山際七司先生
山際七司先生
木場の偉人、山際七司先生
うっそうと茂る木々の間に、高さ4メートルの頌徳碑がそびえ立っています。明治時代に活躍した自由民権運動家の山際七司の功績をたたえ、昭和28年、1953年に建てられました。
山際七司先生の頌徳碑の文字は、当時の大野伴睦衆議院議長によって書かれたものです。また、丸い円形になっている山際七司の肖像は、彫金作家の亀倉蒲舟先生によって彫られたものです。
山際七司は、木場村庄屋の長男として生まれ、青年期には東京に出て漢学や欧米の思想などを学びます。七司は22歳のときに父を亡くして庄屋の任務を引き継ぎます。七司24歳のときには、福沢諭吉の『学問のすすめ』にある「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず、万人はみな同じ地位・資格を持ち、貴いとか賤しいといった身分上下の差別はない」の内容に感激し、郷土や国のために働こうと決意します。
それと、明治6年に福沢諭吉や啓蒙思想家の西周(にしあまね)や明治初期の外交官であった森有礼(もりありのり)らが結成した明六社の学術啓蒙雑誌である『明六雑誌』にも触れて自由民権にも目覚めていきます。
七司が、31歳になった明治12年(1879)に新潟県議会が設立されます。そして、同年6月には54人の県議会議員に選ばれます。この頃の県議会議員は今のような激しい選挙戦もなく有力者の推薦によって選出されていた時代ですから、県政に参加できたのは少数の資産家だけでありました。
七司は、議場で雄弁を振るい議会をリードします。まさに県会は山際七司の自由民権運動の舞台でもありました。以来明治23年に衆議院議員に当選するまで県議会の重鎮として活躍します。衆議院議員に当選した当時の七司は42歳であります。
自由民権運動とはどういうものなのかについて触れて見たいと思います。自由民権運動とは結社・団体をつくって、言論活動によって世論を高めながら、要求を実現しようとする運動のことを指します。
自由民権運動の最大の展開は、国会開設の要求でした。その要求の中味は天皇を絶対の主権者とする薩摩や長州による新政府を打倒し、国民を主権者とする近代的立憲体制の樹立を七司は目指していました。七司の政党活動については紆余曲折がありますので、ここでは触れませんが、 七司が目指していた「大日本国、国家権限」という憲法草案は、
「第一条に国会は上院と下院とし
第四条に上院議員は天皇が任命し
第八条に下院議員は国民の選挙で選び
第五条と第九条に下院に税の徴収や国の予算案をつくる特権を与える」
ことでありました。
つまりは、国民の権利・自由を民権とすると、国の富強・国益を国権とすると、いずれもが対立するのではなく、それらを両立させることにあると主張していた訳であります。また、国民主権の考え方を明記した「大日本、国会権限」は、最も民主的な憲法草案の一つとして評価されています。
山際七司は、明治23年に初の衆議院議員に当選するも、その後体調を崩し、明治24年6月に43歳の若さで生涯を閉じました。政治家としてはこれからという時に亡くなられ、早すぎる死を惜しむものがあります。存命であれば板垣退助らと共に国政において大いに活躍されていたものと思われます。
国や郷土のために人生をささげた不屈の精神は、木場住民のみならず新潟県民の誇りとなっています。いずれにしても、すごい自由民権運動家であったということを多くの人達にも知っていただきたいと思っています。
文責:大谷一男
🌸2015年(平成27年)9月2日 新潟日報のまちかど歴史探訪より