町内探検隊、ふるさと発見!(その4)

六郷用水

 六郷用水は、江戸時代から大正期までに存在した農業用灌漑用水である。用水路開発工事の監督者である徳川家康の家臣 小泉次大夫の名前から次大夫堀とも呼ばれる。家康の命を受け、1597年(慶長2)から1611年(慶長16)までの14年を費やして開削された。多摩川の狛江市元和泉から取水し、大田区では池上通りから海側の地域の田畑に、約300年間灌漑された。当町内には、蒲田電車区付近の蛸ノ手(たこのて)で六郷用水南堀から分流された支流が3本(子ノ神堀:ねのかみほり、大沼堀、栄木堀)存在した(下図青色線)。

 農業用水は上流部は水量が多く幅が広かったが、下流部は田畑に灌漑され水量は少なくなって幅が狭くなった。場所によっては、用水は途中で吸収され、消えるところもあった。大正時代の耕地整理と関東大震災により、農地が宅地化されると、用水に生活排水が流れ込み、都市下水化していった。


都市下水は上流部の水量は少ないが、下流部は生活排水が流れ込み水量は増える。そして、台風などの大雨が降ると下流部の水量はさらに増加し、用水路から水が溢れ、周辺地域は水浸しになった。


当町会は六郷用水の下流部にあたり、台風が来ると水は用水から溢れ出て、床下浸水になる家屋が数多くあった。大きな台風では、七辻周辺で床上浸水の家屋もあった。水が引いたあとの地面にはヘドロが残りしばらくドブ臭い悪臭が漂った。


昭和40年代なかばには、コンクリートの蓋がかけられ、用水は暗渠化された。昭和50年代前半から下水道工事が始まり、各所に下水道管が埋設されて用水は生活排水とともに、森ケ崎の下水処理場へと流れていくことになった。六郷用水の趣は見えなくなったが、埋められた用水路は散歩道として、区民に愛されている。 下水道化されたお陰で、大雨の時の床下床上浸水は無くなった。