島津山満行寺 真宗大谷派
木場満行寺の広壮な伽藍は、威容を保ってそびえ、境内のうっそうたる森は、村人を霊すいの境に導き、また、村人は魂の故郷として弥陀の御名を讃え、日常の行ないを正して来ました。
満行寺の開基乗西(島津良久)は、承元2年(1208)に越後国五智(後述を参照)に親鸞聖人を尋ねて弟子となり乗西という法名を賜りました。
その後、信州下高井郡高井村に寺を創立し、数代を経て永禄4年(1561)に乗念の時代に越後に下り、弥彦の荘木場村に一宇を建立しました。一宇とは一棟の建物ということであります。
また、寺宝となっている一貫代(表具丈182㎝、表具幅64㎝)の御本尊の背書きに「慶長年間、越後弥彦の荘木場村、浄円寺下満行寺釈乗念」と書かれており、お寺の組織として三条の浄円寺の下に所属していたものと思われます。
明治初年の「西蒲原郡神社仏閣取調帳」にも永禄4年の記事がみられることから満行寺の書上げによって記録されたものと思われます。
なお、寺の境内には次の建造物が配置されております。
鐘楼門
安永年間(1772~1781)の建立。入母屋造りで重厚感に溢れています。
経堂
寛政享和年間(1789~1804)の建立。釈迦三尊を祀り周囲の書棚にお経を保存しています。
太子堂
明治22年(1899)に村の大工半十郎が建立、本尊は聖徳太子です。
地蔵様(堂)を持たない八割組の太子堂祭りの終着地点でもありました。
本堂
大正14年(1925)の建立、総欅造りの柱、欄間等の見事さは近隣にその例を見ない。
年中行事
1月1日、2日、3日
修正会(年始参り)
2月28日
御講始
3月20日
春季彼岸会(中日のみ)
5月20日
法中講(寺御講)
7月10日
無縁法要
8月13日、14日、15日
盂蘭盆会(お盆参り)
9月23日
秋季彼岸会(中日のみ)
10月17日
報恩講(お初夜)
10月18日
報恩講(ご満座)
12月31日
歳暮勤行・除夜の鐘
越後国五智
親鸞聖人が越後国の地に上陸し、最初に住まわれた場所
親鸞聖人が専修念仏への理解を深められておよそ6年の歳月が流れた承元元(1207)年「承元の法難」と呼ばれる大事件が起こります。
ことのあらましは、後鳥羽上皇が紀州・熊野に参詣中、法然の弟子の安楽や住蓮が行っていた念仏会に、上皇に仕えていた女官が参加し、出家してしまったのです。
上皇はこれに激怒し、また他宗派による専修念仏批判の声が大きかったこともあり、朝廷は念仏の禁止の決定を下します。
そして安楽や住蓮を含む4人の門弟が死罪、法然上人と親鸞聖人を含む7人の弟子たちは僧籍を奪われ流罪という厳しい処罰が下されました。法然上人は土佐国へ、親鸞聖人は越後国へと流されます。
承元元(1207)年、流罪となった親鸞聖人は、親不知子不知を越え、小野浦ら舟で国府の居多ヶ浜に向かわれたと伝えられています。
居多ヶ浜は、承元元(1207)年の承元の法難で専修念仏弾圧を受けた親鸞聖人が流罪に処せられた際に、小野浦(木浦)から舟で上陸した浜と伝えられています。
流罪となった親鸞聖人は「もはや私は僧ではなく、かといって世俗の者でもない」と、「非僧非俗」の立場を宣言され、これ以降「愚禿ぐとく釈親鸞」(後述を参照)と名乗られるようになります。
越後で親鸞聖人は妻の恵信尼えしんに様と子どもたちとともに暮らされました。親鸞聖人がいつどこでご結婚されたのかは定かではありませんが、僧侶の妻帯が許されていなかった当時において、結婚が念仏の道の妨げにはならないと確信して結婚されたのは確かです。男尊女卑の時代にありながら、「信心に貴賤や聖俗の区別はなく、男女の差別もない」とのお考えが伺えます。
恵信尼様は、教養の高い女性でした。親鸞聖人は9歳年下の恵信尼様のことを、ともに信心の道を歩む者として尊敬されていたといいます。流罪後の親鸞聖人を恵信尼様が支えられたのは想像に難くありません。
越後の厳しい自然環境のもとでの生活は、想像を絶するものでした。しかし親鸞聖人は、一日一日を精一杯必死に生きる人々の生活のなかに、人間が人間として生きる厳しさと、その中で本願念仏に生きる姿を深く感じられます。
親鸞聖人は、すべての人が同じく等しく救われていく道として、念仏の教えを伝えていかれました。
親鸞聖人の
「愚禿ぐとく」の意味
この言葉は、親鸞聖人が著した『愚禿鈔』の言葉で、「私の心は、外見では賢く振舞っているが、その中身は煩悩にまみれ、愚かである」という意味です。
親鸞聖人は自らを煩悩だらけの愚かな凡夫(未だ悟りを得ていない)として「愚禿釈親鸞」と名乗りました。
満行寺境内の太子堂について
時代を遡りますが、八割集落では満行寺境内に太子堂を祀って、毎年8月27日に盛大なお祭りを行なってきました。お祭りは永井源右エ門宅を宿にして、「以和為貴」と「霊徳無邊」の二幅、対の掛け軸を掲げて実行されてきました。
しかし、時代とともにこの祭りも維持できなくなり、また、掛け軸はしばらく八割集落の所有物として管理されてきましたが、平成23年からは満行寺において管理いただいております。
掛け軸の半対である「以和為貴」は、聖徳太子の十七条憲法に「和を以って貴しと為し、さからうことなきを宗とせよ」とあります。人と仲よく和して行くことが貴いという意味です。
今一つの「霊徳無邊」の半対は、人間の霊の徳が極まりないことの意味であるとされています。
掛け軸の二幅は、荒木貞夫閣下筆耕の書であります。入手の経緯は不詳で分かりませんが、荒木貞夫閣下とは、昭和6年(1931)犬養内閣の陸相、昭和12年(1937)文相、昭和8年(1933)陸軍大将などを歴任、頭脳明晰、博識多才、能弁で説得力に長けた人物とされています。