような「師の教えをすべてしっかりと聞き入れ、佛道の何たるかを体得していること」はすごいことであり、一見したところ、それができれば、成道(仏のお悟りを得た)なさったように思ってしまうかもしれません。しかし、よくよく考えれば、それは師から学んだみ教えを受けて、自ら仏の道を歩んで体得なさったものではないことに気づかされます。師の教えや言葉を聞いただけに過ぎないのです。それだけで理解したというのであれば、それは誤った捉え方でしかありません。ここに「多聞は道の障礙たること」の根拠があるように思います。まさに、これが仏道修行者の陥りやすいところとも言えるでしょう。とにかく、師の教えを自ら行ずることが佛道にとって大切なのです。坐禅という行をやって、やって、やりまくってこそ、佛道が見えてくるのです。


さらに瑩山禅師様は華厳経に示された「譬えば貧窮の人の宝を算へて自ら半銭の分なきが如し」という一説を以てお示しになられます。「他者が有する宝の数にばかり目を向けているようでは、結局は自分が得るものは半分の量ほども得られない」と言うのです。「隣の芝生が青く見える」と言わんばかりに、他者にばかり目を向け、その幸せを妬み、不平不満を言うような人はどこにでもいます。しかし、そんなことをしてみたところで、自分が幸せを得ることなど到底できず、自分が得るのは本当に得られるものの半数にも及ばないものだと、この華厳経の一説は指し示しているのです。そして、「多聞」とは、そういうものだと瑩山禅師様はおっしゃっています。


1月1日の「令和6年能登半島地震」発災後から毎週末には能登半島地震の被災地である珠洲・輪島といった地区に支援物資を届ける日々が続いていますが、自らの足で訪れた避難所と人様から情報をお聞きして関わる避難所とでは、支援方法に違いが出てくる面も否めません。やはり、自分が見聞きした避難所ほど、何が必要で、次はどんな支援が可能なのかが明確に見えて来るものなのです。自らの目や耳で確かめていくことによって、相手に対する支援方法が確実に見えてくるのです。「阿難は多聞を好む。故に未だ正覚を成ぜず。」・「釈迦仏は精進を修しき。之に依て等正覚を成じたまふ。」の対句が思い起こされます。自ら動き、行動していく、そんな精進を修していくのです。 

第71回「第二章・拈提⑫ 多聞との訣著(けつじゃく)―直(じき)に勇猛精進(ゆうみょうしょうじん)すべし!―」

令和6年月4日 更新

【拈提】親切に此道に訣著(けつじゃく)せんと思はば、多聞を好むこと勿れ。直(じき)に勇猛精進(ゆうみょうしょうじん)すべし。



前段において、瑩山禅師様からは「多聞は道の障礙(しょうげ)たること」というお言葉や、華厳経の「譬えば貧窮(びんぐう)の人の宝を算(かぞ)へて自(みずか)ら半銭の分なきが如し」という一節を引用しながら、「多聞も亦復(ま)た是(かく)の如し」というお言葉をいただきました。


これについて、よくよく注意しておきたいのは、瑩山禅師様は「多聞」という行為そのものを否定しているわけではないということです。瑩山禅師様は「多聞」を良しとし、多聞に捉われ、そこで立ち止まっているようでは、仏のお悟りに到達することはできないということをお示しになっているのです。そのことをしっかりと押さえておきたいものです。


そうした観点を以て、瑩山禅師様は「親切に此道に訣著(けつじゃく)せんと思はば、多聞を好むこと勿れ。」とおっしゃっています。「訣著」は「決別」とか「断ち切る」という意味で解すればよろしいかと思います。すなわち、ここには多聞を好み、そこに執着して立ち止まってはならないという瑩山禅師様の願いが込められているのです。


「とにかく仏のお悟りに向かって、ただひたすら真っ直ぐ突き進んでほしい」―そんな瑩山禅師様の思いが「直に勇猛精進すべし。」という一句からにじみ出ています。それは坐禅修行を只管(ひたすら)に行じ続けることに他なりません。そして、そこには、それしか仏のお悟りにつながる道はないという瑩山禅師様の確固たる信念・修行観が垣間見られるのです。


―令和6年2月3日(土)―

早朝6時半から開催される松山寺の定例坐禅会には6名の方が参加され、40分間の坐禅の後、本堂にて参加者のお一人に点てていただいたお抹茶をいただきながら、歓談させていただきました。松山寺坐禅会を開始して約1年半。1年近くもの間、毎週参加されている方もいらっしゃれば、以前から坐禅をなさっていた方もいらっしゃいます。生きてきた道程も坐禅会への参加理由も物事の考え方もそれぞれ違いますが、「坐禅」という行を通じて、穏やかな心持ちで過ごせるようになったという方、坐禅をしながら誰もが必ずぶつかる疑問を語り合い、どこかすっきりした表情になられ方、初めての試みは時が経つのも忘れて、お互いに坐禅を通じて得た貴重な体験を共有しながら、とても和やかな雰囲気で過ごせたのが印象的でした。


―「直に勇猛精進すべし」―

この瑩山禅師様のお言葉を胸に、これからも参禅者の皆様との坐禅修行のひとときを大切にしていきたいものです。

第72回「第二章・拈提⑬ 能登半島地震発災1カ月の今に想うこと ―〝門前の刹竿(せっかん)を倒却著(とうきゃくじゃく)せよ〟が意味するもの-」

令和6年2月18日 更新

【拈提】然(しか)るに敢保(かんぽ)すらくは、伝衣(でんえ)の外、更に事あるべしと。因(より)て或時問(あるときとい)て曰く、師兄(すひん)、世尊(せそん)金襴(きんらん)の袈裟(けさ)を伝(つたう)る外に、別に箇(こ)の甚麼(なに)をか伝ふと。迦葉、時到ることを知(しり)て、阿難と召す。阿難応諾(おうだく)す。迦葉声に応じて曰く、門前の刹竿を倒却著せよと。阿難、声に応じて大悟(だいご)す。



―令和6年2月10日(土)―

石川県かほく市にある「石川県西田幾多郎記念哲学館」において、毎年、2月に開催される「禅文化体験会 —哲学館で坐禅をしてみよう―」に講師としてお招きいただき、30名の参加者と約2時間の貴重なひとときを共有させていただきました。2時間とは言え、ずっと坐禅をし続けるのではなく、休憩を挟みながら20分の坐禅を2回、そして、30分程度の講話という形で行われました。企画自体はもう何十年も前から行われているようですが、昨年まで講師をおつとめになっていた同宗派のドイツ出身の方丈様が横浜の大本山總持寺に赴任されることになったため、その後任としてお役をお引き受けし、今回初めて、講師として参加させていただくことになりました。


そんな「禅文化体験会」において、参加者のお一人から「坐禅中に雑念が沸き起こってくるのをどうすればいいのか?」とのご質問をいただきました。前回、松山寺の定例坐禅会における「茶話会」にて、参禅者の皆様と盛り上がったのも同じ話題でした。私自身も大本山總持寺での修行中、毎朝の坐禅を重ねていく中で、同じ疑問を抱き、かなりの期間、悩み続けていたという経験があります。ひょっとすると、こうした疑問は坐することを重ねていく中で、誰もが自ずとぶつかる疑問なのかもしれません。


私は、こうした疑問を抱く方々にお会いしたときにはいつも、自分が救われた故・板橋興宗(いたばしこうしゅう)禅師(1927-2020)のお言葉をご紹介させていただきます。「何も考えないというのは、死んだ人だ。生きている間は何も考えないことなど不可能だ。考えて当たり前、それが生きているということであり、それでいいのだ。」―私にとって、このお言葉は、あたかも大河の水をせき止める土石流を押し流すがごときものであると共に、坐禅中は必ず雑念が沸き起こってしまうことを否定し続け、それ以上先に進むことのできなかった自分を大きく前進させてくださるお言葉でした。雑念が沸き起こってもそれでいいのです。そんな自分を無下に否定することなく、雑念と付き合うことが生きているということなのです。また、雑念と付き合ってこそ、仏の悟りにつながっていくのです。雑念(凡)を知らぬところに仏の悟り(聖)など理解も体得も不可能であり、凡と聖の対立概念の双方の理解があってこその仏のお悟りと解すべきと心得ております。


「坐禅をしているときに雑念が浮かんでも、そんな自分を否定することなく、徹底的に雑念と付き合いながらも、雑念に捉われることがないように。」―そんな意識を以て、今日も坐禅修行に努めさせていただくのです。そして、これこそが迦葉尊者と阿難尊者のやり取りを通じて、瑩山禅師様が会下の修行僧たちに強く訴え願う「勇猛精進(ゆうみょうしょうじん)」ということに他ならないのです。


―「然るに敢保すらくは、伝衣の外、更に事あるべしと。」―

「敢保」には「自分の心の中に堅く思い定める」ことを意味しています。第55回「第二章・本則 門前の刹竿(せっかん)を倒却著(とうきゃくじゃく)する」の中で、阿難尊者が師兄(迦葉尊者)に「世尊(お釈迦様)が迦葉尊者に伝えたのは金襴(きんらん)の御袈裟以外にありますか?」と問われたことが紹介されています。「金襴の御袈裟」は「仏法の象徴」であり、それを身にまとうことが許される僧侶は、お釈迦様からそのみ教えを嗣ぐだけの力量を有すると認められしもののみということです。これが「伝衣」の意味するところです。


そんな阿難尊者の問いに対して、迦葉尊者は阿難尊者の機が熟するタイミングをしっかりと見届けた上で、阿難の求めに応じるがごとく「門前の刹竿を倒却著せよ」とお答えになりました。「阿難、声に応じて大悟す」とありますから、この迦葉尊者のお言葉によって、阿難尊者は大悟(仏のお悟り)を体得なさったことになります。


ちなみに、阿難尊者を大悟へと導いた「門前の刹竿を倒却著せよ」というお言葉ですが、「刹竿」は「法要や説法がある場合に、寺院の門柱に掲げる旗」のことで、それを「倒却著(倒し切ってしまえ)」というのが、「門前の刹竿を倒却著せよ」です。これが意味するのは「旗を立てることだけを思っていても、仏のお悟りには近づけない」ということでした。すなわち、旗は立てるものであると決めつけ、そこに捉われてしまえば、もし、旗が倒れてしまえば、その状態は勿論のこと、その際の対応でさえも考えられなくなってしまうのです。凡と聖のごとく、旗が倒れることを知ってこそ、本当の旗が立てられる、すなわち、確実に仏のお悟りに近づき、仏法を体得できたと言えるということです。今回は、その点を押さえておきたいところです。

第73回「第二章・拈提⑭ 阿難尊者の大悟 ―七仏伝持(しちぶつでんじ)の金襴、自然(じねん)に来入するとき―」

令和6年2月25日 更新

【拈提】仏衣自然(ぶつえじねん)に阿難の頂上に来入す。其金襴(そのきんらん)といふは、正(まさ)しく七仏伝持(しちぶつでんじ)の袈裟(けさ)なり。



迦葉尊者の「門前の刹竿を倒却著せよ」という一言によって、ついに大悟(仏のお悟りを体得すること)なさった阿難尊者。このとき、「仏衣自然に阿難の頂上に来入した」と瑩山禅師様はおっしゃっています。


「仏衣」とは、「仏袈裟」のことで、仏と成りし者が身に付ける正式な衣装を指します。それが「自然」とあるように、「他から力が加わることなく、自らそうなっている状態」で阿難尊者の頭上に置かれていたというのですから、尊者の大悟(仏袈裟を身にまとうものとして認可されたこと)、そして、それを迦葉尊者がお認めになったことを表しているのは、もはや言うまでもありません。


そして、その「仏衣」は、「仏法の象徴」たる「金襴」であり、「七仏伝持の袈裟」であるとのことです。「七仏」はお釈迦様がお悟りになる以前に、この世の真理を体得なさっていた六名に、お釈迦様を加えた七名の仏様です。これはお釈迦様がお悟りになったこの世の真理・仕組みというものが、はるか昔から存在していると共に、それら体得なさっていた方々がいらっしゃったこと、そして、お釈迦様がそれを明確化し、多くの人々にお伝えするという偉大な功績を残されたことを意味しています。「伝持」という言葉が用いられていますが、これぞまさに、お釈迦様のお悟りが過去の七佛から代々伝わり、脈々と受け継がれてきているものであることを物語っているのです。


「仏衣自然に阿難の頂上に来入」したことによって、お釈迦様のみ教えは更に時を超えて、後世に受け継がれていくのです。

第74回「第二章・拈提⑮ 仏衣に込められし願い・期待」

令和6年日 更新

【拈提】彼(か)の袈裟(けさ)に三つの説あり。一つは如来胎内(にょらいたいない)より持すと。一つは浄居天(じょうごてん)より奉ると。一つは猟師(りょうし)これを奉ると。



阿難尊者が大悟なさったとき、「仏衣自然(じねん)に阿難の頂上に来入す」とあるように、仏のお悟りを得た者が身に付けることを許される仏衣(仏袈裟)が自然と阿難尊者の頭上に現れたことが、前回、瑩山禅師様より示されました。


また、この「仏衣」は、「仏法の象徴」を意味する「金襴(きんらん)」であり、お釈迦様以前から存在している過去の6名の仏様から脈々と受け継がれる「七仏伝持(しちぶつでんじ)の袈裟」であることも瑩山禅師様がお示しになっています。これらは過去七佛を含むお釈迦様から迦葉尊者へとお伝えになった仏祖正伝の仏法が阿難尊者にも伝えられたことを意味しているのです。


そんな「彼の袈裟」について、瑩山禅師様は三つの説があるとおっしゃっているのが、今回の一句です。


「如来胎内より持す」 如来(お釈迦様)の胎内から来るものであるという説。

「浄居天より奉る」 一切の煩悩を断じた聖者たる「浄居天」からのいただき物との説。

「猟師これを奉る」 猟師(詳細は不明)からのいただき物であるとの説。


こうした諸説ある「七仏伝持の袈裟」ですが、そのいずれが正しいか否かということを論ずるというよりも、それぞれの諸説を受け止めながら、「七仏伝持の袈裟」を解していくことが大切ではないかということです。そうすることによって、この袈裟と私たちとの距離がグッと縮まり、実感を以て捉えることができるような気がするのです。


この袈裟について、私は釈尊を始めとする多くの如来は勿論のこと、仏法の世界における様々な神々、猟師に代表される一般在家の方、そうした多くの方々の仏法に対する願いや期待が込められたものだという解し方をしております。仏法の象徴たる仏衣(袈裟)を身に付ける資格を有する者だと言うならば、こうした誰もが仏法に救いを求めていることをしっかりと押さえ、それに見合った日常を過ごしていく必要があることを改めて認識するのです。

第75回「第二章・拈提⑯ 中国六祖塔頭(たっちゅう)に蔵(おさ)められし青黒色(しょうこくしょく)の屈眴布(くつじゅんぷ)」

令和6年3月17日 更新

【拈提】又外(またほか)に数品の仏袈裟あり。達磨大師(だるまだいし)より曹渓所伝(そうけいしょでん)の袈裟は、青黒色(しょうこくしょく)にて屈眴布(くつじゅんぷ)なり。唐土(とうど)に到(いたり)て青き裏を打てり。今六祖塔頭(たっちゅう)に蔵(おさ)めて国の重宝と為す。是れ智論(ちろん)に謂(いわ)ゆる如来麁布(にょらいそふ)の僧伽黎(そうぎゃり)を著(つ)くと、是(これ)なり。



仏の悟りを体得せし者に被着が許される「仏衣(仏袈裟)」について、「仏法の象徴」たる「金襴(きんらん)」以外のものに触れられているのが、今回の箇所です。


「達磨大師より曹渓所伝の袈裟は、青黒色にて屈眴布なり」とあります。「達磨大師」と言えば、インド第28祖の祖師で、中国に禅のみ教えをお伝えになった中国禅宗初祖です。「曹渓」は「中国6祖・慧能禅師(えのうぜんじ)」のことで、今回、瑩山禅師様がお示しになっている仏袈裟は達磨大師様から6祖の慧能禅師まで脈々と受け継がれているものであることが確認できます。


そして、その仏袈裟は「青黒色の屈眴布である」と紹介されています。「屈眴布」は「木綿の花心を集めて織った布」で、表が青黒色で裏は緑の仏袈裟であるとのことです。表面の「青黒色」は原色の青ではなく、青に黒を混ぜた中間色のような色で、これは「壊色(えじき)」と呼ばれる「美しい原色に黒ずみを入れて、元来の色の性質を壊した色」です。


尚、この仏袈裟の裏面に施された緑色は「唐土に到て青き裏を打てり」とあるように、唐土(中国)において施されたものと解してよろしいかと思います。そんな屈眴布が慧能禅師の塔頭(墓所)で大切に保管され、国の重宝となっていると瑩山禅師様はおっしゃっています。


また、「大智度論」という経典には、「謂ゆる如来麁布の僧伽黎を著く」とあることが提示されていますが、「麁布」とは、「粗末な布」を意味し、「掃き溜め等に捨てられていた布片を何枚も縫い合わせ、壊色で染めた」という元来の袈裟とも合致しています。「僧伽黎」とあるのは、仏道修行者が身にまとう仏衣のことです。


インドから伝わったお釈迦様のみ教えは、決して、欠けることもなく、不要に追加されることもなく、時代を経て、場所を超えて、そっくりそのまま中国にまで伝わっていることは今回の箇所からも明白です。そして、その象徴となるのが六祖慧能禅師の眠る墓所である「六祖塔頭」だということを押さえておきたいところです。

第76回「第二章・拈提⑰自ら手を下す ―金氎(きんじょう)に込められた養母の思い・比丘尼(びくに)の願い―」

令和6年3月24日 更新

【拈提】彼の金襴は金氎(きんじょう)なり。経に曰く、仏の姨母(いぼ)、手づから自ら金氎(きんじょう)の袈裟を紡トク(ぼうとく)して、持して仏に上(たてまつ)ると、是なり。



前回は中国六祖・慧能禅師(えのうぜんじ)の塔頭(たっちゅう)(墓所)で大切に保管され、国の重宝となっている「青黒色(しょうこくしょく)の屈眴布(くつじゅんぷ)」について触れられていました。今回は「彼の金襴」とあるように、再び「仏法の象徴」である「金襴」について、触れられていきます。


まず、彼の金襴は「金氎(きんじょう)」であるとのことです。「金氎(きんじょう)」は金糸を加えて織られた布です。


そして、「経に曰く、仏の姨母、手づから自ら金氎の袈裟を紡トクして、持して仏に上る」とあります。経は「賢愚経・第十二巻 波羅離品 第五十」とのことですが、これによれば、金襴がお釈迦様の叔母である摩訶波闍波提(まかはじゃはだい)自ら紡ぎ、精魂を込めて織った手作りの品であること、そして、そんなお袈裟をお釈迦様に献上なさったことが読み取れます。


摩訶波闍波提は、お釈迦様の実母である摩耶夫人(まやぶにん)の妹に当たる女性で、お釈迦様をご出産なさって間もなく他界された姉に代わって、浄飯王(じょうぼんのう)(お釈迦さまの父)に嫁ぎ、母親代わりをつとめた方です。また、浄飯王が亡くなった後に、お釈迦様の下で出家され、釈尊教団初の比丘尼(びくに)(女性出家者)になった方でもあります。


そんな姨母が自らの手で織り上げた「金襴」という仏衣であることを考えてみたとき、そこには実子ではないものの、養母として、あたかも我が子のように大切に養育してきた者の母性を思わずにはいられません。また、比丘尼として仏法僧の三宝に深く帰依する姿も感じられます。母親として、比丘尼として、摩訶波闍波提の様々な思いや願いが込められた「金氎(きんじょう)」は自ら手を下して、お釈迦様に献上された品であることを知っておきたいところです。


そして、仏道修行者というのは、自らの修行を自らの手を始め、全身を駆使して体得していくものであることを、再確認しておきたいところです。

第77回「第二章・拈提⑱ 〝悪王の難に遭いても〟安然(あんねん)たりし仏袈裟の意味」

令和6年3月31日 更新

【拈提】是れ多品中(たぼんちゅう)の一二のみ。其霊験(そのれいけん)の如きは、数多(あまた)の因縁、経書に有り。昔婆舎斯多尊者(ばしゃしたそんじゃ)、悪王の難に遭(あい)て、火中に五色(ごしき)の光明を放つ。火滅して後、仏袈裟安然(あんねん)たり。仏衣なることを信ず。慈氏(じし)に伝授する、夫れ是なり。



お釈迦様の叔母に当たる方で、自身の亡くなった実姉・摩耶夫人(まやぶにん)に代わって養母としてお釈迦様をお育てになり、後に釈尊教団初の比丘尼(びくに)(女性出家者)となった摩訶波闍波提(まかはじゃはだい)が自らの手で織り上げた「金襴(きんらん)の仏衣」―最初に、その霊験あらたかなる因縁が数多の経典に記されていることを瑩山禅師様がご紹介になります。


その一つとして、瑩山禅師様が取り上げていらっしゃるのが、「婆舎斯多尊者(ばしゃしたそんじゃ)」のエピソードです。「婆舎斯多尊者」はお釈迦様の法を受け継いだインド二十五祖で、「伝光録」でもこの後に触れられていく祖師です。師に当たる獅子菩提尊者(ししぼだいそんじゃ)が教化説法に訪れた北インドの地・罽賓国(けいひんこく)の長者の子であった婆舎斯多尊者は左手に宝珠を握りしめていたといいます。この宝珠は「龍王経」を念じた「婆舎(ばしゃ)」という童子が龍王からいただいたものであり、この宝珠を握る人物こそが童子の再来であると知った獅子菩提尊者は婆舎斯多尊者と命名し、自らの弟子としたとのことです。


獅子菩提尊者は婆舎斯多尊者と出会った罽賓国(けいひんこく)で大いに仏法を説きました。しかし、国王は仏法を嫌い、信じようともしませんでした。そのために寺院は破壊され、僧侶は殺害される大変な事態になりました。獅子菩提尊者ご自身も国王に頭部を断たれ、その際に血ではなく白乳(びゃくにゅう)が流れ出たことが、「第二十四祖 獅子尊者章」にて瑩山禅師様より語られます。


そんな仏法にとっては逆縁ともいえる大変な時代の中で、「悪王の難に遭いながら」も、いのちがけで仏法の宣揚に身を尽くしてきた獅子菩提尊者と婆舎斯多尊者の師弟ですが、婆舎斯多尊者は火の中に基本色と言われる青・黄・赤・白・黒の五色の光を放ったところ、火が消えたとき、仏袈裟が大きな害もなく全くの無傷の状態で、そのまま忽然として姿を現したというのです。これは仏法にとって逆縁の時代の中にあっても、お釈迦様がお示しになった法は正しく絶対的なものであること、また、婆舎斯多尊者が「光明」という「悟りを得た仏が自らの身体から放つ仏の光」を発するまでになっていたこと、そして、獅子菩提尊者や婆舎斯多尊者の時代のようにすんなりと仏法が伝わっていかないような大変な中にあっても、法に帰依し、伝え広めていかんとする情熱に満ちた者たちによって、仏法が今日まで伝わってきたこと、そうした数々のことに気づかされるのです。


思うに順縁によって、物事が順調に進んでいくときよりも、こうした逆縁によって苦悩に満ちた時期の方が人々はその苦しみを一生懸命、乗り越えようとするからか、多くのものを得たり、人間同士の絆を深めていったりできるような気がします。ひょっとしたら、獅子菩提尊者や婆舎斯多尊者の代で、「悪王の難に遭って」仏法が消滅していたかもしれません。それが後に、国を超え、時代を経て、今日まで伝わってきているご縁を喜ばずにはいられないのです。


そんな幾多の困難を経て伝わる仏法が五十六億七千万年後に登場する未来仏の弥勒菩薩様(慈氏)にまで、しっかりと伝わっていくことを願わずにはいられません。そして、これからも多くの人々がお釈迦様から伝わる正しい法によって未来永劫に救われていくことを願うのです。

第78回「第二章・拈提⑲ 曹洞禅の世界 ―不立文字(ふりゅうもんじ)・教外別伝(きょうげべつでん)、直指人心(じきしじんしん)・見性成佛(けんしょうじょうぶつ)―」

令和6年14日 更新

【拈提】正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)、両人に付嘱(ふしょく)せず、唯迦葉一人、如来の付嘱を得る。また、阿難、二十年給仕して正法を伝持す。然れば此宗(このしゅう)、教外別伝(きょうげべつでん)なることを知りぬべし。



―「不立文字(ふりゅうもんじ)、教外別伝(きょうげべつでん)、直指人心(じきしじんしん)、見性成佛(けんしょうじょうぶつ)」―お釈迦様から伝わる禅の境地について、後世の仏教祖師方がこれらの言葉を用いてお示しになりました。


不立文字(ふりゅうもんじ)

お釈迦様から脈々と伝わる正伝の仏法(正法眼蔵)というものは、文字や経典を通じて理解するものではなく、仏道修行によって体得できるものであるというみ教えです。この言葉は中国唐代の六祖慧能禅師(638-713)の頃から言われるようになったもので、その指し示す内容については、道元禅師様も「学道用心集」等の著書の中で、幾度となくお触れになり、仏道修行者たちに戒めている点でもあります。


教外別伝(きょうげべつでん)、

正伝の仏法というものは、経典や文字の中に存在しないというみ教えです。先の「不立文字」と指し示すところは同じで、「不立文字・教外別伝」とセットで曹洞禅の特色と捉えられています。こちらも中国唐代に用いられるようになった言葉で、言葉や文字では表現し尽くせぬ深淵広大なるお釈迦様のお悟りの境地を一言で集約したという点では、仏教史における大きな進展であったと捉えて然りかと考えます。


直指人心(じしきじんしん)

人間の心を直視したとき、それが仏性(仏に成れる性質)を有したものであることを自覚すること。そして、これが禅の境地だというのです。坐禅修行を〝やって、やって、やりまくっていく〟中で、次第に自分の心の中が穏やかに調っていきます。そんなとき、自分の中に存在していた善き人間としての姿に気づかされます。これが直指人心の指し示すところなのです。


見性成佛(けんしょうじょうぶつ)

自分が元来、仏性を有した存在であることに気づくこと。坐禅は誰もが元々、佛であったことを悟らせる行です。すなわち、坐禅によって、私たちは本来の自分を知ることができるのです。


お釈迦様は自らのみ教えを付嘱する存在として、迦葉尊者のみをお選びました。それが「正法眼蔵、両人に付嘱せず、唯迦葉一人、如来の付嘱を得る」の意味するところです。阿難尊者の方は、二十年もの間、迦葉尊者について、正法を付嘱されました(阿難、二十年給仕して正法を伝持す)。


「多聞第一」と称され、多聞を好み、誰よりも仏のみ教えを多く聞いていたことを誇りに思っていた阿難尊者がお釈迦様からのみ教えを付嘱される存在とはならなかった背景には、「阿難は多聞を好む。故に未だ正覚(しょうがく)を成ぜず。釈迦佛は精進を修しき。之に依て等正覚(とうしょうがく)を成じたまふ」という瑩山禅師様の見解があるように感じます。成仏というのは、仏のお悟りに向かって坐禅を精進し続ける以外に道はないのです。そこには文字や経典の理解など存在しません。頭脳明晰でも仏の悟りには近づけません。


「然れば此宗(このしゅう)、教外別伝(きょうげべつでん)なることを知りぬべし」―我々がお釈迦様からご縁をいただいた曹洞禅の世界は、そうした仏行によって理解が深まり、内容が明確になっていく世界であることを、よくよく知っておきたいところです。

第79回「第二章・拈提⑳ 迦葉・阿難への正法付嘱は一同ならず」

令和6年4月21日 更新

【拈提】然るに近来おそろかにして一同とす。若し一同ならば、阿難は即ち三明六通の羅漢、如来の付嘱を受て第二祖阿難と曰(い)はん。



瑩山禅師様によれば、「近来おそろかにして」の語が指し示すように、当時(1300年代初頭)の仏教研究に不十分な部分が否めなかったようで、頭陀行(ずだぎょう)(煩悩を断つべく質素な生活に徹するすること)第一の迦葉尊者と多聞第一の阿難尊者が共に「三明六通の羅漢(仏道修行の積み重ねによって、為すことの全てを為し、お釈迦様と同列までに達した聖者)」と捉える傾向にあったようです。それが「一同とす」の意味するところです。


ところが、お二人のお悟りの境地を瑩山禅師様は「一同」とは捉えていらっしゃいません。その根拠となるのが、前段にもある「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)、両人に付嘱(ふしょく)せず、唯迦葉一人、如来の付嘱を得る」です。すなわち、お釈迦様は正法を迦葉尊者のみに伝えたのです。それは多聞第一たる迦葉尊者が未だ正法を伝えるには十分な器を具えていなかったからに他ならないからです。だから、阿難尊者は迦葉尊者に「二十年給仕すること」によって、迦葉尊者より正法を伝持されたのです。


「如来の付嘱を受て第二祖阿難と曰(い)はん」とあります。お釈迦様がお二人を一同に正法を伝えるものとしてお認めになったならば、阿難尊者は「第二祖」と称されていたことでしょう。すなわち、第一祖が迦葉尊者であり、第二祖が阿難尊者となって、同時にお釈迦様から仏法を付嘱されたという解し方です。これは本来の仏法の付嘱と異を呈していることは言うまでもありません。今回は、その点を押さえておきたいところです。

第80回「第二章・拈提㉑ 祖意の重視」

令和6年4月2日 更新

【拈提】今経教を会せんこと、阿難に勝る人あらんや。若し阿難に超過する人あらば、許すべし、教意一(きょういいち)なりと。若し啻(ただ)に一なりと謂はば、何ぞ煩(わずら)はしく二十年給仕し、今、倒却刹竿著(とうきゃくせっかんじゃく)の処にして明らめん。



〝多聞第一(たもんだいいち)〟と称され、誰よりも多くお釈迦様のみ教えを耳にしてきた阿難尊者について、瑩山禅師様は「今経教を会せんこと、阿難に勝る人あらんや」と問いかけていらっしゃいます。『阿難尊者以上にお釈迦様から生のみ教えをお聞きした者がいるだろうか、いや、そんな者がいるはずがない。仮に阿難に超過する者がいたとすれば、「教意一」と称される存在である。』と瑩山禅師様はおっしゃっています。


「教意」とは、「仏が一切衆生のためにお示しになったみ教えの本意」を意味しています。以前、「教外別伝(きょうげべつでん)」という言葉に触れさせていただきました。お釈迦様より伝わる仏法は言葉では言い尽くせぬ広大かつ深淵なるものです。だからこそ、我が宗では言葉や文字で仏法を語り尽くすことに重点を置かず、インドのお釈迦様のみ教えが達磨大師様を通じで西方の中国へと伝わり、やがて道元禅師様によって日本に伝えられたという事実を踏まえ、そこでの祖師方の言動や、それにまつわる思いを重視するのです。これが「教意」に対する「祖意」というものです。


「祖意」という観点からいくならば、伝光録に記載されている瑩山禅師様のお言葉も「祖意」を重視したものです。その上でお釈迦様から迦葉尊者、迦葉尊者から阿難尊者へと仏法が付嘱されていく中での会話や言動、心情といったものが具に示されているのです。もし、阿難尊者が教意の面で一番の存在だったならば、20年もの間、迦葉尊者に付き従って仏道修行に勤しむことはなかったでしょう。また、「倒却刹竿著(とうきゃくせっかんじゃく)の処」とあるように、「金襴(きんらん)の袈裟以外に迦葉尊者に伝えたものはなかったのか?」という阿難尊者の問いに対して、迦葉尊者がお答えになった「刹竿を倒し切ってしまえ(仏法を広めるための目印となる旗竿でさえも倒し切って見えなくなるようにすることを知らなければ、仏法を体得することはできないという意)」という悟りの境地にさえも到達できなかったであろうと、瑩山禅師様は推察なさるのです。


心と身体で体得していく仏法について、文字や言語の側面から入っていくとすれば、「祖意の重視」ということを欠かしては本物の仏法を体得できないことを瑩山禅師様のお言葉から学ばせていただきたいところです。そして、こうした側面を重視した仏道の理解によって、仏法はその核心部に迫っていけるのです。

第81回「第二章・拈提㉒ 仏心に通処する」

令和6年日 更新

【拈提】知るべし、経意教意(きょういきょうい)もとより祖師の道とすべからず。仏の仏ならざるに非ず。給仕して、設(たと)ひ侍者たりと雖(いえど)も、仏心に通処なくんば、争(いか)でか其心印(そのしんいん)を伝へん。多聞広学に依らざることを知るべし。



「経典の意義や意味」を指し示す「経意」や、「仏が一切衆生のためにお示しになったみ教えの本意」である「教意」というものは、「祖師の道とするべきものではない」と瑩山禅師様はおっしゃっています。これが前段にもあった「祖意の重視」ということにつながっていきます。師が弟子を〝仏法を伝えていくだけの器を有した存在〟と認め、仏のみ教えが受け継がれていく過程において、そこでの会話や言動、心情というものに重点を置くのが「祖意」なのです。


そうした「祖意」の観点から迦葉尊者に20年来に渡り、侍者として給仕(付き従ってきた)してきた阿難尊者という二人の師弟間における仏法の付嘱に今一度、触れているのが今回の一句です。


「多聞第一」と称され、誰よりもお釈迦様のみ教えを耳にてきた阿難尊者はまさに、「多聞広学」とも言うべき存在でした。しかし、阿難尊者は単なる知識に長け、頭脳明晰な存在であったかといえば、そうではなかったことが瑩山禅師様のお言葉から読み取れます。それが「仏心に通処なくんば、争でか其心印を伝へん」の一句です。阿難尊者は仏心(仏の広大なる慈悲心)に通じていたのです。すなわち、阿難尊者には仏のお心を理解し、体得していこうとするお姿があったのです。これが大きいところで、だからこそ、迦葉尊者から仏のみ教えを受け継ぐ力量を有した者と認められたのです。


「心印」という言葉が出てまいりますので、触れておきます。〝印鑑〟という言葉もあるように、〝しるし〟とか、〝証明〟を意味するのが〝印〟です。お釈迦様から迦葉尊者、迦葉尊者から阿難尊者に見られるように、師が弟子を仏法付嘱の器を有した存在と認め、許可することの繰り返しによって、今日まで仏法が伝わってきたわけですが、これを「印可」と申します。


迦葉尊者の場合、多聞第一と称されつつも、仏のお心(仏心)に通じようと日々、迦葉尊者に20年も給仕しながら、仏道修行に勤しんでこられました。そうやってついに迦葉尊者との「倒却刹竿著(とうきゃくせっかんじゃく)」の問答を通じて、師の印可をいただくことに相成ったのです。これが師と弟子が一体になるということです。そこでは師はもとより、弟子も「心印に通処」していなければ成り立たなかったということを押さえておきたいところです。「祖意を重視する」ということは、「仏の心印に通じようとすること」なのです。

第82回「第二章・拈提㉓ 自ら手を下す―徒(いたづら)に隣の宝を算(かぞ)ふること勿れ!―」

令和6年5月12日 更新

【拈提】設(たと)ひ心さとく耳ときに依(より)て、諸(もろもろ)の書籍聖教を以て、一字も遺落する所なく聞持すと雖も、心若し通ぜずんば徒(いたづら)に隣の宝を算(かぞ)ふるが如し。



「祖意の重視」、すなわち、「仏心(仏のお心)に通処する」ということなしに仏道の体得や師から弟子への仏法の付嘱ということは成し得ないことが、瑩山禅師様より再三に渡って説き示されてまいりました。今回の一句もまた、そうした観点からのお示しであると共に、「徒(いたづら)に隣の宝を算(かぞ)ふるが如し」というたとえを用いながら、「仏心に通処」することの重要性が指し示されています。


どんなに聡明で物事を的確に判断したり、〝多聞第一〟と称された阿難尊者のように一字一句とも聞き漏らすことなく聞いていたり、あるいは、書籍や経典を学び尽くして知識を得るだけ得ていたとしても、仏のお心に通じていなければ、何の意味なければ、何も得るものもありません。到底、仏のお悟りに近づいたなどとは言えないでしょう。それはあたかも、他者が暮らしている隣の敷地に置かれている宝物に目がくらみ、無駄にその数を数えて自己満足するようなものであると瑩山禅師様はおっしゃっています。


そもそも「隣の宝」などと評されるようなものは、他者が苦労を重ねてようやく体得できたものであって、自分自身が努力して得たものではありません。今から20年前、住職が曹洞宗布教師養成所に通わせていただいていた頃、布教の基本を教わった講師の諸老師方から「他人の借り物の説法などホンモノの説法とは言えない。法を自ら体得し、自らの言葉でお釈迦様のみ教えを語ることが大切だ」とご教示いただいたことが思い起こされます。これが「隣の宝を算(かぞ)ふる勿れ」ということなのでしょう。布教の道を歩んで20年たった今、そうした「隣の宝を算(かぞ)ふる」ことについて、いくらそんなことをしていても、ホンモノが身につくことがないことがわかるようになってきました。


禅の修行道場の台所で修行僧たちの食事作りを自らの仏道修行とする「典座(てんぞ)」の心構えの一つが「自ら手を下す」ことであるということが、「典座教訓(てんぞきょうくん)」の中で示されています。これは、布教は勿論のこと、仕事も芸術も趣味にも通ずるみ教えで、自ら手を下して修練を重ねていかない限り、いつまで経っても技術等を体得していくことなどできません。自分が手を動かすことなく、他者が自ら手を下して体得したものを、あたかも自分が苦労して体得したなどと勘違いしないように、何事も「自ら手を下し」ながら、「隣の宝を算(かぞ)ふる」ことがないようにいていきたいものです。

第83回「第二章・拈提㉔ 経典・祖録の役目―仏道を解する上での一助として―」

令和6年5月26日 更新

【拈提】恨むらくは経教に其心なきには非ず。然れども阿難未通に依てなり。何(いか)に況(いわん)や東土日本、依文解義(えもんげぎ)、経の心を得ざるをや。更に知るべし、仏道ゆるかせならざることを。



道元禅師様や瑩山禅師様始め、お釈迦様のみ教えを受け嗣ぎ、仏道に邁進してこられた仏教祖師方が書き遺された経教(経典・祖録)について、瑩山禅師様は「恨むらくは経教に其心なきには非ず」とおっしゃっています。すなわち、「経典・祖録が悪いのではない」と言うのです。この観点もまた、しっかりと押さえておきたいところです。


「祖意の重視(仏のお心に通処する)」ということに触れてまいりましたが、これこそが仏道修行にとって、そして、仏のお悟りに近づき、到達していく上で外せないポイントでした。そのためには、経典・祖録の存在も欠かすことができない、というよりも、坐禅を主とした仏道修行において、経典・祖録は仏道を体得していく上での〝補佐〟となる大切な存在であるという受け止め方が、「恨むらくは経教に其心なきには非ず」に込められた瑩山禅師様の捉え方であると考えています。


大切なことは、修行者が「祖意に通じる」ということです。そういう点からすれば、阿難尊者は「未通」であった、すなわち、祖意に通ずるまでに至っていなかったと瑩山禅師様はおっしゃっています。だから、お釈迦様は阿難尊者ではなく、迦葉尊者に法をお伝えになったのでしょう。それを受けて、阿難尊者は20年に渡り、迦葉尊者に侍し、ついに祖意に通じるときが訪れたのです。


こうした阿難尊者が祖意に通ずるまでの状況というのは、インド以降、仏教が中国や日本へと東の地に伝来していく中で、図らずも多くの修行者が経験することになりました。「依文解義」というのは言葉や文字の表面的な解釈によって、仏法を理解する者のことで、しばしば、道元禅師様や瑩山禅師様がご指摘なさってきた仏道修行者としてのあってはならない姿勢を指しています。こうした姿勢では経の心(経典・祖録に記されている表面的な文字の奥底に秘められた祖意)に到達できるどころか、「仏道ゆるかせならざることを」とあるように、「仏道修行からは程遠く、仏道修行などとは言えぬものとなってしまう」と瑩山禅師様は修行者に対して注意喚起をなさっているのです。


私自身、甚だ微力ながらも経典祖録を読み味わいながら、日々の仏道修行に勤しむ一修行者ではありますが、経典・祖録というものが坐禅を中心とした仏道修行における祖意を解釈していく上での一助を担うものとの理解を以て、経典・祖録に過度に捉われることのないように日々の修行に励んでいきたいと思っております。

第84回「第二章・拈提㉕ 師と弟子が祖意に通じてこそ ―迦葉尊者に給仕して―」

令和6年月2日 更新

【拈提】一代聖教に通ずる阿難、如来の弟子として宣説せんに、誰か従はざらん。然れども迦葉に給仕し従ひて、大悟の後再び宣説せしことを知るべし。




「多聞第一」と称され、一代聖教(お釈迦様一世一代のみ教え)に他の誰よりも通じていた阿難尊者が如来(お釈迦様)の弟子として、人々にそのみ教えを指し示せば、誰もが耳を傾け、阿難のお言葉に従ったことでしょう。


ところが、阿難尊者は、お釈迦様のお側に20年に渡って侍して後、その一番弟子である迦葉尊者に侍し、ついに大悟(悟りを得ること)して、仏法を説き広められたのです。瑩山禅師様はその点をしっかりと押さえておくようにとお弟子様たちに指示していらっしゃるのが、今回の一句です。


お釈迦様のお側に長らく仕えていたにもかかわらず、なぜ、阿難尊者はお釈迦様の下での大悟が叶わなかったのでしょうか。それは誰よりもお釈迦様のみ教えに触れ、それを体得できていたとしても、「祖意に通ずる」という面が薄かったためです。それゆえに、阿難尊者は仏のお悟りに通じているとは言えませんでした。だからこそ、お釈迦様以降、迦葉尊者に侍し、「祖意に通じる」ときが訪れた、それが「機縁」の〝倒却門前刹竿著(とうきゃくもんぜんせっかんじゃく)〟の場面において示されている阿難尊者の大悟なのです。


これは言ってみるならば、阿難尊者が師の迦葉尊者と通じ合ったことを意味すると共に、お釈迦様ともついに通じ合うことができたことをも意味しているのです。そうした師と弟子の双方が共に祖意に通じて始めて、弟子の大悟が成立していくことを押さえておきたいところです。

第85回「第二章・拈提㉖ 実道を参ずる ―己見旧情(こけんきゅうじょう)・憍慢我慢(きょうまがまん)を捨て、初心を廻(めぐら)す―」

令和6年6月日 更新

【拈提】恰(あたか)も火の火に合するが如く、明かに実道に参ぜんと思はば、己見旧情(こけんきゅうじょう)、憍慢我慢(きょうまがまん)を捨て、初心を廻(めぐら)し仏智を会すべし。



今回、瑩山禅師様がお示しになっているのは、「己見による仏道修行の危うさ・脆さ」ということですが、同様のことを道元禅師様も「学道用心集」等の中でお示しになっています。


「己見(自分の考え、自己の見解)」であったり、「旧情(昔から自分の中に培われてしまった物事の捉え方)」であったりというものは、一見したところ、それを持ち合わせていれば、自分のポリシーを持った者と周囲が一目置くこともあるでしょう。


ところが、そうした自分の見解が何よりも正しいと絶対視するようになると、段々と「驕慢我慢」という言葉が指し示すように、「自分を称え、他者を軽蔑する」ような驕り高ぶった態度が生じるようになるものです。こうした「驕慢我慢」が「実道を参ずる」、すなわち、仏道修行を行じていく上での障害物となるのは言うまでもなく、だからこそ、道元禅師様も瑩山禅師様も仏道修行者に対して、強く戒めなさっているのです。そのことを学道の者であるならば、重々に理解しておく必要があることを、今回の一句を通じて、今一度、確認しておきたいところです。


「実道に参ずる」には、火に火が加わり、大きな炎を揺らめかすが如く、自らを仏の道・仏のみ教えに合わせながら、自らが仏と成っていく姿勢が欠かせません。仏道修行者は常に自らと向き合い、己見旧情、我慢驕慢の態度に留意し、自らの発心(ほっしん)【初心となる仏の道を歩もうと志したとき】を思い返しながら、仏智(仏のみ教え・お悟り)の体得につとめていきたいものです。

第86回「第二章・拈提㉗ 時機熟したとき」

令和6年6月16日 更新

【拈提】謂(いわ)ゆる今の因縁、日頃は金襴(きんらん)の袈裟(けさ)を伝へて、仏弟子たるの外、更に別なしと思へり。然(しか)れども迦葉に従ひて親く給仕して後、更に通ずることあることを。



お釈迦様は自らの悟りの境地をお弟子様としてお認めになった迦葉尊者にお伝えになったわけですが、「金襴の袈裟」は、それを証する印となるのものでありました。これ以外に何か証明するものはないわけですが、阿難尊者は以前から自分に染み付いてしまった自分の考え方(「己見旧情(こけんきゅうじょう)」)や、自分を絶対視する「憍慢我慢(きょうまがまん)」という考え方を一切有することなく、迦葉尊者に親しく従い侍して、実道に参じてまいりました。


そうやって仏道修行に励み続けてきたある日、ついに迦葉尊者と阿難尊者に「更に通ずることあることを」という言葉が指し示すように、師から弟子に対して、仏法が付嘱される瞬間が訪れたというのです。火に火が加わって、大きな炎の揺らめきが生ずるがごとく、山の中で発した大声がこだまして自分の耳元に返ってくるがごとく、その瞬間は因縁時節が叶って訪れたというのです。それが「倒却門前刹竿著(とうきゃくもんぜんせっかんじゃく)」なのです。

第87回「第二章・拈提㉘ 迦葉・阿難、時既に相適(あいかな)ふこと知て」

令和6年6月23日 更新

【拈提】迦葉、時既に相適(あいかな)ふこと知て、阿難と召す。恰(あた)かも谷神(こくじん)の喚(よ)ぶに従ひ響(ひびき)を作(な)すが如し。阿難乃(すなわ)ち応ず。石火の石を離れて出るが如し。夫れ阿難召すも、阿難を喚ぶに非ず。響き応じ応ふるに非ず。



迦葉尊者が20年に渡って自らに親しく侍してきた阿難尊者を、お釈迦様のみ教えを伝えるに相応しい人材と認めた瞬間、すなわち、「倒却門前刹竿著(とうきゃくもんぜんせっかんじゃく)」の時節について、瑩山禅師様は「恰(あた)かも谷神(こくじん)の喚(よ)ぶに従ひ響(ひびき)を作(な)すが如し」と比喩を用いながらお示しになっています。「山の中で発した声がこだまして、自らの耳に戻ってくるようなものだ」と。まさに、「迦葉、時既に相適(あいかな)ふこと知て」とあるように、迦葉尊者が「今こそ来るべき瞬間が訪れた」と、双方に最適な時節が到来したのを自らの身心を以て体得なさったことが読み取れるように感じます。そして、その実感を以て、迦葉尊者は阿難尊者を召す(お呼びになる)ことになさったのです。


これに対して、阿難尊者は応じました。ひょっとすると、阿難尊者の方も、「恰(あた)かも谷神(こくじん)の喚(よ)ぶに従ひ響(ひびき)を作(な)す」が如く、感じるものがあったのかもしれません。それが瑩山禅師様の「石火の石を離れて出るが如し」というたとえに言い表されています。すなわち、「何度も何度も火打ち石を打ちながら、やっと火が起こるタイミングが訪れるようなもの」であったというのです。瑩山禅師様は先のたとえとは異なる表現を用いながら、迦葉尊者の召集を受けた阿難尊者の心境をお示しになっているのです。


そして、「夫れ阿難召すも、阿難を喚ぶに非ず。響き応じ応ふるに非ず。」とあります。これは師と弟子の双方が機縁の熟したことを感じ、お互いに自分の取るべき行動を取ったことを意味しています。すなわち、師か弟子のどちらか一方が発した一方通行の行いでもなければ、それに応ずるかのようにして、どちらか一方が動いたというものでもない、双方がそれぞれ自分の思いを以て動いた行動が見事なまでに合致し、「倒却門前刹竿著(とうきゃくもんぜんせっかんじゃく)」という仏法の世界が体現されていったということを言い表しているのです。ここには師と弟子の双方が決して、自らに甘えることなく、仏道修行一筋の日常を送るという大前提があり、それによって、双方の機が熟し、お釈迦様のみ教えを伝え合う師と弟子の関係が成立していったということが感じ取れます。今回の一句を通じて、その点を押さえておきたいところです。

第88回「第二章・拈提㉙ 迦葉・阿難、相並んで、旗を建る」

令和6年6月30日 更新

【拈提】倒却門前刹竿著(とうきゃくもんぜんせっかんじゃく)といふは、西天(さいてん)の法に、仏弟子及び外道(げどう)等議論せんとするとき、両方に旗(はた)を建て、若し一方負(まく)るとき、乃ち此旗を折り倒す。負るとき鼓鐘を鳴らさずして、負くるを表す。謂(いわ)ゆる今の因縁も、迦葉と阿難と相並んで、旗を建るが如し。



「倒却門前刹竿著(とうきゃくもんぜんせっかんじゃく)」とは、師と弟子の双方が自らの力で仏法の旗を立てたことを意味するものです。すなわち、双方が日々の仏道修行を通じて、自らの力で以て仏の悟りを体得できた、すなわち、「仏と成った」ということを指し示しているのです。


西天(インド)の法では、仏教に帰依する仏弟子と外道(仏教を信じぬ者)たちが仏教等の話題について議論する場合、双方が旗を立て、議論に負けた側は鼓鐘(太鼓や鐘など、音の出る鳴らし物)を鳴らすことなく、旗を倒して敗北宣言をするとのことです。今回の一句において、まずは、瑩山禅師様よりそうした西天における風習が言及されています。


これに対して、「倒却門前刹竿著」における迦葉尊者と阿難尊者の師弟には勝ち負けがありませんでした。ですから、どちらかが旗を倒すこともなければ、鼓鐘を打ち鳴らすこともない、共に旗を立て、共に鼓鐘を鳴らすことのない状態であったというのです。それが「迦葉と阿難と相並んで、旗を建るが如し」の意味するところです。


師と弟子の勝ち負けなどが一切、存在せずなく、共に仏道修行を重ね、仏と成る―そのことが見えてきたのが、「時既に相適(あいかな)ふ」ということなのでしょう。そんな瞬間に迦葉尊者から阿難尊者にお釈迦様の法が伝わっていったのです。「倒却門前刹竿著」におけるお二人の因縁には、仏法相承における唯一絶対の師弟関係が描かれていることを言さえておきたいと思います。