亀倉蒲舟・康之
(カメクラホシュウ・ヤスユキ)
彫金・金工作家
亀倉蒲舟は、明治40年(1907年)、西蒲原郡粟生津村(現在の燕市)に生まれ、2歳で木場に転居、新潟商業を中退して、彫金家を目指して上京する。昭和11年(1936年)帝展に入選、昭和19年木場に疎開、昭和27年(1952年)日展で特選、木場で多くの作品を制作した。平成9年(1997年)没。作品は新潟県近代美術館、考古堂ビルのほか、旧木場小、満行寺、木場の家々にある。
亀倉康之は、蒲舟の長男で、昭和9年(1934年)東京生まれ、木場に疎開、東京藝大を卒業し帰郷、昭和31年(1956年)日展で入選、35年(1960年)日展特選。木場、新潟市で創作する傍ら、新潟大学等で教鞭をとった。新潟県民会館、新潟競馬場、内野小などに多くの作品を残した。平成24年(2012年)没。
康之の弟の正(タダシ)は陶芸家、写真家。末弟の彬(アキラ)も彫金家。康之の子、芸(ノリ)は美術家。
蒲原に生き蒲原でつくる
ー亀倉蒲舟の軌跡ー
亀倉蒲舟(かめくらほしゅう)のアトリエからは大きな池が見える。池の上をサギがよく飛ぶ。「着想はこれだったなあ」と蒲舟は思う。昭和十二年(1937)、第一回文展に入選した。作品は「黄銅鷺(さぎ)文飾箱」。自信作だった。人手に渡ったが、五十四年後の今日、手元にある。「よくこんなものを作った。今まで作ってきたもんだ」、蒲舟は語った。
明治四十年(1907)、亀倉宇吉(蒲舟の本名)は新潟県西蒲原郡栗生津村で、亀倉宇之七、千代の長男として生まれた。父は長善館で学んだ漢学者で訓導(小学校教師)であった。二歳のとき、父の赴任に伴い、郡内の黒埼村木場へ移った。栗生津も木場も、蒲原(かんばら)と呼ばれる新潟平野の農村であった。信濃川、中之口川をはじめ大小河川や堀が無数に走り、潟や池が点在していた。秋には一面稲穂の海となった。
子供のころから絵が好きだった。うまかった。勉強はできた。特に歴史と書道は得意だった。小学校四年の秋、稲刈休みのとき、父に連れられて東京に初めて行った。「不思議な町で大変に魅力的だった」。このとき、文展(日展の前身)を初めて見た。この感動は大きかった。「日本画の大作は今でも頭に残っているな」。東京には母の実家小川家が西蒲原郡分水町から転居していた。小川家では、彫金とも出会った。母の弟小川英鳳は彫金家であった。
小学校を卒業し、県立新潟商業学校に入学した。難関校である。面接で「大実業家になります」と答えた。しかし、宇吉に商人の才は無かったらしい。「毎日、ソロバンをはじくのは困るな」と思った。当時、新潟の学生で有名人がいた。坂口丙午、後の坂口安吾である。
上京は毎年続いていた。小川家に滞在した。英鳳の仕事を見るうちに「これなら絵よりは食えるかもしれないな」と思った。「若い時からやらないとだめだ。東京に行きたい」。母は賛成してくれた。父は「どうする」と言ったが、反対はしなかった。「本当は学校の先生にでもしたかったようだ」。三年生の九月、退学し上京した。大正十二年(1923)、十五歳になったばかりであった。
本郷区の小川英鳳のもとで住み込みで彫金を学んだ。十一歳上の英鳳は師匠と言うより先輩という感じがした。ここで技術をしっかり修めた。近くに上野の帝国図書館があり、日本画の名作を徹底的に模写した。彬派が好きだった。東京美術学校(現・藝大)も近かった。人づてに彫金教室の教材、手板の模刻を借りて勉強した。彫金の道具は鏨(たがね)である。「あらゆる鏨を使ってみた。初めはうまくいかなかった」。しかし、少しずつ銅版を自在に彫れるようになった。
二十歳の時、次弟宇宙の早稲田大学入学を機会に、本郷区動坂駒込に家を借り二人で住み始めた。翌年「合格かな」と思う作品が出来た。今、蒲舟のアトリエを飾っている「鹿」である。副題を「解放」という。英鳳から独立した。郷里黒埼で頒布会を開いた。好評だった。「父のおかげだな」。翌年、末弟宇周が彫金を学ぶため上京し、英鳳の師で田端に住む伊藤勝英に入門した。動坂と田端は近く、たえず接触し、よい刺激を受けた。伊藤から学ぶものも多かった。昭和五年(1930)には、商工省主催の工芸展に出品して東京府代表作品になった。作品「黒味昆虫賦花瓶」はアサヒグラフにも載った。「世に出たなあという感じだった」。
同年十一月には三歳下の阿部フユと結婚した。フユは黒埼の立仏、阿部友之輔・シン夫妻の次女で、友之輔は長善館で学び、父の後輩である。見合いのとき、宇吉はフユの手をじっと見、フユは宇吉の顔をチラリと見た。「怖い人かなと思ったが、そんなことはなかった」とフユは言う。フユは四男三女を生み、家を守った。「家のことは任せっきりだった。手足のように使った。客の対応も良くしてくれた。いてくれて助かったなあ」と蒲舟。「芸術家ですから、子供が邪魔にならないようにしていました」とフユ。二人は一昨年ダイヤモンド婚式を迎えた。
昭和十一年(1936)、宇周が急死した。「僕のは繊細華麗、宇周のは素朴豪快といわれた」既に父が七年に亡くなり、母と妹ケンをひきよせていた。長女道子、長男康之、次男赳彦が生まれていた。宇宙は結核で療養していた。宇吉は働いた。朝から夜十二時すぎまで、四畳半に籠もった。満を持して制作した作品「黒味胴彫金筥」が第一回帝展に初出品で初入選した。「これでようやく自分の技法ができたと思った」。それまで三年ぐらい、出品作の制作を止めていた。「このあと、真似されたりしてね。でも、真似されるぐらいだから、これで大丈夫だ、と思った」。
翌年の作品が「サギ」である。「作家ならそれぞれのテーマを持っている。俺は何に求めようと思ったとき、ここ(黒埼)の風景が浮かんだ」。「サギ」は入選し特選候補となった「文展を英鳳と観に行ったら(文展の)大物がサギを見て英鳳に『この亀倉宇吉ってのは何者だ』って聴いててね。学校(東京美術学校)を出ていないから知られてないんだなと思った」。このあと十八年まで六回連続入選する。「蒲舟」という雅号を使い始めるのもこの頃からである。
「水郷と言われた蒲原を思い浮かべてね。水路に小さい舟が沢山あった。信濃川に蒸気船や渡し船があったなあ」、蒲舟の作品には、鳥、魚、昆虫、花、動物など身近な生物が多い。
その郷里、黒埼へ昭和十九年(1944)四月に疎開し、フユの実家阿部家の別棟に落ちついた。二十年(1945)八月十五日、終戦。すぐ東京に戻るつもりだった。ここでは暮らしていけないと思っていた。「親父が死んだとき帰ろうかと思って一ヶ月くらい木場にいた。誰も(買いに)来なかった」。中央から離れる不安もあった。英鳳を初め疎開していた仲間たちは次々と戻っていった。しかし、結果として今日まで蒲舟は残った。「子供がいたし、狭い借家でカンカンとやるのもどうかなと思った」。二十一年(1946)の三月に七人目の末っ子 彬が生まれ、八月に木場宮前の新居に移った。新居は新潟商工会議所会頭 苅部長蔵の知遇によるところが大きかった。苅部は戦後の蒲舟の最大の理解者である。
人にも出会った。坂口献吉(安吾の兄、新潟日報社長)、伊藤文吉(北方文化博物館館長)、敦井栄吉(北陸瓦斯社長)、安藤文平(新潟市議長)、中田瑞穂(新潟大学医学部教授、俳人)、會津八一(書家、歌人)等々。新潟の大立者であり、文化人たちである。「昔の新潟には人がいた。だが、それに値する街ではなかった」。
「會津先生は面白い方だった。すばらしい方だった」と言う會津八一との交際は深かった。蒲舟は漢学や書にも詳しかった。「新潟に行って寄らないと『君、この前(新潟に)来ただろう』と怒られてね」。実は會津も蒲舟のアトリエを訪ね、日記にこう記している。「即座に予が書きしものを銅板に掘るなり。技術思ひしよりも爽(さわ)やかなり」(昭和二十一年三月一日)。両者の合作がある。會津の色紙十枚を蒲舟が彫った物で、完成して届けたとき會津に「これで會津八一、三千年残る」と言わしめたものである。
蒲舟は戦後も日展に入選を続けていたが、昭和二十七年(1952)の第八回日展で遂に特選をとった。四十五歳だった。作品は「双魚遊心彫金箱」。それまでも特選に値する作品を創(つく)ってきたという自負はあった。「彫金をやる前は学校なんてと思っていたけど、やり始めたら学歴が欲しくなったな」。しかし、こうも言う。「新潟商業を出て、美術学校に行ってたら、今の技術は習得できなかった」。
特選は蒲舟にとって一つの節目となった。「人の見る目が違ってきてな。彫金と言っても村の鍛冶屋の親戚みたいなものに思われていたから。少しは認めてくれたかな。中には、あなたも売れてきたからいよいよ村会議員ですか、なんていう者もおったが・・・・・・田舎は当たり前のことに気付くのが遅いんだ」。何より、彫金家としての地位を確固たるものにした。この後も日展に入選を続け、三十九(1964)年に日展審査員を務め、四十年(1965)からは日展会員となっている。また、三十六年(1961)に現代工芸美術家協会を設立。同会の新潟会の委員長を務めた。伝統的な彫金の技術に加えた新しい独自の技法は一つの頂点に達していた。作品は美術館に買い上げられた。特選作は東京都美術館に、二十九年(1954)の「魚紋彫金壺」はソビエト連邦文化省に、四十年(1965)の「冽」は新潟県美術博物館に所蔵されている。
昭和四十九年(1974)十一月、現在のアトリエを竣工した。六十七歳である。子供は独立し、東京藝大を卒業した康之と四男彬も彫金の道へ入っていた。県内各地から誘いもあったが、黒埼という地が好きで、場所は木場川前にした。子供の頃遊んだり、新潟商業への通学路だったりした所だ。昔は蒲原のどこにでもあった潟や池が、一つだけ残っていた。「あと何年やれるか。作品に完成はないにしてもそれに立ち向かう情熱はある」。設計は自分でした。完成したアトリエで本を読んだり、下絵を描いたり、鏨を使ったりすると案外良かった。東京から訪ねてくる友人には、ことのほか好評だった。何より落ち着いた。「東京にいた頃は先頭を走っている馬のようだった。後からみんなが追いかけてくる気がした。新潟に帰ってきてからは独りで走っていた」。康之はこう言う。「オヤジはなんとも仕事の男だ。鏨が刀みたいで、明治男でサムライだ。絶えず勉強していて邁進(まいしん)していた」。
昭和五十三年(1978)に念願の中国を旅した。初めて見た中国はうれしくて、一人で北京の街を歩いていた。言葉はわからないが、紙と鉛筆があればなんとかなった。五十五年(1980)、五十八年(1983)にも訪ね、創作の意欲がわいてきた。
平成三年(1991)に腎臓摘出の手術をした。「今度ばかりはダメだと思った」。三十七年、四十五年にも大病し、九死に一生を得ていた。今度も天のお呼びはなかった。「ここまで生きると生かされている気がする。環境が良かった。東京に残っていたらもう少し偉くなれたかもしれないが、今頃とっくに死んでいただろう」。四年、健康が回復し、午前と午後二時間程度、仕事をする。鏨も持つ。近年は、顔が好きだ。特に「仏」が好きだ。「注文されてキリストも作ったことがあるが」と笑う。七十年の作家生活が生み出した作品は膨大だ。「数はわからない」と言う。作品は商品でもある。手元に残っているものは少ない。「生きてきた証だからな」。
(文:五十嵐 政人)
平成四年発行亀倉蒲舟展図録から再録
ぬくもりの満ちる作品
亀倉蒲舟の技術、芸術性について、新潟大学教育学部の小磯 稔教授は、昭和五十九年の伊勢丹で開かれた作品展に際しこう論評を寄せている。
工芸作品の魅力は作者の意匠力のほかに、素材の特質をいかに生かすかが大切な要因となるが、彫金の場合は何といっても鏨(たがね)さばきや表面仕上げの技術などに独自性が備わっていなければならないと考える。周知のように、亀倉蒲舟は工芸界の頂点をきわめる卓越した鏨の技術を持った彫金家であるが、今回の提出作品は、それらに一段と磨きがかかっているようである。代表作とも言える「龍門石窟」などに見られる透かしや蹴彫(けりぼり)は、法隆寺伝来の「金堂灌頂幡」をも彷彿(ほうふつ)とさせる流麗さを保ち、気品に満ちた物である。
また、亀倉作品の特徴の一つである表層仕上げの効果を堪能(たんのう)できるのもこの作品展以外にはないでああろう。その方法は、素地の銅版の上に何度かアマルカム鍍金(ときん)を施し、その上に銀をかけ、適度に磨き上げたものである。金属という冷たい素材を用いながら、彼の作品が不思議と温雅でぬくもりを感じさせる原因は、持ち前の意匠力のほかに、金と銀、あるいはそれに素地の色をほどよく調和させた独特な表面仕上げが視覚効果を高めることにあるのかもしれない。
(新潟日報 昭和五十九年五月二十六日号から一部抜粋)
木場・亀倉展パンフレット(2015)