御館の乱と木場城
御館は、戦国時代屈指の名将であった上杉謙信が、中世の政治をつかさどった場所、つまりは、お城のことを指します。一方の木場城の木場の場の文字は、墾田を表すれっきとした古い日本語で新たに開墾された耕地を意味します。
場の意味は、中国の詩、経国風:豳風編(ひんぷう)からも、紐解くことがことができます。
九月築二場圃一、十月納二場禾稼一。 注釈として、春夏為レ圃、秋冬為レ場。
この詩の意味は、場と圃とは同じ土地で、春夏には耕地して菜茹などを植えて「圃」と言い、秋冬には脱穀などの作業を行う所を「場」と言います。
農業関係の圃場整備事業といった圃場も、ここでいう場圃も同じ意味であります。要するに禾穀を治める庭、耕作地、とりいればを「場」という文字で表現しています。 禾穀とはお米のことを指しますので、場という文字の意味は、墾田に由来する中世以前の古い日本語ということになります。
そのようなことで、私たちの愛する郷土木場の地名が開墾地名であり、古代地名でもあることに大いなる誇りを持ちたい。そのように思います。その私たちが愛してやまない郷土木場の地に、今から約440年前のことでありますが、戦国武将の上杉景勝と新発田重家との抗争の場となりました。
この抗争のもともとの発端は、室町幕府が滅亡し、上杉謙信が亡くなったことにあります。上杉謙信は、関東大遠征直前の天正6年(1578)3月9日午(うま)の刻、正午に、春日山城内の厠(かわや)、今でいうトイレで突然倒れて、昏睡状態のまま4日後の3月13日未(ひつじ)の刻ですから午後2時に帰らぬ人となりました。死因は虫気(ちゅうき)、脳出血ということになります。
そして、上杉謙信が亡くなってからは、上杉謙信の家督をめぐって、上杉景勝と上杉景虎との間にお家騒動が勃発します。そのお家騒動のことを御館の乱と称しています。そこで、先ずは上杉景勝と上杉景虎のことについて触れて見たいと思います。
さらに、上杉景勝のもとで、てがら、功績をたてたにも関わらず、大した、恩賞にも授からず、不満をもっていた新発田城主の新発田重家の去就と、新発田重家を討伐するうえで上杉景勝の戦略上の重要な拠点となった木場城の位置関係と、当時の木場集落の成り立ちを明らかにしてみたいと思います。
上杉謙信の家督を巡って
上杉景勝は、上杉謙信の姉・仙桃院(せんとういん)と、今の南魚沼市・旧六日町に存在していた坂戸城主の長尾政景の二男として、弘治元年(1555)に生まれます。そして、景勝は10歳のときに父政景を事故で亡くしたため、母仙桃院とともに春日山城に移って上杉謙信の養子となります。
一方、上杉景虎は、上杉謙信と相模の小田原城主北条氏康との越相同盟(えつそうどうめい)を締結して、和睦して、氏康の七男である三郎を謙信の養子に迎えて、普通であれば人質として迎えるわけですが、三郎を養子にして、名前を自分が元服した時の名前である景虎を三郎に命名します。そして景勝の姉と結婚させます。このようなことで景勝と景虎の関係は、義兄弟ということになります。
ところが、天正6年(1578)3月に上杉謙信が跡目を決めていなかったため、49歳の生涯をとじると、養子の景勝と養子の景虎がそれぞれ謙信の遺言を主張して家督を争うことになります。また、家来たちもそれぞれどちらかに味方して、ついに戦いが始まります。
御館の乱の舞台となった御館は、関東管領という室町幕府の重い職で、将軍を助け政治を取り締まる役職であった上杉憲政が、上杉謙信にその地位を譲ったため、謙信は憲政のために館・城を築造して、敬意を表します。
その館の名前は、御館と称して上杉謙信が政務を取り扱う役所としても使用していました。その御館に上杉景虎が立てこもり、春日山城の景勝と対抗して、国内の武将たちも双方に分かれて、領国を二分しての争いを展開します。
翌天正7年(1579)3月になると、謙信が没した1年後になりますが、景勝は大軍を組んで御館に猛攻撃を加え、御館はあえなく落城します。追われる立場となった景虎は、兄氏政のいる小田原城へ逃亡しようとして、途中の鮫ケ尾城にたどり着きます。
ところが頼りにしていた城主の堀江宗親は景勝方についていたため、これ以上の逃亡は無理であると覚悟を決め、景虎は自害して御館の乱に一応の決着が付くことになります。
新発田重家の謀叛(むほん)と木場城の築城
御館の乱が収まりますと戦功者には論功行賞が行われます。ところが景勝に味方して戦功をたてたはずの新発田城主の新発田重家には何の恩賞もありませんでした。その憤懣やるかたない思いをしているときに、織田信長が信州と越中に進攻していたことに呼応して、重家は景勝に反旗をひるがえします。
そして、新発田重家は織田信長軍と手を結びます。これに対して上杉景勝は羽柴秀吉、後の豊臣秀吉と協力し、新発田重家を討伐することになります。この時の前線基地となったのが木場城であります。
重家の不穏な動きに気づいていた景勝は、木場の地を与えていた山吉玄蕃丞景長に突貫工事で、しかも、当時は鉄砲が普及していた時代でありますから、ありきたりの館ではものの役に立たないため、ある程度規模を大きくしてその築城を急がせます。
潟や沼に囲まれていた木場は、水運の重要な拠点として重要視されていたということになります。そして完成した城は、無数の潟と川や堀の水域に茂るヨシ(葦)やガツボ(マコモ)やガマ(蒲)といった自然の天恵(てんけい)を利用して、不案内な敵を待ち伏せして攻撃する、或いは奇襲攻撃をかける時の出陣に役立つ城となるのであります。
そうこうするうちに新発田重家は、天正9年(1581)6月1日、突如として新潟沖の口の運上を横領し、海上通路を占拠して、戦線を拡大していきます。
沖の口とは港や津の入口という意味で、運上とは租庸調といった税金のことでありまして、祖は米の税であります。庸と調は、布や土地の特産物を指しますが、それを重家が横領する訳であります。
これに対して景勝は、同じ6月22日付けの武将蓼沼藤七友重宛の書状において、新しくできた木場城の本丸の城主を命じ、山吉玄蕃丞景長を二の丸の将として配置し、下越の守備を固めるとともに、謀反を起こした新発田重家の様子を探らせます。
ところが、天正10年6月2日に本能寺の変がおこり織田信長が没します。この
本能寺の変以降、事態は一変して新発田重家の形勢は、苦戦を強いられるようになります。そして、天正13年(1585年)から上杉景勝は本格的に攻勢に転じてまいります。
上杉景勝の新発田攻めは、天正14年(1586年)8月にも行われました。その時は新発田勢の反撃を受けて一旦は撤退をしておりますが、木場城の大将である山吉景長らが、新潟と沼垂城の大将を討ち取ったことに上杉景勝は自信を深めます。
そのようなことで、木場城に鉄砲玉と火薬を送ったり、白山嶋の砦の普請を急がせたり、戦闘に参加しない武将に対しては、在番の掟を定めて守備の強化を命じます。また、豊臣秀吉も重家にしばしば降伏を勧告しますが、新発田重家は言うことを聞くことはありませんでした。
在番の制・掟の内容は、一つには在番中の城普請等に油断しないこと。とあります。武力衝突に備えて城を強固にする作業が進んでいたものと思われます。二つ目には土地の者に対して無道狼藉を固く禁じています。村人に荒々しい振舞はしてはならない、乱暴してはならないということであります。
三つ目には敵が攻めてきたときは城を離れてはならないこと、これに背いたら打ち殺すこと。四つ目には敵方と内通している者を発見したら見逃すことなく送り届けること。
そして、いかなる武士であるのか分からない61人の者と地下人(じげにん)と言われる主人を持たない身分の低い武士はしっかりと監視しておくこと。といった内容でありました。大勢の中ですから城内には多少すじょうの分からない者もいたということでしょう。
ということで、天正15年(1587年)の8月に入ると景勝は、重家討伐のため8月9日に700余騎の大軍を率いて春日山城から新発田に向かい総攻撃を開始します。9月には加地城と赤谷城を落とし、10月には五十公野城を攻略し、その勢いを駆って25日に新発田城に乱入します。新発田重家はもはやこれまでと覚悟を決め、城中で自害して果てるのであります。重家の謀反から討伐まで、越後が統一されるまでなんと7年を要したことになります。
重家討伐後の約10年間は平穏無事に暮らせる時代となって、木場城は水城の特徴を生かして、新潟の三ケ津である蒲原津と沼垂津と新潟津を監視し支配する番城として使われます。
その後の文禄元年(1591)6月2日、景勝は、秀吉の命により木場城の将山吉景長同心36人を朝鮮に派遣することになります。この場合の同心とは、山吉景長の指揮に従う武士のことを指します。
そして秀吉は、慶長3年(1598)1月10日に景勝を会津に移封、国替えをするのであります。景勝は、移封、国替えさせられたため、18年にわたって存立した木場城は廃城のやむなきに至ります。
上杉景勝の会津移封
ここで、国替えの様子について少し触れて見たいと思います。戦国の乱世を乗り越えた上杉景勝を、豊臣秀吉は有力大名として評価していたという説と、逆に上杉景勝の器量を恐れていたのではという説がありまして、それぞれの見方があるようであります。何れにしても国替えは、秀吉の命令ですから、これを拒否することはできませんでした。
そのようなことで、秀吉は武士をはじめ中間(ちゅうげん)、小者(こもの)、奉公人の果てまで一人も残さずに召し連れて行くことを申し渡しますから、それこそ越後の国中が、武士をはじめ、上も下も、引っ越しの準備で大騒ぎとなります。
また、景勝の大番頭である直江兼続は、引越に関する覚書を各地の武将に送って指示します。武具や家財道具一切の荷物は有り次第、何度も輸送させること。妻や子どもや荷物を引越しさせて、自分は留まって後始末に従事してから出立するように命令します。
百姓が我がままを申したら成敗することも申し添えていますから、運搬役を担わされた百姓にとっては大迷惑であったと思われます。
勿論、木場城の解体も終わって、他の地域の武将たちとともに、新潟に集結して、阿賀野川を遡上して、津川から会津街道を通って移動したものと思われますが、どんな思いであったでしょうか。複雑な気持ちになってきます。
木場城と木場集落
このように木場城は、川や潟や沼、低湿地を障害物として築城された典型的な水城で、柵に近い城であったと思われますので、時代が下るにつれてその遺構も水田化されて消滅します。そのようなことで残念ですが、その遺構は未確認ということになります。
しかし、木場城の二ノ丸の城主であった山吉玄蕃丞景長が、米沢上杉家之藩山吉家伝記として、三条城から木場城までの道のりと距離と時間について記録していましたから、城のあった場所については、ある程度特定することができます。
木場城は、西区木場の木場集落の西はずれに位置し、水によって城を守ることも、水を利用して敵を攻撃することでも、都合のよい場所であったということでしょう。たぶん木場集落の西と北の方角にあるいくつもの潟またぎながら西川を伝って信濃川へと進んでいたのではないかと思われます。
また、米沢の図書館で所蔵している、慶長4年(1599)の村々志色書上帳(そんそん・ししき・かきあげちょう)によりますと、この頃の木場集落は、寺1(木場満行寺が永禄4年・1561年に入村)、神社1、戸数では百姓175戸、水呑9戸、人口では百姓1千303人、水呑59人、村、東西8町2分、潟7枚とあるように、木場集落、村の骨格は、この頃すでに完成していたということになります。
これだけの集落を形成するには、信州からの入植者を考慮してもなお相当の時間を要して集落が成り立ったものと思われます。従って木場集落の起源は、慶長4年以降の戸数および人口の推移から、逆に慶長4年以前の集落の起源を遡って推計すると、さらに400年前の親鸞聖人が越後にながされた承元元年(1199)、或いはそれ以前にまで遡ることが推定されています。
慶長4年以降の戸数および人口の推移
慶長4年(1599) 184戸 1362人
享保5年(1720) 185戸 1357人
明治元年(1868) 293戸 1894人
大正9年(1920) 322戸 1864人
昭和4年(1929) 311戸 2065人
昭和10年(1935) 330戸 2165人
現在 (2024) 545戸 1560人
何れにしても木場の地に先人が居を構えて、潟周辺の高みの野地を開墾して集落を発展させてきたことは紛れもない。このような木場集落の規模からして百姓と水呑百姓の分類だけで的を得ているとは思わない。
水呑百姓を貧農と捉えやすいですが、水田を持つ必要のない舟大工や農具を取り扱う鍛冶屋や漁業を生業とする者などがいてこその農村集落であったと思います。いかに戦国時代と言えども農村社会は百姓だけでは成り立たないことは自明のことであって、而も、木場集落は今も当時も大部落です。
なお、水呑百姓はまずしい貧農の呼称のように理解されがちですが、農村社会の実態を考えますに、水呑百姓は非農業者を指していると理解できます。
また、地名は人々の暮らしが、いとなわれるところから起こります。従って、この時代でこれだけの規模の集落が完成していたということは、恐らくそこからさらに500年ほどを遡った、今からはまさに900年前の、越後の各地に荘園が成立していた時代に、また、親鸞聖人が越後に流された時代以前の、さらに、それ以前から、木場という地名が誕生していたものと考えられます。
山吉家伝記と木場城の城址
木場の歴史を探る資料として、木場城の二ノ丸の城主であった山吉玄蕃丞景長が書き記した米沢上杉家之藩・山吉家伝記の木場に関する記述として「城の西ニ信濃川とて八百八川落合大河有り、城下ニ五十嵐川とて大河有り、殊に信濃川城下にて三つに分流する也、東に本川(東川とも云う)、西を西川、中を中ノ口ト云、此川の間広くして、是を越後の川中島と云、………三条より木場へ九里有り、三条よりツバメへ二里、ツバメより白根へ四里、シロねより木場へ三里、しめて九里、三条城下五十嵐川の分流中川より舟ニて木場の城下へ片時の内ニ往還スルト云、 ……、木場より新潟へ弐里、新潟と沼垂の間に信濃川あり、川中島の内に、新ン新潟と云所有り、木場から新発田へ十一里有り、……」を読み解いて見ると、当時の情景が浮かんでくるような思いがいたします。
いまでいう村政要覧である村々(むらむら)志色書上帳とか、木場城の本丸の城主を命じた上杉景勝朱印状とかの重要な書類は、会津移封のときも、その後の米沢移封のときにも持参されて、最終的に米沢市の図書館とか上杉博物館に収蔵されて現在に至っています。
そこで、こんどは米沢藩山吉家伝記から木場城があったところを推定して見ることにします。また、県内の郷土史を研究する人達が、宮のもり・木場城公園が立地しているところに木場城があったと勘違いして、間違った情報を発信していますので、山吉家の古文書から木場城のあった場所を、ある程度確定したいと考えます。
米沢上杉家之藩・山吉家伝記の文中の城とあるのは三条城のことで、「八百八川落合大河有リ」とある八百八川は、大江戸八百八町の言葉と同じく、多くの川ということを指しています。
本川とあるのは東川とも云って今の信濃川、西の西川とあるのは今の西川で江戸時代初期に書かれた越後国絵図によると、西川の川幅は48間、約86m、現在の10倍もあったことが書かれています。
そして、東川と西川に挟まれたところを中の口と称し、しかも越後の川中島とも称しております。川中島は、まさに川に挟まれた低湿地帯を指しています。
「三条より木場へ9里有り、シロねより木場へ3里」、当時はどのようにして距離を測っていたのでしょうか。計測には間縄・ケンナワ(測量用の麻縄)の他に、人が1時間歩いた距離が一里(約4㎞)であるとも言われております。どうやって距離数を足していったのでしょうか。
この伝記で注目したいのは、「五十嵐川の分流中川より舟ニて木場の城下へ片時の内ニ往還スルト云」という記述です。中川は今でいう中ノ口川のことで武士たちの重要な移動ルートでもありました。
当時は、中川の直近に手杵潟と堤潟と雁潟がそれぞれ接続して一体の潟湖を成していたと思われますので、舟を使って木場の城下に入ったということでしょう。木場の城までは舟で片時の1時間で往復したと記されておりますので、舟の早さは人の歩く速度の倍ありますから逆算して1里の半分の2㎞先のところに城下があったということになります。
中川から2㎞先のところに、むかし、ここに城があったという言い伝え、それと、付城(つけしろ)が訛った助城(すけしろ)、本丸の外周にある二の丸の曲輪(くるわ)が訛った箕輪(みのわ)の古地名、さらに土手丸といった城にまつわる古地名のあった木場新田の西はずれの「五軒島」と称する周辺一帯が、水によって城を守ることも、水を利用して敵を攻撃するうえでも好都合な位置にあることから木場城の城跡ではないかと結論づけられています。
今では、木場城の遺構が完全に破壊されているため、過去の考証も、現在そして将来においても、推定の域を脱することはできないとされています。唯一、古文書「米沢上杉家之藩・山吉家伝記」が残されているのみとなっています。
文責:大 谷 一 男