木場八幡宮の概要・沿革
木場八幡宮の縁起は、慶長4年(1599)の村々志色書上帳(米沢図書館蔵)に木場集落の氏神様として祀ったことが記されるなど、歴史と伝統を誇る由緒ある神社となっています。
当時、木場集落には戦国武将上杉景勝の戦略的拠点としての木場城がありました。しかし、慶長3年(1598)に上杉景勝は豊臣秀吉によって会津120万石に移封させられたため木場城は廃城となります。
木場城本丸の大将蓼沼藤七友重、二の丸の将山吉玄蕃丞景長は、主君上杉景勝と共に会津に移り、さらに上杉景勝は徳川家康によって米沢30万石に減移封されたため、上杉景勝や家臣らの古文書が最終的に米沢藩にもたらされます。村々志色書上帳(今でいう村勢要覧)も米沢図書館に所蔵されることになります。
以下、木場八幡宮に関する記録を、年表などからその歴史をたどって見ることにします。
慶長4年/1599年 村々志色書上帳(米沢図書館蔵)によると、 木場には「寺1、神社1、戸数百姓175戸、水呑9戸」人口では「百姓1千303人、水呑59人」「村、東西八町二歩、潟七枚」などが記されているように集落としての骨格はすでに完成していたことになります。
木場の地に先人が居を構えて、潟周辺の高みの野地を開墾して集落を発展させてきたことは紛れもないし、幾多の洪水などもあり艱難辛苦の生活であったと思います。そのような事情もあり神を崇拝する信仰心も自然発生的に生まれ心の拠り所として神社が建てられ、慶長4年の村々志色書上帳にある神社が今に伝わる木場八幡宮であったということは疑う余地もない。
宝永7年/1710年の旧神社の棟札では、願主・木場村庄屋儀兵衛、角海村の大工五郎兵衛と金五郎と木引伝三郎が神社を建立とあります。なお、享保2年/ 1717年 本山際家(旧木場村庄屋)保存の旧神社の棟札と寛保2年/1742年の旧神社の棟札からは、享保、寛保とも共に7人の大工が社殿づくりに従事とあります。
宝永7年から享保2年まで僅か7年しか経ていませんが、当時は新田が開拓されて入植移住も多くなり、村の実力もつき移住者も融合する必要があったため、本殿および拝殿を再建し直したものと思われます。
天保9年/1838年 本殿に吊り下がる金灯篭からは、木場八幡宮鞘堂内にある一間社流造のこけら葺きの木場八幡宮本殿入口の階段上の階隠部分から吊り下がっている左右の金灯篭には、「天保九年」と寄進者である木場村庄屋「施主山際七兵衛」の名前が刻印されています。
系図を遡ると明治初期の自由民権運動家・衆議院議員の山際七司の先代が郡司で、郡司の先代が七兵衛となります。さらに七兵衛は、文政4年(1821)に新川開削(水害常襲地帯であった鎧潟・田潟・大潟の三潟周辺地域の湛水を日本海へ放出するための掘割工事)の功績により苗字帯刀を許され、堂々と「山際」の姓を名乗っていることを付記させていただきます。
木場八幡宮本殿は、地域の文化財でもあり先人が残した遺産でもあります。さらに地域の住民の心を豊かにする小さな文化財でもあります。また、昭和48年4月15日付で新潟市の有形文化財に指定され、さらに木場八幡宮拝殿を含めて新潟市民文化遺産としても登録されています。
文責:大 谷 一 男
木場八幡宮本殿鞘堂
木場八幡宮本殿正面
木場八幡宮本殿外観
本殿に吊り下がる金灯篭