コロキウム1
教育思想史と自然および自然主義
企画者:綾井桜子(十文字学園女子大学)
司会者:河野桃子(信州大学)
報告者:相馬伸一(佛教大学)、髙宮正貴(大阪体育大学)
指定討論者:今井康雄(日本女子大学)
企画者:綾井桜子(十文字学園女子大学)
司会者:河野桃子(信州大学)
報告者:相馬伸一(佛教大学)、髙宮正貴(大阪体育大学)
指定討論者:今井康雄(日本女子大学)
【概要】
「教育思想史」は、19世紀の国民教育の成立期において教員養成のテクストとして生まれた。そこで示された「教育思想家」の選択と系列化の視点は、今日の私たちの教育思想史認識、さらには教育一般に対する認識にも影響を与えているのであり、その検討は私たち自身の脱文脈化と再文脈化に欠くことができない。
教育思想史には教育学説の発展史として記述されてきた歴史があるが、そこで重視されたのが、とくにコメニウス、ルソー、ペスタロッチらが重視した「自然」であった。「自然」は、啓蒙主義の興隆を経て科学的探究の方法に回収され、今日の教育一般に対する認識や教育政策の暗黙の前提となっている。
本企画は、今井康雄氏が『思想』に連載した「世界への導入としての教育――反・自然主義の教育思想・序説――」に応答しようとするものである。今井論文では直接に扱われていない思想的文脈において自然主義がどのように問題化されているかを検討することで同氏の問題提起の再読を試み、教員養成における教育思想史の意義も視野に入れつつ、教育思想史(記述)の意義と可能性について活発な意見交換ができればと願っている。
【教育思想史学会第30回大会を終えて】
本コロキウムは教育思想史記述を自然概念や自然主義といった観点から再考するべく企画された。指定討論者である今井康雄会員には、「世界への導入としての教育――反・自然主義の教育思想・序説」(『思想』第1136号、第1138号、第1144号、第1149号)について、今後に予定の内容も含めてご発言いただいた。感謝申し上げたい。
本コロキウムでの議論および、参加者から寄せられた質問や意見についての応答を、以下、まとめたい。
コロキウムでは、教育思想史研究において、スペンサーを含め「自然主義的反実在論」の教育思想そのものを対象に据えることや、アリストテレス、スコラ教育思想も含めて「実在論的教育思想」を再定位することの重要性、自然科学のなかでの自然概念の変容も含めて反実在論が拡大した背景を視野におさめることの必要性が確認された。また、教育を学習へ解消し、学習の統御の洗練を図る「主流派教育論」の歴史的な成り立ちと、教育が抱える不確定性を減ずることの問題性が焦点化された。
参加者である神代健彦会員からは、教育の不確定性の除去、教育のコンピテンシー化に抗するための規範的な準拠点をどこ(何に)に求めたらよいのか、また教育の不確定性が守られなければならない理由について質問が寄せられた。発表者の相馬伸一会員によれば、コメニウスが類比に固執したのは彼の光の哲学に由来する。コメニウスの場合、フーコーのいう次のエピステーメーとして秩序に基づかなかったことによって、いわば副産物として、教育の不確定性が担保される結果になった。一方、髙宮正貴会員は、資質・能力論の背景に自然概念の変容(実証主義の道具的理性、歴史主義と社会構成主義が含む相対主義)があるとするならば、シュトラウスにおいて、オルタナティブは、近代が見失ったアリストテレス的な自然概念に求められるであろうこと、ただし、より精緻な議論が必要であると述べた。
今井会員によれば、不確定性を擁護するか否かは、突き詰めていくと、<新しいものが出現することは望ましいのか、望ましくないのか>という選択肢に帰着する。今井会員自身は<望ましい>と考えるが、その根拠づけや正当化がさほど重要な問題だとは思えない(この<新しいものが出現することは望ましい>という点については、「コンピテンシー」重視の教育論者も大方争わないであろう)と述べ、教育学にとっての問題は、もし新しいものが出現するのが望ましいとすれば教育のあり方はどのようでなければならないのかを解明することにあるとコメントした。<自然主義的反実在論>に基づく教育のあり方は新しいものの生成を窒息させると考えて、なぜそうなるのか、また、そうならないためにどのような教育の考え方やあり方が必要になるのかを解明したつもりだが、重要なことは、自分の主張を正当化してくれる絶対確実な根拠のようなものを築くことではなく、自分の主張を納得して支えてくれる多くの人が集えるような議論の土俵を作ることではないかと応じた。
また、桐田敬介会員からは、信濃などの地域で戦前から続く諸実践は、自然/反自然主義、実在論/反実在といった二分法に回収しえるのかという質問があった。今井会員からは、自然主義/反自然主義、実在論/反実在論は分類概念ではなく分析概念であること、新教育的な諸実践を支えたのは、趨勢として見れば<自然主義的反実在論>の教育思想であったといえるが、具体的な実践には反自然主義的な要素や実在論的な要素が見られる可能性もあり、そうした様々な要素を析出していくことは興味深い作業だと思われるとの応答があった。
小玉重夫会員からは、シュトラウスがあえて自然にこだわる背景には、ポリス(政治)と哲学(自然)の対立、そこでの哲学者への政治による迫害という問題があり(小玉 1999 小玉 2013 藤本夕衣 2012 志田絵里子 2020)、ハイデガーを間に挟んで、一方にアレント(そしてベンヤミン)、他方にシュトラウスを位置づけることで、被迫害者としてのユダヤの視点から教育哲学を再構成することが可能になるとのコメントが寄せられた。髙宮会員からは、シュトラウスは、全体主義に抗するために、アレントが「政治」を掲げるのとは異なり「自然」を掲げ、実証主義とヘーゲルの歴史哲学を結合したマルクス(とスターリニズム)と、歴史主義の影響を受けたニーチェ(とナチス)の双方に対抗するために、アリストテレスの古典的な自然本性概念を持ち出したと考えられるが、この点について先行研究を参照し、より深めたいとの応答があった。
貴重なご質問、コメントを寄せてくださりました会員の方々、コロキウム実施にあたりお世話になりました事務局の皆様に心より御礼申し上げます。
(文責:綾井桜子)