木場八幡宮のご神体について
木場八幡宮の縁起・由来は定かでないが、米沢上杉博物館に所蔵されている慶長4年・1599年の村々志色書上帳によると、この頃の木場集落は、寺1(木場満行寺が永禄4年・1561年に入村)、神社1、戸数では百姓175戸、水呑9戸、人口では百姓1千303人、水呑59人、村、東西8町2分、潟7枚とあるように、木場村の骨格は、この頃すでに完成して大部落を成していたことが分ります。この頃の神社1とあるのが現在の木場八幡宮の源流をなすものと判断されます。
そして、木場満行寺の信州からの移住に際して多くの入植者を引き連れて来たとされていますので、比較的文化レベルの高い元山際家が、江戸幕藩体制下の庄屋という行政職に任用されたものと考えられます。
そこで、新たに庄屋となった山際家の金銅神を、木場村の産土神(うぶすながみ)として祀ったのが、新たな木場八幡宮の始まりで、小さなご神体の金銅神は収納具の一種である「厨子」に納められていたと考えられます。
集落のご神威を高めるかたちで、神社に氏神すなわちご神体を祀って、一方の集落の住民を氏子と称していますが、古くから神社信仰のかたちで、江戸時代の初期に木場八幡宮が新規に発足したと考えるのが自然と思われます。
木場八幡宮のご神体 一寸八分、約5.5センチの 金 銅 神
木場八幡宮のご神体については、一寸八分ですから、約5.5センチの小さな金銅神であったと言われています。金銅神は銅に金メッキしたもので、姿かたちがどういうものであったかは不詳で分かりませんが、阿弥陀如来像とか観音菩薩像とか不動明王立像とかを想定してはどうでしょうか。
いつの時代かは分かりませんが、乞食が社殿に勝手に泊まりこむようになり、目が覚めるといつも社殿の外に転び落ちていたという。そのようなことでこれは祭神(祀神)のせいであるとして、厨子ごとを持ち出して近くの川に捨てたという言い伝えがあります。
しかし、この言い伝えは、まさに説話(民話・物語)の類で、実際に乞食が泊まり込んでいたという確証もなく、目が覚めると社殿の外に転び落ちていることも奇怪な話で、ご神体を安置している厨子を川に捨てたという事実はだれもが知り得ようがない。唯々の言い伝えであります。
而も、ご神体を安置していた厨子をいとも簡単に持ち出せるだろうか。木場集落の権威にも関わる大問題です。通常の大祭では、神殿の御扉(みとびら)は、神官によって開錠し、扉を開くときは警蹕(けいひつ。厳かにオーと、息長く発声する)を懸けて開けるという古来からの仕法があります。
乞食ごときが意図も簡単にご神体を持ち出せる訳がないことは明々白々であることからして、この話は作り話、即ち、説話であると言えます。その厨子は海を超えて、粟島の浜辺に打ち上げられ、それを発見したある浜のある御婆さんが、厨子の中を見たら小さなご神体があるので、ご自分の家にしばらく安置していたという。その後、釜谷地区の八幡様として祀られたと言います。
それを伝え聞いた木場八幡宮の堂守たちが迎えに行ったら「粟島に居ても木場の村は守ってやる」と云われてやむなく帰ってきたという話が伝えられていますが、釜谷地区の八幡様のご神体が、木場八幡宮のご神体であることの確証も得られていない。
「粟島に居ても木場の村は守ってやる」ということばも今となれば一種の説話を構成するかたちになっていると言えます。このことが、秋季大祭の折には木場八幡宮の神様が雲に乗って木場にやって来るという話に相通じるということになります。これも又、説話と言えるのでないでしょうか。
文責:大 谷 一 男