シンポジウム

プラグマティズムの思想史


    報告者:生澤繁樹(名古屋大学)古屋恵太(東京学芸大学)

  コメンテーター:井上弘貴(神戸大学)井谷信彦(武庫川女子大学)、

          小玉重夫(東京大学)  

  司 会:岡部美香(大阪大学)


【概要】

 アメリカ哲学としてのプラグマティズムの歴史を概観するならば、19世紀後半から20世紀前半にかけて提唱されたC. S. パース、W. ジェイムズ、J. デューイの思想 — いわゆる古典的プラグマティズム — を嚆矢とし、20世紀半ばから始まるW. v. O. クワイン、N. グッドマン、M. ホワイト、その次世代のH. W. パトナム、R. M. ローティ、R. J. バーンスタインらによるプラグマティズムの再興 — ネオ・プラグマティズムの興隆 —を経て、J. H. マクダウェル、R. B. ブランダムらが活躍する今日に至る、という一連の流れを描くことができる。近年では、ローティの解釈を批判しパースの真理概念の再評価を図るC. ミサックの動向が衆目を集めている。この間、プラグマティズムは、狭義の哲学を越えて、数学、言語学、美学(芸術論)、政治学、経済学、社会学、(環境)倫理学、そして教育学などのさまざまな学問領域に影響を及ぼし、また、J. デリダ、J. ハーバーマス、K.-O. アーペルといった欧州圏の哲学者や日本、韓国、中国を始めとする非欧米圏の哲学者・研究者にも評価され、受容されてきた。

 このように広くかつ多様な展開を見せるプラグマティズムの思想は、しかしながら、従来、進歩主義、科学・技術・論理への信頼、思考・行為の(形式)合理性モデル・機能主義モデルといった近代的なるものに親和的なかたちで受容される傾向にあった。だとするならば、右肩上がりの発展が頭打ちとなり、科学・技術の粋を集めた産業システムやグローバル化した社会システムが「想定外」のカタストロフィを引き起こし、予測も計画も不可能な不確実な未来に誰もが向き合わなければならなくなった今日、さらに言えば、歴代のプラグマティストが敬慕してきた民主主義の存立がポピュリズムの横行によって世界各地で大きく揺らぐ今日、私たちはプラグマティズムという思想の意義をいかに評価し、いかに批判的に継承し得るのだろうか。あるいは、思想史的観点からあらためて捉え直すことを通して、先述した近代性・合理性には回収されないこの思想のまた異なる水脈を掘り当てることはできないのだろうか。

 そこで、第30回という節目の年に開催される本シンポジウムでは、プラグマティズムの思想史をテーマとし、共同体形成という観点からプラグマティズムの可能性と限界を検討する生澤繁樹会員と、「劇化(dramatization)」という観点を打ち出し、シカゴ大学ではなくハルハウスに集った人々の活動や思想の考察からシカゴ・プラグマティズムの描き直しを試みる古屋恵太会員にご登壇いただく。生澤会員には、教育の世界ではあまり光が当てられてこなかった最晩年のデューイ、すなわちプラグマティズムの真価が最も厳しく試される原子力時代という状況に直面したデューイが科学・技術の問いにどう向き合ったのかを一つの切り口としながら、プラグマティズムの二元論批判がいったいどこまで重要な方途となり得るのかを共同体形成の課題と結びつけて論じていただく。古屋会員には、「劇化」に加えて「遊び(play)」という観点に着目しながら、デューイの盟友G. H. ミードの思想とインプロ(Improvisation 即興)の理論的・実践的展開を代表するV. スポーリンの師・N. L. ボイドの思想の考察を通して、教育人間学との対話へとつながるシカゴ・プラグマティズムの可能性について論じていただく。

両会員の報告の後、アメリカ政治思想史の領域でデューイを中心とするプラグマティズムの思想研究を展開しておられる井上弘貴氏、教育人間学の論者でありかつインプロの実践者でもある井谷信彦会員、そして第30回の節目にあたってポストコロナの思想史的課題をアマチュアリズムの視点から構想する小玉重夫会長からのコメントを皮切りに、フロアに議論を開きたい。

教育思想史学会第30回大会を終えて】

 本シンポジウムに対しては、以下に報告するように、2名の会員から質問とコメントが寄せられた。貴重なご意見、ご質問をいただいたことについて、関係者一同、深く感謝を捧げたい。

 まず、西本健吾会員から、古屋恵太会員、生澤繁樹会員それぞれに対して一つずつ質問が提示された。

西本会員は、古屋会員が「目的-手段論が学会における(岡部注:遊びに関する)議論から排除されてきた」のを批判したことについて、「目的合理主義にデューイ(やプラグマティズム)の議論が回収されることを回避すべく、美的経験論の議論に軸足を置いてきた」同じデューイ研究者として重く受けとめたいと述べた。そのうえで、遊びや「劇化」を生じさせる「条件」や「環境」、あるいはそこで提示される「型」と、「他者の態度取得」や「事実の直観や実在の事物との接触」といった、遊びや「劇化」の過程において生じる物事との関係について古屋会員に尋ねた。というのも、遊びや「劇化」は、ある「型」を共同体のなかで継承・伝達しつつ、それをその都度、その場で想像的に再演することで新たなルールや技術を発明する行為だと考えることができるし、また、そうした遊びや「劇化」を仕事との連続で捉えることは、遊びや「劇化」の「今・ここ」性だけでなく、それらの「条件」や「環境」に関する議論を導くとも考えられるからである。

この問いに対し、古屋会員は次のように回答している。ミードやボイドにとって「ゲーム」とは、他者の態度の一般化や社会集団の生活の型が想像的に再演されて継承されるという営みであり、したがって、西本会員の指摘通り、両者の説明にはパフォーマティヴな特質が含まれている。古屋会員の見通しによれば、両者の説明を支える思想的基盤は、ミメーシス、身振り、儀礼について論じたCh.ヴルフのような教育人間学的観点、あるいはゲームと現実の社会生活との関係を理論的に分析したE.ゴッフマンのような社会学的観点を手にしつつ分析し得る。だが、本シンポジウムで発表した研究の成果として、当初予想していなかった異なる見通しが出てきた、と古屋会員は述べる。それは一般意味論という観点である。この観点を考慮に入れると、上記のような文化的・歴史的な「ゲーム」解釈のみならず、人間と環境との間を媒介する言語の「抽象化」のメカニズムやその序列に関しても考察する必要が出てくる。この考察のなかで、分析哲学とは異質な言語哲学とシカゴ・プラグマティズムとの関係を論じるならば、遊びや「劇化」の「条件」や「環境」に関する問いに対して独自の解答を見出し得る可能性が出てくるかもしれない、と古屋会員は今後を展望している。

 他方、生澤会員の発表および生澤会員とゲストコメンテーターの井上弘貴氏との議論について、西本会員は、「取り返しのつかない帰結」を引き受けることができるのか/できないのかを二項対立的に問うのではなく、実際に生じている事例に注目することで、あらためて「常識」と「科学」との関係を思考する回路を提示するものとして受けとめ、そのうえで、生澤会員に対して、現代的状況に目を向けたとき、プラグマティズムが実践、とりわけ具体的な事例をめぐる実践とどのように関わっていくことができるのか、と問いを提示した。

 これに対し、生澤会員は、プラグマティズムが具体的事例についていかに実践的に応答し得るかという課題は、問題や状況を具体的に特定することなく回答することは難しく、その応答の仕方も、問題や状況の具体的なあり様に応じて大きく異なるだろうと述べたうえで、一人ひとりにとっての問題と社会にとっての問題がかみあわない場合に、両者の隔たりを個人と社会の繋がりや探究の連続性にのみ回収してしまうことの是非をプラグマティズムがいかに問うてきたのかという点において、その実践哲学としての評価は分かれるだろうと指摘する。また、実践への関与と距離の取り方という点から見れば,いま一度、デューイとアーレントを比較することが、実践哲学としてのプラグマティズムの評価を考えるための手がかりとなるのではないかともいう。両者を創造的に読み直すことで見えてくるものもあれば、それぞれの状況のなかで両者が具体的に何をなし(得なかっ)たかという点から多くを学ぶこともできる。その意味で、プラグマティズムの実践性を歴史的に問い直すことが哲学理論としてのその可能性を探る営みと切り離されることは決してないだろう、と生澤会員は考えている。

次に、稲井智義会員から、古屋・生澤両会員の発表は、教育哲学に限らず教育史を専攻する研究者にとってもたいへん興味深い内容であった、とのコメントが寄せられた。これは、小玉重夫会長がまさに指定討論のなかで言及したように、本シンポジウムが思想家のテクストとそれを取り巻くコンテクストとの往還を強く意識したものになっていたことに起因すると考えられる。

最後に、小玉会長が後日、付言した言葉を紹介して、本報告を締めくくることにしよう―― 従来の歴史研究がテクストよりもコンテクストを、哲学研究がコンテクストよりもテクストを重視する傾向があるなかで、両者を往還する方法論を開拓している点に本学会のメリットがあると考えることができ、本シンポジウムはその成果の一つであるといえるだろう。

(文責 岡部美香)