紀州藩伝田宮流

 紀州藩には元和五年(1619)、紀州徳川家初代徳川頼宜公の入部と共に、頼宜公の家臣であった田宮対馬守長勝、掃部助長家親子によって田宮流居合がもたらされました。田宮対馬守長勝の父であり、居合の師でもあった同名の「田宮対馬守」は、林崎甚助の弟子「田宮平兵衛」と同一人物であるとされています。藩政期を通じて、田宮流は紀州藩における剣術の主流の一つに数えられ、各時代の師範により伝承がなされました。

伝系

田宮対馬守

└ 田宮対馬守(常圓)長勝

 └ 田宮掃部助(平兵衛)長家

  └ 田宮三之助朝成

   ├  田宮次郎右衛門成道

   | 田宮千左衛門侶久

   | | ├ 田宮大蔵隆久

   | | | ├ 田宮千左衛門株久 (※1)

   | | | ├ 田宮与三郎

   | | | ├ 田宮大蔵成常 (※2)

   | | | |└ 田宮熊五郎倶流 (※3)

   | | | | └ 田宮倶義か?

   | | | |

   | | | └ 西尾新左衛門報卓

   | | |   遠藤勝助

   | | | 

   | | └ 阿曽沼庄左衛門忠儀

   | | 

   | ├ 津田善右衛門常重

   | ├ 関権平盛章

   | └ 岡本半蔵

   |

   └ 田宮平右衛門知定



※1 田宮千左衛門株久は千左衛門侶久の弟子だが、大蔵隆久の養子となる

※2 田宮大蔵(本橋文三郎)の実名(諱)は不明とされるが、享和元年提出の家譜には成常とあるためここでは成常とする

※3 田宮熊五郎倶流は田宮大蔵成常の名跡を継いだが、師系は不明。

指南家の変遷

 紀州藩における田宮流は、その初期において田宮対馬守(常円)長勝の直系の子孫が門弟への教授を行いました。本家(田宮常円家)による継承が不能となって以降は、本家より流儀と名字を引き継いだ弟子による、新たな「田宮家」が指南役を務めることとなります。その後も様々な経緯を経て、道統は少なくとも明治維新まで存続しました。

田宮常円親子と居合

 田宮対馬守長勝は元和初年頃長男掃部助と次男斎を伴いそれまで長く仕えた池田家を立ち退き、新たに当時駿府城主であった徳川頼宜に仕官します。田宮家家譜によれば、その際主君・頼宜より安藤帯刀、水野出雲守の両家老を通じて「倅共末々に至る迄如在成間敷(息子共々、末永く手抜かりの無いように勤めよ)」と激励を賜り、さらに元和五年の紀州入国以降は「向後譜代同前(以降は譜代の家臣達と同様の扱いとする)」との御意も蒙ったとあり、駿府時代からの仕官でありながらも、それ以前の家臣同前の扱いを受けたようです。そして紀州徳川家家臣としての評価の傍らで、彼「居合」の習得者であることも家中ではよく知られていたようです。『南紀徳川史 第一冊』には以下のようなエピソードが収録されています。


或時不時御座敷廻りへ御出懸り候處、大小姓、御供番交々御対面所にてとち狂い居る其處へ御出懸り被遊、やれ夫と皆々うろたへ散々に逃るとて、大小姓田宮掃部御帳台の中へ隠れしを御のぞき被成ける故、馳出失たり。跡に残りたる壱人に今のは誰ぞと御尋被遊、取込て其名口に出ずして、坊主が倅に御座候と申上、おかしく思召、坊主とはと御尋也。弥あぐみて是にて候と居合をぬく間似をする。御笑ひ被成被為入し也。 


― 南紀徳川史刊行会 編『南紀徳川史 第一冊』, 昭和5 ※句読点、青字強調は引用者による


 ある時、大小姓や御供番といった役の者たちが御対面所(来客用の座敷)で騒いでいたところに、ひょっこり藩主の頼宜公が現われます。急な藩主の登場に、その場にいた面々は驚き慌てて逃げ去り、大小姓であった田宮掃部もとっさに帳台の中に隠れますが、それを見ていた頼宜が帳台を覗くとそこから馳せ出て逃げ去りましたそばに残った一人に「今のは誰だ?」と聞くと、聞かれた者はとっさに名が出ず「坊主の倅でございます」と答えます。おかしく思った頼宜が「坊主とは?」と聞くと、「これでございます」と居合を抜く真似をしました。それで正体に感づいた頼宜は大笑い。といったところでしょうか。このエピソードがいつ頃のものかは分かりませんが、おそらく紀州へ入部して間もない寛永初年頃の話ではないかと思われます。田宮対馬守長勝は池田家を立ち退いた後に剃髪し、名を「常円」と改めたとされていますので、掃部助を指して「坊主の倅」と言ったのはそのためでしょうそして居合の真似がすぐに本人を連想させるほど、田宮常円の武芸は紀州家中に周知であったということではないかと思います。

田宮常円家による居合指南 

 紀州家中において、いつ頃から田宮流指南が開始されたかは定かではありません。田宮対馬守(常円)・掃部助親子は池田家仕官時代にはすでに居合の指南を行っていたようですので※、当初より希望する者に教授を行っていたのでしょう。紀州入り以降は田宮掃部助が主に教授を担ったと考えられ、彼の弟子に田宮与左衛門、渡辺三右衛門、岡野右太夫といった人物達が確認できます。掃部助は後に名を「平兵衛」と改めます。

 慶安四年、この頃病気がちとなっていた幕府三代将軍徳川家光公は、全国から武芸者を呼び寄せその技を観覧することを病床の慰みとしていました。田宮掃部助(平兵衛)もまた、同じ紀州藩士で柳生流の達人として知られる木村助九郎と共に召され、居合を上覧する栄誉に浴します


同じ六日には紀藩の剣士木村助九郎居合抜多宮平兵衛を御座所にめして御覧じ、両人に時服銀かづけらる


 ― 内藤耻叟 校訂標記『徳川実紀 巻181−186』, 明29-32


 岡山藩伝田宮流の伝書『居合歴師伝』によれば、この際まず木村助九郎を打太刀として田宮流の表五本が演ぜられ、次いで御望みにより右身を、さらにその場に同席していた柳生飛騨守、牧野佐渡守、久世大和守らを打太刀に詰合の二方詰、三方詰、四方詰が演ぜられたとされています。この上覧紀州家中のみならず、全国的にも田宮流のを高める一因となったかもしれません。これより半世紀程後に出版される『本朝武芸小伝』には、田宮平兵衛はこの上覧によって「其名を日域に顕す」と記述されています。

 田宮平兵衛長家は、家光公への居合上覧から二十五年後の延宝三年に没します。彼には長男の三之助朝成と、次男の平四郎(のち儀右衛門)知則の二男と二女がありました。跡を継いだ長男三之助も、父平兵衛長家に劣らず居合の名手として名が知られたようです。元禄年間に廻国行脚の途上で紀州藩田宮家を訪れた津軽藩の林崎新夢想流伝承者・浅利伊兵衛均禄は「国々所々にて、居合の上手これあるやと穿鑿つかまつり候えども、三之助ほど名高き名人参らず候」と書き残しています。三之助の弟子には岡野右太夫や、後に江戸に田宮流を伝えることになる斎木三右衛門、家中では丹羽久左衛門、山井惣兵衛といった人物がいました。なお平兵衛次男の儀右衛門も居合の腕は確かであったようです。三之助、儀右衛門兄弟の従兄弟と伝えられる田宮与左衛門の系統の伝承には、三之助よりむしろ儀右衛門の事績が多く語られています。田宮家の男子は皆居合を習う決まりであったのかもしれません

※池田家時代の弟子に備前岡山藩士・垣見半左衛門が確認できます

田宮三之助の不始末

 田宮三之助は寛文八年に父平兵衛の隠居に伴って家督を相続し、紀州藩田宮家の三代目となります。この際、祖父・常円長勝以来田宮家に与えられていた知行八百石のうち、二百石は平兵衛の隠居料となり、残りの六百石が三之助への知行としてあてがわれました。田宮家家譜によれば、三之助はそれから十四年後の天和二年に「久々病気にて引込罷在、其上思召に不叶儀之有付」、つまり病で長く出仕が滞ったのに加え、上の意向に沿わない事があったという理由で、知行六百石を召し上げられ、三十人扶持へと俸禄を落とされてしまいます。こちらのサイトを参考に、ざっくり一石≒一俵、一人扶持≒五俵と計算してみると、年収だけでも約1/4になってしまったことになります。また知行取りから扶持米取りとなったのですから、家格の面でも大きく下げられたということでしょう。「思召に不叶儀」と記述されている点に、だけではない何か並々ならぬ事情があったように想像されます。家譜には続いて「御暇可被下候得共品も有之候付外へは不被遣候」とあり、本来はお暇(罷免)となるべき所、事情もあるので藩内に留まらせるという処置であったことが分かります。真実のほどは分かりませんが、病云々というのも、あくまで上記処置の口実の一つであったのかもしれません。

 なお、田宮三之助に対する処置とは対照的に、三之助の弟である儀右衛門は万治三年の初出仕より出世を重ね、上記の天和二年の時点で知行三百石、最終的には五百石の奉行役となります。子がなかったため三之助の次男・平十郎を養子にして跡を継がせており、この家系は明治維新まで存続します。

田宮次郎右衛門の奮闘と決断

 田宮三之助には七男四女がありました。長男三平(のち次郎右衛門)成道は、父の知行召し上げから三年後の貞享二年に藩に召し出されます。召出しの理由は「家業宜仕候付」とありますので、家業である田宮流の稽古に励むことを藩より期待されていたのでしょう。貞享五年には加増して都合六十石に、元禄二年には弟子取立を命ぜられ、翌三年には藩より稽古場を拝領します。そして四年後の元禄七年二月、家業への出精が認められ、加増して知行三百石を与えられることとなり、父の失った六百石のうち半分の俸禄を回復することができました。なお同年同月、三之助は剃髪して黒田村(田宮家知行地か)に居住したとありますので、名目はどうあれ、実質的には三之助の隠居と次郎右衛門による家督相続であったと考えられます。田宮次郎右衛門はその後も精力的に田宮流の指導を行い、後述する中村是右衛門をはじめとして津田善右衛門、関権平、岡本半蔵など多くの弟子を育てました。また次郎右衛門の弟で、三之助の三男の平三郎(のち富右衛門、平右衛門)も彼を補佐したようです。平右衛門次郎右衛門より「田宮流極意四巻」を授かっており、次郎右衛門が役目で江戸へ出向した折には、彼が紀州の弟子の指南を任されていたようです

 田宮次郎右衛門成道の子は長男の源右衛門(のち郷右衛門、伝市)常英のみでした。不運なことに、伝市は持病のために田宮流の継承が叶わなかったようです。南紀徳川史の「文武学制」には、紀州藩の武術師範家の継承に関する以下の一文があります。


師範家の子孫任に勝ゆれば代々家業を許さる。若し未熟或は支障乃至家断絶之時は、門人中流儀皆伝之者へ相続を命ぜらる


  ― 南紀徳川史刊行会 編『南紀徳川史 第十七冊』, 昭和8


 長男伝市の持病により、次郎右衛門は流儀を自身の子ではなく、門人に相続させるという決断をします。伝市は持病があるとはいえ、跡目相続以前から小姓、大小姓として藩に出仕していますので、通常の勤めを行うことはできたようです。しかし剣術指南という役をこなすのは難しいという判断だったのでしょうか。

 享保七年、この頃次郎右衛門は六十歳前後であったと推測されますが、自身の弟子の中から、中村是右衛門と津田善右衛門の二名に流儀を相続させる意思を藩に願い出ます。これを受けて二名は稽古場肝煎(師家の助手)を命ぜられ、以来、正式に流儀を継承する享保十九年までの十二年にわたり、次郎右衛門の傍で指導を助けました。

田宮常円家の断絶

 田宮次郎右衛門成道は二人の高弟へ流儀を継承した同年、享保十九年に没します。次郎右衛門の跡目を相続し、田宮流指南の役を離れた田宮本家の五代目となった田宮伝市常英でしたが、持病の為か、その二年後の享保二十一年に病死してしまいます。田宮本家(常家)の断絶を免れるため、伝市の従弟にあたる村田吉六(三之助五男の村田苔縄の三男)が伝市の養子扱いで田宮家の名跡を相続します。吉六は田宮次郎右衛門常宜と名乗り田宮本家の六代目となりますが、田宮家は代々の家業のためか、はたまた上述の田宮三之助に対する処分が尾を引いていたのか、家を維持する資金繰りに随分と難渋していたようです。それが理由かは定かではありませんが、伝市の病没から十四年後の寛延三年、次郎右衛門常宜は紀州藩を出奔し、これによって田宮本家は断絶となりました。

 なお、初代田宮常円の子孫には他に前述の田宮儀右衛門の家筋、田宮平右衛門の家筋があり、共に明治維新まで存続します。

田宮千左衛門家への継承

 紀州藩士中村伊左衛門久忠の三男・是右衛門は、田宮次郎右衛門成道の下で剣術に出精し、享保三年に稽古料※を拝領します。同七年には田宮流稽古場を相続し、同十二年に切米十二石三人扶持を与えられ新たに藩に召出されました。それから七年後の享保十九年、晴れて次郎右衛門より流儀を継承した是右衛門は、師の願い出により名字を田宮に改めます。後に名も千左衛門と改め、田宮千左衛門侶久と名乗りました。ここに田宮本家(常円家)に代わって、田宮流指南を家芸とする「田宮家」が新たに生まれたことになります。よく誤解されていますが、千左衛門は田宮本家の養子となったのではありません。両家は名字が同じ別の家筋であり、家譜も別です。

 田宮千左衛門の弟子には、後に田宮流の継承上、重要な役割を果たすことになる阿曽沼庄左衛門がいました。また宝暦元年には、伊予宇和島藩の居合指南役であった杉山覚右衛門が、千左衛門の元に修行に訪れます。先代の次郎右衛門の頃にも尾張藩士・豊嶋久太夫が修行に訪れていますが、このように他国の居合修行者が田宮家に学ぶことがあったようです。千左衛門は明和九年に没するまで、四十年近くの長きにわたり指南役の勤めを果たします。 

 千左衛門には三人の男子がありましたが、嫡男の大蔵隆久が田宮家の跡目と指南役を引き継ぎます。安永四年には八代藩主徳川重倫公の隠居に伴って、伊予西条藩主であった松平頼淳公(徳川治貞)が新たに紀州藩九代目の藩主となりますが、この徳川治貞公は専ら田宮流を重用したことが記録に残っており、天明二年には自らの稽古御用掛として大蔵を江戸へ呼び寄せています。

※ 藩士の男子の内、剣術などの技芸優秀の者に与えられる年金

千左衛門家の後継問題

 指南役として二代に渡り順調にその役目を果たしていた田宮千左衛門家でしたが、大蔵隆久の晩年、またも後継問題が発生します。もともと大蔵は自身が指南役を引き継いで間もない安永三年に、先代千左衛門の弟子であった宮峅熊之助を養子としています。養子となった熊之助は先代の名を継ぎ、千左衛門株久と名乗りました。千左衛門の存在に遠慮してか、大蔵は妻を持たず実子ありませんでした。

 千左衛門株久は稽古に出精し、安永六年に稽古料を拝領、その十四年後の寛政三年には扶持米の支給を受けます。十分な修行を積み、流儀の継承も目前と見られていたであろう千左衛門株久ですが、同年十月、不運なことに彼を病魔が襲い、養父大蔵に先立ち病死してしまいます。

 千左衛門には専次郎という子がいましたが未だ幼く、家芸を継承することはできませんでした。大蔵は翌年の寛政四年、自身の実甥である東与三郎を新たに養子とします。しかし不運続きにも、間もなくこの与三郎も病魔に襲われ、命は長らえたようですが、家芸の相伝は不可能になってしまいます。

田宮大蔵成常の追放と千左衛門家の断絶

 ここにおいて、田宮千左衛門家は相次いで後継を失う事態となってしまいました。時に田宮大蔵隆久は七十六歳(資料によっては七十一歳)。すでに老年となった彼の三人目の養子となったのが本橋文三郎。後の田宮大蔵成常※です。

 寛政六年、大蔵隆久は紀州藩士本橋源太郎の弟・文三郎を養子とします。三度目の正直というべきか、養子となった文三郎は、二年後の寛政八年には稽古料を拝領。寛政十一年には養父大蔵隆久の願い出もあり、藩より弟子指南を仰せ付けられます。その翌年の寛政十二年に大蔵隆久は病没し、田宮千左衛門家の跡目は文三郎へ相続されました。その後、文三郎は名乗りをたびたび変えていたようです。平兵衛や内膳、そして養父と同じ大蔵へと名乗りを変えたことが記録されています。

 やや駆け込み的ではあったものの、流儀は無事、千左衛門家三代目となった田宮文三郎=田宮大蔵成常に継承されたかに見えました。しかしその数年後、指南役を務める彼の力量に疑問が持たれはじめます。文化元年、藩より大蔵成常へ以下が申し付けられました。


 大蔵は先代の大蔵が老年となった後の養子であるので、流儀に関して行き届かない点があるようである。ついては阿曽沼庄左衛門(先々代の高弟)および西尾新左衛門(先代の高弟)の両名は、田宮流稽古場に出場して大蔵およびその弟子へ遠慮なく意見すること。また大蔵は流儀が上達するよう両名とよく申し合わせ、精を出して弟子取立に励むこと。


―『系譜 田宮熊五郎』(『紀州家中系譜並に親類書書上げ』, 和歌山県立文書館蔵)より引用者による要約


 上記は事実上、指南役としての不合格通知であるように思われます。流儀を継承した大蔵成常にとって、先々代よりの高弟とはいえ、流儀に関して他者の指図を受けよという命令は、心情的には厳しいものがあったでしょう。ただ別の視点から見れば、藩が彼の力量に疑問を抱きながらも、改善する猶予を与えたと見ることもできるかもしれません。

 大蔵成常は残念ながらその後も周囲に認められる力量を得ることはなかったようです。二年後の文化三年、家業不得手の上に心掛けもよろしくないと判断され、ついに指南役を解かれることとなります。この時点では藩士としての身分(独礼小普請末席)は残されましたが、不本意な処置に自暴自棄になってしまったのか、翌文化四年には彼の「不埒なる所」が藩の知るところとなり、役目を解かれた上、城下十里内からの追放という厳しい処分を申し渡されます。ここに至って、三代に渡って続いた田宮千左衛門家は断絶となりました。

※ 文三郎の実名(諱)は後の家譜では不明とされていますが、享和元年に自身が提出した家譜には成常とありますので、ここでは成常とします。

高弟達による指南

 文化四年の田宮大蔵成常追放により、田宮千左衛門家は断絶となってしまいましたが、先に名を挙げた阿曽沼庄左衛門と西尾新左衛門の両名、とりわけ阿曽沼庄左衛門が大蔵の元弟子達の取立を命ぜられたようです。

 阿曽沼庄左衛門忠儀は初代の田宮千左衛門侶久の高弟で、天明五年には当時の中将様(後の十代藩主・徳川治宝公)の稽古御用を任せられています。その後病気のため、家督を惣領万十郎へ渡して隠居しますが、前述した田宮大蔵稽古場の監督を命ぜられた頃には病は軽快していたようで、稽古の面倒を見ることができたようです。隠居後は遊快と名乗りましたが、その稽古ぶりが激しかったためでしょうか、「鬼遊快」と呼ばれたとか。

 もう一人の西尾新左衛門報卓は大蔵成常の追放の前年、文化三年に江戸詰を命じられ、江戸において田宮流剣術肝煎を命ぜられます。翌年には弟子取立のために御番免除となり、江戸において本格的に指導を始めたことになります。西尾の弟子には江戸時代後期における著名な儒者で、田宮流の名人と言われた遠藤勝助がいます。遠藤が記すところによれば、西尾には元々大蔵隆久の養子となる約束があったほどで、師からの取立も格別であったといいます。おそらくこれは大蔵隆久が一人目の養子を取る、安永初年頃の話であろうと思われます。そのころ西尾は十七歳前後ですが、どのような理由か、結局は前述のように宮峅熊之助が田宮家養子となります。歴史にifはありませんが、この時西尾が養子となっていれば、田宮千左衛門家の断絶はなかったかもしれません。

 こうして和歌山においては阿曽沼が、江戸においては西尾が田宮流の指南を引き継ぎました。彼ら二人の外にも、この流儀の危機に指導や補佐にあたった人物がおそらくいたでしょう。指南家断絶という危機においても、同家の高弟達によって紀州藩の田宮流の伝承は継続されたことになります。阿曽沼は文化十三年に七十歳で没するまで、西尾は残念ながら江戸詰となった数年後の文化八年に五十五歳で没してしまいますが、それまで指導を続けたとみられます。

田宮千左衛門家の復興

 江戸時代には将軍や諸大名の慶事・法事等に際して、恩赦が行われることがありました。一例として、田宮次郎右衛門の弟子であった紀州藩士・岡本半蔵が明和二年に乱心の上自殺した際、その家筋は家禄を大きく減らされますが、明和七年の初代藩主・徳川頼宜公の百回忌に際して、恩赦によりその待遇を戻されています。

 田宮大蔵成常の追放から七年後の文化十一年は、徳川幕府初代将軍徳川家康公の二百回忌の前年にあたりました。翌年に控えた大々的な年忌に際し、断絶した田宮千左衛門家の復興が行われます。同家の名跡を相続するのにふさわしい者として選ばれたのが、この時十六歳であった松尾熊五郎でした。

 松尾家は海士郡小勢田村の根来者松尾岩本坊を祖先とする家です。代々の紀州藩士ではなく、熊五郎の父である柳左衛門親廣の頃より藩に仕えますが、柳左衛門は江戸会所下役人から徐々に進んで後に御広敷番、独礼の格式も与えられていますので、働きぶりが優秀だったのでしょう。同家の来歴を見ても、特に田宮常円家、田宮千左衛門家との関りは見られません。おそらく熊五郎が純粋に田宮流の技術に達者であったことと、年若いことで将来性を見込まれ選ばれたものと推測します。

 父は江戸の紀州藩邸勤めであったと考えられますが、熊五郎が幼少時を父とともに江戸で過ごし田宮流を学んだのであれば、最初の手解きは西尾新左衛門に受けたかもしれません。熊五郎十三歳の時に西尾が病没しますので、その後は遠藤勝助など江戸の高弟達に学んだものでしょうか。あるいは父と離れ和歌山で育ったのであれば、阿曽沼遊快の弟子であったかもしれません。田宮の名跡相続時には阿曽沼は存命ですので、もしそうであれば師のお墨付きの下での相続であったかもしれません。

 田宮家の名跡相続後は田宮熊五郎倶流と名乗り、和歌山で田宮流指南役を務めることになります。もっとも十六歳では指南役としては早すぎるように思いますので、実際に指南役となったのは名跡相続のしばらく後かもしれません。おそらく数年間は師や他の高弟達の後見があったのではないでしょうか。

 『南紀徳川史 第十七冊』には、彼が安政六年に江戸詰の藩士妹尾宇太平へ発給したと見られる居合目録が収録されています。奥書には馬場一良という人物の署名がありますが、これは当時江戸田宮流稽古場頭取であった馬場貞四郎と思われます。紀州藩では江戸に指南役を置いても、師家は和歌山に限られていたようですので、当時の田宮流の責任者はあくまで熊五郎であったことが分かります。

 田宮熊五郎は文久元年の紀州藩の分限帳『文久元年紀士鑑』にも、剣術指南として名が記載されています。二年後の文久三年に熊五郎の惣領である熊蔵が藩に提出した親類書には当時すでに病死したことが書かれていますので、文久初年頃に六十歳前後で没したと考えてよさそうです。田宮の名跡相続から四十年前後を指南役として勤めたことになります。

維新後の紀州藩田宮流

 田宮熊五郎倶流の跡目は嫡男の熊蔵が相続し、復興した田宮千左衛門家は彼の代で明治維新を迎えたと見られます。紀州藩士川合鼎の娘・川合小梅が、幕末から明治にかけて記した日記『小梅日記』には、慶応三年の記述の一部に田宮熊五郎の名が見えます。おそらく熊蔵は、跡目相続後に父と同じ熊五郎へと名を改めたのでしょう。

 『慶應義塾百年史』には明治初年頃、慶應義塾の学生有志が集まり、旧紀州藩士の田宮某を招いて剣道を学んだという記述があります。また慶應義塾の卒業生(明治十七年本科卒業)で、福沢諭吉の義理の甥であった錦絵師の今泉一瓢は著書『一瓢雑話』において、かつて「田宮師」より田宮流を習ったと記しています。


私が曾て田宮流の居合を習った折に、田宮師から授かつた口傳にも、刀を抜く前に先づ右の手の拇指の腹で、臍の下を一度押せ。それから刀の柄に手を掛けろ。さうすれば必ず誤なく刀がぬけるといふので


  ― 今泉秀太郎 述『一瓢雑話』, 明34


 明治十六年には文部省が剣柔術の教育上の適否に関する調査を行っていますが、そこに招かれた剣術家の一人に田宮流居合の「田宮倶義」の名が見られます。おそらくこの人物が上述の「田宮師」でしょう。田宮熊五郎(熊蔵)は明治以降、田宮倶義と名乗ったのかも知れません

『官報 1883年12月24日』

 また『明治の和歌山藩士族』には、明治三十五年の南龍神社春祭奉納演武の出場者が記録されています。各流派より総勢百六十八名が演武者として出場していますが、田宮流は以下の六名が名を連ねています。


田宮流  落合八十助、馬場高英、武津真彦、河西喜代楠、畑上成太郎、吉田正頼


― 松田茂樹 編『明治の和歌山藩士族』,1972


 そのほか、医学博士かつ文筆家であった石橋無事の著書『石橋小助と紀州藩』には、旧紀州藩士で田宮流の使い手であった著者の祖父・石橋小助について記されています者の幼少時に祖父からつけられた稽古の様子など、当時の田宮流の実態を伝える貴重な資料です。

 幕末の江戸田宮流稽古場頭取であった馬場貞四郎も馬場逸斎と名乗り明治時代を生きています。彼の弟子の妹尾宇太平や、和歌山で田宮流肝煎を務めていた林喜左衛門なども明治期には存命であったでしょう。また西南戦争にも参加した陸軍武官で、後に大日本武徳会和歌山支部武術監督も務める功力栄植少佐も、田宮熊五郎倶流に田宮流を学んだ人物です。

 以上のようにして、紀州徳川家の成立当初から明治に至るまで、田宮流居合は紆余曲折を経ながらも紀州和歌山藩において伝承されました。その後は他の多くの武術流派が辿ったのと同じ様に、時代の流れと共に衰退し、現代まで命脈を保つことができなかったように思われます。日本の武道史、居合史を考える上で特に重要な流儀である紀州藩田宮流ですが、現代では同流の実態を知る事は難しくなっています。連綿と続いたその歴史を思うと、非常に残念でなりません。

出典

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参考文献