紀州和歌山と紀淡海峡を隔てて接する淡路島。江戸時代、徳島藩蜂須賀家の家老・稲田家が治めた淡路洲本にも、田宮流居合が伝わりました。洲本に田宮流を伝えた田宮与左衛門長重は、田宮平兵衛長家の異父兄である田宮八兵衛の子、つまり平兵衛長家の甥にあたる人物とされています。残された史料には、当流および紀州田宮家の知られざる歴史が語られます。
田宮対馬守
└ 田宮対馬守長勝
├ 田宮掃部助(平兵衛)長家
|└ 田宮与左衛門長重(田宮平兵衛甥)
| ├ 津田佐治左衛門元氏
| | ├ 津田忠右衛門元盛
| | |├ 津田帯作元敬(片山成勝四男)
| | |└ 湯浅甚八春暁※1
| | | └ 石井十助
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| | ├ 酒井八郎左衛門
| | ├ 松原善治兵衛
| | ├ 疋田夫兵衛
| | ├ 稲田勘解由
| | ├ 安道地庄兵衛
| | └ 山崎百助
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| ├ 片山五郎右衛門成勝(田宮与左衛門大甥)※2
| └ 梶浦易左衛門
| └ ... 梶浦易左衛門
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└ 田宮八兵衛(田宮与左衛門父)
※1 湯浅甚八春暁は津田元氏より目録を得、その後片山成勝より免を得たとされる
※2 片山五郎右衛門成勝は津田元氏にも師事
淡路洲本に伝承された田宮流居合は、これまで全く知られていなかったと言ってよいと思います。以下に紹介する洲本伝田宮流に関する伝承は、居合文化研究会新潟支部が保存する伝書『田宮流刀術傳来』の内容を元にしています。『田宮流刀術傳来』は江戸時代中期頃の宝暦四年(1754)に、当流の修行者であった小川惟栄が、師の片山五郎右衛門成勝より伝わるところの田宮流の発祥、および洲本伝来の経緯を書き残したものです。この伝書を執筆した動機を、小川は以下のように記しています。
旧聞ハ新得ノ基ヒ 先師ノ伝無キハ門人之遺憾也
故ニ今マ事ヲ片山成勝ニ問テ之ヲ誌シ、後世此ノ芸ニ遊フ所ノ士林ヲシテ其ノ伝並ニ当流ノ阿淡ニ在所以ヲ知ラシム
― 小川惟栄 著『田宮流刀術伝来』 ,宝暦四.
先師の事績を書き残し、後世田宮流の門に学ぶ者に益するようにと念じて作成されたことが分かります。そこには後述するように紀州藩田宮家の伝承と食い違う部分が含まれつつも、同家との深い関わりの痕跡が見られるなど、当時の田宮流の実情を知るうえで非常に貴重な史料となっています。
『田宮流刀術傳来』(外題「田宮刀術傳」)
居合文化研究会新潟支部所蔵
『田宮流刀術傳来』によれば、淡路洲本と田宮流の関係は田宮与左衛門の父である田宮八兵衛に始まります。八兵衛の実父は田宮対馬守長勝の同輩であった石黒某という人物でしたが、八兵衛の幼少時に実父が死亡したことにより、石黒家は家名断絶となりました。その後実母が田宮長勝に再嫁したことで、八兵衛は田宮家の養嗣子となります。養父と共に紀州徳川家に仕えた八兵衛でしたが、長勝と母の間に掃部(のちの平兵衛)が誕生するに及び、自身の紀伊家からの退去と、代わりに実子である掃部を嗣子とするよう養父長勝に進言します。これに長勝は「父子ノ道ニ於テ豈養実ノ別有ンヤ。私ニ嫡庶ノ分ヲ侵スハ国家ノ法ニ非ス。汝言フ事勿レ矣(父子の道に養子実子の区別があるものか。私的なことで嫡庶の別を変えてしまっては法に背く。そのようなことを言うものではない)」と引き留めますが、八兵衛はこれを承諾せず、猶も紀伊家を退くことを願ったために、長勝はやむを得ずこれを聞き入れました。
弟の掃部に家を譲り紀州を去った八兵衛は、浪人ののち淡路洲本に至り、当時の徳島藩家老・稲田示植の口添えによって蜂須賀家に召し抱えられます。洲本に居住し二男二女を得た八兵衛はほどなくして病没し、長男の孫之丞が家督を継ぐものの、不運なことにその二年後に孫之丞もまた病没してしまいました。この時八兵衛次男の与左衛門は未だ幼少であったため、跡目相続はかなわず蜂須賀家における家名は断絶となりました。
父・田宮八兵衛、兄・孫之丞の没後、洲本にとどまり十六歳に成長した与左衛門は、故郷を発って父の異父弟(=叔父)である紀州の田宮掃部長家のもとへ向かいます。父の八兵衛はその養父である田宮長勝より居合を学んでいましたが、与左衛門は父から居合を教えられてはいませんでした。紀州藩田宮家に身を寄せた与左衛門は、従兄弟の三之助、義右衛門と共に田宮長家より居合を学びます。彼らの居合修行時のエピソードとして以下のような話が記されています。
ある時、田宮長家は人払いをした上である技を嫡男三之助に伝授した。この技はその当時三之助以外には秘密のものであったが、長家はその後の稽古で、なぜか与左衛門がその技を使っていることに気が付いた。不審に思い与左衛門を問い質すと、実は伝授の実施を前もって三之助より聞き知っていたため、あらかじめ稽古場の敷板の下に潜り込み、伝授の際の足音を聞いて技を知ったと答えた。長家はこれに憤り一時は与左衛門を勘当したが、その後考えを改めて、彼の修行熱心さに感心して勘当を解き、残らず秘奥を伝えた。
― 小川惟栄 著『田宮流刀術伝来』, 宝暦四.より引用者による要約
長家の下で修行を重ね田宮流を習得した与左衛門は、その居合の技量をもって他家へ仕官することを望みます。当時、田宮長家は弟子が他家に仕えたいと願った場合、仕官先から三百石以上の俸禄の提示がなければそれを許しませんでした。しかし与左衛門は禄の大小には拘らず、しきりに他家への仕官を願います。長家もついに折れ、与左衛門の望みに任せて青山大膳亮候(摂州尼崎藩二代藩主・青山幸利か)へ百石(後に五十石加増)で仕官させることとなりました。
青山家の家臣となり数年を経た与左衛門は、ある時、赴いていた江戸で徳島藩家老の賀島重玄と対面します。当時仕置家老として藩政を担っていた賀島は与左衛門に対し「汝は元々阿候(蜂須賀家)の臣であろう。もし青山家を辞して阿洲に来たらば、藩主にとりなし再び藩士として召出そう」と約束しました。かねてより故郷の淡路洲本へ帰ることを望んでいた与左衛門はこの賀島の言に惹かれ、青山家を辞して洲本へ移り、蜂須賀家からの召出しを待つこととしました。
洲本に帰った与左衛門は、同地で田宮流の教授を開始します。洲本城代・稲田植栄もこれを支援し、与左衛門の衣食を助けました。徳島藩士や稲田家中の士が与左衛門の門に集い、中でも津田佐治左衛門(稲田家士。後致仕して屈馬と称する)、片山五郎右衛門(稲田家士。与左衛門の大甥)、梶浦安左衛門(蜂須賀家老・樋口内蔵助の家士)といった者たちが傑出し、その奥旨を得ます。
田宮与左衛門の人物像については以下のように記されています。一日に五百抜の居合鍛練を欠かさず、常に自身の行動を律して乱れることがなく、対面した人が自然に平伏してしまう、そんな雰囲気をもった人であったようです。
与左衛門ハ胴細クテ手足ノタクマシキ人ニテ、健ニ上コンナル生レツキナリ。常ニ能食養生ヲシテ一日ニ椀宛三度ト極メ、是ヨリ少キ事ハアレトモ過ス事ナシ。酒モ上戸ニテ有ケレトモ如何ナル席ニテモ二盃ヨリ多ク飲マズ。
遠近ニヨラズ郊外ヘ出レバ三ツノ焼食ヲ離サズ、又常ニ鬢具ヲ懐中ス。
飲食スルニ行義ヲ乱サズ、物ヲ喰フニ箸ノ先八分ナラデハ濡レズ。
平日稽古ヲスルニ日ニ居合五百ナラシニ抜レタリ。明日用事アルカ或ハ昨日他行シタリシ日ハ千抜タリ。
与左衛門ト対座スルニ、物ヲ云ザル時モ向ニ先アリテ自ラ平伏スル所有リシト出合シ人々語ラレケリ 。
― 小川惟栄 著『田宮流刀術伝来』 ,宝暦四
田宮流を教授しつつ蜂須賀家からの召出しを待つ与左衛門でしたが、残念ながらその時は訪れぬまま、かつて召抱えを約束した家老の賀島重玄が没します。蜂須賀家への仕官の望みが絶たれた与左衛門に対し、旧主君の青山候より帰参の声が掛かりますが、彼にはもはやその意思はありませんでした。老齢を理由にこれを辞し、代わりに一人息子の園右衛門を推挙し許されます。青山家の家臣となった園右衛門でしたが、不運なことに、江戸への使いの役目を果たした帰路、急病にかかり水口駅(現在の滋賀県甲賀市水口町)にて客死してしまいました。何もかも失った与左衛門は老後、高弟の津田佐治左衛門に自身の名を譲り、さらに自身の持つ田宮流の伝書類は「譲るべき子もなければ汝に与ふ」と、すべて大甥にあたる片山五郎右衛門成勝に譲ります。故あってその後洲本を立ち退くこととなった与左衛門は、紀州新宮に住まう甥の河村伊左衛門を頼って同地へ移り、正徳元年七十四歳で生涯を閉じました。その末期は「人側にあれば臨終快からず」として人を遠ざけ、ただ一人で息を引き取ったとあります。『田宮流刀術傳来』は与左衛門の生涯を「幼少にて父に離れしより、老後まで不仕合にて、甚だ苦労を仕たる人なり」と評しています。
これまでに記述した内容は全て『田宮流刀術傳来』の記述を元にしていますが、同様の話は天保三年に淡路の文人・渡辺月石により著された郷土史『堅磐草』にも見ることができます。
〇同田宮八兵衛ハ居合ノ妙手ニ依テ召抱ラレ三百五十石ヲ賜フ(今ノ陶山金右エ門邸ヲ賜テ住ス)。慶安年中ノ事也。嫡子孫之亟箕裘ヲ継テ程ナク病死。其跡断絶ス。弟与左エ門ト云。紀州ニ行テ本手ノ居合ヲ学デ妙手也。後須本ヘ来リテ師範ス。津田屈馬ハ其弟子ニテ高足也。屈馬ガ居合又近来ノ奇術也。
― 渡辺月石 著『堅磐草』,1971 ※句読点および割注の括弧書きは引用者による
少なくとも淡路洲本において、田宮八兵衛や田宮与左衛門といった人物達の足跡が上述のように語られていたことは間違いがなさそうです。しかしながら『田宮流刀術傳来』の語る内容には、紀州藩田宮家側の記録との齟齬が見られます。
徳川頼宣に仕えた田宮家の人物は田宮対馬守長勝と長男の掃部(掃部助)および次男の斎で、田宮八兵衛という人物は確認できない。
田宮掃部は徳川家に仕える以前に父と共に池田家に仕えたことが確認でき、『田宮流刀術傳来』が語るように紀州で掃部が誕生したという事実はない
それでは『田宮流刀術傳来』の内容はまったくのデタラメなのでしょうか。上にあげた齟齬の一方で、本書には田宮三之助の弟の義右衛門(儀右衛門)の事績や、田宮家の弟子達の逸話など、同家に近しくなければ知り得ないであろう内容も記されており、それらには紀州側史料との一致が見られます。
また与左衛門が晩年に頼ったとされる紀州新宮与力の河村伊左衛門家の実在は、和歌山県立串本古座高校所蔵中根文庫の『新宮武鑑』に確認できます。『田宮流刀術傳来』には与左衛門の妹が新宮与力の河村伝右衛門に嫁いだと記されていますが、『新宮武鑑』によれば河村家の二代目に河村伊左衛門(初め伝右衛門)正信、次代に河村伊左衛門(初め勝之助)当保がおり、両者の年代も伊左衛門正信が与左衛門の妹婿、伊左衛門当保が甥と考るのに妥当で、無理はありません。
『田宮流刀術傳来』には、田宮与左衛門の甥(姉の子)にあたる片山成房が田宮三之助を訪ね話を聞いたととれる記述もあり、もしそうであれば、洲本田宮家の者は少なくとも親族として紀州田宮家を訪れることができたことになります。なお本書には与左衛門の使用した家紋が「瞿麦紋」であったと書かれており、これは紀州藩田宮家の家紋と一致しています。それらを考慮すると、淡路洲本伝の伝承には一定の真実が含まれていそうです。現代においても各家々の事情は千差万別と思いますが、田宮家にも記録に残らない事情があったかのかも知れません。
本書が田宮与左衛門の没後約半世紀後に師伝を元にして書かれたものである以上、当然不正確な内容もあり、あるいは筆者である小川惟栄が、諸資料を元に不足を補った部分も含まれていそうです(「本朝武芸小伝」からの引用も見られるため、洲本における伝承のみを書いたのでではないことは明らかです)。本書に記載された伝承がどの程度確からしいものであるのか、今後も検討が必要です。
上述の通り、これまでのところ紀州藩側の記録には「田宮八兵衛」およびその子孫の存在は確認できていません。また淡路側の記録にも不自然な点があります。それは本来八兵衛のもう一人の弟として記述されるべき、田宮長勝の次男「斎(いつき)」の名が一切現れない点です。
斎は駿府城主時代の徳川頼宣に父、兄と共に仕官したことが確認でき、紀州入り時点で三十石、元和八年には九十石と加増されています。その後寛永八年の暮れより突如俸禄が停止されていますが、田宮家の家譜には斎に関する詳しい記述はなく、短い経歴と共に、年月不明に病死した事が記される程度です。記録を素直に読むならば寛永八年に病没し、それに伴って俸禄が止められたと理解するのが普通ではありますが、もしこれが何らかの理由による出奔であったならばどうでしょうか。出奔と同時に八兵衛と名を変え、紀州にほど近い淡路洲本へ移り、そこで病没したのであれば、田宮家家譜の記述とも一応の矛盾はないとも言えます。紀州家で斎の俸禄が絶えた寛永八年は、田宮与左衛門が出生する寛永十五年の七年前にあたります。淡路洲本で孫之丞、与左衛門兄弟が誕生したとしても、時系列的にはさほど不自然ではなさそうです。八兵衛が(洲本伝における伝承上の)本来の名字であるはずの「石黒」を名乗らずに養父の名字「田宮」を名乗り、また与左衛門の家紋が田宮家と同じであったという話も、斎=八兵衛であれば不自然ではないように思います。これはあくまで根拠のない想像ではありますが、淡路側と紀州側の伝承のつじつまを合わせようとするなら、あながちあり得ない話ではないかもしれません。
田宮与左衛門の洲本退去後は、高弟の津田佐治左衛門元氏(津田屈馬)が彼の跡を受け継ぎ、田宮流の教授を継続します。洲本城代・稲田植幹による支援もあり、津田家は洲本における田宮流の本家とみなされていたようです。津田の弟子には酒井八郎左衛門、安道地庄兵衛、杢原善次兵衛、疋田夫太夫、稲田勘解由、山崎百助といった面々がありました。津田佐治左衛門の息子・忠左衛門元盛もまたその業をよく受け継ぎましたが、不運にも父に先んじて病死してしまいます。幸い、忠左衛門はかねてより田宮与左衛門の大甥にあたる片山五郎右衛門成勝(『田宮流刀術傳来』の筆写小川惟栄の師)の四男・帯作を養子としていましたので、彼が津田元敬と名乗り家芸を相続しました。次代が下って、嘉永七年に開設された学問所「益習館」の武道の教授役には「田宮流 津田与左衛門」の名があり、津田家は幕末まで家芸を継続していたと見られます。
武道(田宮流) 津田与左衛門、(関口流) 三宅達太郎、(無念流) 藤井一郎、(心関流) 大嶋徳太郎
― 庚午事変編集委員会 編『庚午事変』,1970
津田家の他には、田宮与左衛門の高弟であった梶浦易左衛門(安左衛門)が、阿波徳島の地で田宮流の教授を行ったようです。梶浦家も代々家芸を伝え、寛政元年 の『武芸指南面々芸方名目伝来書』には易左衛門の孫にあたる同名の易左衛門の記録が残されています。
また『稲田家御家中筋目書 1』の中には、享保頃の稲田家の家士で居合兵法の上手として名が高かった阿波脇町(稲田家の釆地)住の井出理八郎という人物が、修行のため紀州田宮家へ出向き、免状を得て帰国したことが記述されています。井出は世代的には津田佐治左衛門もしくは梶浦易左衛門の弟子と考えられますが、田宮家に留学して免状を得られるほど、彼の田宮流の技量は確かなものであったのでしょう。ひいては田宮与左衛門伝の田宮流の正しさも、これにより証明されるように思えます。
国文学研究資料館所蔵・阿波国徳島蜂須賀家文書の『武芸指南面々芸方名目伝来書』には、寛政元年の徳島藩内の武芸者の名と、その武芸の来歴がまとめられています。田宮流は先に紹介した梶浦易左衛門と、津田屈馬門人の湯浅甚八の2名の名が記されています。
湯浅甚八春尭は洲本の人物です。『田宮流刀術傳来』によれば、湯浅は初め津田佐治左衛門に師事しますが、津田の遺言により片山五郎右衛門成勝の門人となり免許を得、稽古場を立て多くの門人を育てたとされています。彼の発給した伝書が居合文化研究会新潟支部にて保存されています。
湯浅甚八春尭発給伝書
居合文化研究会新潟支部所蔵
小川惟栄『田宮流刀術傳来』, 居合文化研究会新潟支部所蔵, 宝暦四. 居文研新潟デジタルライブラリー
渡辺月石 著『堅磐草』,名著出版,1971.
砂川佳子、西山史朗史料翻刻『県立串本古座高校所蔵中根文庫より「新宮武鑑」』, 和歌山県歴史資料アーカイブ, https://www.lib.wakayama-c.ed.jp/monjyo/kanko/kiyou/kiyou23_sunagawa,nishiyama.pdf
庚午事変編集委員会 編『庚午事変』,徳島市中央公民館,1970, 187p. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9572536 (参照 2024-06-24), コマ104
猪井達雄 編『稲田家御家中筋目書』1,出版,1976.8, 125p. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9770041 (参照 2024-06-24),コマ78
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小川惟栄 著『田宮流刀術傳来』, 居合文化研究会新潟支部所蔵, 宝暦四. 居文研新潟デジタルライブラリー
『武芸指南面々芸方名目伝来書』,寛政元,国文学研究資料館所蔵. https://archives.nijl.ac.jp/G000000238700/data/02797 クリエイティブ・コモンズ・ライセンス(表示 - 継承 4.0 国際)
『武芸指南面々芸方名目伝来書』,寛政元,国文学研究資料館所蔵. https://archives.nijl.ac.jp/G000000238700/data/02799 クリエイティブ・コモンズ・ライセンス(表示 - 継承 4.0 国際)
『田宮流居合目録 第一』, 居合文化研究会所蔵, 天明七. 居文研新潟デジタルライブラリー
『田宮流居合目録 第二』, 居合文化研究会所蔵, 天明七. 居文研新潟デジタルライブラリー