後年江戸に田宮流を伝えることになる斎木三右衛門清勝は、紀州藩田宮家三代目の田宮三之助朝成の弟子でした。斎木の末流である平野匠八の目録と、三之助の初期の頃の目録、そして田宮家四代目の田宮次郎右衛門成道が元禄年間に発給した目録の三つを比較すると、田宮家における教授体系の変化が見て取れます。
【目録①】田宮三之助発給目録(写)(『師弟楽之書 一』, 岡山県立記録資料館所蔵岡山藩士浅田家資料, 天明八)
【目録②】平野匠八発給目録
【目録③】田宮次郎右衛門発給目録
目録①と比べると、目録②および③では体系が変化していることに気が付きます。目録②には形名の記載がありませんが、資料比較を行うと以下のような対応関係があることが分かります。
目録①から目録②への変化を簡潔にまとめると、以下のようになりそうです。
「向の刀の事」「左身の事」の八本はそのまま「居合」とする
「居合」のすぐ後に「立合」を置く
「八ケのなおし」「右身の事」は「立合」の後にまわす
「外の物の事」以降の項目は目録から削除
目録③ではさらに「右身の事」「八ケのなおし」も見られなくなっています。目録①と比べ、目録②③に似た変化が見られることから、この変化は斎木三右衛門の系統のみに起こったものではなく、紀州田宮家においても同様であったことが分かります。
どうやら田宮三之助の時代のどこかで、従来の居合の奥技法の多くが体系から省かれ、基礎的な居合と、立合の二種の稽古に教授体系の見直しが行われたように思われます。「立合」には立っての抜刀形と、仕打共に抜き身の刀を用いるいわゆる剣術形が含まれますが、この変化はより剣術試合寄りの技法を指向したものと言えるかもしれません。実際に目録②には「仕合組」「小太刀仕合」など試合稽古を想定したとみられる項目が多数見られますし、目録③の資料には、上記の引用部分以外に試合技法に関する記述が多く見られます。
これによって、寛政年間(1789-1801)に著されたとされる『撃剣叢談』に、以下のように記述された理由が分かります。
田宮流は居合なるを、唯一流こゝにまじへたるは微意なきにもあらず、今紀州及江戸に行るゝ田宮流は、先表に傳ふる所は居合の態也、それより太刀となり打合の勝負を専一に修行す、名は居合にして勝負する所は太刀態也、こゝを以て附記してあらましをあぐ、
(中略)
平兵衛弟子に斎木三右衛門と云ふ者、江戸に於て流を弘む、最も上手也しが、其江戸の剣術の師数人と仕合して皆仕勝ちたり、是等の勝負せる様皆太刀態也、又古傳は、刀を抜かずして左の手は鯉口を持て、右の手は脇指の柄にかけて敵へ詰寄り、敵の太刀おろす頭を先に、刀の柄にて敵の手首を打ち、其拍子に脇指を抜て勝事を専とする也、これを行合と云、
(中略)
皆今備前に行るゝ田宮流と大に異なり、委細しるして異聞を弘むるのみ、
― 三上元龍 著『撃剣叢談』.寛政2 ※青字強調は引用者による
ここでは当時紀州および江戸で見られた田宮流について「まず居合の態(わざ)を習うけれども、それからは打ち合いを専一に修行する。名は居合だけれども勝負は太刀態(たちわざ)である」とあり、これは上述の見直し後の教授体系と一致するように思われます。特に斎木三右衛門系では試合稽古を重視していたと考えられることから、斎木が「江戸の剣術の師数人と仕合して皆勝った」というのも肯首できるのではないでしょうか。『撃剣叢談』の著者である備前岡山藩士・三上元龍はこれらの様子を「今備前で行われている田宮流と大いに異なる」と述べていますが、岡山藩へは体系見直し以前の田宮流が伝播していますので、その感想ももっともであったと思われます。
浅田知信 写『師弟楽之書 一』, 岡山県立記録資料館所蔵岡山藩士浅田家資料, 天明八年.
『田宮流剣法規則巻 一』, 居合文化研究会新潟支部蔵, 文化二年. 居文研新潟デジタルライブラリー
南紀徳川史刊行会 編『南紀徳川史』第7冊,南紀徳川史刊行会,昭和7, 5-21p. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1225352 (参照 2024-06-24), コマ24-32