従来より田宮流に関する言説の一つに、以下のようなものがあります。
田宮流、一に抜刀田宮流は、これを概括して三流とする。
古田宮流 ― 流祖平兵衛重正以降五代目次郎右衛門成道にいたる代々。
紀州田宮流 ― 成道から流伝が門人田宮(旧姓、中村)に移ってから以降。
新田宮流 ― 水戸藩、和田平助正勝より以降。
― 綿谷雪 『日本武芸小伝』, 1961
これは【田宮流には「古田宮流」「新田宮流」「紀州田宮流」の三流があり、「古田宮流」というのは「田宮平兵衛重正より紀州田宮家四代目(平兵衛重正より数えた場合は五代目)の田宮次郎右衛門まで」の流儀のことを言い、それに対して「田宮次郎右衛門の後を継いだ田宮千左衛門(中村是右衛門)以降」の流儀を「紀州田宮流」と言い、さらに「新田宮流」は水戸藩士・和田平助に始まる流儀を言う】というものです。
この言説は現代では半ば定説となっており、現代の居合関連書籍で田宮流を取り上げる際には必ずと言っていいほど紹介されています。
綿谷雪著『日本武芸小伝』において、当説は筆者による補記として、典拠を示すことなく紹介されています。以下当説を仮に「綿谷説」とします(綿谷雪氏以前の使用例が存在するかも知れませんので、あくまで本稿限定の仮呼称とします。なお武術史研究における綿谷氏の功績については改めて言うまでもなく、氏の業績を否定する意図はありません)。
「古田宮」「新田宮」「紀州田宮」という語自体は江戸期の資料にも確認できますが、これら三つを列挙し、流派の分類のように記述する例はほとんどありません。そのような例としては、窪田清音の『剣法傳授居合口傳』の記述がほぼ唯一で、最も古いものと考えられます。少々長いですが引用します。
居合の術は我が田宮流の大祖林崎大人出羽国林崎明神の社に参籠し、霊夢に感じて神明の剣法を得られ、殊に三尺三寸の太刀、九寸五分の腰刀を併せて授かりしことは世人の偏く知る所なり。爾来此の術世に行われ、林崎神明夢想流又略して夢想流とも云へり。又東下総守、林崎大人の神傳を得て傳へたるを林崎神明夢想東流と曰ふ。蓋し東野洲の東字を加へしなり。他に一宮長野流と云へるは又田宮大人の伝授せし所なり。而して其の中に古田宮、新田宮、紀州田宮等の別あり。紀州田宮を以て田宮大人の正傳と為す。皆門人一派を為し師の氏名を附せしものなれども、其の今に傳ふる所の業似て非なるもの多し。其の意は違はざるも各人の得る所と、或は其の人の癖の漸々移りし者もあるべし。抑運剣の業は各人の同じくする所にして、固より違ふべきことなく、且其の理に於けるも二途あるに非ざれば、若し差ふあらば其の差ひしは私の過ちに属すべし。余此の教えを受け、多年古今流派の別を探るに、神傳の教へは毫も癖病等の疵なく、各人天賦の形容に随ひ、手足の作用滞ることなく自在に剣を用ふるの業を首とし、心静に體胖に、其の極心に得て手に応ずるに至るの習わしなり。
― 窪田清音 『剣法傳授居合口伝』(山田次郎吉 『剣道集義 続』, 大正12) ※青字強調は引用者による
ここで窪田は田宮流に「古田宮、新田宮、紀州田宮等の別がある」とは書いていますが、「田宮次郎右衛門までが古田宮で、それ以降は紀州田宮」という説は全く展開していないことが分かります。また「紀州田宮等」とあるように、三つのみに分類を限定しているわけでもありません。窪田は何が「古田宮」で何が「新田宮」であるかについて言及していませんが、文意が【「古田宮」「新田宮」「紀州田宮」などがあるが、自分の伝える田宮流は中でも最も正統たる「紀州田宮」である】という点にあるのは明らかです。窪田清音の田宮流は紀州田宮家三代目の田宮三之助の弟子・斎木三右衛門により江戸へ伝えられたものですので、「田宮次郎右衛門までが古田宮、それ以降が紀州田宮」とする「綿谷説」とは相いれません。
当居合文化研究会新潟支部ではこれまで田宮流に関する調査を行い、同流伝書を含む多数の歴史資料に目を通してきましたが、「綿谷説」を肯定しうる資料は確認できていません。むしろ調査を行うほどに、同説が田宮流の伝承実態を全く反映しておらず、誤りであるという印象が確定的になっています。
これまでのところ、江戸時代の文献や伝書に「古田宮」「新田宮」「紀州田宮」という語を「綿谷説」と同じ意味で使用した例が確認できていません。これら三つの単語が列挙された歴史資料は、先に取り上げた窪田清音の『剣法傳授居合口傳』と、窪田の弟子による著書以外に確認できませんが、窪田がこれらを「綿谷説」と同じ意味で使用していないのは上述の通りです。弟子の著書における使用例は師の受け売りで、窪田の記述の範囲を出ません。
また「綿谷説」における「古田宮流」「紀州田宮流」の伝承地であるはずの紀州藩の記録にも、類似の言説は確認できません。紀州藩の歴史書『南紀徳川史』には、藩政時代を通じて田宮流は全て「田宮流」とのみ記述されています。同流を習得していた藩士中に、自身の流派を「古田宮」や「紀州田宮」と称した人物も確認できません。
『南紀徳川史』を確認する限り、田宮次郎右衛門の発給した居合目録と、幕末頃の同流継承者・田宮熊五郎の発給した居合目録とは同じですので、技術的に流派を分けるほどの大幅な変更がなされたとは考えにくいと言えます。紀州藩田宮流の歴史に紹介した通り、田宮次郎右衛門から次代の田宮千左衛門(中村是右衛門)への流儀継承は相応の時間と手続きを経て行われています。江戸時代には武芸のみならず芸事全般、そもそも家督においても実子以外への継承は極々当たり前に行われており、特別視するほどのものではありません。田宮次郎右衛門から千左衛門への継承に何ら瑕疵はなく、このことによる流儀の分裂も確認できませんので、「綿谷説」は非常に不自然です。
それでは窪田清音は何を以て「古田宮」「新田宮」「紀州田宮」としていたのでしょうか。実は「紀州田宮」という語自体は窪田によるもの以外にも使用例が確認できます。江戸伝田宮流の歴史に紹介した通り、寛政年間に記された『寄合藝術免許以上短冊書上帳』という資料では、江戸の旗本・酒井登が自身の流派を「紀州田宮流」と記しています。
一紀州田宮流 松平多門組與力塚原友之助父
居合剣術 塚原十郎左衛門門弟 酒井登
寛政二戌年門入致同四年子年十二月目録相
済申候
― 宇田川武久 『旗本本多家武芸関係資料の詳解 旗本の武芸と幕末の和流炮術』( 『国立歴史民俗博物館研究報告 第83集』, 2000)
酒井登は窪田清音の田宮流の先々代にあたる塚原十郎左衛門の門弟です。さらに、同じく塚原十郎左衛門の門弟であった旗本・久須美祐明の子の久須美権兵衛祐雋の武術見分の記録には、その流儀名が「紀伊国田宮流」と記されています。これも「紀州田宮流」と同じ意味と考えられます。
つまり「紀州田宮流」という語は、江戸の塚原十郎左衛門の門人達が、自身の田宮流の系統を表す際に使用したものであると考えられます。窪田も同じく塚原十郎左衛門系ですので、この例に習ったものでしょう。窪田の使用例と同様に、これらも「(田宮流の正統たる)紀州藩から伝わったもの」と自負する以外の意味はなさそうです。当然「綿谷説」とは相いれるものではありません。
では「古田宮」とは何を指していたのでしょうか。これまで確認できている限り、「古田宮流」という名称の使用は水戸藩における例のみに限られています。水戸藩は天保12年(1841年)に藩校・弘道館を創設しますが、そこで教授された居合の流派中に「新田宮流」「古田宮流」が確認できます(ただし新田宮流と古田宮流のどちらも単に「田宮流」と記載されることもあるので、ややこしいのですが)。例として『水戸市史 中巻 4』に記載された「文武大見分一覧」表に、以下のような記録が確認できます。
一〇・二 東軍流岡部五郎右衛門、古田宮流居合萩吉太郎門弟九〇人余見分
一〇・三 一宮流居合岡本源左衛門、新田宮流居合佐藤兵介門弟一〇〇人余見分
― 水戸市史編さん委員会『水戸市史 中巻 4』, 1982. ※行頭の数字は見分の(月・日)。青字強調は引用者による
また、水戸学の大家として知られる藤田東湖の著した『東湖封事』には、藩主・徳川斉昭よりの居合指南に関する下問に対して、古田宮流・長尾理平太らの名が挙げられています。
…尊慮之趣至極御尤之御儀に奉存候間、當指南長尾理平太等へ得と申含候様可仕候、尤理平太は古田宮免許、浅利六之進は新田宮 …
― 藤田東湖 著 ほか『新定東湖全集』, 昭15. ※青字強調は引用者による
小野崎紀男著『水戸藩徳川家の武術』によれば、上記引用に「古田宮流」として挙げられた萩吉太郎の田宮流は、水戸藩に田宮流を伝えたとされる朝比奈助右衛門貫泰の弟子・朝比奈浅之助泰延から西郷軍平尹方へと伝承された系統になります。また長尾理平太の田宮流も、同じく朝比奈浅之助から柴田次郎衛門之貞へと伝承された系統です。彼らの田宮流は、一般に「新田宮流」の祖とされる和田平助正勝を介していません。つまり「古田宮流」という名称は、水戸藩において和田平助系の「新田宮流」と区別するために使用されたものであったと考えられます。
考えてみれば「古」に対応するのは「新」であるはずで、綿谷説のように「古」田宮に対するものが「紀州」田宮では不自然です。「新田宮」に対応しての「古田宮」である方が、言葉としてもずっと自然です。
おそらく窪田清音は水戸藩内における古田宮・新田宮の区別を知っていたのでしょう。幕臣として諸藩の士と交流し、また全国から集った多数の門弟を抱えていた窪田であれば、そのような情報は容易に得られたものと思います。結局のところ、窪田の「古田宮、新田宮、紀州田宮等の別あり。紀州田宮を以て田宮大人の正傳と為す」という記述は、紀州伝ではない水戸の古田宮流・新田宮流や、その他当時多数あった田宮流と比べて、紀州伝である(塚原十郎左衛門系の)自身の田宮流がより正統であると述べたに過ぎないものと考えられます。
もう少しだけ「綿谷説」について追ってみます。近代に刊行された資料において、「古田宮」「新田宮」「紀州田宮」はどのように現れているでしょうか。国会図書館デジタルコレクションでこれらのキーワードで検索し、記述を確認してみます。
※国会図書館デジタルコレクション(https://dl.ndl.go.jp/)で、キーワード「古田宮」「新田宮」「紀州田宮」を用いて検索
※ハイライトは「綿谷説」が採用された資料
大正12年(1923)の『剣道集義 続』発刊以降、昭和初年度頃には「古田宮、新田宮、紀州田宮の別がある」という言説が用いられるようになっています。ここですでに窪田清音の原文に存在した「紀州田宮等」の「等」が抜け落ち、三つのみの分類になってしまっていることに気がつきます。さらに昭和15年(1940)の『居合読本』では「古田宮、新田宮、紀州田宮の三派に分かれた」という表現に変化しており、後続の書籍においてもこの表現が使用されていきます。ただこの時点では「三派に分かれた」としながらも、「新田宮」のみ和田平助によるものと紹介され、「古田宮」「紀州田宮」が何を指すのかについては言及が見られません。昭和36年(1961)発刊の綿谷雪『日本武芸小伝』に至って三派の定義(本稿の「綿谷説」)が登場し、以降多くの書籍・資料にこの説が取り入れられ、現代にまで浸透したという経緯となりそうです。昭和50年代頃にはすでに、田宮流の伝承地であった水戸や和歌山の郷土関連書籍にまで「綿谷説」が「輸入」されていることが分かります。
「綿谷説」の根拠はなんだったのでしょうか。私見ながら、昭和15年(1940)の太田竜峰氏による『居合読本』の記述にそのカギがありそうです。同書の記述を前文を含めてもう少し引用してみます。
重正の子対馬守長勝は父の流を受継ぎて、名高く、長勝の子、平兵衛長家、慶長四年、江戸に召されて、将軍家光に其の妙術を見せた。長家の子、三之助朝成、其子、次郎右衛門成常、代々紀州家の師範となり采邑八百石を戴いていたが、其後、田宮流は古田宮、新田宮、紀州田宮の三派に別れた。
― 太田竜峰 『居合読本』, 昭和15. ※青字強調は引用者による
この引用のうち黒字で示した部分は、主に日夏弥助繁高の「武芸小伝(本朝武芸小伝)」に拠るものと思われますが、そのすぐ後に「古田宮、新田宮、紀州田宮の三派に別れた」とする言説が付されています。おそらくこれは執筆当時に得られた田宮流に関する情報を、単に連結して記したものでしょう。前後をつなぐ「其後」は特定の時点を指したものでなく「後世では」程度の意味であると考えられます。しかし、この文全体を一つとしてみた場合、読みようによっては「次郎右衛門の直後に三派に別れた」と解釈できてしまいます。
推測でしかありませんが、おそらく綿谷雪氏もしくは同時代の研究者の誰かが、太田竜峰氏による『居合読本』(もしくは類書)から田宮流が「次郎右衛門の直後に三派に別れた」と誤解したのではないでしょうか。さらに既知であった和田平助の「新田宮」を除外し、何を指すか不明であった残りの「古田宮」と「紀州田宮」について、2つの分岐点を紀州藩における田宮次郎右衛門から田宮千左衛門への継承事情と結び付けてしまったのではないでしょうか。そのように誤解された説が綿谷氏の書籍に紹介されるに及び、全国に広まってしまったものと思えてなりません。
ついでながら、現代において「綿谷説」と同程度に紹介される、ある言説についても触れておきたいと思います。それは【田宮流は「美の田宮」「位の田宮」と称えられた】というものです。
インターネットで検索すればすぐに使用例が見つかりますが、これも「綿谷説」と同様に、江戸期の資料や伝書中に確認できない言説です。類似の言説、例えば田宮流の動きは美しいとか品があるといったような評価も、現在までのところ資料中には確認できていません。(むしろ「他と比べて見栄えがしない」といったものは確認できます)
この説も非常に不自然に感じられます。そもそも各地に伝播した田宮流に紹介したように、江戸時代には「田宮流」を名乗る居合流派が無数にあり、それらはそれぞれ形の動作も稽古に使用する道具も異なりました。窪田清音が他派の田宮流を評して「似て非なる」などとしているのは前述したとおりですが、当然各地域・各派ごとに演武における風格も異なっていたと考えられます。仮に「美の田宮」「位の田宮」と言われたとして、それはどの地域で、どの派を指してのものだったのでしょうか。仮に一地域でそのような例があったとしても、全国に存在した「田宮流」全体の評価に一般化できるものではありません。
また、何に比べて「美の田宮」「位の田宮」なのでしょうか。一般に幕末三代剣術道場をして「位は桃井、技は千葉、力は斎藤」と評する言説がありますが、これは位・技・力といった点をもって三道場の特徴を比較したものと理解ができます。「美の田宮」「位の田宮」と言った場合、他にどのような評価基準があるのでしょうか。また他のどのような流派と比べてのものでしょうか。何を見て評したのでしょうか。形でしょうか。試合でしょうか。単に美しさで言えば、流派に関わらず見事な演武にはある種の美しさが伴うものだと思います。それはなにも田宮流に限った話ではありません。
ではこの説は何の根拠もないのでしょうか。現在確認できているなかで唯一関係しそうなのは、堀正平 著『大日本剣道史』の以下の記述です。
一、高橋が打込んだ太刀を、奥村が受けたが少し遅れて強く當つた、然しそれでも竹刀越しとして採らなかった。実際は一本に採つても差支へはなかったと云ふ。
二の太刀は奥村が表面から裏面に切返して一本取つた。
三の太刀は、高橋が取つた。之で一本一本になつた。
四の太刀は、奥村が又表面から裏面に切返して一本取り之で勝負は済んだが、竹刀越しの太刀も有り、位も高橋が上であつたと云ふ。
― 堀正平『大日本剣道史』,昭和9. ※青字強調は引用者による
上記は二刀で名を馳せた旧伊予西条藩士で田宮神剣流の高橋筅次郎と、同じく二刀使いの旧岡山藩士・奥村左近太の剣道試合の記録です。試合は奥村が勝ちますが、負けた高橋の方が「位は上だった」というものです。やみくもに打つのではなく、落ち着いて正確に技を運ぶ様子が想像されますが、当然これは高橋個人の試合ぶりを評してのものです。彼の流派(田宮神剣流)の演武を評したものとは言えませんし、ましてや田宮流一般に対する評価ではないのは言うまでもないでしょう。
綿谷雪 [訳並びに補註]『日本武芸小伝』,人物往来社, 1961.
山田次郎吉 著『剣道集義』続,水心社,大正12, 180p. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/970374 (参照 2024-06-24), コマ102
宇田川武久『旗本本多家武芸関係資料の詳解 旗本の武芸と幕末の和流炮術』, (『国立歴史民俗博物館研究報告 第83集』, 国立歴史民俗博物館, 2000, 126p,133p).
水戸市史編さん委員会 編『水戸市史』中巻 4,水戸市,1982.10, 258p. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3021313 (参照 2024-06-24), コマ150.
藤田東湖 著 ほか『新定東湖全集』,博文館,昭15. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1048031 (参照 2024-06-24),コマ500
小野崎紀男 著『水戸藩徳川家の武術』,太陽書房,2011, 116-117p.
金子近次 著『中等学校四年生の剣道教授法』,精文館書店,昭和6, 193p. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1024835 (参照 2024-06-24),コマ109
山内豊健, 谷田左一 著『図解居合詳説』,秋文堂,昭13, 60p. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1255876 (参照 2024-06-24),コマ37
太田竜峰 著『居合読本』,太田凖子,昭和15. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1031050 (参照 2024-06-24),コマ18
東京教育大学体育学部教官 編『体育大辞典』,不昧堂,1950, 551p. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2389037 (参照 2024-06-24),コマ285
『体育大辞典』,不昧堂書店,1966, 698p. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/8799709 (参照 2024-06-24),コマ359
南条範夫 著『日本剣士伝』,東方社,1959, 154p. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2489378 (参照 2024-06-24),コマ81
山田次朗吉 著『日本剣道史』,再建社,1960, p.149-150.
妻木正麟 著『詩吟・剣舞読本 : わかりやすい音譜と写真解説』,日本文芸社,1962, 343p. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2495695 (参照 2024-06-24),コマ177
綿谷雪, 山田忠史 共編『武芸流派辞典』,人物往来社,1963, 136p. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2498692 (参照 2024-06-24),コマ72
『特集人物往来』4(6),人物往来社,1959-06., p.152
綿谷雪 著『図説・古武道史』,青蛙房,1967, 229-230p. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2514890 (参照 2024-06-24),コマ117-118
水戸市史編纂委員会 編『水戸市史』中巻 3,水戸市,1976, 265p. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3019598 (参照 2024-06-24),コマ152
神坂次郎 著『紀州史散策』第2集 (きのくにの風景 上巻),有馬書店,1979.9, 224p. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9575010 (参照 2024-06-24),コマ116
堀正平 著『大日本剣道史』,剣道書刊行会,昭和9, 702-704p. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1234704 (参照 2024-06-24),コマ383-384
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『諸役人武術上覧姓名』(藤川整斎『天保雑記』,天保02年-弘化01年),コマ21. 国立公文書館デジタルアーカイブ https://www.digital.archives.go.jp/img/715356