備前岡山藩の田宮流は、池田宗家二代目・池田利隆公に仕えた垣見半左衛門に始まります。田宮家が池田家臣であった時代より伝えられた垣見家の田宮流は、その後田宮掃部助長家・三之助朝成親子の印可の弟子であった岡野右太夫の伝も併せ、同藩および支藩の間に伝承されます。
伝系1
田宮対馬守
└ 田宮対馬守長勝
└ 田宮掃部助長家
├ 垣見半左衛門(田宮掃部助より印可)
| └ 向田八左衛門
| └ 垣見半兵衛
| └ 垣見権内(先祖・垣見半左衛門の印可状継承)
| └ 垣見友之助壽延(のち七郎左衛門。先祖・垣見半左衛門の印可状継承)
|
└ 舟戸四郎兵衛
伝系2
田宮対馬守
└ 田宮対馬守長勝
└ 田宮掃部助長家
└ 田宮三之助朝成
└ 岡野右太夫長良(田宮掃部助・三之助親子より印可)
├ 岡野本之丞
├ 垣見権内
└ 垣見友之助壽延(以降伝系1と合流)
├ 垣見半兵衛(垣見友之助長子)
├ 垣見治四郎(垣見友之助次子)
├ 垣見吉右衛門(垣見友之助養子)
| └ 垣見半兵衛(吉右衛門養子。友之助孫)
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├ 前田安左衛門儀明
| └ 前田安太夫
| └ 前田安左衛門元儀
|
├ 蘆田弥五兵衛
├ 安藤勇馬
├ 山羽佐兵衛
└ 瀧波金平
後に備前池田家の家臣となる垣見家は、もと尾張の住人でした。垣見半左衛門の祖父・半兵衛は、池田輝政公の父で当時犬山城主であった池田恒興に一時仕え、その後滝川一益、中村一氏と主君を変えます。半左衛門の父の代に中村家を立ち退くと、一家は池田家臣であった親戚の土倉市正を頼り、慶長八年、池田利隆公の備前入国に際し垣見家は新たに家臣として召し抱えられました。当時の池田利隆配下には田宮対馬守長勝・掃部助長家親子が確認でき、垣見半左衛門は彼らに面識を得て居合を学びます。当流の伝承によれば、居合修行に熱心であった半左衛門は、田宮親子が池田家を立ち退いた後も同門の舟戸四郎兵衛と共に彼らを追い、居合の修行を続けたといいます。半左衛門の熱心さに感じ入った田宮掃部助は、彼に田宮流の印可目録を与えました。
備前に戻った半左衛門の居合は主君池田利隆の上覧に供され、認められて利隆の長男・池田光政の稽古係を務めます。この際の誓紙(入門誓紙か)が後々まで垣見家に伝わっていたことが、岡山藩に提出された同家の履歴に記録されています。半左衛門は寛永九年に四十一歳で早世しますが、彼の居合は弟子の向田八左衛門を通じて子の垣見半兵衛、次いでその子の権内(幼名久太郎、のち半兵衛)へと伝承されました。
一 紺のおりかけに金の五りん
おりかけまるの内にまりはさみ
田宮対馬
田宮対馬組
一 銀の馬くし本に鳥毛
田宮掃部
一 同下に白おい印に黒いろりふち
垣見半左衛門
一 同下に白みのて
舟戸四郎兵衛
※なお舟戸四郎兵衛の隣に記載のある「田宮市兵衛」は、居合の田宮家とは関係のない田宮氏です。
― 東京大学史料編纂所 編『大日本史料 第12編之22』, 大正9。赤線は引用者による
垣見半左衛門が没して三十年ほどが経った寛文元年、因幡鳥取藩主を経て岡山藩主となっていた池田光政は、新たに岡野右太夫(常右衛門、左太夫とも)という紀州浪人を藩士として召し抱えます。この岡野右太夫は田宮掃部助長家とその嫡男三之助朝成に田宮流を学び、印可を得るほどの居合の達人でした。
岡野右太夫の経歴はどのようなものだったのでしょうか。右太夫の祖父・忠兵衛は土佐の長曾我部家に仕えた人物でしたが、右太夫の父・金右衛門の代に長曾我部家が没落するにおよび、一家は当時紀州を治めていた浅野家に再仕官するべく和歌山へ居を移します。その後、金右衛門は浪人として参加した大阪の陣の戦働きにより浅野家に取り立てられ、彼の没後は右太夫の兄が跡目を相続しました。浅野家が紀州より安芸広島へ移封となった際、兄はこれに従い紀州を離れますが、右太夫はその後も紀州に留まっていたと考えられます。岡野右太夫の居合修行は正保年間~万治年間(1644~1660)ごろと推定されますが、この期間中には田宮掃部助が三代将軍・徳川家光公へ召されて上覧演武を行うなど、紀州田宮家とその居合が最も充実していた時期の弟子と言えるかもしれません。中でも岡野右太夫の勤めようは弟子中でも格別であると評され、掃部助・三之助親子の名判を印した印可目録を与えられます。
岡山藩士・垣見権内は、岡野右太夫が田宮流の習得者であることを知るにおよび、彼に教えを請い門弟となります。この権内の行動から察するに、垣見家の田宮流は権内の祖父・垣見半左衛門の早世のために完全な形では伝わっていなかったのかも知れません。あるいはひと通りの伝は残っていたものの、免許や印可などの証明を、同流の印可を持つ岡野へ求めたものかもしれません。ともあれ修行の甲斐あって、延宝八年には岡野右太夫より垣見権内へ免状が授けられます。権内の父・半兵衛はこれに際し、かつて祖父・半左衛門が田宮家より授かった印可目録を権内に相続します。
権内の子である垣見友之介壽延(のち七郎左衛門。老年に久太郎)も父と同じく岡野右太夫に入門しました。元禄十五年十一月十五日、友之助は晴れて岡野より免状を授けられますが、この際、免状の日付は実際の日付とは異なる「元禄十六年三月吉日」となっていました。師にその訳を尋ねると、予て友之介の曾祖父・垣見半左衛門が田宮家より印可を授かった日付が「三月吉日」であることを承知しており、先祖に似るようにとの願いを込め、同じように調えたと話したそうです。
この免状受給に際し、友之介の父・権内はかつての自身の例に習い、先祖半左衛門より代々受け継がれた印可目録を友之助に譲り渡します。しかし友之介は「自身は未だ免許のみを受けた身(印可を受けたのではない)であるから、印可目録を所持していては田宮家に申し訳が立たない」として、師の岡野へこれらの書を預けることとしました。そして一年後の元禄十六年、師より「弟子の内にても他方とは格別の事候間、拙者印可をも進度候」として、友之介より預かった垣見家の印可目録に岡野自身の名判を付し、添状一巻を加えて印可が与えられました。
垣見友之助は田宮流居合に加え、竹内伊織久信という人物から竹内流捕手腰廻を学び、これらを多くの弟子に伝えました。中でも弟子の前田安左衛門、蘆田弥五兵衛、安藤勇馬、山羽佐兵衛といった面々は岡山藩主やその親族にも田宮流居合の教授をしたことが確認できます。友之助自身も岡山藩四代藩主・池田宗政公に伝書を発給しています。安藤は五代藩主・池田治政公へ、前田、蘆田の両名は池田治政三男の池田政芳へ教授を行ったようです。
垣見家ではその後も居合の伝承が続けられたのでしょうか。家譜によれば、友之助の孫にあたる垣見半兵衛の代に一家はあわや断絶の危機を迎えますが、かろうじて代をつなぎ、田宮流伝承における初代・垣見半左衛門から数えて十代目にあたる垣見八十吉の頃には、再び居合・腰廻の師範として活躍しています。この間の同家の経歴を確認すると、紀州藩における伝承の例にもれず、当時の武家において家の継続がいかに困難であったかが窺い知れます。明治維新を迎えて垣見八十吉は垣見半夫、子の友之助は垣見友雄と改名し、新時代を生きました。
田宮流居合目録(居合文化研究会新潟支部所蔵)
竹内流捕手腰廻取手巻(居合文化研究会新潟支部所蔵)
岡野右太夫および岡野家のその後はどのようなものだったのでしょうか。右太夫には一子・本之丞(元之亟)がありました。岡野家の家譜によれば、右太夫六十七歳の時に本之丞が六歳で藩主に初御目見したとありますので、孫(娘の子など)を養子としたか、あるいは他家からの養子であったかもしれません。あるいは老年に至った後に誕生した実子であった可能性もあります。宝永三年に岡野右太夫が七十七歳で病没すると、その翌年に十六歳の本之丞が跡目を相続しました。
それから二十年以上が経過した享保十三年の八月十日のこと、岡山藩士・松井勘八郎の家では、同人の翌日からの江戸出向に際し、親戚や同輩など多くの人々が挨拶のためつどい集まっていました。当時役目のために松井の家に逗留していた岡野本之丞でしたが、その日の夕暮れ過ぎ、突然に発狂しその場に居合わせた藩士・安井猪之助を切り殺してしまいます。松井勘八郎やその家人に手傷を負わせながらも取り押さえられた本之丞は、上司であった丹羽蔵人家へと身柄を預けられ、同月二十七日、藩より切腹を仰せ付けられました。このような凶行に及んだ理由について、一説には安井猪之助が荷物の目録を読み上げたのを、本之丞が自身への悪口を読み上げたものと勘違いしたともいい(これは本之丞が後に自身でそう語ったとも)、また一説には、本之丞の所持していた田宮流居合の秘密の書を、安井が盗んで読み上げたためとも言われたようです。本之丞は凶行ののち徐々に正気を取り戻し、丹羽家に預けられた後も身を慎んで多くを語らず、切腹当日は世話になった同家の人々に厚く感謝を述べて従容として死についたとされます。この騒動により本之丞の妻、姉、子の乙吉、妹の五名は備前岡山からの引き払いを命ぜられ、岡野家は断絶となりました。
岡山藩の田宮流は、岡山藩士・佐野弥左衛門次男の佐野権八郎治重が豊後日出藩三代藩主・木下俊長公に招聘され召し抱えられたことで、同藩に伝播しています。大分県教育委員会編纂の『大分県偉人伝』には日出藩三代藩主・木下俊長公の事績が多く記されていますが、その中に芸能に関する以下の一節があります。
俊長は何事にも熱中する気風あり。而して多くの芸能に老熟せしが、中にも剣、柔道、射術、軍学、礼法は勿論、絵画、茶事、猿楽、蹴鞠等の諸技も、其の蘊奥を究めたり。剣柔道師範佐野酔翁、刀剣師長勝、甲冑師岩佐藤蔵、鉄砲鍛冶伊東長常等は、皆俊長に召抱へられし者なり。
― 大分県教育会 編『大分県偉人伝』, 1935 ※旧字体は引用者により新字体にあらためた
『大分県日出藩史料 第19巻』の中に、日出藩士佐野家の系譜を確認することができます。初代の佐野権八郎治重は、備前岡山池田光政公に仕えた佐野弥左衛門の次男であり、俊長公の代に当地(日出)に召出された人物であることが分かります。
一、元祖 佐野権八郎治重
右者備前岡山城松平新太郎光政公江仕申候 弥左衛門二男に而
御当地江被召出 俊長様代奉仕四人扶持ニ拾四石被下置御中小
姓被召出候 如何之訳ニ而被召出候哉相分不申候
― 『大分県日出藩史料』19,日出藩史料刊行会,1976.
佐野権八郎治重は「有閑」、二代目の兵太夫高綱は「酔翁」と号しており、武術の腕を買われての仕官ながら、親子共に遊び心のある人物達であったのかもしれません。『大分県偉人伝』には俊長公が召し抱えたのは佐野酔翁とありますが、権八郎、兵太夫ともに俊長公に仕えたようですので、誰が初代であったか混乱があったようにも思われます。岡山藩から日出藩に伝播した田宮流は、代々佐野家の人物によって伝えられ、幕末まで存続したものと考えられます。
田宮掃部
└ 田宮左太夫
└ 佐野権八郎治重(有閑)
└ 佐野兵太夫高綱(酔翁)
└ 佐野兵左衛門治時
└ 佐野治左衛門治明
└ 佐野兵三郎治貞
日出藩田宮流では初代を田宮掃部、次いで田宮左太夫、その後に佐野権八郎(有閑)へ伝わったとしています。田宮掃部は紀州田宮家二代目の田宮掃部助長家を指すと考えられますが、田宮左太夫とは誰なのでしょうか。紀州藩の田宮家家譜には左太夫と名乗った人物は確認できません。史実は定かではないものの、当流が備前岡山より伝来したことを踏まえれば、「田宮左太夫」というのは「岡野右太夫」の誤りである可能性が高そうです。岡野は左太夫とも名乗ったことが史料に確認できますので、おそらくは伝書を書き写すうち、「岡野左太夫」を「田宮左太夫」と誤り伝えてしまったのではないかと推測されます。
東京大学史料編纂所 編『大日本史料』第12編之22,東京大学,大正9, 71p, 77p, 101p, 102p. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3450642 (参照 2024-06-24), コマ388, 391, 403, 404
大分県教育会 編『大分県偉人伝』,大分県教育会,昭和10, 18p. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1223775 (参照 2024-06-24), コマ25
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小野精一 編『麻生公道遺芳』,小野精一,昭和15, 64-69p. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1043347 (参照 2024-06-24), コマ47-49
画像
東京大学史料編纂所 編『大日本史料』第12編之22,東京大学,大正9, 71p, 77p, 101p, 102p. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3450642 (参照 2024-06-24), コマ388, 391, 403, 404
『田宮流居合目録』, 居合文化研究会新潟支部所蔵, 文化十二年. 居文研新潟デジタルライブラリー
『竹内流捕手腰廻取手巻』, 居合文化研究会新潟支部所蔵, 文化二年. 居文研新潟デジタルライブラリー
『[先祖【並】御奉公之品書上] 垣見友雄』, (池田家文庫藩政資料マイクロ版集成 岡山大学附属図書館所蔵. 藩士 TDC-089 )
『[除帳]岡野本之丞』, (池田家文庫藩政資料マイクロ版集成 岡山大学附属図書館所蔵. 藩士 TDD-006 )
浅田知信写『居合歴師伝』, 天明七年, 岡山県立記録資料館所蔵岡山藩士浅田家資料
吉備群書集成刊行会 編『吉備群書集成』第六輯,吉備群書集成刊行会,昭和6. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1913034 (参照 2024-06-24), コマ43-44
吉備群書集成刊行会 編『吉備群書集成』第九輯,吉備群書集成刊行会,昭和6. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1913071 (参照 2024-06-24), コマ155-156
岡山市史編集委員会 編『岡山市史』学術体育編,岡山市,1964. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2991666 (参照 2024-05-15)
『 [除帳] 佐野兵右衛門』, (池田家文庫藩政資料マイクロ版集成 岡山大学附属図書館所蔵. 藩士 TDD-036 )
『田宮流居合目録』, 大分県立先哲史料館 芝尾家史料, 嘉永元年.
『田宮流和術』, 大分県立先哲史料館 芝尾家史料, 安政二年.