我が国では近世以降様々な形式の武術が発生しましたが、「居合」もその中の一つです。「居合」は刀による攻防を学ぶ「剣術」の一形態であるとも言えますが、「剣術」がすでに抜き放った刀を用いて攻防を学ぶものであるのに対し、「居合」は刀が鞘に納められた状態から、それを抜き放つ事を端緒として攻防を学ぶという、独特な技術体系を持ちます。
この「居合」という武術の発祥は、今から400年程前の戦国時代の末頃に遡ると考えられています。江戸時代中頃の享保元年(1716)に日夏繁高により版行され、日本で最も古い武芸列伝と言われる『本朝武芸小伝』には、居合の始祖「林崎甚助」とその弟子「田宮平兵衛」が以下のように語られています。
林崎甚助重信
林崎甚助重信ハ奥州ノ人也。林崎ノ明神ヲ祈テ刀術ノ精妙ヲ悟ル。此ノ人中興抜刀(イヤイ)之始祖也。
田宮平兵衛重正
田宮平兵衛重正ハ関東ノ人也。林崎重信ニ従テ抜刀(イヤイ)ノ妙ヲ得、実ニ変ヲ尽クシ神ニ入ル。
― 日夏繁高 『本朝武芸小伝』,大日本武徳会本部,大正9. ※読み下しは引用者
居合の始祖林崎甚助の弟子・田宮平兵衛の居合の技は、神変の妙に達したと言われます。一般に、この田宮平兵衛の門流が「田宮流」を称しました。もちろん林崎甚助を祖とせず、独自の伝承を持つ居合流派も数多く存在しましたが、日本各地で伝承された林崎甚助を祖と仰ぐ流派のほとんどが、この田宮平兵衛の門から出ています。田宮流は我が国が生んだ「居合」という文化の、源流の一つと言えるのではないかと思います。
江戸時代後期の文人・太田南畝の著した随筆『一話一言』の中に、江戸幕府の成立から半世紀程後の寛文年間(1661-1673)当時の江戸武士の流行を記した「寛文年中江戸武家名盡時の逸物」という一節が収められています。そこには当時名のあった武芸者や武術流派が七五調のユニークな文章で紹介されており、例えば剣術流派について以下のように記されています。
扨兵法に 名高きは 不申とても 柳生殿 一刀流の 小野殿と 此両人は かくれなし
柳生の家の 極しんの 神妙釼と 小野殿の 五天も晴るゝ 星矢當(保捨刀)
文五郎流に 蔵馬流 東軍流に しけん流 天流念流 願流や 吉岡武蔵 おくま流
― 『一話一言』, (大田南畝 著『蜀山人全集 巻5』, 明治41)
将軍家御流儀たる柳生流(柳生家の新陰流)と、小野家の一刀流の二流が名声を博していたことが窺えます。それらに次いで文五郎流(疋田豊五郎の新陰流か)、蔵馬流、東軍流、しけん流(自顕流、もしくは示現流か)、天流、念流、願流、吉岡流、武蔵流、おくま流(岩間小熊の新当流か)が挙げられています。では居合流派についてはどうでしょうか。
扨又居合 名高きは 田宮の家の 名けんは おほき敵をも 四方切り
片山に秘す 名剣は 水玉や すい毛剣 (中略) 扨其外の 居合には
一傳流に 一の宮 関口流に しかん流 吉留流に 土屋流
― 『一話一言』, (大田南畝 著『蜀山人全集 巻5』, 明治41)
居合流派中の名の高きものとして、田宮流が第一に現れています。次いで片山流(片山伯耆守久安による片山流・伯耆流)が挙げられ、さらに一伝流、一宮流、関口流(関口弥六右衛門氏心による関口新心流)、しかん流(不明)、吉留流、土屋流と続きます。
田宮流の流行の様子は、別資料からも見て取ることができます。寛文十一年(1671)に岡田敬直という人物により編された片山流居合剣術の二代目・片山久隆とその弟子・岩佐吉純との対談『居合師弟問答』には、当時の江戸において「田宮」「片山」「関口」の三つの流派が、あたかも三鼎のように居合の勢力を三分していたと記されています。
今居合は、田宮・片山・関口の三家を以て、殆ど此道の宗となす。所謂三鼎の如く、之を習ふも天下三分也
― 岡田敬直『居合師弟問答』, (『日本武道大系』第9巻, 1967)
さらに田宮流を称してこれを教える者は、当時すでに数えきれないほどいたとあります。
凡そ田宮流と号て之を教ふる者、繁雑にして之を算ふるに遑あらず。
― 岡田敬直『居合師弟問答』, (『日本武道大系』第9巻, 1967)
江戸のみならず、田宮流の居合は全国各地に広まりました。なかでも田宮平兵衛の門人・長野無楽齋は一宮左太夫、上泉権右衛門、白井庄兵衛、沼澤甚五左衛門、蟻川庄左衛門、羽田九郎兵衛など多くの弟子を育てたため、彼らの末流が様々な地域へ伝播することになります。また同様に田宮平兵衛の実子とされる田宮対馬守長勝や、田宮平兵衛門人・三輪源兵衛の居合も広がりを見せます。詳しくは各地に伝播した田宮流を参照ください。
田宮流の技法はどのようなものと認識されていたのでしょうか。先に紹介した「寛文年中江戸武家名盡時の逸物」に以下の一節が見られます。
居合に田宮 流儀迚 長き刀の すくはげに 入の眼(まなこ)を ぬきわざや
― 『一話一言』, (大田南畝 著『蜀山人全集 巻5』, 明治41)
「すくはげに」とはどのような意味であるか分かりませんが、「入の眼」は「人の眼」の誤字と思われ、「人の眼を抜く」と「刀を抜く」をかけたものと考えられます。一般に「生き馬の目を抜く」と言えば素早い行動の例えですが、田宮流は人の眼を抜くような早業で長い刀を抜くものと見られていたのかもしれません。あるいは「眼を抜く」は「人の眼をごまかす、だます」という意味もあります。長い刀を抜き出すのに、見ている人はなんだかごまかされたような、一見どうやって抜いたのか分からないような、そんな技と見られていたのかもしれません。
田宮流が長い刀を使用するという話は、『居合師弟問答』にも見られます。
其教の多くは、其太刀の長くして甚だ重く、非力の士は挙ぐること能はざるが如し。之を抜くときは、左足を蹉座して右足を夷居す。之を名けて居合膝と謂ふ。其敵間を近め、膝を容るゝに所なし。故に太刀を抜くを要するときは、右の膝を揚げて柄を其下へ入れ、馬手を卑くして鐺を刎て腰を引き、以て柄手を出すこと勿れと。其抜くや、蜘蛛の糸を張るが如く、暫くも間断無し。
― 岡田敬直『居合師弟問答』, (『日本武道大系』第9巻, 1967)
田宮流は長く重い刀を使用し、特殊な技法をもってこれを抜くものという認識があったことが窺えます。もっとも、『居合師弟問答』の著者自身も「田宮家、関口家は南方(和歌山)に住しているため、自分はその的伝(直伝)の教えは知らない」とも記しています。「寛文年中江戸武家名盡時の逸物」や『居合師弟問答』の作者が見聞したものは、当時「繁雑にして之を算ふるに遑あらず」というほど数多くあった田宮流の一部ではあったのでしょう。ただ、これらの記述は現存する林崎新夢想流(神夢想林崎流)や民弥流などの居合の特徴とよく類似しており、非常に興味深いものです。
田宮流は我が国の「居合」文化の歴史において、特に重要な位置づけにあった流派であったと言えます。しかし残念なことに、現代ではその末流のほどんどが失われ、かつての伝承の実態をつかむことは非常に困難になっています。現今書籍やインターネット上で得られる同流に関する情報は、資料に基づかないか、もしくは極々一部の資料を元にした不慥かな言説がほとんどを占めており、「史実の田宮流」がどのようなものであったのかは、未だ解明されていないというのが現状ではないでしょうか。日本の武道史・居合史を正しく把握するために、各地に残る記録を発掘し、伝承の実態を明らかにしてゆくことが必要ではないかと考えます。
[日夏繁高 著]『本朝武芸小伝』,大日本武徳会本部,大正9, 94p. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/927114 (参照 2024-06-24), コマ104
岡田敬直『居合師弟問答』(今村嘉雄 [ほか]編『日本武道大系』第9巻,同朋舎出版,1982.8, 418p.) 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12144618 (参照 2024-06-24), コマ218
『一話一言』(大田南畝 著『蜀山人全集』巻5,吉川弘文館,明治41, 12p.) 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/993340 (参照 2024-06-24), コマ9
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『武藝小傳』(国文学研究資料館所蔵). 国書データベース,https://doi.org/10.20730/200005446