居合史の中の田宮流に記述した通り、江戸時代の頃より「田宮平兵衛」は居合の始祖「林崎甚助」の弟子と知られており、そしてその「田宮平兵衛」は紀州藩田宮家初代・田宮対馬守長勝(常圓)の父「田宮対馬守」と同一人物であるとみなされてきました。しかし不思議なことに、紀州田宮家および同家から分岐した各地の紀州系田宮流の伝授巻には「林崎甚助」の名は現れません。例えば、紀州田宮家四代目・田宮次郎右衛門が発給した伝書「田宮流極意」には、流儀の伝系が以下のように記されています。
林明神
田宮対馬守
子 対馬守
子 掃部介
子 三之助
子 次郎右衛門
― 『南紀徳川史 第七冊』,
紀州系田宮流の伝授巻の伝系部分では多くの場合、まず最初に「林明神」が置かれます。それより田宮対馬守長勝の父「田宮対馬守」、次いで「田宮対馬守(長勝)」、「田宮掃部助(長家)」と歴代の名が記されていきます。つまり伝系上では、「林崎甚助」と紀州田宮家の田宮流との間には何の関係も見出せません※。これは何故なのでしょうか。
紀州系田宮流の伝系部分(一枚目:岡山藩伝、二枚目:淡路洲本伝、三枚目:江戸・平野匠八伝)
※例外として窪田派田宮流等、後世になり「林崎甚助」をその伝系に取り込む系統も現われています
上記の謎を解く手掛かりが、備前岡山藩伝田宮流の伝書『居合歴師傳』に残されていました。驚くべきことに、そこには伝系に記されていない初代田宮対馬守の師「林崎大和守」への言及がみられます。そして同時に、この「林崎大和守」に関するある真実が語られます。
田宮対馬守事浪人にて居られ候刻、居合数流稽古被致候。然といへとも勝負不定事を口惜おもひ、奥州林明神へ願奉り夢想に得られ候。其後門弟多く取立られ、仍て奥州林明神より夢想の居合太刀といふ。子平三郎十四歳たりしとき親対馬守へ被申候は、御流義の元祖は何人にて何と申たる人にて候哉と尋られ候へとも、幼少の義に候へは夢想の居合といひては流義大切に被致ましきとて、居合の元祖は奥州にて林崎大和守といふ人有て是に傳授致たるよし被申候。夫より一両日も過て、平三郎大和守を尋度よしにて立退れ候。対馬守驚方々尋られ候よし。平三郎は林崎大和守を尋に出奥州方々尋られ候へとも不知の間、林明神へ参詣し奉懸願林崎大和守に御引合下され候へと一七日篭られ、一七日めに林崎大和守を何とて尋るよし夢想に得らる。親対馬守居合の師林崎大和守と申人のよし傳へ申故、尋逢ひ候て居合一通尋度奉懸願之由、又夢想に中々大和守迄もなし居合の勝負傳へきよしにて、今用る一通御傳被成候と覚て夢さめぬ。難有しとて礼拝し、国へ帰り対馬守に対面し、居合の御師林崎大和守を奥州にて方々尋候へとも不知之間、林明神へ一七日籠り候様子右之段々具に語らる。対馬守悦、誠に若年なから寄持之心掛也。尤自分も林明神より夢想也、然といへとも夢想の居合と言ては、若年の其方事故流義大切に致間敷とおもひ、林崎大和守よりの傳といふ。大和守といふ人はなし。
― 浅田知信 写 『居合歴師傳』, 天明七年, 岡山県立記録資料館所蔵岡山藩士浅田家資料 ※太字強調は引用者による
『居合歴師傳』の説く所は以下のようなものです。ある時若年の田宮平三郎(後の対馬守長勝)が、父・対馬守に対し誰に居合を習ったのかと問うたところ、父は「奥州の林崎大和守」に習ったと答えます。それを聞いた平三郎は、父の師たる林崎大和守に直接居合の指導を請うべく、家出同然にして一人奥州へと旅立ちました。林崎大和守を探して奥州各地を訪ね歩いた平三郎でしたが、一向に手がかりは得られません。そこで林明神へと参詣し、林崎大和守への引き合わせを願う事としました。参詣を続ける事十七日目、夢想のうちに現れた林明神が平三郎の修行の志を聞き届け、彼に居合を伝授します。国へ帰った平三郎が事の顛末を父に話すと、父は喜び、自身の居合も林明神から夢想のうちに授かったものであること、「林崎大和守」という名は、事実を言えば平三郎が流儀を大切にしないものと思い答えたものであり、そのような人物は実在しないことを告白します。
上記における「林崎大和守」は、現在知られる「林崎甚助」に相当するものと見てよいのではないでしょうか。ここではひとまず名字のみに注目し、両者を同等と扱い林崎某としましょう。林崎某が実在しないと語るこの伝承は、岡山藩独自のものだったのでしょうか。実は、類似の伝承が淡路洲本伝の田宮流にも伝えられていました。
其子平兵衛長勝、後対馬ト称(小伝ニ対馬守ト有ルハ謄写ノ誤)箕裘之藝ヲ継テ其旨ニ達ス。一日長勝父ニ問テ曰、家君之抜刀ノ術ニ精キ、誰ヲ以テ師ト為ルヤト。重正曰、林崎重信ニ学。敢テ問、重信ハ何国ノ人ソ乎。曰、奥州ノ人也。長勝素ヨリ父之所ヲ以テ足レリト不為、頻リニ重信ニ謁シテ其ノ奥秘ヲ究ン事ヲ欲ス。是ニ於テ家族ヲ謀ルニ禽ヲ武野ニ於狩ント欲ルノ言ヲ以シ、粘竿ヲ携テ戸ヲ出、僭ニ江都ヲ発ス。于時十八歳。其ノ体象身ニ渋染布(シフカタヒラ)ヲ纏ヒ、腰ニ鍛錬刀(イヤイカタナ)ヲ挟ミ食ヲ道路ニ乞テ遂ニ于奥州ニ到リ、遍ク重信ノ居宅ヲ求レトモ敢テ知ル者無シ。人有リ之ニ答テ曰、奥州内外未タ嘗テ林崎氏有事ヲ聞カズ。独(タダ)顕然タルハ林崎大明神ノミト。長勝之ヲ聞テ感嘆シ思ヘラク、卓尓タル重信ノ技遍ク求レドモ知ル者無キハ、実ニ明神ノ化身ナラント。是自リシテ尚拳々服膺シテ切磋シ、遂ニ其精妙ヲ得タリ。
― 小川惟栄『田宮流刀術伝来』 ,宝暦四. 居合文化研究会新潟支部所蔵
両者の内容には若干の差異があり、例えば淡路洲本では「林崎大和守」ではなく「林崎重信」となっており、また田宮長勝が奥州へ向かう年齢も異なる(岡山藩伝は十四歳、淡路洲本伝は十八歳)などしていますが、話の大筋は以下のように類似しています。
若年の田宮長勝が、父へ居合の師について尋ねる。父は奥州の林崎某であると答える。
長勝は林崎某に直接師事するべく、一人奥州へ向かう
奥州を訪ね歩くが林崎某の痕跡は得られず、邂逅はかなわない
最終的に、林崎某は実在しないことが判明する(岡山藩伝では父より林崎某の非実在が説かれる。淡路洲本伝では林崎某は林明神の化身であると理解される)
流儀の伝系上では、岡山藩伝と淡路洲本伝は共に紀州田宮家二代目・田宮掃部助長家の弟子の系統です。両者の伝承の大筋に類似が認められるということは、それらの元となる伝承が田宮掃部助の時代の紀州藩田宮家にすでに存在していた可能性が考えられます。そうであるならば、紀州系田宮流の伝系に林崎某の名が含まれないことに合点が行きます。つまり、田宮家では(少なくとも田宮掃部助以降)林崎某を実在しない架空の人物であると見なしていたからなのではないでしょうか。
「林崎甚助」は江戸時代より、居合の始祖として巷間にその名が知られていました。しかしながら本稿筆者の知る限り、その実在を示す確たる証拠は現在まで見つかっていないようです。例えば林崎甚助本人が発給した伝書などは確認できていません。「林崎甚助」はもっぱら田宮平兵衛の師として、田宮の弟子筋(長野無楽斎や三輪源兵衛など)の伝承に現れる人物であり※、そのため上述した「林崎某は田宮の作為であるとする説」を否定できません。これは林崎某に言及する最も古い資料と考えられる「北条五代記」を以ても同様です(同資料における「林崎かん助」は田宮の師として言及されます。そのため田宮の弟子筋からの伝聞であることを否定できません)。
しかしまた林崎甚助が実在しないとする証明も困難です。少なくとも田宮平兵衛が、自身の師として林崎某という名を弟子に伝えたことは確かであるように思われます。林崎某が実在しないという伝承が紀州系田宮流以外に確認できない以上、非実在をそのまま真実とみなすこともできません。なんとなればこの伝承は、紀州藩田宮家が流儀における同家の権威を強めるため、創作したものである可能性も考えられるからです。
結局のところ、現時点ではその真偽は判断できそうにありません。「林崎甚助非実在説」は紀州系田宮流の一部に確認できる興味深い伝承として、真偽の判断を保留しつつここに紹介するに留めたいと思います。今後新たな資料の発見に伴って、より信憑性のある結論が導かれるかもしれません。
※林崎甚助の甥・高松勘兵衛の末流とされる武州の一宮流(一宮左太夫の一宮流とは別流派)の伝承は存在しますが、同流が歴史の表舞台へ登場するのは江戸時代の中頃であり、林崎甚助に関する伝承も奥州林明神を軸に語られる田宮系の伝承とは矛盾する内容のため、信憑性には疑問が残ります。当流儀については稿を改めて紹介したいと思います。
浅田知信写『居合歴師伝』, 岡山県立記録資料館所蔵岡山藩士浅田家資料, 天明七年.
小川惟栄『田宮流刀術伝来』 , 居合文化研究会新潟支部所蔵, 宝暦四年. 居文研新潟デジタルライブラリー
画像
『田宮流居合目録』, 居合文化研究会新潟支部所蔵, 文化十二年. 居文研新潟デジタルライブラリー
『田宮流居合目録 第二』, 居合文化研究会新潟支部所蔵, 天明七年. 居文研新潟デジタルライブラリー
『田宮流剣法規則巻 一』, 居合文化研究会新潟支部蔵, 文化二年. 居文研新潟デジタルライブラリー
近藤瓶城 編『史籍集覧』第5冊,近藤出版部,大正14, 87p. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3431172 (参照 2024-06-24), コマ345