「落(と)し差し」とは、刀を水平寄りではなく、垂直寄りに縦に下がるように腰に差す差し方をいいます。
おとし-ざし 落差(名)
刀を横たへず、たてに下がるやうにさすこと。賎苧環「腰の物は落しざしにさし、懐手にして駒下駄はきて」持統天皇歌軍法五「既に日影も山の端に、おとし指の大小、浪人めきたるおのこ」
― 上田万年, 松井簡治 共著『大日本国語辞典 卷一 修訂』, 昭和15
紅翠齋北尾子 畫 『四時交加 2巻』より、刀を垂直寄りに差す武士(左)と水平寄りに差す武士(右)
上記『大日本国語辞典』の記述中にも大小の落し指しをした人物を「浪人めきたる」とする引用がみられますが、この落し差しは一般にあまり行儀のよくない刀の差し方と見られていたようです。しかし紀州藩の田宮流では、この落し差しを好んだという言説がいくつかの資料中に確認できます。
紀州田宮家四代目の田宮次郎右衛門の高弟・津田善右衛門常重の弟で、紀州藩八代藩主・徳川重倫公若年時の居合稽古方も務めた津田善次郎忠易は、刀を落し差しにすることを好みました。
乞言私記に曰く、津田善次郎居合に名あり。居合の節、刀を二ツに折る様にみへたりと云。同人常に刀を落差にす。麻上下の時も同様なり。或人恰好あしくと云。善次曰く武備のよきが恰好よき也と答ふ。
― 南紀徳川史刊行会 編『南紀徳川史 第七冊』, 昭和7 ※句読点、太字、濁点表記は引用者による
津田は麻上下(出仕時の礼装)を着る場合であっても落し差しにこだわり、周りの人が恰好が悪い、みっともないと苦言を呈しても、「武備がよいのが格好いいというものだ」と聞かなかったということです。
また紀州藩第九代藩主・徳川治貞公の代には専ら田宮流が重用され、御供の者に対して皆落し指しにするよう命じたとあります。
香厳院様御代、田宮流専ら御用ひにて、御供も皆落し指に可致と仰出さる。竹森傳次右衛門戸田流剣術師範家なれば、其節申出するは、私儀は落し差しは不得手にて御座候間、御免可被下候と辞退す。
― 南紀徳川史刊行会 編『南紀徳川史 第二冊』, 昭和5 ※句読点、太字、濁点表記は引用者による
上記2つの引用は江戸時代中期、宝暦~天明年間(1751~1789)ごろの話と考えられますが、幕末に至ってもこの落し指し指向は変わらなかったようです。昭和期に医学博士かつ文筆家として活躍した石橋無事の著書『石橋小助と紀州藩』には、旧紀州藩士で田宮流剣士であった著者の祖父・石橋小助が、旧藩時代に刀を落し差しにしていたことが記されています。
小助は、その青春時代には、紀州田宮流独特の落とし差しに大小を腰にたばさんで、羽織、袴姿で、あるいは継上下で和歌山の町を活歩していたし (中略) 昔は武士の服装を見れば、その人はどこの藩の人であるか、わかったものである。また刀のさしかたなどで、何の流派であるかもわかった。紀州藩でも一刀流は刀を貫木差(かんぬきさし)にしていて、無反(むそり)の刀であり、柄は白茶で俗に紀州茶といわれていた色であった。小助の紀州田宮流は刀を落とし差しにしていた。
― 石橋無事 著『石橋小助と紀州藩』,1967
紀州藩では一刀流は無反りの刀を貫木差(かんぬきさし:刀を横に水平寄りに差すこと)にし、田宮流は落し指しにしており見分けがついたというのはとても興味深いですね。
紀州藩田宮流でなぜこのように落し指しが好まれていたのか、現在となっては確かなことは分かりませんが、上述したように津田善次郎は落し指しについて「武備がよい」と評しており、田宮流におけるなにかしらの技術的な観点から、貫木差などより有利であると考えられていたのかもしれません。
上田万年, 松井簡治 共著『大日本国語辞典』卷一,富山房,昭和15, 572p. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1870620 (参照 2024-08-26), コマ304
紅翠齋北尾子 畫 ほか『四時交加 2巻』,鶴屋喜右衛門,寛政10 [1798]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2534277 (参照 2024-08-26) , コマ25
南紀徳川史刊行会 編『南紀徳川史』第7冊,南紀徳川史刊行会,昭和7, 22-23p. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1225352 (参照 2024-08-26), コマ33
南紀徳川史刊行会 編『南紀徳川史』第2冊,南紀徳川史刊行会,昭和5, 279p. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1225285 (参照 2024-08-26), コマ166
石橋無事 著『石橋小助と紀州藩』,三洋社 (印刷者),1967, 137p. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2973868 (参照 2024-08-26), コマ74