筑後久留米藩にも「田宮流」居合が伝わっていました。文化年間に久留米藩士・杉山清兵衛正仲により著された伝書『田宮真伝奥義集』には、流儀の各技法が詳細に解説されており、江戸時代当時の居合の実技を知る貴重な史料となっています。「田宮流」を称する当流ですが、その伝承を検証してゆくと、田宮流とは異なる別の居合流派の姿が現われてきます。
※なお久留米藩には当系統とは別に、一宮左太夫の弟子武川与兵衛系の田宮流も伝わっていたようです。ここでは久留米藩の武川系田宮流については割愛します。
久留米藩田宮流の伝書を確認すると、伝系の筆頭を紀州住の「田宮浄圓」に、次代を相州住の「片山九郎左衛門久安」としています。
『田宮流居合之序』(小崎秀樹『武道緒流伝書集二』, 平成5.)
この「田宮浄圓」は、紀州藩田宮家初代の田宮常圓(対馬守)長勝を指すものと考えてよいでしょう。加えて当流の伝書『田宮真傳奥義集』の序文には、以下のように記されています。
夫当流抜刀術ハ元祖田宮平兵衛重正ノ遺傳ニシテ其由テ来ル事尤尚シ
― 杉山清兵衛正仲 『田宮真傳奥義集』 (筑波大学体育科学系武道論研究室 『武道傳書集成, 第1集』, 1988)
ここでは田宮常圓長勝よりさらに一代遡り、長勝の父とされる田宮平兵衛重正以来の由緒正しい流派であることを主張しています。もし当流がこれらに主張されるように田宮家の伝であれば、確かに「田宮流」と言ってよいでしょう。
しかし一方で、伝系上に「田宮浄圓」の次代として記された「片山九郎左衛門尉久安」という名には違和感を感じます。なぜなら片山久安といえば、江戸時代に田宮流と勢力を分けた伯耆流居合の祖・片山伯耆守久安のことが想起されるためです。さらにいえば、片山伯耆守久安の弟子には片山九郎左衛門という人物が確認でき、その居合は豊後臼杵藩や陸奥八戸藩に伝わっていました。「片山九郎左衛門久安」というのは、片山伯耆守久安と片山九郎左衛門の二人の名が混雑したものにも思えます。「片山九郎左衛門久安」が片山久安もしくは久安弟子の片山九郎左衛門を指すのであれば、その居合は「田宮流」ではなく「伯耆流」であるはずです。それでは一体、当流は「田宮流」なのでしょうか?それとも「伯耆流」なのでしょうか?
豊後臼杵藩に伝わった「片山九郎左衛門」の伯耆流の体系は『聴潮館叢録 別巻之4』に確認できます。久留米藩田宮流の体系と比較してみましょう。
― 『当流居合太刀之次第(抜刀伯耆流)』(吉田祥三郎 編『聴潮館叢録 別巻之4』, 昭和14)
― 『田宮流居合之序』(小崎秀樹『武道諸流伝書集 二』, 平成5年)
両資料を一見して分かる通り、ほとんど一致すると言ってよいほど形の名称や順序が類似しています。一方で紀州藩伝の田宮流居合の体系はこちらの記事に示す通り、似た形名はあるものの※、臼杵藩伯耆流と久留米藩田宮流との間にみられるほどの顕著な類似は見られません。少なくとも体系という面から見れば、久留米藩田宮流は「片山九郎左衛門の伯耆流」に極めて近いと言えそうです。臼杵藩伯耆流伝系における片山九郎左衛門の諱と、久留米藩田宮流伝系における山澤権之亟の諱が共に「家政」である点を見ても、両流に何らかの関係があることが推察されます。
※伯耆流と田宮流の体系は一部類似しているため共通の祖を持つ可能性がありますが、その分岐は片山久安や田宮常円以前と考えられます。
居合文化研究会新潟支部では、筑前福岡藩もしくは支藩の秋月藩に伝承したとみられる「田宮流」伝書を保存しています。久留米藩田宮流と同系統の居合は、筑後久留米藩のみでなく筑州全般に広まっていたと考えられます。
当伝書の伝系は「片山九郎左衛門」から「大神三郎右衛門重義」まで久留米藩田宮流と共通しています。久留米藩伝と同じく「田宮流」を称していますが、伝系部分には久留米藩伝伝書に見られる「紀州住 田宮浄圓」の名がなく、「片山九郎左衛門」を筆頭者としていることに気が付きます。つまり「紀州住 田宮浄圓」の名は、後世伝系に付加されたものである可能性が考えられます。さらに、当伝書に記載されている体系は「表」「中段」「極意」であり、上述の臼杵藩伝『当流居合太刀之次第』と体裁を同じくしています。内容もほぼ同一であることが分かります。
体系は伯耆流そのものであるのに、なぜ当流は「田宮流」を称したのでしょうか。その手がかりは当流伝書の序文に示されていそうです。以下に引用し、読み下してみます。
田宮流居合序
夫武事者何為而興也古之賢
主良将止天下暴乱之戈欲救
生民於危難之中也茲近世
始有居合之一條路紀州人田
宮氏浄圓為之權輿嘗自言
曰夫為士者己雖帯釼不知振
抜之術豈足應急難為乎為兵法之
大魁者不疑是以篤従事於斯造
次顚沛用心勤矣至年積月累一
旦通手中之趣徴臨機應変之
妙自是己往世称之號田宮流予
亦遊干武門頻欲沿支流溯淵源
来後去先雖不得親炙私淑於人
始覚得一家之蘊奥故告
之同志者庶幾将来欲斯傳之
不絶云爾
― 『田宮流居合之序』(小崎秀樹『武道緒流伝書集二』, 平成5.) ※青字強調は引用者による
[読み下し文]
田宮流居合序
夫れ武事は何為れぞ興らんや。
古の賢主良将、天下暴乱の戈を止め、生民を危難の中より救わんと欲して也。
茲に近世居合の一條路始めて有り。紀州人田宮氏浄圓之が為に權輿たり。
嘗て自言して曰、夫れ士たる者、己ずから剣を帯ぶと雖も
振抜之術知らずして豈に急難に応ずるに足らんや。
兵法の大魁たる者、是を以て疑わず、斯かる造次顚沛にも篤く従事し、用心に勤めん。
年至り、月を積み、一旦を累ぬれば、手中の趣通じ、臨機応変の妙徴す。
これより己ずから往世之を称して田宮流と号す。
予亦武門に遊び、頻りに支流に沿い淵源に溯らんと欲す。
来後去先し親炙を得ざると雖も、人に私淑して始めて一家の蘊奥を覚得す。
故に之を同志者に告ぐ。庶幾くは将来斯傳の絶えざるを欲すと云爾。
※「權輿」:物事の始まり。事の起こり。発端。(goo辞書)
※「造次顚沛」:わずかの時間。(goo辞書)
※「淵源」:物事の起こり基づくところ。根源。みなもと。(goo辞書)
※「来後去先」:来後は己の出る先生に後るを云。去先は先生の死去の我より先を云。(古文真宝字引 後集)
※「親炙」:親しく接してその感化を受けること。(goo辞書)
※「私淑」:直接に教えは受けないが、ひそかにその人を師と考えて尊敬し、模範として学ぶこと。(goo辞書)
この序文は筑州伝田宮流以外には見られないものです。正確な読み下しとなっているかは自信がありませんが、文意は概ね把握できるのではないかと思います。特に青字に示した部分には、流名の謎に関する重要な内容が含まれるように思われます。
まず当序文の作者は「居合」の発祥を「田宮浄圓」による「田宮流」であるとしています。そして自身は「支流に沿い淵源に溯らんと欲」した。つまり「支流」を学びながら、居合の源流たる「田宮流」に遡らんと欲したものと考えられます。しかし当時田宮浄圓はすでに過去の人であったことから、直接その教えを受けることは叶わず、そのため秘かに彼を師と尊んで修行を重ねるうち、居合の蘊奥を獲得するに至った。このように読めるのではないかと思います。おそらく、ここで作者のいう「支流」が伯耆流だったのではないでしょうか。現在一般的に伯耆流が田宮流の支流であるとは考えられていませんが、居合の始祖を田宮浄圓とするのであれば、どのような居合流派もすべて田宮流の「支流」であると当序文の作者が考えていてもおかしくありません。これはちょうど諸居合流派における、林崎甚助の位置づけに近いようにも思われます。
この序文を読む限りではありますが、結局のところ当系統が「田宮流」を称した理由はその伝授関係にはなく、ひとえに「居合の始祖たる田宮浄圓」を尊崇し、「源流たる田宮流」を指向したという点にありそうです。紀州藩田宮家の田宮流と何らかの接点があった可能性は否定できるものではありませんが、おそらく技術的には伯耆流を元に自得されたものであり、紀州田宮流と直接の関係があった可能性は低いように思われます。もし序文の作者が居合の始祖を林崎甚助であると考えていれば、当流を「林崎流」と称したかもしれません。直接の伝授関係がなくとも始祖に著名な人物を据える例は、古武道においてはまま見られるところです。
この序文の作者が当流伝系中の誰であるかは不明ですが、片山九郎左衛門は田宮常圓存命中に活動していますのであたらないでしょう。臼杵藩伯耆流や、他地域の片山九郎左衛門系の居合伝書にも同様の記述は見られません。そのため少なくとも片山より後代の人物によって序文が作成され、その時点で流名も「田宮流」に改められたのではないかと推測します。そして久留米藩に入った後に、序文を参照して「紀州住 田宮浄圓」が伝系筆頭に追加されたのでしょう。
伝承が史実と異なるということは、古武道においてはよく見られます。その理由や経緯は様々あると思いますが、それも含めての伝承でもあり、たとえ史実と異なる点があっても、その地域に脈々と伝えられた流儀の価値が損なわれるわけではありません。
冒頭に紹介した久留米藩士・杉山清兵衛正仲による『田宮真伝奥儀集』に目を通せば、当流が精緻な理論と技法を備えた優れた流派であったことが分かります。同書には当流の実技が詳細に解説されているため、現代においても居合の技法研究にたびたび参照されています。また同じく当流に伝わる伝書『田宮流歌傳』の一部も、近年の居合研究に参照されることがあります。『田宮流歌傳』は杉山清兵衛正仲の先々々代にあたる笹倉佐助房宗の自詠による道歌二十首をまとめたものです。古流居合に興味のある方は、これらの歌の一部を見かけたことがあるかもしれません。
身のかねの位をふかく習ふへし ぬくと思ふな切るとおもふな
陰陽の躰を大事を習ふへし これ強弱の元と知るへし
右膝と左の腰をかねにして 打かすかいを腰詰といふ
右膝の頭をかねに抜く刀 三角のかねの大事なりけり
初学には調子を習へ兎に角に 早きにまさる兵法はなし
冠には撞木のかねを忘るるな 三つのさわりに心付くへし
打込は気の中すみを忘るるな 峰谷のかね大事なりけり
初霜の目附に心ゆるすまし これそはなれの大事なりけり
居合こそ我身の勝を元として 扨其後に人に勝なり
敵合の早き業とは何をいふ 心ととめぬ人をいふなり
居合こそ心の上手上手なれ 刀をぬくは下手と知るべし
身のかねと心のかねと一致せば 敵の打へき隙はあるまし
我か気にて吾身をつかふものそかし 業に心をうはいとらるな
水月をとるとはなしに敵と吾 心の水の澄むにうつらふ
已發未發懸待表裏盡し見よ 是そ勝負の初なるへし
已發未發懸待表裏はなれみよ 真如の月の光そなわむ
敵も勝ち我も勝なる業乃道 唯相打を極意とは知れ
極意こそ表の内に有るものを 心盡しに奥なたつねそ
師に問はていかて大事を悟るへき 心を尽しねむころに問へ
天藝を願ははこころ一筋に 師教の道を深く信ぜよ
― 『田宮流歌傳』(小崎秀樹 『武道緒流伝書集二』, 平成5.)
当流に限らず居合流派には道歌を記した巻物が伝承されていることがありますが、この『田宮流歌傳』の歌の多くは他に見られない独特のものとなっています。ここに見られる「陰陽の体」「腰詰」「三角のかね」などの術語は『田宮真伝奥儀集』の中にも現れ、解説がなされています。
古い居合の研究にこれらの資料を用いることは何ら問題ではありませんが、その際には上述したように「当流の源流は伯耆流であり、紀州田宮流の技法は含まれない」可能性がある点に留意が必要であると考えます。
小崎秀樹『武道諸流伝書集 二』, 武道リサーチ, 平成5年, 9-26p.
筑波大学体育科学系武道論研究室『武道傳書集成, 第1集 田宮流兵法居合』, 筑波大学武道文化研究会, 1988. 64-123p.
吉田祥三郎 編『聴潮館叢録』別巻之4,吉田祥三郎,昭和14, 37-39p. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1114505 (参照 2024-06-24), コマ32-33
画像
『田宮流居合之序』(小崎秀樹『武道諸流伝書集 二』, 武道リサーチ, 平成5年, 10p)
『田宮流居合之序』, 居合文化研究会新潟支部所蔵, 正徳四年. 居文研新潟デジタルライブラリー
綿谷雪 著『浅賀流(山岸流)居合腰廻伝書類』, 渡辺書店, 昭和44年.