越前福井藩士の土屋家に伝えられた多宮流は、同家の初代・土屋市兵衛吉住(良住)から続く大変歴史のある流派です。江戸時代初期の土屋家、田宮家の動向を探ると、両家の関係性が見え隠れします。
享保元年(1716)に版行されたとされる『本朝武芸小伝』の巻六には、林崎甚助、田宮平兵衛、長野無楽齋、片山伯耆守など名だたる居合の達人たちと共に「土屋市兵衛」が紹介されています。
土屋市兵衛ハ刀術ヲ好ンテ抜刀之妙ヲ得タリ。始越前ニ居シ後越後ニ移ル。中将光長卿ニ仕フ。天野一学土屋ニ従テ宗ヲ得タリ。共ニ光長卿ニ仕奉。天野之芸哿哉、神ノ如シ。
― 『本朝武藝小傳』, 享保元. ※句読点は引用者による
土屋市兵衛は刀術を好んで抜刀の妙を得、はじめ越前に居住し、後に越後に移り中将光長卿(松平光長)へ仕えたとあります。また弟子の天野一学も同じく光長卿に仕え、その居合の芸は「神ノ如シ」であったとあります。江戸時代中期の幕臣・新井白石が著した随筆『紳書(白石紳書・白石先生紳書)』には、越後高田家中の多賀半一という人物からの聞き書きとして、紀州田宮家二代目・田宮掃部助が徳川家光公へ召出され上覧演武を行ったのと同日、この天野もまた召出しを受けていた(しかし病気と偽って断った)と記されています。
越前土屋一兵衛居合の弟子は天野一学と云し。紀州の居合の達人は田宮浄圓其子掃部。此人は大猷公召て御覧有し。其時一学をも召れけるに、病ひ候とてわざとまいらざりしと也。
― 『白石先生紳書一』, 明治39. ※句読点は引用者による
弟子共々、田宮家と並ぶ抜刀の達人として名が聞こえた土屋市兵衛ですが、『本朝武芸小伝』には流儀や師に関する記述はありません。彼の居合は誰から伝えられたものだったのでしょうか。
土屋市兵衛吉住の経歴は、福井藩士の経歴を記した『諸士先祖之記』に確認できます。それによると市兵衛の父は徳川家康の長男・松平信康に仕えた井堰豊後守という人物で、父の浪人の後、一家は京都や北国近辺に留まっていたとされます。市兵衛はその後、当時美濃にあった池田輝政に召し抱えられ、池田家臣として小田原の陣などを戦います。関ヶ原の戦の後、主君・池田輝政が越前北庄(後の福井藩)へ移封となった結城(松平)秀康を見舞いに訪れますが、その際に市兵衛も供として従ったことがきっかけとなり、池田家より越前松平家へ仕官先を移すことになりました。慶長十九年、二十年の大阪の陣を秀康の長子で二代藩主の松平忠直の下で戦いますが、市兵衛のその後の動向についてはよく分かっていません。越前北庄の松平家は松平忠直が藩政を退いた後、寛永元年に弟の松平忠昌がこれを継ぎ、忠直の嫡男・光長はそれまで叔父の忠昌が治めていた越後高田藩へ移封となります。この際北庄の家臣達の大半が高田へ移ったとされていますが、前述の『本朝武芸小伝』の記述を信じるのならば、市兵衛もこの際に光長に従い、越後高田へ移ったのかもしれません。翌年の寛永二年に市兵衛の子・十郎右衛門吉保が北庄における家督を相続した記録がありますので、それに従い隠居したか、あるいは新たに高田藩士として同地へ移ったのでしょうか。なお土屋市兵衛の弟子とされる天野一学は、当時の高田藩士の記録中に知行九百石の重臣としてその名が確認できます。
土屋市兵衛が池田家に仕えていた天正末~慶長初年頃は、田宮対馬長勝※が同家へ仕えていた期間と重なっています。そのため市兵衛は遅くともその頃までには田宮家と面識を得、同家より居合を学ぶ機会を得ていたものと考えられます。
※ 池田家仕官時の記録では、田宮長勝の名乗りは「対馬守」ではなく「対馬」となっているので、ここでは田宮対馬長勝と記載しています。
越前土屋家に伝えられた居合の流名は「多宮流」とされています。なお一般に近世以前の史料には表記ゆれが頻繁に見られますので、ここでは「多宮」も「田宮」も表記は特に気にせず、同じものと考えます(例えば『徳川実紀』に記載された、田宮掃部助(平兵衛)長家による徳川家光公への上覧演武の記録では、「田宮平兵衛」ではなく「多宮平兵衛」と表記されています)。
以下にこの多宮流伝書に記された伝系を示します。これを見ると、いくつか不思議な点に気が付きます。
『多宮流居合伝書』
居合文化研究会新潟支部所蔵
林崎大和守、林崎甚助の両名が現れているのは大変に興味深いのですが、本題とは外れますので一旦脇に置きましょう。(紀州田宮流と林崎某の関係についてはこちらの記事も参照ください)
林崎より後の伝系を見ると「多宮平三郎業正」と「多宮平兵衛改成」という二人の「多宮」家の人物の名が現れていることに気が付きます。このうち「多宮平三郎業正」が土屋市兵衛吉住(良住)の師であると考えられ、「多宮流」の流名もここから取られたものと推測できます。そしてもう一人の「多宮平兵衛改成」は土屋市兵衛とその子・十郎右衛門吉保との間に置かれており、十郎右衛門吉保の師であるようにも見えます。この「多宮平三郎業正」と「多宮平兵衛改成」とは誰を指すのでしょうか。田宮家の人物と比較していくつかの組み合わせが考えられます。
① 「多宮平三郎業正」は田宮対馬長勝の父の田宮対馬守(一般に言う林崎甚助の弟子・田宮平兵衛業正(重正))であり、「多宮平兵衛改成」は田宮対馬長勝である。
② ①と同じく「多宮平三郎業正」は田宮対馬長勝の父の田宮対馬守であるが、「多宮平兵衛改成」は田宮対馬長勝の子・田宮掃部助長家(後の平兵衛)である。
③ 「多宮平三郎業正」は田宮対馬長勝であり、「多宮平兵衛改成」は田宮掃部助長家である。
「多宮平三郎」の諱「業正」を見れば、①②のようにこれを田宮対馬守(一般に言う田宮平兵衛業正(重正))だと比定するのはもっともらしく思えます。その場合、「多宮平兵衛改成」はその子・田宮対馬長勝であるか、もしくは②のようにその孫・田宮掃部助長家であるかのどちらかになりそうです。しかしそうであるならば、土屋市兵衛は一体どこで田宮長勝の父と出会ったのでしょうか。土屋家と田宮家の明確な接点が確認できるのは両家の池田家仕官時代になりますが、紀州藩田宮家の系譜によれば、その頃長勝の父はすでに死亡しています。また長勝の父が「平三郎」と名乗ったことは確認できていません。②に関しては池田家中で同輩であった長勝を飛ばして掃部助を伝系に入れるのはやや不自然にも思えます。また『諸士先祖之記』によると、土屋市兵衛吉住の子・十郎右衛門吉保の生国は越前とされており、市兵衛が池田家を去り越前に移った後に出生したものと考えられます。そうであれば十郎右衛門と田宮親子には接点がなく、②③は不自然に感じられます。
実を言えば、この疑問に対する確定的な答えは未だ得られていません。しかしながら、現在得られている資料からいくらか推測ができそうです。
多宮流伝系の疑問点を考える手がかりとなる伝承が、岡山藩田宮流の伝書『居合歴師伝』に残されていました。同資料は備前岡山藩に伝承された田宮流居合の発祥と先師の事績を記した伝書ですが、驚くべきことに、そこには田宮対馬長勝の若年時の名が「田宮平三郎」であったと記されています。つまり「多宮平三郎」は田宮対馬長勝の父ではなく、長勝本人のことである可能性があります。
『居合歴師伝』にはさらに、「多宮平兵衛」を推測する手がかりも残されています。そこには大阪の陣の終結後、池田家を退去した田宮対馬長勝・田宮掃部助長家親子の向かった先が、他でもない越前国であったと記されています。仮にこの記述を信じ田宮家が越前に一時滞在したとすると、その期間は同家が池田家を退去した後、かつ当時駿河城主であった徳川頼宣に仕官するまでの元和元年~四年頃の間に絞られます。土屋市兵衛の子・十郎右衛門吉保の出生が、父・市兵衛が越前北庄へ移動した慶長六年頃であるならば、田宮家の越前滞在期間中の十郎右衛門の年齢は十代半ばとなります。居合の修行を行う年齢としては問題なく、十郎右衛門がこの間に田宮親子に学んだとすれば、伝系中の「多宮平兵衛」が田宮掃部助を指すとしても不自然ではありません。
よってこれらを総合するならば、まず土屋市兵衛が池田家仕官時に田宮対馬長勝(当初田宮平三郎)に居合を学び、さらにその後、田宮家が池田家を辞し越前に一時滞在した折に、土屋市兵衛の子の十郎右衛門が再び田宮対馬長勝・掃部助長家親子から教授を受けた。つまり土屋家・田宮家それぞれ二代に渡って師弟関係があったことを示すために、多宮・土屋の名が交互に現れる伝系を残した。といった解釈が可能であるように思います。もっとも、これは岡山藩田宮流の伝承を元にした一仮説にすぎず、確定はできません。
多宮流伝系についてさらに想像を逞しくしすれば、土屋家・田宮家はそもそも池田家以前から知己であるという推論も可能かもしれません。というのも『諸士先祖之記』の記述では、土屋市兵衛は幼少期を京都や北国(北陸)で過ごしたとされ、さらに天明年間に編纂された福井藩の史書『越藩史略』では、市兵衛を「加賀の人」と記しています。紀州藩田宮家の系譜に記された田宮長勝の本国も同じく加賀であることから、彼らは同郷で元々面識があった可能性が考えられます。両家の池田家への仕官は先に仕官した一方がもう一方を推挙したのかもしれませんし、田宮家が池田家退去後に郷里の加賀ではなく越前に向かったのは、土屋家を頼ってのことだったかもしれません。仮に越前滞在中に土屋家に寄寓していたのであれば、土屋市兵衛の子・十郎右衛門が田宮親子に居合を習うのは甚だ容易になります。さらには古くから家ぐるみの知り合いであったとすれば、土屋市兵衛が田宮長勝の父に師事することもあり得たかもしれません。様々に想像ができてしまいますが、実際はどうであったのでしょうか。多宮流の歴史を明らかにするには、さらなる資料の発見が待たれます。
土屋十郎右衛門吉保の多宮流居合は、さらに十郎右衛門の嫡子・市兵衛吉持へと伝えられます。『諸士先祖之記』には、市兵衛吉持は若年にして病身となったために父の家督を継ぐことができなかったと記されていますが、居合については幾人かの弟子を育てていたようです。その中の一人に、福井藩の支藩である越前松岡藩士の河合六郎重寛がいました。河合は居合の巧者として知られ、同藩の指南役を任されますが、この指南は一代限りであったとされています。河合の居合は小川金左衛門嶢智という人物を経て、加賀藩士・深見兵庫の家士であった井口如毛當敦へと伝わります。
越前より加賀へ伝播した多宮流居合は、井口如毛より加賀藩士・篠原権五郎尚賢へと伝えられます。井口より流儀の一巻を全て譲り受けた篠原の元には、井口の旧門人達や新たに居合の指導を望む者たちが集い、自然と領内の師弟達に指南を行うようになったとされます。その後、篠原は藩より越中新川群の奉行役に任じられ、指南の継続が困難となったため、弟子の生沼與三兵衛曹照へとその跡を譲りました。寛政四年に藩校(武学校)経武館が設立されると、居合の科目として藩内の諸流派(山岸流、浅賀流、民弥流、相心流)と共に多宮流も採用され、生沼家が指南役となり加賀藩の子弟へ教授されました。
土屋家三代目の土屋市兵衛吉持以降、多宮流は福井藩に残らなかったのでしょうか。土屋家はその後も福井藩士として存続しましたが、居合の伝承が続けられたかは今のところ分かっていません。福井藩では宝永元年(1704年)より、紀州浪人・田宮岡之丞に師事した鰐淵家が代々居合剣術の指南役を務めたため、その後は鰐淵家の紀州田宮流が主流となったと考えられます。
冒頭に紹介した、土屋市兵衛の弟子でその居合の技は神の如しと言われた天野一学ですが、彼の仕えた越後高田藩はその後いわゆる「越後騒動」により改易となってしまいます。天野を含む旧藩士たちは離散し、今となっては本人やその子孫の行方を知ることは難しいと言わざるをえません。しかし彼の伝えた武芸の痕跡が、現在の新潟県妙高市にある関山神社の伝統行事「火祭り」で奉納される棒術演舞に残されていました。
新潟県頚城郡妙高村関山神社・七月十七・十八日の大祭・火祭りに山伏の戦闘用具・太刀・長刀・棒・の三種類の使い方が形として残り、今でも奉納され俗に権現流棒遣いと云う。権現流は天野一学(加賀藩士)から相伝されたと同棒遣いの目録絵図巻に書いてあり (中略) 絵目録の奥書きに曰
師道ハ
越後中将様御内
天野一学殿
段々相渡り申候 此之儀志
摩利四天王ヨリ相伝ニ右御座候
桶海邑 徳右衛門
花押
同 伴右衛門
(後略)
― 『加賀武術の遺蹤』, 1992.
伝承には加賀藩士とあるようですが、「越後中将様御内」とありますので越後中将・松平光長家臣の天野一学で間違いなさそうです。加賀藩士とされた理由は分かりませんが、あるいは天野も土屋や田宮と同じように加賀出身であったのかもしれませんね。「火祭り」に残るものは残念ながら土屋市兵衛伝の多宮流居合ではなく、またこの伝承にどの程度の信憑性があるか(各地の棒踊りでは由来を有名な武芸者に仮託する例も見られますので)分かりませんが、もしこの伝承が正しく、達人・天野一学の痕跡が今も残るとすれば、非常に感慨深いものがあります。
日夏繁高『本朝武藝小傳』,享保元(1716), 国文学研究資料館所蔵. 国書データベース https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200005446/, コマ140
『白石先生紳書一』(『新井白石全集』第五巻収録),国書刊行会,明治39. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/990985 (参照 2025-09-05), コマ320
『諸士先祖之記(諸士先祖之記録 二)』,松平文庫(福井県文書館蔵保管), https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/archive/da/detail?data_id=011-1033092-1-p9, コマ9
内藤耻叟 校訂標記『徳川実紀』巻181−186,徳川実紀出版事務所,明29-32,p23. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/773005 (参照 2025-09-05), コマ13
浅田知信写『居合歴師伝』, 天明7, 岡山県立記録資料館浅田家資料蔵,
示野喜三郎 編『加賀武術の遺蹤』,金沢工業大学古武道部,1992.9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/13134622 (参照 2025-09-05), コマ89
画像
日夏繁高『本朝武藝小傳』,享保元(1716), 国文学研究資料館所蔵. 国書データベース https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200005446/, コマ140
『多宮流居合伝書』, 居合文化研究会所蔵, 寛政七. 居文研新潟デジタルライブラリー
『福井市史』資料編 4 (近世 2 藩と藩政 上),福井市,1988.3, 470p. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9540599 (参照 2025-09-05), コマ260
井上翼章 (旧姓: 梯) 編 ほか『越藩史略』巻之4−8,中村興文堂,明34.4-9, 143p, 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/764535 (参照 2025-09-05), コマ8
福井県立図書館, 郷土誌懇談会 共編『福井県郷土叢書』第3集,福井県立図書館,1956. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3007384 (参照 2025-09-05), コマ299
文部省[総務局 編]『日本教育史資料』六,富山房,明治37. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1755396 (参照 2025-09-05), 142コマ, コマ194