岡山藩には、万治元年(1658)に田宮三之助朝成より岡野右太夫へ発給された目録の写しが残されていました。写本ではありますが、これは今現在確認されている紀州系田宮流伝書の中では最も古い目録となります。一方で、淡路洲本には田宮三之助の従兄弟にあたり、田宮掃部助長家に学んだ田宮与左衛門による田宮流が伝承されていました。両者の目録を比較すると、その内容はほぼ同一であることが分かります。
岡野右太夫は寛永八年(1631)生まれと推定されます。十代から居合修行を始めたとすれば、正保年間~万治年間(1644~1660)程度が修行の期間であったと考えられます。もう一方の田宮与左衛門は寛永十五年(1638)生まれと推定され、承応二年(1653)十六歳の頃より修行を始めたとされています。おそらく両者の修行期間は重なっていたでしょう。それを証明するように、淡路伝田宮流の伝書『田宮流刀術伝来』には岡野右太夫の名が現われています。
つまりここに示される体系は、彼らが紀州田宮家で田宮流を学んだ十七世紀半ばのものであると考えられます。このころ田宮掃部助は六十代前後であったと推定されますが、慶安四年(1651)には時の将軍徳川家光公に居合上覧を行い、若年より修行を重ねた居合の技術も円熟の域に達していたことでしょう。万治元年の岡野右太夫への目録が子の田宮三之助の名で発給されていることから、ちょうどこの頃に三之助への代替わりがなされたと考えられます。おそらく掃部助が大先生、三之助が若先生のような形で教授を行っていたのではないでしょうか。岡野右太夫が自身を田宮親子(掃部助・三之助)の弟子としているのもこのためと考えられます。
【目録①】田宮三之助発給目録(写)(『師弟楽之書 一』, 岡山県立記録資料館所蔵岡山藩士浅田家資料, 天明八)
【目録②】湯浅甚八発給目録『田宮流居合目録 第一』『田宮流居合目録 第二』, 居合文化研究会新潟支部所蔵
これらの目録の内容をまとめると、この時代の田宮流の体系は概ね以下のようなものであったと考えられます。
むかふの刀の事 おつたて、おさへぬき、よけ身、のき身、胸の刀
左身の事 ひらきぬき、いつさそく、むちむすひ
八ケのなおし
右身の事 つきいれ、手とりぬき、脬の刀
外の物の事 二方つめ、二方きり、聲の抜、かへし抜、大まくり
組の事
三ツの柄取
あひ口の事 雲入、洞入、切詰
極意の事 千金之位、萬事之抜、無意身意
長府藩には田宮掃部助の弟子、渡辺三右衛門の田宮流が伝わりました。当系統の『田宮流居合初目録』を見ると、上記目録②の『第一』の内容と同一であることが分かります。おそらく目録②の『第二』に相当する伝書も存在したのではないかと思われます。
『田宮流居合初目録』(筑波大学体育科学系武道論研究室『武道傳書集成, 第1集 田宮流兵法居合』, 1988)
※1 原本では「手とりぬき」です
※2 原本では「脬の刀」です
岡山藩士・垣見友之助(七郎左衛門)は岡野右太夫より田宮流の印可を受けますが、彼の系統の居合目録は目録①とは少し異なっています。比較してみると、上記の後半のいくつかの体系が省かれている一方で、詰合という体系が含まれていることが分かります。岡山藩の伝書『居合歴師伝』によれば、慶安四年の将軍家光公への上覧演武の際、田宮平兵衛長家は表(むこうの刀)や右身に加え、この詰合の技を演武したとされています。
『田宮流居合目録』, 居合文化研究会新潟支部所蔵
浅田知信 写『師弟楽之書 一』, 岡山県立記録資料館所蔵岡山藩士浅田家資料, 天明八年.
『田宮流居合目録 第一』, 居合文化研究会新潟支部所蔵, 天明七年. 居文研新潟デジタルライブラリー
『田宮流居合目録 第二』, 居合文化研究会新潟支部所蔵, 天明七年. 居文研新潟デジタルライブラリー
『田宮流居合初目録』, 下関文書館蔵, 嘉永七年(筑波大学体育科学系武道論研究室『武道傳書集成, 第1集 田宮流兵法居合』, 筑波大学武道文化研究会, 1988. 44-46p)
『田宮流居合目録』, 居合文化研究会新潟支部所蔵, 文化十二年. 居文研新潟デジタルライブラリー
浅田知信写『居合歴師伝』, 岡山県立記録資料館 岡山藩士浅田家資料所蔵, 天明七年.