越前福井藩士の鰐淵三郎兵衛幸寄は紀州浪人・田宮岡之丞長就より田宮流を学び、その極意を得ました。三郎兵衛幸寄の子・安左衛門幸翁が藩の剣術師範に取り立てられて以降、鰐淵家は代々田宮流居合の師範役を務め、明治維新にまで至ります。幕末には同家の鰐淵喜太郎幸廣が、当時全国に広がりつつあった長竹刀による他流試合に対応するため、江戸の窪田清音に入門します。
田宮対馬守
└ 田宮平兵衛尉
└ 田宮岡之丞長就
├ 鰐淵三郎兵衛幸寄
└ 鰐淵安左衛門(易左衛門)幸翁
└ 鰐淵三郎兵衛幸朗
└ 鰐淵茂左衛門幸保
└ 鰐淵三郎兵衛幸忠
└ 鰐淵金十郎幸親
└ 鰐淵三郎兵衛幸貞
└ 鰐淵三郎太夫幸廣
長竹刀
窪田助太郎清音
└ 鰐淵三郎太夫幸廣
福井県立文書館所蔵の『諸士先祖之記』によれば、福井藩鰐淵家は明暦元年(1655)に初代の鰐淵小太郎政幸が当時越前吉江藩※の藩主であった松平昌親に召し抱えられたことに始まります。
鰐淵小太郎政幸の養子三郎兵衛幸寄は、かねてより福井藩士笹治刑部の与力であった荒井又右衛門という人物に就き、田宮流居合を修行していました。ある時、紀州藩士田宮平兵衛政長の子・田宮岡之丞長就という浪人が、仕官を望んで福井を訪れます。居合稽古に執心していた三郎兵衛は、田宮流の直系たる岡之丞の元へ親しく通い教えを受けます。さらに三郎兵衛の子・安左衛門(易左衛門)幸翁が岡之丞の弟子となり、その技を残ることなく相伝しました。田宮岡之丞が摂州尼崎へと去って以降も互いに音信を通じ、鰐淵家では田宮流の工夫鍛練が重ねられたと伝えられます。宝永元年(1704)、安左衛門は藩の剣術指南役として召し出され、以降鰐淵家は代々福井藩における田宮流の指南役を担いました。
※福井藩支藩。延宝二年に廃藩し本藩に吸収
鰐淵家の田宮流の体系を確認できる資料に、東京国立博物館デジタルライブラリーの『田宮流居合書並宝蔵院鎌鎗伝』があります。
伝系は以下のように記されています。鰐淵家四代目・鰐淵茂左衛門幸保の頃の伝書の写本とみられます。
田宮対馬守 田宮平兵衛尉 田宮岡之丞
鰐淵易左衛門 鰐淵三郎兵衛 鰐淵茂左衛門
― 『田宮流居合書並宝蔵院鎌鎗伝』,東京国立博物館蔵,天保
体系は一本目の追立から始まる向身五本、左身三本、右身三本、変化八本、外物、組十二本と紀州藩二代目・田宮掃部助の頃の体系とよく類似しており、田宮掃部助(平兵衛)の弟子から教わったという当流の伝承は確かであるように思われます。他に中段、刀勝脇刺勝、相抜など他に見られない技法群が見られますが、鰐淵家の体系には鰐淵幸寄・幸翁の学んだ神陰流他、諸流の影響が含まれるとされており、おそらく同家における工夫より取り入れられたものでしょう。また一部の形名は紀州系田宮流ではなく、長野無楽斎弟子・一宮左太夫系の流派(林崎新夢想流等)で用いられるものに類似しています。前述したように鰐淵幸寄は田宮岡之丞に師事する以前、荒井又衛門という人物に就き田宮流居合を稽古していたと伝えられますので、あるいはそれが一宮左太夫系の田宮流であったのかもしれません。また福井藩に当初から存在した土屋家の多宮流の影響も考えられるかもしれません。
田宮流は福井藩において連綿と伝承され、弘化年間(1844-)には三郎兵衛幸寄から数えて七代目にあたる鰐淵三郎兵衛(のち次郎左衛門)幸貞が師範役を務めていました。この頃、江戸を中心に剣術流派間の他流試合が流行を見せ、その波は次第に地方の各藩にも及びます。それまで他流試合を固く禁じていた福井藩にもこの波は押し寄せ、弘化四年(1847)、島津伊賀という浪人が武者修行を称して福井藩を訪れ、剣術諸家への立合を申し入れました。藩内の剣術家中誰もこの申し入れに応ずるものが現われない中、唯一田宮流の鰐淵三郎兵衛幸貞とその息子喜太郎(のち三郎太夫、三郎助)幸廣が応ずる意思を見せ、島津との他流試合に及びます。
この頃の福井藩内の諸流では、竹刀の長さの限度を三尺二寸としていたようです。江戸では大石新影流の大石種次の登場以来、四尺を超える長竹刀が流行し一般化したことは有名ですが、この試合に島津の持ち出した竹刀もまた五尺を超える長刀でした。鰐淵喜太郎は従来通りの三尺二寸の竹刀を用いて島津の長竹刀と互角に戦い、無事藩の面目を保つことに成功します。
島津との一戦で長竹刀の有効性を悟った鰐淵親子は、門人の佐々木権六が江戸の直心影流・男谷精一郎に入門したのをきっかけに、喜太郎の江戸修行を藩に願い出ます。入門先となったのは、同じ田宮流の剣術家で長竹刀による試合にも精通する窪田助太郎清音の下でした。時は嘉永初年、鰐淵喜太郎は二十代半ば、窪田助太郎は五十代後半といった所でしょうか。幕府講武所の設立前ですので、窪田自身の稽古場に通ったものと考えられます。
もとより家伝の田宮流に練達していた喜太郎でしたので、時を経ずして窪田の指導する長竹刀も習得し、在府の福井藩士はもとより帰郷後も家中の面々に指導を行いました。これ以来、福井藩内の諸流派においても長竹刀による他流試合が採用されたといいます。鰐淵家は福井藩における他流試合(のちの剣道)の先駆けであったと言えそうです。
鰐淵幸廣は明治維新後、実弟の潜を養子とし家督を譲って名古屋へ移住したようです。明治二十二年七月五日、享年六十七歳で生涯を閉じました。
それに先立つ明治十六年、鰐淵幸廣は自身の伝える田宮流の技法を『田宮流抜撃剣法』『田宮流撃剣初学』『剣法長巻伝授』と題する一連の書にまとめます。本書には田宮流の一つ一つの形が幸廣自身の筆による図入りで詳細に解説されており、明治期の同流の実体を知ることのできる、ほとんど唯一の貴重な資料となっています。(「抜撃剣法」とは「抜剣」=居合と「撃剣」=剣道を合わせた造語であると思われます)
『田宮流抜撃剣法 第一号, 第二号, 第三号』
熊本県立図書館富永文庫所蔵
明治二十六年に旧福井藩主家松平康荘侯爵の福井来県に際して執り行われた、旧藩武芸諸流の演武会の記録があります。その中に鰐淵家の門人たちの名が確認できます。
『正五位康荘公御家督後初テ福井江御出之節福井体育場ニ於テ諸流武芸順序書, 松平文庫(福井県文書館保管), 1893
表 打太刀 梶川澤之丞 遣方 野坂真雄
外物 真田幸衛 長谷部他作
右身 大井田豊 竹島仙太郎
外物 渡邉蓬 梶川澤之丞
変化 真田幸衛 河津正樹
相抜 渡邉蓬 真田幸衛
組 真田幸衛 大井田豊
同 同人 菅沼次郎四郎
立合 同人 渡邉蓬
中段 同人 川村隆輔
鰐淵幸廣が没した後も、鰐淵家の門人達により田宮流の伝承が続けられていたことが分かります。しかし残念なことにその後伝承は途絶え、現在までその命脈を残すことはできなかったと考えられます。
福井藩鰐淵家に田宮流を伝えた紀州浪人・田宮岡之丞とは、どのような人物であったのでしょうか。『田宮流抜撃剣法』によれば、鰐淵三郎兵衛幸寄が田宮岡之丞に師事したのは、延宝六年(1678)の三月からとされています。この頃、紀州藩田宮家では二代目の田宮平兵衛(掃部助)長家は既に没しており、三代目の三之助朝成が当主となっています。三之助の年齢は四十代後半頃であったと推定されますが、田宮岡之丞が仕官先を求めて福井を訪れたのであれば、年齢的に少なくとも三之助と同世代かそれ以下でなければならないでしょう。しかし紀州藩田宮家の家譜の中には、その年代に当てはまる人物が見つかりません。田宮平兵衛長家の男子は長男の三之助朝成と、次男の儀右衛門知則の二名のみで、儀右衛門はこの頃兄と共にすでに紀州藩に仕えています。三之助の長男・次郎右衛門は十代半ば過ぎと推定されますが、嫡男ですので他藩へ仕官先を求めることはしないでしょう。次男は十二歳、三男は七歳と幼年です。また儀右衛門には子がありません(後に三之助の二男を養子に迎えています)。それでは岡之丞とは一体何者なのでしょうか。
実は当てはまりそうな人物が一人います。それは淡路洲本に田宮流を伝えた、田宮与左衛門長重です。淡路洲本伝田宮流の伝承によれば、与左衛門は三之助、儀右衛門兄弟の従兄弟にあたり、十六歳の頃から紀州田宮家を頼り、平兵衛長家より居合を学んでいます。三之助、儀右衛門よりもやや年少と推定されるため、世代的にも不自然ではなさそうです。
この点に関して、大変興味深い資料があります。寛政四年(1792)、幕府の命により福井藩内の武芸師家の調査が行われますが、当時の鰐淵家当主・三郎兵衛幸貞が提出したと思われる田宮流の由緒に、以下のように記されています。
(前略)
田宮対馬守成政
林崎吉秀より伝来て秘密之奥儀を極依て其名天下に高し紀伊大納言頼宜卿に奉仕
成政弟
同 伊織
同
同 平兵衛尉政長
伊織弟
同 岡之丞長就
成政以来代々家傳相続す
― 『越藩諸師家由緒記』,松平文庫(福井県文書館保管), 寛政四. ※田宮対馬守成政以前は省略
前述したように、『田宮流居合書並宝蔵院鎌鎗伝』の伝系書きは田宮対馬守、田宮平兵衛尉、田宮岡之丞となっていました。しかし上記では「平兵衛尉」以前に「伊織」という人物が現われています。「成政弟」と記されていますが、兄弟の弟と考えると対馬守から岡之丞まで全員が兄弟になってしまいますので、これはおそらく「弟子」という意味でしょう。あるいは「子」の誤写かもしれませんが、いずれにせよ関係を図示すると以下のようになります。
田宮対馬守成政
├ 田宮伊織
|└ 田宮岡之丞長就
└ 田宮平兵衛長政
紀州藩田宮家の記録には「田宮伊織」という人物は見られません。しかしこの関係図は、淡路洲本の伝承における「田宮与左衛門の家系図」と類似することに気が付きます。
田宮対馬守長勝
├ 田宮八兵衛(田宮長勝養子)
|└ 田宮与左衛門(八兵衛次男だが、居合は平兵衛の弟子)
└ 田宮平兵衛長家
つまり『越藩諸師家由緒記』に記されたのは、不完全に伝わった「田宮与左衛門の家系図」であるかもしれません。与左衛門は居合では平兵衛の弟子ですので、先述した『田宮流居合書並宝蔵院鎌鎗伝』の伝系書きに伊織が含まれず、岡之丞が平兵衛の弟子とされている点も説明できます。
鰐淵三郎兵衛幸寄が田宮岡之丞に師事したという延宝六年には田宮与左衛門は四十一歳で、淡路洲本の地で田宮流を教授しながら、徳島藩蜂須賀家からの召出しを待つ生活を長く続けていた時期にあたります。待てども待てども召出しの声が掛からない状況に耐え兼ね、新たな仕官先を求めて他国へ足を向けたとしてもおかしくないのではないでしょうか。実際にその二年後の延宝八年には、徳島藩仕官の頼みの綱であった家老の賀島重玄が没することで、与左衛門の同藩への仕官の道は完全に断たれることになります。
さらに『越藩諸師家由緒記』には、田宮岡之丞は福井藩を去った後、摂州尼崎へ向かったと記されています。この頃尼崎藩を治めていたのは初代藩主・青山幸成の子で、二代藩主の青山大膳亮幸利でした。淡路洲本側の伝承によれば、田宮与左衛門は紀州田宮家を出た後の一時期「青山大膳亮」に仕え、さらに徳島藩家老・賀島重玄の死没以降には、青山家から帰参の要請があったとされています。もし田宮与左衛門の旧主君が青山大膳亮幸利であったのなら、摂州尼崎へ足を向けることは十分考えられ、この点も田宮岡之丞=田宮与左衛門説を後押しします。
本説については現在のところ確たる証拠はなく、あくまで推論にとどまります。今後さらなる資料の発見がなされ、真実が明らかになる事を期待します。
『諸士先祖之記(諸士先祖之記録 四)』,松平文庫(福井県文書館保管),1721. デジタルアーカイブ福井 https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/archive/da/detail?data_id=011-1033089-1-p68, コマ68-69
福井県立図書館, 福井県郷土誌懇談会 共編『福井県郷土叢書』第4集,福井県立図書館,1957, 269-271p. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2965932 (参照 2024-06-24),コマ147-148
福田源三郎 著『越前人物志』上,玉雪堂,1910, 525-526p. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/993478 (参照 2024-06-24),コマ322-323
福井市役所 編『稿本福井市史』下巻,歴史図書社,1973, 152-153p. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9536555 (参照 2024-06-24),コマ137
『田宮流居合書並宝蔵院鎌鎗伝』,東京国立博物館蔵,天保. 東京国立博物館デジタルライブラリー https://webarchives.tnm.jp/dlib/detail/220
『田宮流抜撃剣法 第一号, 第二号, 第三号』,熊本県立図書館 富永文庫所蔵, 明治16年.
『正五位康荘公御家督後初テ福井江御出之節福井体育場ニ於テ諸流武芸順序書([正五位康荘公御家督後福井江御出ニ付取扱控]のうち)』,松平文庫(福井県文書館保管),1893. デジタルアーカイブ福井 https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/archive/da/detail?data_id=011-1010671-1-p1,コマ8
『越藩諸師家由緒記』,松平文庫(福井県文書館保管), 寛政四. デジタルアーカイブ福井 https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/archive/da/detail?data_id=011-1033101-1-p1,コマ75-77
画像
『田宮流抜撃剣法 第一号, 第二号, 第三号』,熊本県立図書館富永文庫所蔵
福田源三郎 著『越前人物志』上,玉雪堂,1910. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/993478 (参照 2024-06-24)
福井市役所 編『稿本福井市史』下巻,歴史図書社,1973. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9536555 (参照 2024-06-24)